9期
(1956〜58年度)

3年秋まで明け暮れたフットボール
初戦でエースHB骨折、甲子園を逃す

入部早々の初試合に勝利

1959年卒メンバー
(◎は主将)
 川崎 征二
FB 竹之下義弘
HB 平沢 尚孝
 星野 慶一
 水野 統夫
 柳瀬  誠
QB◎和気 岳彦

 当時の日記から始めよう。

 [1956年7月17日・戸山高校における一学期の主な出来事]
《4月6日、私は入学した。担任の先生は入学早々暗い政治の話。まわりを見れば中学ではお目にかかったこともない、きまじめな連中ばかり……ともかく戸山の第一印象はゆううつなものだった。2週間程して私はタッチフット班に入った。入口に「タッチフット」と貼紙した教室には、剣持さんが1人ですわっていた。私が入るととてもうれしそうに迎えてくれた。ともかく1年生は私一人だった。 こうして毎日タッチフットの練習でクタクタになって帰るようになったが、その疲れが何とも言い難い楽しさというか、張合いといおうか、そんなものを感じさせるようになった。そのうちに柳瀬が入班した。

5月3日、憲法大会初日、日大一高との試合、私は何もわからないのに出場させられ、ポンポンはね飛ばされた。このはじめての試合に勝ったことは忘れられない。教室でも、まわりの連中は意外に面白いことがわかって来たし、学校が楽しくなって来たのもこの頃からだ。5月は毎週、フットボールの試合だった。足立学園に楽勝して決勝をひかえてからは先輩が大勢やって来て練習が苦痛なものになった。聖学院との決勝に大敗したが2位になり、信じられなかった。……(後略)》

こんな風にして私の青春時代の大半を支配したフットボール生活が始まった。

わが人生に秘蔵している当時の日記をひもとき、四十数年前にタイムスリップすると、あまりの過激さ、純粋さに赤面し、ひや汗あぶら汗がとまらない。やはり、すべての内容を明らかにすることはできない。 私と柳瀬に加え、やがて同級の悪友・星野、中学以来の友で秀才、運動神経抜群の竹之下が入班、秋以降に平沢、水野、川崎と同期7名の陣容が揃っていった。

入部した時の3年生・剣持先輩との出会いが懐かしく鮮やかによみがえる。剣持さんは反抗的で扱いにくい集団だったわれわれを可愛がってくれた。卒業しても家に呼んでごちそうしてくれたりし、温かく、心の広い、愉快な先輩だった。後年、若くして豊かな才能を惜しまれながら異国で散ってしまわれたことは痛恨の極みである。

急造QBで2勝3敗1分け

秋のシーズンを目前にしてQBのT氏が体をこわし、ガードの私にお鉢が回って来てパニック状態に陥った。即席QBで臨んだリーグ戦であったが、後半調子を上げ、2勝3敗1分の4位で、このシーズンを終えた。

翌57年4月、熱心に勧誘した成果として、湯川、荒木、多羅尾、佐藤各氏ほか数名のたのもしい新入生が加わり、前途は明るいものとなった。

初合宿で先輩に反発

57年度の活動について、当時の生徒会誌「学生公論」の記録を引用する。

《わが班にとって今年は実に充実した年だった。春の憲法大会は麻布の不祥事や運も良く、一応2位になったが実力はまだ不安定だった。はじめての合宿を茨城県の多賀で行った。1〜3年生のほとんど全員と先輩16名の多数参加して行われた。覚悟はしていたものの、記録的な暑さの中での10日間はひどく苦しかったが、実に貴重な経験であった。この結果、我々はかつてない体力とまとまりを持って秋のリーグ戦に出場した。そしてBブロック1位、決勝リーグに進出し、慶応高と優勝を争うという貴重な経験をした。多少なりとも甲子園ボウルへの夢が持てたことは非常にやりがいのあることだった。このような年を送ることができたのは3年生の最後までの協力と諸先輩の指導のお蔭である。天才的選手の卒業は痛いが、フットボールは何よりも全員の協力である。数々の貴重な経験を生かし、たゆまず努力していくつもりである》

この1年間を象徴する出来事の一つが、「学生公論」に触れているように、茨城大学の寮とグラウンドで行った、初めての合宿だった。 創部以来初めてとはいえ、合宿の何たるかもよくわきまえずに臨んだ。炎天下、長時間にわたる苛烈なトレーニング、昼間でもお化けの出そうな古くて蚊だらけの施設、質素を通り越して何よりも耐え難かった粗末な食事など。あまりのつらさ、厳しさに、ものすごいエネルギーがうっ積し、プラス面としてはチーム内の強い連帯感につながったが、マイナス面のエネルギーは、厳しいトレーニングを課す先輩諸氏への反発となって結晶し、一時は険悪な雰囲気が漂うありさまだった。

