5期
(1952〜54年度) |
新入生1人加えて11人
部の存続を決めた一つの試合
54年春、聖学院に感激の勝利
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1955年卒メンバー (◎は主将)
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T/FB/LB | 市川 新
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E/DE | ◎梅原 三樹
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M | 久保木幹太
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HB/DHB | 杉森 登
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G/DG | 鈴木 茂
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HB/DHB | 中川 浩二
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T/DT/LB | 野本 眞二
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FB/LB | 林 一生
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E/DE | 馬場 良靖
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HB/DHB/S | 藤本 強
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私たち第5期生でOB名簿に記載されているのは10名であるが、このうち1年の春から部に所属していたのは梅原1人である。市川、野本は1年の秋から、杉森、鈴木、馬場、林、藤本が2年の春から、久保木、中川は3年の夏からの参加だ。
この時期、アメリカンフットボールではなく、もちろんのこと、タッチフットボールだった。攻撃のフォーメーションは「BOX」と呼ばれていたシングルウイング・バックに類似しているが、QBをセンターの右後に離れて位置するフォーメーションを主体とし、タイトTフォーメーションを併用するものだった。守備はそれまで6−2−2−1だったが、この年は5−4−2を採用していた。
3年生を送り出したら残り10人
1年生だった52年度は両斉藤さん(昭、昭弘)ら3年生が主力だった。2年生になった53年度、両斉藤さんらの卒業によって、戦力は大幅に低下していた。春のトーナメントは1回戦で西高に敗退して終わり、秋のリーグ戦も日大一高には勝ったものの他の試合は連敗したように記憶している。それでも、この年は春に1年生の入部は極めて少なかったが、藤本を含めて5人の2年生が入ったため、数人のリザーブを持つことができた。
しかし、私たちが3年生となった54年度当初は、もっと悲惨な状況だった。ラインの主力だった一ノ瀬、井上、川上、バックの主力だった原、中村の諸先輩らを送り出し、戦力的に低下しただけではなく、残った部員は10人しかいなかった。3年生になると引退する部が多い中で、残っているのは3年生が8人、2年生が2人という状況で54年度を迎えた。前年度の成績は芳しくなかった。こういう状況の中で、当時「憲法大会」と呼ばれていた春のシーズンがやって来た。
試合1週間前に新入生1人確保
われわれ3年生は口にこそ出さなかったが、部そのものの存続が危ういと感じていたと思う。「もしかすると憲法大会が最後の試合になるかも」と漠然と考えていた。でも試合をするためには、とにかくもう1人人間を確保しなければならない。春季の部員登録の入部希望者欄に記載されていた名前を頼りに、1人の1年生を強引に部に連れ込んだのは、試合の1週間前だった。それが、卒業後、長年にわたりOB会の名幹事長を務めた三木侃である。
試合の会場は、慶応日吉のグラウンド。それまでの試合には欠かさず顔を見せていた細見さんをはじめとする2期生の先輩たちもあきらめていたのか姿がなく、戸山のベンチは伊原先生とその年に卒業した中村さんと、たった2人という寂しいものであった。もちろんリザーブはだれもいない。相手は聖学院。相手も1年生2人を含む12人という似たもの同士だった。劣勢が予想されていたが、市川、鈴木、野本をはじめとするラインの活躍、初スタメンのC山田、QB長谷川の予想を超える健闘、そして何よりも初試合の三木が相手の不正行為を怒鳴ってやめさせるファイトあふれるプレー。それぞれが持ち場で役割を果たし、やればできることを各自が自覚し、相手のラストワンプレーを13−12で迎えた。
フィールドポジションはこちらが押していて、勝利はまず間違いない。当然相手はパスプレー。投げたボールはセフティー長谷川の前へ。長谷川がはたく。その直後、全員ががく然とするシーンが生じた。はたいたボールが、あろうことか、相手のバックスの手中に入った。勝利を目の前にしてのこの事態。数秒後、長谷川が追いつき、ことなきを得た。
春の好成績に気をよくする
次の準決勝、慶応戦は天候の都合で月曜日に戸山のグラウンドで行われた。鈴なりの戸山生の前で試合をする幸運に恵まれ、後半逆転され6−21で敗れたが、3位決定戦の日大一高戦は6−0で勝ち、春の大会3位になることができた。これは3年生の気持ちに大きな変化をもたらした。「やればできる」。上を目指そうということである。部員の獲得、練習に力を入れ、部員の数も増加。夏休みの再会を約束して別れ、練習初日の8月20日、3、2年生のほぼ全員と新入りの1年生が集まった。これで、多少けが人が出ても余裕をもって試合に臨める状況になった。
秋のシーズンは、リーグ戦。日大一高、西、九段を破り、慶応には不戦勝。無敗で早稲田高等学院戦を迎え、これも6−0で辛うじて降し、この当時関東で圧倒的な力を誇っていた麻布戦になった。試合序盤、相手がメンバーを落としていたこともあって2TDを先行したが、その直後にキックオフリターンTDを許してから反撃され、力及ばず19−25で終わった。だが、強豪・麻布の1軍に対しほぼ対等の試合をしたことは大きな自信になった。最終戦の聖学院戦は当面の目標を達成して気が抜けたのか、0−12で負けたが、早稲田高等学院、聖学院と並んで5勝2敗となり、同率2位でシーズンを終えることができた。正月のライスボウルには、3年生RG鈴木茂が出場した。
どうなることかと思われた54年度も部存続の危機を乗り越え、春関東3位、秋関東2位の戦績と増加した部員を残して卒業した。
三木の加入と春のシーズンの聖学院戦勝利、この二つがなければ今日の50年の歴史もなかったのでは、と考えている。現在までの歴史を刻むことを可能にしてくれた二つの事柄の重さを、今改めてかみ締めている。(1955年卒、藤本 強)
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