2期
(1950〜51年度)

50年春、タッチフット部創部
高2生が中心になって働きかけ

実力的には全国トップレベル

1952年卒メンバー (◎は主将)
 中島 秀樹通称マイズ。ニッコリ笑ってキャッチ。逆リードも抜群のレシーブ力。
 滝村 太郎レシーブは型から入るスタイリスト。ショートパスのキャッチングは格好よし。
 吉田 瑞雄通称ジョミ。戸山1の美男子。優しさはフットボーラー随一。
 伊藤 直明文武両道。執念ある器用な選手。
◎細見  淳主将。気配り、信頼感抜群。オールラウンドプレーヤー。キッキングはこの人に限る。
 牛山 正明気力、体力抜群。馬力はチーム1。
 福田  坦通称ダボ。体大きく、どのポジションもこなす。
 柿沼  寛体は小さいが、ブロックは低く強い。スピードあるプルアウト。
 水谷 孝治QBサックはこの人に限る。オフェンスよりディフェンスが得意。
 高橋  弘通称チャーチ。小さな体の頑張り屋。
 川本金次郎コントロールに狂いのないスナッパー。確実。
QB 西川 郁三研究心おう盛。プレーコール、フェイクワークに自信あり。
HB 竹井  功俊足。カッティング走法は図抜けて、TD数はチーム1。
HB 後藤 誠一ショートヤーデッジは確実ゲイン。ファーストダウンはこの人。
HB 野口  誠
(現姓・西村)
通称ジャッキー・ロビンソン。色黒で俊足、動作機敏のDB。
HB 佐々木俊雄オフェンスよりDB。パスカット、インターセプトの名手。
FB 遠藤 英雄ダウンフィールドブロック確実。ショルダー、ヒップ、ローリングは基本に忠実。
応援団 熊谷 直彦野球部OBだが、レシーバーに入ったことも。
応援団 広瀬  昭信頼度高く、任せたら間違いなしの広報担当。
応援団 松尾 豊太志気を鼓舞し、プレーヤーに活力を入れる大切な人。
応援団 高木 明二通称オヤジ。情報入手と連絡が素早い。衆議院議員の父の影響か。
通訳 沖野 行男英会話は英語教師以上。教師に指されたことなし。

ナイルキニックの大歓声

 フットボールを知るきっかけとなったのは、1年上の野球部員、戸田寿一氏の影響が大きかった。戸山がまだ都立第四新制高校という名前だった1949年9月ごろだったろうか。1年生だった私はこの戸田氏から「米軍がやっている面白いスポーツがあるぞ。アメリカンフットボールと言うんだ。一度見に行ったらどうだ」と言われた。同級生の水谷孝治にアメフトの話をすると、彼の家近くの千駄ヶ谷、信濃町駅では、そばのナイル・キニックスタジアム(現国立競技場)から毎週金曜日の夜と、土・日曜日の昼間、米軍の大歓声が聞こえてくる、とのこと。「何だかよく分からないが、頭に鉄かぶと、肩によろいを着けているらしい」。私はそれが、アメフトの試合ではないか、と確信した。

何とかアメフトを見たいものだと思っているところへ、水谷が「米軍が毎晩練習しているところがある」と耳寄りな話を聞きつけた。早速、同じ学年の細見淳、同級生の竹井功、広瀬昭、川本金次郎ら数人を誘い、水谷の案内で信濃町駅近くにある明治絵画館(現在の聖徳記念絵画館)前の広場に行った。それが、米軍チームが練習する、ナイル・キニックのサブグラウンド。ナイター設備が整った立派な施設だった。明治絵画館は夕日を浴びると、建物上部の丸くなったところが光を反射して鮮やかに輝き、通称"テル館"と呼ばれていた。

創設前から米軍選手の指導受ける

 われわれは毎晩のようにフットボールの練習を見に行った。熱心に見学しているものだから、ハワイ出身の日系2世、米第8陸軍のミヤモト氏が声をかけてくれ、見上げるような大きな人を連れてきた。それが、GHQ勤務でフットボールのセンター、ウェッツェル選手だった。われわれはミヤモト氏を通訳として練習終了後、約20〜30分間、ウェッツェル選手から特別に指導を受けた。これが戸山のフットボールの始まりだろう。時には、英語を得意とする同級生の沖野行男を連れて通訳とした。 なお、後になってナイル・キニックでアメフトを観戦した際、ウェッツェル選手が陸軍オールスターのセンターに選ばれた名選手であることを知り、「大変な方に指導を受けたものだ」と感激、しっかりと応援した。ちなみにナイル・キニックとは米国の著名な陸上選手の名前で、選手名を競技場の名称にする国の寛大さを思った。