細見さんに諭される

数日経過後、指導にやって来られた細見大先輩に厳しくも温かく、こんこんと諭されてわれわれも目が覚め、反省して合宿後半は円滑に進行した。いずれにせよ、この合宿は、わがチームの歴史の上で大きなエポックとなり、伊原先生や先輩にはご迷惑をおかけしたが、15人の部員間の信頼と連帯感は強力なものとなり、個々人の成長にも大きな役割を果たした、と思っている。

強豪・慶応を震かんさす

そして秋のシーズン、順調に勝ち進み、ブロック1位同士、甲子園行きをかけた慶応高との試合を迎えた。正直なところ、体力面、技能面、またその洗練度でもかなう相手とは思っていなかったが、その日の戸山は、西川大先輩の秘策、VS慶応スプリットT・ディフェンスの威力とHB幸村さんの活躍などで信じ難い力を発揮。互角以上の戦いで強豪・慶応を震かんさせたが、終盤、相手の切り札、スクリーンパスで逆転され、この年の夢は終わった。試合終了後、「期待に応えられず申し訳ない」という気持ちだったが、意外にも細見、西川両先輩からほめてもらったうえ、ごちそうまでして頂き、感激に胸を熱くした。

招待試合に惨敗、2年生以下丸坊主

この年、これで終わっていれば良かったのだが、自分たちの実力を過信し、学園祭招待試合として気楽に対戦した2位決定戦の聖学院高に大勢の観衆の前で、予想外の惨敗を喫し、直情径行のわれわれは自己嫌悪と反省の念から、2年生以下全員が丸坊主になって数ヵ月間、恥を忍んだ苦い想い出がある。

冬の間、われわれは秋の甲子園を心に誓い、充実した練習に励み、迎えた58年春、新たに川上君をはじめ数名の有望新人が加わり、順調なスタートを切った。

豊富な練習量と技術的な成長もあって、前年までのような、強豪チームに対する恐怖感やコンプレックスはなくなっていた。

気の緩みに一喝される

春は順調に勝ち進んだものの、宿敵・慶応にまたも6−7で逆転負け。この試合は、前年秋の対戦に比して、悲壮感もなく随分余裕があったように記憶する。目標は秋だし、「慶応と互角ならまずまず」と引き揚げてくるや、細見、西川両先輩から「お前たち、いい加減にしろ!最低の試合だ。これからゼロからの出直しだ」と一喝され、一同ショックで声もなかった。結果が同様の接戦であっても、鋭い大先輩の眼は、ひたむきだった前年秋に比べて、今回のわれわれに手抜きに近い気の緩みがあったことを見抜き、この厳しい言葉になったものと思う。

新フォーメーションに転換

夏を前にしたある日曜日、われわれは細見、西川両先輩から、新フォーメーション「スプリットウイングT」への転換を告げられた。新フォーメーションは、ラインメンの間隔があまりに広く、QBとして裸で敵に相対しているようで、スクリメージが怖かった。スクリメージラインから後退することなく、従来の倍ぐらい遠いHBにハンドオフしなければならない。スピードとフットワークの難しさなどが強烈な印象として残っている。

受験を忘れたかのような3年生主導の合宿に学校側の批判も強く、プレッシャーもあったが、チーム内の結束は堅く、新フォーメーションをマスターし、夢を実現するため、われわれは前年ひどい思いをした茨城県多賀で再び、壮絶で気合のこもった合宿に入った。 このスプリットウイングTフォーメーションのコンセプトは、優れた粒揃いのラインを前提として、スクリメージラインを駆け抜けるスピード抜群のHB平沢が縦横無尽に走り回ること。それに加えて両エンドへのパス、俊足FB竹之下のオープンプレーなどが花を添えるものだった。

何千回という反復練習を経て完成されていったHB平沢へのハンドオフ、あるいはQBキープ、あるいはFBへのピッチと三段構えの左右オプショナルプレーは絶妙のタイミングで、わがチームの最も得意とするところであった。ついに本番で一度も開花することなく終わった一連のプレーを思い描くと今も熱い血がたぎようなる思いがする。

