■本土決戦陣地を発掘する。
  

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■2003.05.24 阿部氏とともに再び鷹取山へ。
 
 
(3月30日続き)陣地発見の報をすぐさま現地から携帯電話で阿部氏へ伝える。立地状況などを説明、多少の食い違いをみせたが、ほぼ阿部氏の記憶と一致した。最後に感謝のお言葉を頂き、山中を焦燥の中さまよった苦しみも心地よい疲労感に変わり、この日は下山する。
 後日、阿部氏より「是非陣地をこの目で見てみたい」との連絡が入る。5月24日、新幹線で駆けつけた阿部氏を伴い、再び鷹取山へと踏み入れる。彼が陣地を目(ま)の当たりにすれば、実に58年ぶりの「仕事場」との再会となる。遠い戦中の彼の記憶と、現実に存在する戦跡を引き合わせる瞬間が、踏みしめる一歩ごとに近づく。
 
 
 
(左上)だいぶ緑も濃くなってきた鷹取山の山道を再び登る。写真では見えないが先頭を切るのは阿部氏だ。

(右上)八十に垂(なんな)んとする氏にこの山道は厳しいのでは、という心配は杞憂に終わった。とにかく若い。足下のおぼつかない崖下へのアプローチも軽快だ。

(左)陣地をスコップで掘り下げる阿部氏。定年後は毎日野良仕事を続ける氏にとってはお手のものであろう。

■陣地を前に阿部氏に聞く。
60年ぶりに陣地を訪れての感想は?
 
「ここは間違いなく自分の部隊が掘った壕。感慨無量だ。再びこの地を訪れる機会があるとは夢にも思わなかった。」

●あらためて、この陣地の構造は?

「南側の先端は四角い部屋になっていて(測量図参照)、小さなマス状の口が開いていた。銃を据える予定だったと思う。今は(崩れて)口が開いて人が通れるが、当時は閉じられており、人の出入りは北側のみ行われた。」
 
●この陣地の耐久度は?
 
「想定して、艦砲にはまず耐えられないと思われる。ここは一度は発破をかけたが、そもそも地質的に柔らかく、耐久性は低いだろう。なので掘削作業は比較的楽だった。」
 
●設計図などはあったのか。
 
「自分は鷹取山の地図さえ持っていなかった。磁石もなかったし、そもそもこの壕がなんのためのものであるかさえ知らなかった(前出)。ただ命令されるままに作業に就いた。上官に聞くこともしなかった。中隊長はとても怖い存在だった。もっとも自分も小隊長として恐れられていたのだろうが。」
 
●ここで敵を迎え撃つつもりだったのか。
 
「いや、途中で作戦が根本から見直され、汀線近くまで進出して敵を叩くことになり部隊全員で生沢地区の東の池付近まで出て行った。昭和20年7月頃だったと思う。場所は不確かだが、そこでまた坑道を掘りはじめた。雨水がたくさん出てきて、とても陣地はできないなと思った。」
 
●当時のエピソードがあれば。
 
「30歳くらいの桜吹雪の入墨をした部下がいて、当時20歳の自分はえらいところへ来たものだと思ったが、実際はまじめでいい人だった。最高齢は41歳の一等兵で、下手をすれば自分の親父ほど年が離れていた。自分に『小隊長殿、神経痛が痛いであります』と言ってきた。叱ったり働かせたりするのが忍びなくなり、中隊長に相談して召集解除にして帰した。彼は涙を流して喜んで帰っていったが、それから一週間後に戦争は終わった。」

本土決戦はあると思っていたか
 
「必ずあると思っていた。日本が降伏するとは夢にも思っていなかった。敗戦はやはり悔しかった。自分の人生は20歳で終わりと考えていた。米軍進駐後、鷹取山は第一次進駐区域に入っており、立ち退き命令が出た。自分たちの部隊は立川まで退却し、そこで復員式を行った。
今から当時を考えると、マンガを読どる感じがする
 

