1期
(1950年度)

青春の心を駆り立てた
米軍のアメリカンフットボール

巨漢の肉弾戦、金髪チア、コカコーラ、ホットドッグ

1951年卒メンバー
 有馬  勉
  高野  上
HB 仲野 良一
  山田 耕司
  山本 治也

 終戦の混乱期を過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻した1948年10月のある日。
 "We Wan'na Touchdown! We Wan'na Touchdown!

スタンドから響き渡る応援の中、超ミニスカートの金髪美人ぞろいのアメリカン・ハイスクールの女生徒たちの逆さ転、トンボ返り。グラウンドでは色彩豊かなユニホームにヘルメットに身を包んだ100`を超す巨漢のぶつかり合い、目を見張る楕円球の40〜60ヤードのロングパス、ボールをキャッチすべく俊足を飛ばす長身のレシーバー、ボールを抱えて敵陣に突進、強烈な音を立ててのぶつかり合い、物すごい勢いでボールキャリアーにタックル!……。今までに見たことのないエキサイティングな光景に、ただただ興奮するばかり。

同級生の姉の招きで空軍の試合観戦

 ナイルキニック・スタジアム(進駐軍に接収されていた神宮競技場、現国立競技場)に府立4中入学以来、親しく机を並べていた戸田寿一君の姉君に誘われ、同じ仲間の熊谷公男君とともに初めて、アメリカ進駐軍のアメリカンフットボールゲームの観戦に訪れた時のことだった。

   戸田君の姉君のご主人、フランク・マイク・ミヤキ氏は、米空軍第5航空隊(FIFTH  AIR FORCE)チームのスタープレーヤー、名ハーフバックだった。毎試合素晴らしい活躍でスタンドの観衆を沸かしていた。スタンドは一部、日本の大学関係者を除き、アメリカ人ばかりで、全くアメリカそのもの。ハーフタイムには、両チームの軍楽隊によるにぎやかな"ハーフタイムショー"が行われた。

 ジャズ演奏や、今までに味わったことがないコカコーラやホットドッグを口にしながら、ルールもわからず、ただただ豪快な肉弾戦の観戦に、すっかりフットボールのとりこになってしまった。 秋のフットボールシーズンには毎週、第5航空隊、GHQ、第1騎兵師団、横須賀マリーンやその他のチームによるリーグ戦が行われており、折りを見てはゲームを観戦させてもらった。

中古のボール、スパイク購入

 好奇心の強い年ごろとあってフットボールに完全に心を奪われ、当時神田神保町にあった進駐軍の中古スポーツ用品払い下げ店で、なけなしの小遣いをはたいて、中古のボールや、われわれには大き過ぎてミッキーマウスの靴さながらのスパイクシューズを購入。当時、熊谷君の自宅近所にある明大中野中学のグラウンドで、見よう見まねのパスの投げ合い、ボールのけり合いを楽しんでいた。 熊谷君は慶応高校に転校、即タッチフットボール部に入部。これに刺激されて戸山高校校内のグラウンドで、同じクラスの山本治也、八島、加藤友君ほか物好きな同志を集め、昼休みや放課後にフットボール談義をしたり、隣の女子学習院のグラウンドで練習していた早稲田高等学院のタッチフットボール部を見習いながらボールの投げ合い、けり合い、にわか作りのフォーメーションなど、フットボールのまねごとを楽しんでいた。

1年下に託したタッチフット創部

 こうじて1年下の細見君、西川君、中島君、遠藤君などほかの仲間も一緒になり、戸山高校タッチフットボール部創部を目指して動き出した。 当時、わが戸山高校の運動部としては、野球部、バレーボール部、バスケットボール部、サッカー部、テニス部、剣道部くらいと記憶しているが、特に野球部、バレーボール部の全国大会、国体での活躍は、全校生徒のあこがれの的になっていた。アメリカンフットボールは知能、スピード、忍耐力が要求される近代スポーツとして、やがて日本でも人気の的になるのではないかと思われた。わが戸山高校においても、野球部、バレーボール部に続き対外的に活躍できる新しいタッチフットボール部の創設をぜがひでも実現させたいと、先の同志が集まり、創部に向けて燃え上がった。われわれ3年生は受験を控え、十分な準備、活動が難しいため、細見君、西川君などの諸兄が中心になって走り出した。たまたま戸山高校の近所に在住していた、当時の法政大学アメリカンフットボール部の尾上博久キャプテンをコーチに仰ぎ、50年に正式に創部が認められ、関東高校タッチフットボール連盟に加盟した。

練習試合出場のみで卒業

 にわかチームによる練習試合として50年秋、東伏見の早大グラウンドで早稲田高等学院、戸山のグラウンドで聖学院の胸を借りたのが対外試合の始まりと記憶する。われわれ第1期のうち、私がHB、有馬がTとして出場。そろいのユニホームを作ったが、私だけがマイクの練習着である第5航空隊のジャージを着て写っている写真が残っている。なお、私は聖学院戦で左腕を骨折、医者だった細見の父君に診察治療を受けた。山本、高野、山田は練習には参加していたが、これらの試合には出場しなかった。

 その後、数々の公式戦で活躍。OB総数500名を超え、歴史と伝統ある部として存続してきたことは誠に素晴らしいことである。この間、特別のご指導、ご援助などご尽力いただいた故榎本一郎先生、故伊原公男先生をはじめとする多くの先生方、並びにOB諸兄姉、現役の部員及びご父兄の方々のお力の賜物によるものと、深く感謝する次第である。  半世紀にわたる過去の実績を生かし、ますますの発展、活躍を期待したい。
(1951年卒、仲野良一)


試合記録
1950年
11月戸山●−○早稲田高等学院(練習試合)
11月戸山●−○聖学院(練習試合)