3期
(1950〜52年度) |
入学直後に校舎全焼
同期の大半は2年から入部
スポーツより政治に目を向けていた戸山生
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1953年卒メンバー (◎は主将)
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RE | 小西 岳治 (現姓・大崎)
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LG | 大橋 朗
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LH | 斉藤 昭弘
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FB | ◎斉藤 昭
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LE | 佐藤 稔
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E | 殿岡 脩
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RH | 古田 一成
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1950年4月、戸山高校に入学した。入学早々、タッチフットボール部を創設したばかりの細見さんら2年生数人につかまった。体が大きかったのに目をつけられたのだ。小学校5年の夏、疎開先の青森で終戦を迎え、間もなく上陸してきた米兵が、あの楕円のボールで遊んでいた。東京に戻ると、ハリウッド映画が上映され、ジャズの音楽が流れているなど、街中は米国文化がはんらんしていた。いきなり「フットボールをやらないか」と誘われ、すぐ承諾したのは、こうしたことも影響したのではないか、と思っている。もし、日本が戦争に勝っていたら、私は戸山から士官学校へと進んでいただろう。そうなれば当然、フットボールに彩られた青春の楽しい思い出はなかったはずだ。
分散授業を終え、歩いて戸山へ
たくさんの上級生に囲まれ、練習が始まったが、新入部員が私1人のまま、約1カ月後の5月10日夜、校舎が全焼してしまった。前年10月に落成式を迎えたばかりの校舎だった。全生徒が新宿区内の小学校など4校で分散授業を受けることになった。
私たち1年生があてがわれたのは、四谷第4小学校。今の地下鉄丸ノ内線四谷3丁目駅の近くだった。私は越境入学で、当時千葉県市川市の総武線本八幡駅から通っており、信濃町駅から都電に乗り、塩町の電停で降りるというのが通学コース。家から四谷第4小まで1時間40分前後もかかった。授業が終わると、直線にして約2`余の戸山の焼け跡グラウンドまで通った。道が入り組み、まっすぐ行けるわけでもないので、普通に歩くと40〜50分もかかる。しかし、練習に間に合うようリズムよく歩いてペースを早めようと、当時流行していたジャズの"チャタヌギシューシャインboy"をブギウギのテンポでハミングして通ったものだ。
細見さんたち2年生は封建的なところもなく、一生懸命練習していた。私はたった1人の1年生だったが、特につらかった思いはなく、面白かった。練習が終わって、なんやかんやして自宅に戻ると、もう夜8時。クタクタになって勉強する時間はなかった(あったとしても、やらなかっただろうが)。
初めてジャージを作る時、みんなで話し合い、米国カレッジフットボールの名門、ノートルダム大のグリーンにしようと決まった。そのグリーンが、今もグリーンホーネッツとして残っているのは、誠にうれしい。
9月になって、斉藤昭が甲府から戸山に編入してきた。同級生の私がフットボールに誘うと、承諾。1年生部員がやっと2人になった。斉藤昭は私よりさらに体が大きく、パントはエンドゾーンから向こうのエンドゾーンまで100ヤードも飛ばした。
研究熱心な上級生
細見、西川先輩たちが物好きで、新しいフォーメーションを次から次へと採り入れた。例えば、ダブルリバースの自由の女神とか、ラインのシフトとか、どんどんメニューが増えて、マスターするのが大変だった。私はLGで、隣のLTが頼りになる細見さん。よくレフトサイドのプレーが使われ、試合中、オフェンスとして穴を開けないと、後ろから突っ込んでくるバックスにスパイクのクリートで背中を何度も踏まれた。
51年春、分散授業解消
51年春、新校舎が全部完成して、分散授業が終わった。それまで他校に通学していた2年生が次々と入部した。あの薄汚いフットボール部へ、よくも入ってきたものだ。それぞれ惹かれるものがあった、ということだろう。斉藤昭は京大でFB、斉藤昭弘は法大に進んでQBとなり、ともに名(?)選手として活躍した。
私はマネージャーも兼ね、高校連盟の会議で月に2、3度、岸体育館に行き、また試合スケジュールの調整だとか、めまぐるしいほど忙しく、試合をやっている方がよほど楽だった。
しかし、当時は高校生も政治に関心が強く、たびたびデモに参加してけがをして帰った、なんて話はざらだった。運動部の活動は下火となり、一部の部を除いて部員不足が目立ち、いくつかの部をかけもちしたり、助っ人出場などはざらだった。フットボール部はよく、ラグビー部と選手を貸し借りしていた。
西高に敗れ、甲子園ボウル出場逸す
試合では2年生の時、春に前年の関東優勝校・慶応と対戦して0−6で惜敗した以外は負けなし。3年生では春秋とも西高に屈して準優勝に終わった。特に秋の西高戦は0−6、もし勝っていたら西高に代わって甲子園ボウルに出場したはずである。
しかし、私にとって忘れがたいのは、成増のアメリカンスクールとの試合。私の前にいた相手の選手は、120`と私の倍ぐらいある巨漢で、ぶつかるのも命がけだった。そして、サイドラインには、チアガール。華やかさなどどこにもないわれわれの部活動の中で、色鮮やかな思い出として脳裏にくっきりと焼き付いている。
3年生最後のライスボウルには、同期のLE佐藤稔、LH斉藤昭弘、FB斉藤昭のほか、2年生のLT宮地英光、LG井上亙、QB原敢、RH中村重雄の計7人が出場した。
最近、知り合いの米国人夫妻とスーパーボウル談義になったことがある。私が「ピッツバーグ・スティーラーズのWRリン・スワン(88番)のファンだった」と話すと、向こうは驚いて「WHY、日本人のあなたが、そんなに詳しく知っているのか」。こうした会話ができるのも、戸山でフットボールをやっていたことが原点になっていると思う。
終戦から半世紀余、そのころ誕生した戸山のフットボールが現在まで継続してきたことを喜ぶとともに、今は亡き顧問の伊原先生をはじめとする諸先輩方と、元気な後輩たちのお陰と感謝しています。
VIVA!GREEN HORNETS
(1953年卒、大橋 朗)
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