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「挨拶」
挨拶は人の気持ちを和ませてくれます。そして全ては挨拶からはじまります。
まず最初の私の仕事は朝のパンを買いに行くことでした。はじめは「バゲット1本シルブプレ」としか言えなかったのですがこれではいけません。まず、ドア(これが結構しっかりした重いドアです)をあけて「こんにちわ」と入っていきます。
店員さんは「ボンジュール マダム」「バゲット1本くださいシルブプレ」95サンチーム(私が頼まれたパンの値段)を払ってお客は「ありがとう、さようなら」店員さんはやはり「ありがとう、(朝なら)よい一日を」と送りだしてくれます。これで私もちょっとフランス語をしゃべった気分になってしまいました。
まだまだ郊外は人々は穏やかのんびりしていて、まずまずは好印象の出だしでした。けれど普段挨拶は、「こんにちわマダム」、「さようならムッシュー」とマダム、ムッシューと言うべきなのですが、それがまだ身につかずいつも後の祭りです。公園で仲良くなった男の子に「マダム、マダム!」と呼ばれました。日本なら「おばちゃん、おばちゃん見て。見て!」って言うところなのですが日本のマダムは慌ててしまいました。
ワンマンカーのバスの運転手さんにも、「ボンジュール」「オボワール」と、乗り降りの挨拶は欠かせません。孫娘は「やさしいおじさんね」とやさしさを覚えます。それでも、パリなど大都会では、今では人々のつながりが希薄になっているそうです。郊外に住んでよかったと思いました。
「待つこと」
買い物に行って,先客がぐずぐずしていると、ついつい後ろから「これください」なんて云ってしまいます。最近こんな時はっとしてしまいます。パリの近郊ポントワーズでは、よく個人商店で日ごろの買い物をしました。まるっきり日本と同じような小さな店で、ごちゃごちゃ野菜や果物が並んでいるお店でのことです。私は日本流に「じゃが芋一キロください」と言うと、八百屋のおばちゃんは計りとじゃが芋の間を一キロになるまで行ったり来たりします。ふと後ろを見るとお客さんが三人、順序良く並んで私とおばちゃんのやり取りを見ていました。後ろに目を感じながら,又みかんを一キロ計ってもらってコインもいちいち調べながら,本当に迷惑な客でした。次からはみかん六個,じゃが芋五個と、言うことにしました。何でも一キロいくらと設定されているので、キロ単位で買ったほうが合理的と思っていましたが、無理な注文でした。フランス人は言います、誰もあなたはぐずだなど思っていない,慌てずゆっくり行動なさいと。商店などでは待つことに心やさしくなれますが、あるとき駅の切符売り場で三人前の人がトラブッてなかなか終わりません。十五分くらい経って,私達の前の女性もそわそわしだしました,後ろを見るとゆうに二十人は並んでいます。トラブッテいる男性も当然の権利を主張し,人は列を作って待ちます。せっかちな日本人の私達はせめて隣の窓口もあけてお客に対応してほしいと思いました。
ゆっくりと六月の風懐に
「八百屋さん」
私たちの滞在は秋から冬が多いのですが、この季節で、野菜の種類はやはりサラダになるものが多いと思います。今では日本は何でもあって珍しくないかもしれません。私達はチコリ、ウイキョウのサラダが大好きです。ウイキョウは、お乳をたくさん出してくれるそうです。エシャロットなど。ズッキーニはいためたりサラダにしたりきゅうりのつもりでよく食べました。アーティチョウクは面白い野菜です。ラディッシュはちょっと塩をつけてワインとよく合います。

大根は細く、小さく、表面の皮は真っ黒です。どうしても大根下ろしが食べたくて、買いいましたが、大根下ろしとしては使えませんでした。人参、じゃが芋はありますが牛蒡、レンコン、里芋、とろろ芋、など日本人の好きなやさいはありません。ショウガを買うのも大変でした。南瓜は日本の北海道南瓜が一番美味しいと言って売っていました(ちなみにドイツでは南瓜はホッカイドウと言うそうです)。5月になると白いアスパラガスが出てきます。大胆に皮をむいて茹でます。短期間しかないのでよく買いました。
11月になるとキノコ類が沢山でます。これが又、美味でした。レストランで何を注文したら言いか迷ったらシャンピニオンと書いてあったら間違いないと娘は言います。ポントワーズの八百屋さん、お嬢さん5人元気でしょうか一番上のお嬢さんは結婚しています。ご主人は私がまごまごお金をそろえるのをゆっくり待っていてくれました。
「魚屋さん」
日本の魚屋さんと違うのは魚屋さんで惣菜も売っています。そのお店で仕入れた魚を使ってピラフとがフライのような揚げ物、私達は魚スープをよく買いました。魚のあらや頭などで作ったスープで自慢の商品でした。新鮮な魚で作るのでくさくなく栄養たっぷりいつでもあるわけではないのでよく進めてくれました。ピラフも魚介類が豊富に入っていてとても美味しい味でした。考えてみれば仕入れた物を有効に調理して売るのですから合理的です。
クリスマスには必ず牡蠣を食べます。牡蠣は殻つきで売っています。フランスの牡蠣は一度疫病で全滅して広島からタネを買い養殖で増やしたそうです。パンにバター塗りレモンを絞った牡蠣をのせ、つるっと食べます。そしてワインなんとも贅沢です。でもこの牡蠣の殻むきが大変な仕事です。道具は一つしかないので四人分の牡蠣をひとりでむきます。娘の旦那さんはひとりで三十個ほどむきました。余計美味しい牡蠣でした。