先生が作ってくれた手製ボール

 学校でもフットボールをやりたかったが、ボールがない。すると、体育の金子英一先生がバスケットボールを改造して楕円の手製フットボールを作ってくれ、タッチフットの真似事をして遊ぶことができた。部の創設願いは「危険」とする学校側の反対を受けたが、「とにかく信用を得ることが大事」と、フットボールをやる仲間で最も頭がよく教師に信頼のある細見を主将に押し立て、粘り強くプッシュした。創設を懇願するからには、もっと部員を集めなければならない。教室で私が書いた勧誘のメモを回し、細見が説得を試みた。 そのころ、戸山の正門前に「とらや」という店があった。昼休みや放課後になると、生徒たちが立ち寄り、1杯20円の中華ソバや今川焼きをパクついていた。この「とらや」がたまり場となって友達の輪が広がり、野球部員の高木明二を情報収集役として、部員を増やしていった。

ジャージはノートルダムのグリーン

 50年4月、ようやく正式に部が認められた。それもつかの間、5月10日夜、学校に火災が発生し、校舎が全焼した。しかし、学校近くに住んでいた細見がいち早く駆けつけ、大事なボールを焼失から救った。貴重品のボールがなければ、せっかくできた部の存続が危ぶまれるところだった。火災後、近くの小中学校、高校など4校を借りて分散授業となり、新校舎が完成して分散授業が最終的に解消されたのは翌51年4月だった。

分散授業が始まった直後、新設の部に3万4000円の生徒会予算がつき、ジャージを作ることになった。校歌の中に「緑にはえる戸山の森」の1節がある。また、米国のフットボール発祥、ノートルダム大学のスクールカラーは、グリーンとイエロー。戸山のジャージの色は緑とした。このカラーが現在の「GREEN HORNETS」につながっている。ジャージはできたが、パンツまでは手が回らない。このため野球のパンツを改造、ニーパッドの代わりに雑巾を重ね縫いしてパンツに取りつけ、練習、試合に臨んだ。本来ならばパンツもイエローにしたかったが、染料がなかった。

法政主将の指導で快進撃

 50年秋以降、いくつか試合をしたが、分散授業のため練習不足は否めず、なかなか勝てなかった。やはり、フットボールをやるからにはコーチが不可欠。転勤になった金子先生の後任、伊原公男先生が連盟に問い合わせて、戸山の近くに住む法政大の尾上博久主将を紹介してもらった。快諾した尾上さんに51年の正月明けから指導を受けて急速に強くなり2月26日、北園高を52−0で破って創部初勝利を飾った。

 51年4月、旧制の都立四中に入学以来6年目、最後となる学年を迎えた。まず、春季トーナメントの憲法大会は、西高で慶応と対戦。第2Q、QBの私が右腕を骨折、RHの竹井に後を託すというアクシデントが起きて、0−6で敗れた。しかし、慶応は前年度の関東優勝校だったことを考えれば、大健闘だった。慶応戦に善戦したとはいえ前年度の実績のない戸山は、秋季リーグ戦で聖学院、早稲田学院、北園、新宿、青山などとともに関東2部に所属し、全勝優勝を飾った。春秋通じて慶応に1TDを奪われて負けた以外、無失点、負けなしだった。1部は慶応のほか、麻布、九段、西などだったが、戸山は1部で優勝を争うレベルの実力があった、と自負している。 試合をしても全く負ける気がしなく、勝つことによって自信と余裕が生まれた。余裕のプレーをいくつか紹介しておく。トライフォアポイントで、RTの細見がドロップキックのゴールを成功させたり、LG柿沼がガード・ライトプレー(QBが股下を通してボールを後方に置き、プルアウトしたLGがボールを拾い、右オフタックルに突進する。QBはボールを持ったふりをして、左オフガードを突く)で加点したりした。Cの川本は3種類のハドルの組み方を指示して、相手の不安感を募らせる心理作戦を展開した。この年は楽しみながらフットボールの試合をしたものだ。

