6期
(1953〜55年度)

熱のこもった指導
血気盛んな創部先輩団

3年生と1年生に支えられて関東2位

1956年卒メンバー
(◎は主将)
QB◎長谷川 一彦
  毛利 昌史
 山田 一彦
 渡辺 幸彦

 私たちが戸山に入学したのは1953年。朝鮮戦争の特需により日本も第2次世界大戦敗戦の痛手からようやくはい上がり、戸山高校では、現在早稲田大学理工学部のある場所にあった駐留軍射撃演習場の廃止運動、男・女生徒の入学者数を同数とする運動など、校則の厳しい管理主体の校風から、生徒の自主性にまかせる自由な校風への脱皮を模索していた時代だった。 入学式が終わると各クラブでの新入部員獲得キャンペーンがあり、高校に入ったら運動部で身体を鍛えたらどうかとの親の勧めもあり、なにげなく不思議なボールの形に魅せられて入部を決意したのが、私の戸山高校タッチフットボール班での生活の始まりとなった。当時の娯楽は3本立ての映画が一般的で、同時に上映されるワールドニュースでは必ず、アメフトのロングパスによるTDが報道され、観客を沸かせており、私もその中の一人だった。

1年春の入部はわずか2人、貧して鈍さず

タッチフットボール部に入部したのは、私と山田のわずか2人。この年、前年度の3年生の卒業で戦力が大幅にダウン、練習もままならない状況だったが、梅原キャプテン、研究熱心な市川さん以下の2年生部員に私たち2人の1年生を加え、ほとんど部員のみでの自主練習、創部当時の盛況に比べ、誠に寂しい状態だった。

 それでも、貧しても鈍さない厳しさと、真剣に取り組む根性、熱心さは伝統として受けつがれ、グラウンドを離れた後の学校の行き帰りにも、ボールに慣れ、握力強化のため、ボールを持っての登下校、電車のホームの人込みの中でのランニング練習など、現在の至れり尽くせりの科学的トレーニング方法では、噴飯もののトレーニングが工夫されていた。

先輩団と1年生で士気高揚

 54年の春、2年生になった私がキャプテンということになったが、3年生部員に2名の2年生部員(山田・長谷川・あとで渡辺が入部する)を加えて、部員総数10名。試合への参加も危ぶまれる状態だった。部を挙げての必死の新入部員獲得活動により、とりあえず、三木(のちに、戸山のフットボール部の発展に大貢献した名幹事長)を確保、やっとのことで試合に臨むことができた。 そのころになると前年からの地道な練習が実り始め、細見さん、滝村さんら創部期の血気盛んな先輩団の熱のこもった指導が強化され、三木に引き込まれた多数の1年生の参加により、チームの士気は上がり、戦力向上、春の関東大会3位、その余勢を駆って秋のリーグ戦に臨んだ。

 主力プレーは、Tフォーメーションから、俊足HB・藤本さん(3年)が走るエンドランで揺さぶりをかけ、鉄壁のC・山田(2年)、山下(1年)、QB・長谷川から、馬場さん(3年)、梅原さん(3年)、剣持(1年、故人)の長身、両エンドへのショットガンが切り札となり、10ヤードゲインのフレッシュダウン、見事、秋の関東大会に第2位の戦績を上げることができた。 四当五落という厳しい受験戦争の中で3年生の抜けることが当り前であった当時の戸山の状況下で、部員不足を見かねて残ってくれた3年生の苦労は大変なものだった。私がキャプテンだったが、部の活動は、受験勉強の時間を犠牲にしてチームの維持に努め、好成績をもたらした当時の3年生、また、入部と同時に第一線への参加を求められ、経験不足、体力不足を克服して活躍、チームの活性化、再生への路線作りに貢献した1年生に支えられて成り立っていたのが実情だった。

中古スパイクを交代で使用

部員不足もさる事ながら、貧乏も大変なものだった。試合用のジャージのユニホームは前の時代から引き継いだものを交代で着用、スパイクは駐留軍の中古品をバックスのみが、これも交代で使用し、他のメンバーは、ゴム底のズック靴、それでも練習はきつく、フォーメーション、ブロック、ランニングと暗くなってもボールを白く塗って延々と続き、家に帰りつくのは毎日午後8時過ぎという生活だった。

プールサイドにあった、荒れ果てた掘立小屋を全運動部が共同で部室として使用していたが、3年生になった55年、各部それぞれ専用の部屋を持つ、長屋式の部室が出来上がった。

苦労実り、都知事から表彰

 このあたりの苦労が評価されたのか、故伊原先生のご尽力もあり、56年、長谷川卒業の折りに、当時の東龍太郎・東京都知事より「クラブ活動の趣旨をよく理解して活動した」として表彰状をいただいた。これは、タッチフットボール班全員のひたむきで、すがすがしい活動が、周囲の人達から認められ表彰につながったものだが、光栄にも私がチームメートを代表して受け取った。 在学中には、部員不足、資金不足で実現できなかった合宿練習を、市川さんを主体とした55年組の方々のご尽力で、常陸多賀の茨城大学の寮を借りて実現させ、練習の運営、食事など生活面の世話を55、56、57年卒のOBで担当、59年の甲子園ボウル初出場の道を拓いたのも思い出の一つだ。

甲子園ボウルへの道を拓く

創部の時代からの念願がかなって59年、甲子園ボウル初出場の第1次全盛期へのつなぎの時代を、廃部の危機に瀕しながら、少数の部員が一丸となって受け持ったのが、私たちの時代ではなかったのか、とあまり自慢にならないことだが、独り満足している。

 故伊原先生、熱心で適切な先輩団の指導、心を一つにしたチームメイトの団結力、ファイティングスピリットが、これまで歩んできた私の道程で、いつも心の支えになって来た。一度しかない人生の中で、このような貴重な経験を持てたことに深く感謝している。(1956年卒、長谷川一彦)


試合記録
1953年
4月戸山●−○西(春季大会)
9月20日戸山(不戦勝)早稲田(秋季リーグ戦)
9月27日戸山(不戦勝)九段(秋季リーグ戦)
10月13日戸山12−18聖学院(秋季リーグ戦)
10月25日戸山13−0日大一高(秋季リーグ戦)
11月4日戸山0−26慶応(秋季リーグ戦)
11月戸山●−○西(秋季リーグ戦)
11月戸山●−○麻布(秋季リーグ戦)=1勝4敗、関東5位
1954年
5月2日戸山13−12聖学院(春季大会)
5月10日戸山6−21慶応(春季大会)
5月16日戸山6−0日大一高(春季大会)=関東3位
9月19日戸山25−0日大一高(秋季リーグ戦)
10月3日戸山15−0西(秋季リーグ戦)
10月9日戸山50−0九段(秋季リーグ戦)
10月24日戸山6−0早稲田(秋季リーグ戦)
10月31日戸山(不戦勝)慶応(秋季リーグ戦)
11月7日戸山19−25麻布(秋季リーグ戦)
11月13日戸山0−12聖学院(秋季リーグ戦)=聖学院、早稲田とともに2位
1955年
4月23日戸山0−20慶応(春季大会)
9月25日戸山0−32足立(秋季大会)
10月23日戸山14−32足立(甲子園ボウル出場校決定トーナメント)
11月3日戸山0−12麻布(秋季大会)
11月6日戸山26−0西(秋季大会)=関東7位