■本土決戦陣地を発掘する。
  

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■「阿部壕」を考察する 〜崩落への過程を推測。
 
阿部壕はなぜ現在の状態となったのか。発掘作業を進めていくうち、次第にその過程が浮かび上がってきた。無論推測の域はでないが、築城の規範や戦術的見地、物理的な状況(倒木、土砂の堆積の具合)を鑑みて,以下でほぼ間違いないと思われる。
■坑道陣地「阿部壕」の側面イメージ図。

斜面をくり抜いて銃眼のある部屋を掘った。築城が進めば当然、コンクリートや木材で補強されるべき重要な部分である。
■戦術の転換、そして終戦。

戦術の転換(後述)によりさして意味の無くなった陣地構築は中断、そのまま終戦を迎え放置。その後山林にはスギが植林された。
■発見時の状況。 
 
礫の多い地質と、植林の木々が成長したのが相俟ち銃眼上部が重みで崩壊。土砂が壕入口(実際は入口はもう片方側)の4分の3を塞ぎ、さらに倒木が折り重なった。
 
■再度にわたる戦術の転換 〜縦深配備と汀線配備。
 
 
「阿部壕」の築城作業が終戦直前に中止されたことは、先の阿部氏の聞き取りにより明らかになっているが、これはなぜだろうか。
 敵上陸作戦に対する防御はサイパンが陥落するまで、敵を汀線で撃退する「水際防御」戦術をとってきた。これはタラワ島などで大きな戦果を挙げた例もあるが、結局は艦砲や航空攻撃の前にみずからも大きな損失を招き、やがて玉砕の悲劇を見るに至った。
 逆に敵に上陸は許すが後退守備をとり敵をふところ深く誘い込み、長期自給の消耗戦に持ち込む「縦深配備」をとったペリリュー島、硫黄島での戦いでは、米軍に相当の出血を強いていた。圧倒的な兵力を前に壁に生卵をぶつけるような水際防御より、劣勢の戦力を効果的に配置し、組織的抵抗が潰えたのちもゲリラ戦を挑む縦深配備が、より敵を悩まし出血を強いる戦法であることは、戦訓として軍首脳もよく理解していた。
 しかし、今度は本土防衛である。縦深配備が効果的な戦法であるとはわかっていても、本土に敵の上陸を許すわけにはいかない。マーシャルでもサイパンでもフィリピンでも硫黄島でも、ただ本土、ひいては祖国を護る、そのためだけに戦ってきたのだ。1945年4月、本土を戦場とする「決号」作戦が発動される以前まで、軍の本土防衛における作戦の基本理念は水際で敵を叩く「汀線配備」であった。だが、「決号」作戦の準備段階の視察で、各部隊の練度が軒並み低いことが明らかになった。理由は汀線配備における陣地構築に力を注ぐあまりの兵の教育訓練の不足である。強固な陣地か兵の練度か・・・。選択に迫られた軍首脳は、陣地構築は主要部分を残し打ち切り、兵の錬成に労力を割く選択をする。そしてこの時、戦力配備も汀線配備から、練度の高い戦力で懐に誘い込み白兵戦に持ち込む縦深配備へと転換された。感情を排除し、セオリーに基づき用兵を見直した結果であり、その判断はまだ冷静だった。
 だが53軍を率いる赤柴中将の見地は異なった。赤柴はつぶさに各部隊の視察を行う中で、汀線陣地
の構築が後方地帯に比べかなり劣っていることを指摘した。赤柴は、敵は相模湾茅ヶ崎海岸に上陸してくることを確信していた。茅ヶ崎には大規模な橋頭堡が構築可能な広い砂浜もある。彼はこの相模湾で敵を迎え撃つかぎり、茅ヶ崎に敵が来寇するかぎりは、米軍を水際で叩かねばならないと判断した。53軍内部から異論はあったが、十二方面軍への意見具申は通り、基本戦略は再度汀線配備へと転換された。これを受け、兵は渚近くまで再び出て行ったのである(阿部氏証言参照)。赤柴が汀線配備に固執した決定的理由は、連日連夜続くB29による都市空襲にあったのではないかと言われている。街は灰燼と帰し、皇居まで空襲を受けるに至り、このうえ敵に上陸を許し本土を蹂躙されることは、彼にとっては到底受容し難いことであった。
  

  

「阿部壕」を考察する 〜「阿部壕」の戦術的位置づけ

 阿部壕が本土決戦を想定した銃眼坑道であったならば、攻撃の対象は当然来寇する連合軍となる。が、果たして見敵し、攻撃する機会はあったのだろうか。
敵が林道程度の隘路を攻めあがってくる「理由」は、鷹取山の山体の一角にある砲台(24p榴弾砲*2)を攻略するためであると推測でき、当初からその仮定のもと、山中踏査、測量、発掘作業を行ってきた。しかし、調査を続けてゆくうち、大きな疑問が浮かんできた。下記ネーモン氏の考察を参照されたい。

