10期
(1957〜59年度)

実力不足で関学高に大敗
初の関東制覇と甲子園出場を実現

フットボールに打ち込んだ最終学年

1960年卒メンバー
(◎は主将)
 荒木  雅夫
 佐藤  昭寛
◎湯川  武
HB 多羅尾 務

1958年の秋シーズンは、例年ならば受験準備のために部活動から引いてしまう3年生7名全員が優勝を目指して結束を固め、日々の練習に励むという異例の年であった。私たち2年生は4人しかいなかったが、1年生には川上以下、当時にしてはかなりの数の選手がいて、受験校とは思えない熱意をもって「スプリット・ウィングT」フォーメーションの反復練習を、文字どおり日の暮れるまで繰り返したものだった。

細見、西川両コーチ、それに滝村先輩をはじめとする諸先輩が、夏の茨城大学における合宿以来、毎日のように来校しては叱咤激励され、感謝と反発とがない混ざった気持ちで練習していたものだった。この時期の猛練習のおかげで体力に対する自信がついただけではなく、後になって考えてみれば、運動選手としての基礎体力が実際にかなり伸びたようである。しかし、運命は苛酷なもので、万全の準備ができたと思って臨んだ秋シーズンの第1試合でハーフバックの3年平沢選手がけがをしてしまった。やはりチームとしての総合力が足りなかったのか、その穴を埋められないままに無念のシーズンを終えることになった。

弱体化からの再スタート

59年春シーズンのスタートはなんとも情けないものであった。新1年はある程度入部してきたものの、前年度の3年生7名が卒業してしまった後の穴を埋められないままにスタートしたが、チームとしてはある種の虚脱感というか、良く言えば、焦らずゆっくりやろうというような感じが漂っていた。オフェンス・フォーメーションも前年あれだけ練習したスプリットTからウィングTに戻り、こつこつと立て直しを図らざるをえなかった。チームの雰囲気がそんなものであったから、はっきりとは覚えていないが、春の成果も内容的にはそれほど評価できるものとは言い難かった。

夏の合宿も、選手たち一人一人は一生懸命やったのだが、いまだにチームとして意気盛ん、というには程遠かった。 そんな状況の中で、唯一の収穫は、QB川上がパサーとして成長し始めたことであった。ランニング・プレーを主体とするには、バックスやラインの構成から見て不足は否めなかった。活路はパス力の向上に見出すしかなかった。QBの成長に伴いレシーバーたちも成長していった。1年生の俊足エンド石井(現姓・琴坂)の伸びは目覚ましかった。私自身もエンドとしてミドルパスやロングパスをレシーブする喜びを初めて実感できるようになったのもこの時期である。

59年秋シーズンの変身

合宿を終えて秋のシーズンに臨んだのであるが、チームとして「さあ優勝するぞ」と意気込んだところはなかった。むしろそんな気持ちを持てるほど余裕も自信もなかった、と言うのが本当のところであった。その証拠に第1試合と第2試合については、対戦相手もスコアもまったく記憶にない。とにかく勝ったからこそ慶應高校との試合には、それまでとは違った気分で乗り込んだのであろう。とは言っても強豪慶應をやっつけてやろうとか、勝てるはずだとかいうような気分ではなかった。試合をしてみれば、その結果はおのずから出るだろうし、その結果はそれ程悪いものではないだろう。ひどい結果を出さないくらいの自信はある、という程度のやや消極的な意気込みであったように覚えている。

日吉での試合は、曇りがちで時々小雨がそぼ降る中行われた。心象風景としては私たちの淡々とした心持ちと一致している。どうしても勝ちたい慶應に対して、やや淡白なわれら戸山チームの試合は、こちらのペースで進んでいった。この試合もQB川上のパスが大事なところで決まって14−6で勝った。逆転勝利であったにもかかわらず、また秋シーズンに慶應に勝ったことは久しくなかったにもかかわらず、試合後の戸山の選手たちはまだ淡々としており、次の試合に向かって意気ますます盛んといったものではなかった。

聖学院戦へ向けての準備

慶應戦は選手たち以上に監督・コーチの方々に大きな影響を及ぼしたようだ。忘れもしない、慶應戦直後の練習日のことであった。確か日曜日だった。グラウンドに面した教室に集められたわれわれ選手は、細見監督と西川コーチから「対聖学院戦には絶対に勝つぞ」と檄を飛ばされた。そして、当時の高校生にしては青天の霹靂としか言いようのない新フォーメーションへの転換を宣言された。フライTフォーメーションというエンド2人が7ヤード以上離れる体型で、エンドと言えばタイト・エンドしか知らなかったわれわれにとっては、正直な話、何がなんだかよく分からない。フォーメーションの特性よりも何よりも、細見・西川両先輩の意図が理解できなかったのである。

QBと両エンドがある程度成長してきているとは言え、パス主体のフォーメーションで1試合を乗り切れるほど力があるわけではないし、始めからQBとエンドがそんなに離れていて、いったいパスが上手く投げられ、またタイミングよくレシーブできるのだろうか。パス・プロテクションはそれ程長い時間もつのか。頭で考えてみても全く答えを見出すことはできない。それに決勝戦までに新しいプレーブックを全部覚えられるのか。われわれ選手たちのそんな疑問や自信不足にもかかわらず、西川コーチは敢然として、「よし、これでいくぞ」「お前たち大丈夫だ」と断言された。そう言われてみると不思議なもので、よくわからないままに、そして別段の自信もないままに、「そうかそんなものか」「頑張ってやってみよう」という気になってしまった。 今になって考えてみると、高校生の心理を巧みにつかんだ指導者たちにまんまと乗せられたのかもしれない。また同時に、これはチャンスだぞという認識に基づいた決断にわれわれも動かされたということもあったのだろう。

