8期
(1955〜57年度)
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若手OBが大張り切り
3年生夏に待望の初合宿を実施
茨城県多賀の茨城大工学部で開催
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1958年卒メンバー (◎は主将)
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HB | 梅原 芳樹
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HB | ◎幸村基予士
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G | 清水 一郎
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FB | 鈴木 誠
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E | 松崎 功保
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1955年4月、戸山高校に入学した。渋谷・松涛中時代陸上をやっていた私は、高校でも当然陸上を続けるつもりでいた。そこに登場したのが、中学の1年先輩の三木さんである。中学時代はおよそ運動と無縁だったと思える三木さんだったが、一度食いついたら離れない執拗さに負けて、とりあえず入部するはめになった。同じ松涛中から松崎功保も引きずり込まれた。しかし、陸上には未練があり、陸上の試合にも出た記憶がある。
入部してしまうと、もう三木さんのペース。やめると部員不足で試合ができず部が存続しなくなる。三木さんの情にほだされ、ズルズルと……はまってしまった。足には自信があったが、10b走、30b走では、藤本先輩、剣持先輩にはかなわなかった。同期はOB名簿記載の5人のほか、もう1人。彼が主将になったが、2年生の1学期に退部し、後任を私が務めた。
1年生の4月からスタメン出場
ルールもよく分からないのに4月の最初の試合からスタメン出場、確か慶応高戦のキックオフレシーブで、ボールが飛んでこないことを祈っていたら、まっすぐ私のところに飛んできてドキマキ。何とかチョンボせずに捕球できて、ほっとした。
57年正月、今の東京ドームが建っている場所にあった後楽園競輪場で、当時東西学生オールスター戦だったライスボウルが行われた。その前座で行われた東西高校オールスター戦に、2年生の私はベンチ要員として参加、1プレーだけ出ることができた。戸山から出場したのは、就職の決まっていた3年生の山下富雄さん1人だった。
栄養補給に豚汁、井戸で冷やしたトマト
57年夏、創部以来初めての合宿を、茨城県多賀の茨城大学工学部で実施。われわれ3年生も5人全員が参加したと思う。若手OBが入れ代わり立ち代わり、大勢来て、現役の数より多かった日もあった。気合の入ったOBに随分としごかれ、OB戦では相手にけがをさせるほどの気持ちでぶつかっていった。OBが栄養補給に豚汁を振る舞ってくれた記憶がかすかにあるが、私としては、練習が終わった後食べたトマトの思い出が鮮明だ。井戸水で冷やしたトマトは実においしかった。
3年生の夏が過ぎても、われわれは相変わらず練習、試合とタッチフットに明け暮れていた。練習の後では体も疲れ、翌朝早く起床して受験勉強をしていた。
1本差で逃した甲子園ボウル
個別の試合の記憶はほとんどないが、3年の最後も慶応戦だった。ボックスからのエンドランで相手のタッチを確実に払ってTDしたのに、審判がタッチを宣告してしまってTDが認められなかったのは、今でも悔しい。1本差だったので、ひょっとしたら甲子園に行けるチャンスだったのに……。これで戸山でのフットボール生活が終わった。
58年春、私の卒業と入れ替わりに弟・千佳良が戸山に入学してタッチフットに入った。弟の運動能力を全く評価していなかった私が勧めたことはないと思うが、誰に勧誘されたのだろうか。皮肉にも弟の時に2年連続の甲子園出場が実現した。
後輩の甲子園ボウル出場で戸山の知名度アップ
59年春、創部2年目の東大が関西学院大で合同合宿をした。関学大の米田満監督が東大の大学院に内地留学しており、米田監督の全面的バックアップで東大にアメフト部ができたもので、合同合宿はその一環。当時の関学大は甲子園ボウルで対戦する以外に関東のことに全く関心を持っておらず、「戸山=富山」程度の認識だった。
だが、戸山の2年連続甲子園出場の後は、「後輩は頑張っていますね」とお世辞を言ってくれるようになり、まんざらでもない気分にひたれた。
高校3年、大学4年計7年間のフットボール生活は決して練習熱心ではなくても、いつも部員不足に悩まされていたお陰で、けがをしない限りオフェンス、ディフェンスともフル出場に恵まれた。
人生に彩り添えたフットボール
社会人になってからプレーの機会はほとんどなくなったが、フットボールが普及し米国のNFLが結構テレビ放映される時代になり、昔プレーをしていたとうことで話のよい材料にさせてもらっている。会社の若い連中と飲んだり雑談したりする時、高校からフットボールをやっていた、と言おうものなら、まず「そのころからあったんですか」とびっくりされる。相手はよほど物好きとの印象を持つようで、「新しもの好き」「好奇心おう盛」の評価を受け、年齢差を超えて打ち解けた会話になったこともしばしばである。
数年前、仕事でカリブ海のバージンアイランドの石油精製工場を訪ねた時、出迎えてくれた社長がニューヨーク・ジェッツのオーナーの息子で、「私もハイスクール、カレッジでレギュラーだった」と吹いたら、「ポジションは」と聞かれた。「ランニングバック」と答えると「おお、タフガイ」とひやかされたが、丁寧に工場を案内してくれたうえ、自家用ジェットでプエルトリコまで送ってくれた(別の理由もあったのだが)。
2000年1月3日、私は東京ドームで、ライスボウルの関学−アサヒビールクラブ・シルバースター戦を観戦。戸山の後輩、関学RB・猪狩の活躍を期待したが、関学は善戦するもアサヒディフェンスに抑えられ敗れた。応援のスタンドに座っていて、かつて1プレーだけ出場したライスボウルのことがしきりに思い出された。
フットボールとの最初の出会いは本意ではなかったにせよ、今は私の人生に彩りを添えてくれたと感謝している。 (1958年卒、幸村基予士)
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