大磯鷹取山・本土決戦陣地を発掘する。
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第140師団歩兵第402連隊挺進中隊「阿部銃眼坑道」〜

(神奈川県中郡大磯町・平塚市)

  

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監修;ネーモン

戦局が悪化し、軍人はもちろん、市井の人々の口からも「本土決戦」という言葉が叫ばれるようになったのは1945年が明けてすぐぐらいだろうか。大本営は本土をふたつに分け、東半分を第一総軍(杉山元)、西半分を第二総軍(畑俊六)とし、東はおもに関東地方、西は南九州を敵上陸地点と想定して陣地構築を開始した。関東地方は最有力の連合軍上陸地点を九十九里浜、相模湾とし、後者を第53軍(赤柴八重蔵中将)が守備を担当、敵軍来寇に備えた。
この項は本土決戦陣地研究の第一人者、ネーモン氏の陣地調査に同行、当時の関係者の方々の証言をもとに大磯・鷹取山周辺山中を探索、戦跡発掘調査の様子を紹介させて頂く。

 

■2002.07.04 小隊長阿部義明氏への聞き取り調査。
 
以下は大磯山中の踏査のきっかけとなった、ネーモン氏による3年前の聞き取り調査の抜粋である。証言者は中部地方在住の53軍隷下第140師団歩兵第402連隊の元小隊長阿部義明氏(大正13年生、当時20歳)。彼の鮮明な記憶によるこの証言により、のちの困難な踏査を実りあるものにできたといってもいいだろう。
 
陣地を構築していた場所はどこか。
 
「鷹取山の北東(平塚市下吉沢付近)。拠点としていた吉沢小学校(旧。現公民館)から稜線に沿い鷹取山まで歩いた。山の斜面を掘り、海側に銃眼を作った。北に向かい進撃する敵を側射するのが目的だったと思う。」
 
陣地の構造はどのようなものか。
 
「自分が配属された時(1945年6月)にはすでに坑道は貫通しており、畳3枚ほどの部屋を持つ銃眼が完成していた。コンクリートは使わず、板で補強した。坑道は直線に近い構造で50mくらいか。」
 
●構築方法は?
 
「切削時に発破をして、木で補強してツルハシやノミで掘り進んだ。側坑や別に部屋などはなかった。」
 
●銃眼には銃火器が据えてあったか。
 
「何もなかった。銃眼だけが開いていた。そもそもどのように使用するかも小隊長である私自身把握していなかった。設計図などもなかった。」
 
●どのくらいの人数で掘ったのか。
 
「(自分の)小隊だけで掘った(約30〜40名)。中隊は4個小隊で、うち1個小隊だけ大磯町寺坂を宿舎としており、残りの3個は吉沢小学校に泊まっていた。」
 
(以上、2003/5/24の第2回目の聞き取り時に得た事象も補足として加えてある)

 

■2003.03.30 山中踏査。

 先の阿部氏の証言を得、大磯鷹取山山中の踏査を行う。過去数度踏査は行われ、ネーモン氏により大小数ヶ所の陣地が発見された。今回、ネーモン氏に加え私slycrowと、大学生のすえP氏の3人で、広く険しい山中に阿部氏証言の坑道陣地を捜索する。
 山中にはハイキングコースもあるが、脇道は未整備で藪の中、一部谷底へ崩落している場所もあり危険だ。この日は快晴。山中の空気は澄み、木々の間からは春光が差し込み心地よい。しかし、そう遠くない場所から絶えず破裂音が。どうやらハンターの狩猟用散弾銃の発射音らしい(下写真は散弾銃の薬莢)。

 


 

林の中を進む一行。こんな道ばかりならば少しは楽だったが・・・。(左) 電池とのサイズ比較(右)。鳥や獣を撃って楽しいのだろうか。おそらく楽しいのだろう。
 
どんな詳細な地図を調べても「それらしいもの」は見あたらない。ハイキングのメインルート上に発見できねば、脇にそれ、有効な火力配置や射撃効果を考慮に入れて隅々まで踏査する他ない。さいわい春先でもあり草木もまだまだ枯れたものも多く、視界を妨げるほどには繁っていない。すえP氏調達のトランシーバーも大きな武器だ。しかし、ことは簡単には運ばなかった。
過去の踏査で発見できずにいる陣地は、人目に着かない場所にひっそり存在するに違いない・・・。そう考えた私は、急斜面を滑り降り、木々の林立する谷などを探索するも、興奮と焦りでただやみくもに山中をさまよい体力を消耗するのみだった。午前中、成果はあがらずにあっという間に時間が過ぎた。