それからの練習は毎日パス・パス・パスで明け暮れた。暗くなってボールが見えなくなるまで続けたものである。一生懸命やっている割には悲壮感もなく、聖学院に勝てたらいいなというくらいの気持ちで毎日を過ごしていたような気がする。

聖学院戦に勝って呆然

11月15日の試合の直前から急に緊張が高まってきた。誰もがある種の興奮に捉えられているのがよく分かった。私自身は落ち着いて試合に臨み練習の成果を出したいと考えていたが、試合が始まるともう夢中で、試合の経過はほとんど覚えていない。年月がたって忘れたというわけではない。試合後、頭の中で再現してみようとしてもできなかったということをはっきり覚えているのだから。当日の試合の様子は当時のQBでキャプテンだった川上(61年卒)の文章でぜひ読んでいただきたい。私の実感は「勝っちゃった」というところだった。

今になって考えてみると、どのパスがよかったとか、どのプレーがよかったとかという個々のプレーやそれに関与した個々人の活躍をはるかに超えた、何か特別のことがあったようだ。チームとしての長所・欠点を見抜き、すべての選手に課題と期待を与えてくれた監督・コーチ・諸先輩方の指導と励まし無くして、決してこの成果はなかったであろう。その意味で、私たちはただただ自分たちの運の良さに感謝すべきなのだ。しかし、当時はともかく夢中で、試合中も試合後も、冷静に自分たち自身を見ることができずに、ただ結果だけが降ってわいたように感じたものだった。

無我夢中のまま甲子園へ

そんなわけで甲子園行きも伊原先生や細見監督や西川コーチ以下、大勢の皆様にさんざんお世話になって実現したにもかかわらず、われわれ自身にはそれほどの実感もなく、夢の続きのような感じで進んでいった。なにしろ関西学院高校の強さたるや、ほとんど神話伝説の世界のことみたいなもので、どれぐらい上手でどれぐらい強いかは、われわれに見当もつかないことだった。もちろん勝てればいいな、というぐらいの気持ちはなかったわけではないが、それもそれ以上ではなく、ともかく甲子園ボウルの前座試合に出られるということだけで興奮してボーッとなってしまっていたというのが、当時のわれわれの姿だったのだろう。

監督、コーチの試合前の注意や激励も上の空のうちに試合は始まり、気がついたら試合開始早々QB川上が骨折退場ということで、結果は52−0の完敗だった。ただただ関学高の強さを思い知らされただけで終わってしまった。あまりの結果に、試合前の夢から醒めないうちに呆然としてしまい、帰りの列車のことも帰宅後のこともほとんど何も覚えていないという体たらくだった。ただ一つだけ、次の朝礼の時に朝礼壇の上に立って、あいさつをさせられ、とても口惜しい思いをしたことだけを今でも覚えている。

夢を与えてくれた戸山フットボール

高校1年から3年12月まで夢中になってやってきた戸山のフットボール部生活を振り返って見ると、与えられたものがどんなに大きかったがよくわかる。「好きだからやる」ことを可能にしてくれたのは、先輩たちであり仲間たちであり顧問の伊原先生であり、そのほか大勢の人たちであったが、受験勉強一途の学校としてはやはり異例のことだったに違いない。どんなに状況が難しくとも、頑張ってやりぬこう、自分たちにもできるかもしれないという夢を持ち続けさせてもらえたことには感謝あるのみ、ということでしめくくりたい。 (1960年卒、湯川 武)


試合記録
1957年
4月21日戸山(不戦勝)慶応(春季大会)
4月戸山19−14日大一高(春季大会)
4月28日戸山0−13麻布(春季大会)
5月3日戸山25−6日大一高(春季大会)
9月15日戸山44−0西(秋季大会)
9月22日戸山14−0早稲田学院(秋季大会)
9月29日戸山7−6日大一高(秋季大会)=Bブロック1位
10月27日戸山6−12慶応(秋季大会決勝)
11月3日戸山0−32聖学院(秋季決勝リーグ)=関東3位
1958年
4月20日戸山13−12日大一高(練習試合)
4月27日戸山39−0足立(春季大会)
5月2日戸山6−7慶応(春季大会)
9月21日戸山28−0正則(秋季大会)
9月28日戸山34−6早稲田学院(学園祭招待試合)
 不明(秋季大会)
 不明(秋季大会)
11月2日戸山0−19聖学院(秋季大会決勝)=関東準優勝
1959年
2月22日戸山26−26聖学院(練習試合)
3月11日3年23−01・2年(戸山ボウル)
5月3日戸山(不戦勝)慶応(春季大会)
5月戸山32−0西(春季大会)
5月17日不明(関東決勝)
9月13日戸山40−0正則(秋季大会)
10月不明(秋季大会)
不明(秋季大会)
11月15日戸山12−6聖学院(秋季大会決勝)=関東優勝
12月6日戸山0−52関西学院高(高校王座決定戦)