「原爆でも水爆でも落ちればいい」

新フォーメーションのマスターと磐石のチームワークという大きな成果を得て、夏合宿を終えたわれわれは、雨の日も風の日も甲子園を目指してひたすら練習に励んだ。

そして、待ちに待ったシーズンの開幕。9月21日、運命の日が来た。対正則高、最初のプレーは定石通り、HB平沢の右ストレート。しかし、何とも信じ難いことに、このプレーで平沢が鎖骨を骨折してしまったのだ。これはフットボール以外に取り柄も生きがいもなかったわれわれの代にとって、あまりにも残酷なできごとだった。ショックで茫然としながらも、何とかこの試合を28−0で終えたものの、このシーズン、平沢に7〜8割のウエートを置いたフォーメーションで優勝を目指して来たわれわれは、わずか1プレーでマストが折れた帆船のような状態になって、残りシーズンを戦わねばならなくなった。

《原爆でも水爆でも落ちてくれればよい……》
その日の日記には、こんなことを書いた。

それでもこのまま引き下がるわけにはいかず、オプションとパスなど限られたプレーで残る試合に臨み、翌週は早稲田学院に34−6で快勝した。10月、いよいよ事実上の決勝戦、聖学院との対戦を迎えたが、その試合は豪雨のため1カ月延期となり、わらをもつかむ思いのわれわれは「天の助け、その日までに平沢の骨折が治るのでは」と期待したが、間に合わなかった。11月2日、慶応日吉での対聖学院戦は、主軸を欠いたわが方のプレーを相手に研究し尽くされていたが、FB竹之下へのオプションが威力を発揮して接戦に持ち込んだ。だが、有効なプレーの偏りは如何ともし難く「勝てそうな相手」と思いつつも、終わってみれば0−19で敗北。われわれが高校生活のすべてをかけた夢はあっけなく消え去った。この後、59年元旦、ライスボウルが行われた雪の国立競技場を最後に、われらの戸山でのフットボール生活が終わった。

今思えば、かえがえのない貴重な体験、思い出いっぱいの戸山での3年間であったが、若いわれわれは不完全燃焼のまま、持って行き場のない悔しさと大きな未練をその後何年もの間、持ち続けることになった。

最後まで結束固く

われわれ3年生が最後の最後まで固い結束を持って残り続けたため、この年のキャプテン、2年の湯川たちは何かとやりにくかったと思う。大変申し訳なかったと思うが、われわれの代がひたすら追い求め、手を伸ばせばつかみ取れるところまで来ながら、果たし得なかった甲子園への夢が、翌年と翌々年、湯川、川上たちの手で見事に実を結んだことを考えれば、われわれが後輩諸氏にかけた数々の迷惑も、うまく帳尻が合ったように思う。

人生で最もひたむきに一つのことに打ち込んだわれらが3年間の記録を終えるに当たり、多感な時期にフットボールだけでなく、人間性の面でも、素晴らしいコーチをして頂いた細見、西川両先輩と、共に戦ったわれわれの前後各2代の先輩、後輩の皆さん、そして本当に頼りになったわが同期6人に対して、心からなる感謝と尊敬の意を表するものである。  (1959年卒、和気 岳彦)


試合記録
1956年
5月3日戸山15−13日大一高(春季大会)
5月6日戸山25−0足立(春季大会)
5月13日戸山7−44聖学院(春季大会)=関東準優勝
6月9日戸山25−0西(練習試合)
9月9日戸山40−0足立(秋季リーグ戦)
9月16日戸山0−20聖学院(秋季リーグ戦)
9月23日戸山0−14麻布(秋季リーグ戦)
9月30日戸山7−26日大一高(秋季リーグ戦)
10月28日戸山13−13慶応(秋季リーグ戦)
11月10日戸山19−8西(秋季リーグ戦)=2勝3敗1分、4位
不明3年 31−6 1・2年(戸山ボウル)
1957年
4月21日戸山(不戦勝)慶応(春季大会)
4月戸山19−14日大一高(春季大会)
4月28日戸山0−13麻布(春季大会)
5月3日戸山25−6日大一高(春季大会)
9月15日戸山44−0西(秋季大会)
9月22日戸山14−0早稲田学院(秋季大会)
9月29日戸山7−6日大一高(秋季大会)=Bブロック1位
10月27日戸山6−12慶応(秋季大会決勝)
11月3日戸山0−32聖学院(秋季決勝リーグ)=関東3位
1958年
4月20日戸山13−12日大一高(練習試合)
4月27日戸山39−0足立(春季大会)
5月2日戸山6−7慶応(春季大会)
9月21日戸山28−0正則(秋季大会)
9月28日戸山34−6早稲田学院(学園祭招待試合)
 不明(秋季大会)
 不明(秋季大会)
11月2日戸山0−19聖学院(秋季大会決勝)=関東準優勝