法政1,2年とアメフト試合

 12月に入って法大の防具を借り隣の女子学習院のグラウンドで、法大の1、2年生を相手にアメリカンフットボールにも挑戦した。互角の試合だったが、体力に若干の差があり、6−12で敗れた。

 52年1月、ナイル・キニックスタジアムで行われたライスボウルの東西高校オールスター戦には、戸山から3年生のQB西川、RT細見、LT牛山、LE中島、C川本、2年生のRG大橋、HB斉藤昭、FB斉藤昭弘の計8人も出場した。慶応選手の出場辞退という事情があったのだが、それにしても2部校から8人は実力がなければ実現できない話だった。私は東軍のQBを務め、ディフェンスでもSFに入ったからフルゲームだった。試合は6−19で西軍に敗れた。

 なお、57年1月、後楽園競輪場で行われたライスボウルの高校オールスター戦に、私と同期で立教大主将を務めていた柿沼が東軍のヘッドコーチとして出場し、西軍を破ってかたきを討った。なお、東軍の練習は立教大グラウンドで行われ、細見がコーチとしてバックアップした。

お世話になった細見家

 フットボールにけがはつきものだったが、けがする度に学校近くの細見医院に行った。細見の父君は九大医学部出身、戦前、日本の軍医では最高位の中将に任じられた経歴を持つ。治療を受けても「お前らから金が受け取れるか」とおっしゃり、無料。実に豪快であり、激しい父君だった。 また、母君も偉大だった。われわれはフットボールの練習が終わると、「とらや」に寄るか、細見家へ足を運ぶか、どちらかだった。当時、一般家庭ではふろがある家は少数派だったが、細見家ではふろに入れてもらった。そのうえ、なかなか口にすることができない寿司をたびたびご馳走になった。今考えると、タッチフット部員は随分、母君に迷惑をかけたと反省もしているが、幸せだった。日本女子大卒の母君は教育熱心で、いつも「フットボールばかりやっていないで勉強をしなさい。いい大学に入れませんよ」と忠告をいただき、戸山の教師とは別の角度から人間教育を受けた、と思っている。タッチフット部員に対し、自分の子供同様に厳しく、優しく接してくれた母君は1902(明治35)年生まれ。本年6月2日、突如永眠された。心から、ご冥福を祈っている。

ああ、懐かしのナイルキニック

 創部以来50年。長らく顧問を務めていただいた故・伊原先生のほか、共に苦労し、激しい練習をし、同じ釜の飯を食い、創部と同時に優勝を目指した同期で今は亡き後藤誠一、川本金次郎、高木明二、牛山正明、吉田瑞雄、水谷孝治らの顔が浮かぶ。50周年の式典に出席できないのは残念であろうが、天国から現役、GREEN HORNETSのプレーヤーを見守ってほしい、と思う。

 ナイル・キニックで始まり、ナイル・キニックで終わった高校時代のフットボール。ナイル・キニックで聞いたチアリーダーの応援の声が……。
 "GO TEAM GO! GO TEAM GO! GO TEAM GO!GO!GO!"
 "FIGHT TEAM FIGHT! FIGHT TEAM FIGHT!"
 "FIGHT TEAM FIGHT! FIGHT! FIGHT!"
 "WIN TEAM WIN! WIN TEAM WIN!"
 "WIN TEAM WIN! WIN! WIN!"
 "GO! FIGHT! WIN!"
 今でも忘れられない。海兵隊のショットガン・ドリル、AIRFORCE、ARMY、NAVY。マーチングバンドのハーフタイムショーが……。  素晴らしかった。
(1952年卒、西川 郁三)



試合記録
1950年
11月戸山●−○早稲田高等学院(練習試合)
11月戸山●−○聖学院(練習試合)
12月戸山●−○新宿(練習試合)
1951年
2月26日戸山52−0北園(練習試合)
5月5日戸山0−6慶応(春季大会)
5月27日戸山37−0聖学院(練習大会)
7月3日戸山39−0青山(練習大会)
10月3日戸山67−0聖学院(秋季大会)
10月27日戸山33−0新宿(秋季大会)
11月18日戸山26−0早稲田高等学院(秋季大会)
11月24日戸山59−0北園(秋季大会)=関東2部優勝
12月戸山6−12法大1・2年(アメフト練習試合)