 
(以上、聞き手の質問の順番は変えてあり、阿部氏のお答えも一部要約してある。)

 

 

■60年前の「手がかり」求め発掘開始。
 
坑道内はここまでの写真をご覧のようにほぼ手付かずの状態で残されていたが、北側の出入口と、肝心の南側の銃眼室は崩壊して土砂に埋没している。とくに銃眼室は次頁イラストのような過程により天井部から崩壊し土砂が堆積しているため、坑道はあたかも両方に出入口があるように存在している。

『この土砂の下に埋もれた歴史を掘り起こそう』。壕を前に、こんな脚色めいた言葉が浮かんだわけではなかったが、ようはこの土砂の下に何があるか掘ってみようとそう思った。数々の戦争遺跡を目の当たりにし、その存在に魅入られてきた人間にとって、それはごく自然に湧いてくる願望だった。しかし、その願望を満たすためには、それ相当の代償を支払わねばならないことにその時は気づかなかった。
 

 
■2003.06.14
倒れた木々を取り除く。
 
崩壊した銃眼室部分には倒木が十文字に折り重なっていたが、これを撤去、反対側の急斜面に投げ放った。壕内部へ入るにあたっての障害をひとまず取り除く。

 


 

■2003.06.14
スコップで土砂をかき出す。
 
あとはひたすら土砂のかき出しである。銃眼室の地面(床)から最大1.8mは土砂が堆積している。堆積の浅い部分ともっとも高い部分から同時に掘り始める。左上の蚊取線香はなかなかの効果を発揮し、小休止の煙草の火種にもなったが、寄ってくるハチには効かないようだ。


 

■2003.07.26
銃眼「室」が姿をあらわしはじめる。

土砂をかき出すにつれ、この空間が四角形の「部屋」であったことが明らかになってくる。


 

■2003.08.24
奮闘中のslycrow。

立っている場所は、単に平らに掘っただけでまだまだ当時の床部分は現れてこない。シャツは汗でぐっしょり濡れ、夕立のあとの薄ら寒い空気にあたり湯気を発する(N)。


 

■2003.10.05
坑道部分と床部分の高さが同じレベルになってきた。この間、複数人の方々にもこの掘削作業に従事して頂き、多大な労苦のもとここまでたどり着いた。


 

堆積した土砂の高さはこのとおり。
「穴を掘る作業」はけっして単純作業ではない。足場の確保、体の向き、上半身の前屈の程度、土砂の排除方向など、よく考慮して作業に入らないと、身体にかかるダメージにかなりの相違が出てくる。すなわち持久力=作業量に影響がでるのだ。
  

  
■掘削の末姿を現した陣地の遺構。
 
10月5日、初夏から秋口まで続いた発掘作業の末、銃眼室にいくつかの遺構を発見するに至った。長い肉体作業が続く間、探求心が萎え、結果に対する疑問と、徒労に終わるかも知れない不安に苛まれた。しかしすべての発掘作業に参加したネーモン氏の陣頭指揮によりねばり強く作業は継続され、銃眼室の土砂は少しづつ取り除かれていったのである。
 

 
■銃眼室を補強したと思われる木材。

実際は部屋全体を補強するために角材もしくは板材を使用していた(する予定であった)と思われるが、他所へ転用したか、もしくは終戦後資材不足の折り持ち去られたかで、現存するものは隅に嵌め込まれたこの木材のみ。

 

■銃火器を据えたと思われる台座。
 
周囲の土砂とは明らかに質の異なる礫層を残し掘り進んでゆくと、写真のような突起が削り出されていることが明らかになった。重機クラスのものと思われるが、銃眼室の形状、サイズを築城規範と照らし合わせると、対戦車砲の九七式自動砲の陣地と一致する。ただし鷹取山への林道に米軍が軽装甲車輌(すでにこの年代の戦車の装甲は貫通不可)を使用したかどうかは疑問で、むしろ重機で歩兵部隊をなぎ倒す方が有効であったと推測する。

 

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Slycrow's Messy Nest.