       (拡大図はこの下↓)
 
■ネーモン氏による考察。
 
 「阿部銃眼坑道の構築目的は、主力の置かれている鷹取山附近一帯に準備されている各陣地(15榴陣地含)を上陸軍の侵行から護る事だと容易に推測できる。
 ここで、鷹取山附近一帯に準備された陣地の位置を簡単に整理すると、まず鷹取山陣地の最大の戦力であろう24榴弾砲陣地は、鷹取山北側斜面に構築されている。しかし、阿部銃眼坑道の射撃ポイントは南側を指向している。確かに、そこには上陸軍が侵行する広さの道があるが、その先は行き止まりである。
 仮にそこに上陸軍が侵攻して来たとしても直接、24榴弾砲陣地を攻略できない。効率の良い米軍が、こんな無駄な場所に侵攻するハズがないと考えられる。(ワナを仕掛けてこの道に上陸軍を誘い込めば別であるが)
 現存する遺構群を考察する限りでは、当時を精一杯生きた方々には悲観的な意見で申し訳ないが、阿部銃眼坑道の構築意図は、全く以て不鮮明である。それは、恐らく小隊長はもちろん中隊長さえも当時の緊迫と混乱した状況下で、現地の地理を理解せずまた、24榴弾砲陣地の構築場所すらも判らないまま、各部隊が独断で陣地構築を行なった結果ではないだろうか。
 戦争末期に作戦方針が縦深配備から、汀線配備に変更された為、全体の築城が未完成のまま、現状を迎えているが阿部銃眼坑道の構築は、ただ無駄な労力を消費していただけだと判断せざるを得ない。あんな所に、阿部銃眼坑道を準備する必要が本当にあったのか大いに疑問が残る。」

  


 

※赤線部は現在でも舗装された林道が存在するが、この林道は鷹取山の榴弾砲陣地に繋がっていないことがわかっている。1本手前に遊歩道があるが、阿部壕の坑道陣地はこの道を狙う目的で構築されたものと推測される。
 
(国土地理院 国土画像情報 昭和52年度 「横浜」 CKT-77-1 1/8000 写真番号19 より)
 
戦術の転換により無意味となった陣地。

鷹取山の榴弾砲は旧式なうえ、上陸前の徹底した航空攻撃で無力化するであろうことは火を見るより明らかだが、それでも敵軍の上陸を想定し、砲台を側面から援護する陣地を築城したのだろう。
 53軍司令官赤柴八重蔵中将の日誌には、つぶさに陣地構築の視察をおこなった記録が残っており、彼の本土防衛への執念が強く感じられる。しかし再三の作戦方針の変更により、大局的な見地からの青写真が崩れたままのため、ネーモン氏の考察にもあるように、末端では現在取りかかっている作業が本土防衛のためにどのような意味を持つのかおそらく理解していなかったものと思われる。下士官兵はやむを得ないとしても、指揮官たちすら、ただ命令のおもむくままに動いていたのではないだろうか。当然、軍隊は上意下達が完璧に行われなければ成立しない組織ではあるが、各部隊の指揮官の中には、陣地構築に関しての命令に対し矛盾、誤謬を感じていた者も少なくなかったのではないだろうか。

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おわりに。

■「物語」のある戦跡。
 

過去、幾多の戦争遺跡を訪れ、その歴史的背景、経緯、当時のテクノロジー、そしてそこで戦った将兵の辛苦などを知った。それは書物などで今も知ることはできる。今回の調査で発見したものは、たった1本の坑道陣地とそれにまつわるわずかな痕跡のみである。
 しかし、この壕には「物語」があった。我々はその物語を知った。語り部はその戦跡を生み出した本人、まさに生き証人である。そしてその物語は、60年ぶりの「再会」で完結する。長い年月を懸命に歩んできたひとりの人間と、そこにずっと静かに佇んでいた戦跡。両者の糾(あざな)える運命の物語を目の当たりにし、さらなる「探求への誘(いざな)い」を感じずにはいられなかった。(この項終わり)。
 

<謝辞>

このページを監修して頂き、取材同行をご許可頂いたネーモン氏、
ともに取材、発掘作業を行ったすえP氏他諸氏、
そして
情報をご提供頂き、取材に快く応じてくださった阿部義明氏に
この場で厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました。

今後、新たな情報を得ましたら逐次更新してゆく予定です。
ご期待ください。

 

 

■参考文献;

軍装操典74号、聞取り調査-13.25ネーモン著
「相模湾上陸作戦」大西比呂志・栗田尚弥・小風秀雄(有隣新書)
戦史叢書「本土決戦準備」(朝雲新聞社) 他

<掲載写真について>
ネーモン氏提供もの・・・(N)
とくに記載のないものはすべてslycrow撮影。

  

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(2005/08/04 新規掲載)

 


Slycrow's Messy Nest.