殻つきの牡蠣とワインとアヴェマリア
「肉屋さん」
肉屋さんのショウケースには牛、豚肉の塊があるのはあたりまえですが、その他ウサギ、皮をむかれて一羽そのままの姿でのびてます。その他鶉など小さな鳥類、羊、鴨などよく食べます。鳥類はみな皮をむかれて並んでいます。肉屋さんも自家製加工品を売っています。パテやパイ、ハム、ソーセージはもちろんです。ソーセージの自家製もあるので、挽肉を買うと塩コショウの味付けになっていることもあります。挽肉はその都度、挽いてもらうのが普通です。鮮度はそのほうがいいと思います。
トゥルーズのソーセージは2メートルくらいあります。まるで蛇がとぐろを巻いて休んでいるようです。ソーセージ類はどれも美味しくよく買いました。ウサギも鶉も鴨もいただきました。臆せずこれらを料理する娘にはいつも感心していました。鳩はとても美味しいのだそうです。私は話だけでお腹いっぱいになりました。
生ハムも大好きです。これはポントワーズではチーズ屋さんにありました。チーズのお話に入れようと思います。
肉は塊で買って料理にあわせて肉を切ります。娘は知らない品物を見るとすぐその店の人に名前と調理法を聞きます。お店の人は丁寧に教えてくれます。時には居合わせたお客さんも一緒になってフランスの自慢料理を教えてくれます。大体がフライパンにオリーブオイルをたらし−−と、はじまります。皆得意になって何も知らない東洋人に親切です。
「パン屋さん」
パン屋さん は日本のお豆腐屋さんの感覚で、朝7時ごろは開店します。12時になるといったん店を閉め、また、四時近くになると夕食のため店を空けます。パンの種類、特に菓子パンは日本のようにたくさんはありません。せいぜいクロワッサンとレーズンやチョコの入ったパイ生地のパンくらいです。日本でいう四角いやわらかい食パンはありません。基本のバゲットは地方ごとに小麦粉の種類、製法が決められています。値段も法律で決められており、1本250グラム、80サンチームです。私にとってはバゲットはパンですが棒状のものという意味でお箸もバゲットでした。
ちなみにポントワーズでは、どのお店もお昼休みを4時間ほど取ります。(月曜日は全てお休み、町は静かになります。)赤ちゃんがお昼寝の間にちょっと買い物は出来ません。夕方も7時ころは全て閉まってしまいます。パリは観光客も多いので分かりませんが、ほとんどの地方ではこの時間帯が守られているようです。
「小学校と保育園」
フランスの教育制度は日本人にとってはとても複雑です。
フランスは移民を受け入れる国なので、いろいろな国の人々が生活しています。親がフランス語を話さない人たちもいます。その子供たちがフランスで
教育を受けるときに言葉の障害が出てきます。そこで学校へ入学してからの
遅れを少なくするために、二歳になると学校に行くことができます。
学校は日本のように義務ではないので、親の選択です。近くの学校、私立の学校、特殊な教育をする学校、そして学校へは行かせず、親が教育する。
これらは親の選択です。大学に入る資格を得るために一定の年齢になったとき大学入学資格試験(Baccalaureat)を受ければすみます。
日本の義務教育はあらゆる科目の教育がなされますがフランスでは特に運動、音楽の時間はありません。好きな子供は音楽教室。絵画教室、やりたい運動、など自分からしないとできません。それぞれが日本のように費用がかかるということはないようです。
保育園は乳児や幼児を預かる、日本のようなところですが小学校の低学年も、親の生活にあわせて預かってもらう時間を柔軟に決めることができます。時間が長くなれば昼食、おやつが準備されます。
子供を通わせている親の役目もいろいろあります。
我が子の誕生日にはお菓子(手つくり、市販のお菓子)など先生、友達のために届けます。
日本では子供たちの日ごろの成果を親に見てもらう、学芸会、運動会がありますが、この地域の学校ではバザーの日というのがあり、生徒たちの絵などの作品が額に入れられたり、親はその日のために
小物を作ったりクッキーを作ったり、売り物を提供します。子供の作品もちゃんと値段が付けられ親は
嬉々として我が子の作品を買い、子供たちもお菓子を買います。その収益が教材費になります。
課外授業は2歳でも子供向けの演劇を観にいきます。5歳になれば名画の鑑賞、観劇、それらの付き添いにも時には親も参加します。
「FUKUSHIMA 2011 3 11」
あの時からの東北の皆さんのことを考えると私たちの悩みなど米粒のようなものにちがいありません。
事故を知ったトウルーズの娘の家族は私たちに避難するようにといいました。娘のお友達も「あんたの家族くらい家に泊まれるよ」と応援してくれました。フランスは原発大国と言われますが、チェルノブイリも生々しく彼らの脳裏に収まっています。ですから今回も私たちよりたくさんの情報を得ていました。恐怖をあらわにしました。我々も孫たちを不安なくこの胸に抱きしめることが出来るのか孫たちが日本に来て空気に食べ物に「おいしいよ」と勧めることができるのか東京の孫たちに胸を張って安心と言えるのか大きな責任を感じずにはいられません。
フランスも安心とは言えません。トウルーズの銃乱射事件には子供たちに迫りくる恐怖を拭い去ることはできませんでした。
更新日:2011年6月10日
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