■「地図をよく見て絶えず位置確認をしろ」
昼食でいったん集合する。すでに疲労の色が見える私たちにネーモン氏からアドバイスが飛ぶ。
「地図をよく確認して、自分が今どこにいるか絶えず把握して歩くようにしましょう。目印は送電線の鉄塔です。こんな大きなわかりやすい目印があるので利用しない手はない」。
たしかにその通りだ。地図には山中の遊歩道はほとんど記載されておらず、位置確認は難しいとはいえ、稜線の起伏は地形図を見れば把握できるし、大きな鉄塔はここではまさに「ランドマーク」の役割を果たしている。鉄塔の位置は地図にも記載されている。もう一度気持ちも思考も整理しよう。PM12:45、踏査を再開する。
 


午後になり、陽が傾きはじめる。
「この下にあるのかもしれない。ここにあるのならどうあがいても近づくことはできない」。
足元から急激に落ち込む崖下をのぞき込み、焦燥感はつのる。阿部氏の証言が間違っているとはいわぬまでも、位置関係の記憶は正確なのか。何せ60年も前のことなのである。また正しかったとしても、壕の入口は崩落し塞がれ、年月を経て鷹取山の自然に帰しているのでは・・・。疲労とともに後ろ向きな思考が脳裏を支配する。
そんな刹那、トランシーバーにすえP氏のやや興奮した声が入ってくる。
ネーモン氏が壕らしきものを発見したようだ。

 

 

                                  ■斜面に口を開く坑道陣地を発見。
 

  
 山中を疾駆し、現場へ向かう。壕入口は半分が崩落し、完全に俯せになり身体を沈めてゆかねば進入できない。それでも果敢にネーモン氏が先陣を切り、闇の中へ消えて行く。しばらくしてから土砂を取り除き、穴を少し広げてから後に続こうとすると、ネーモン氏の声が頭上から届いた。「こちらの方が入りやすいですよ」。壕は向こう側に貫通していた。ネーモン氏は向こう側に出た後に斜面を登ってもとの入口の上に顔を出したのだ。

  


■阿部壕測量図(2003.10.05測量実施)
 

 

■馬蹄形にくり抜かれた壕内部。

坑道はみごとに馬蹄形をなし、戦局が逼迫する中でも丁寧に計算高く作業が行われていたことを窺わせる。
 


 

位置1 壕内は礫(れき)が多く柔らかい地質だが、両端部の出入口と銃眼室以外の場所に崩落は見られない。坑道表面には無数のノミ、ツルハシで削り掻いた跡が残り、人力作業の辛苦が偲ばれる。

 
位置3 壕内はカマドウマの巣だ。無数に集(すだ)きざわめく。害虫に指定されているとのことだが、その理由が「不快な姿だから」というから彼らもやりきれないことだろう。
トンネルが今も昔も変わらず丸くアーチ状の断面に造られるのは、頭上の山の重量を分散する「支保の原理」を利用するからだが、この壕もそうした物理的法則を考慮の上で掘られたのであろうか。綺麗な馬蹄形の坑道断面を見る限りでは、綿密な計算があったように感じられる。


 

位置2 当時のものと思われる鎹(かすがい)が1本、壁面に残っていた。人目につかない場所ではあるが、人跡未踏ということではないようで、パンの袋や、コーヒーの空き缶などが数点見受けられた。
位置4 北側(本来の出入口)は同じく崩落しており、潜り込むのにやっとの隙間しかない(N)。


 


フラッシュ撮影だと坑内の凹凸の状態がいまひとつわかりにくく、実測図4→3へライトアップして開放で撮影する。幻想的でもある(N)。

 

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slycrow's Messy Nest