宇宙間の諸地球

 

地球見えない

 

 

 

 

1.他の地球に住む者たち

2.主は私たちの地球に生まれることを欲しられた理由・・・聖書が印刷されるため

3.それと同じように語り、現在も語っている者が、この地球の者ではないが、他に多くいる

4.霊らが天使たちがいる天界へ昇る時、彼らはたれ一人をも見はしない

5.『全地』について語った時は、全地球を意味しない

6.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.他の地球に住む者たち

 

 

他の地球に住む者たち

天界の秘義6695

 

 主の神的慈悲から私の霊の内部が開かれて、私は他生にいる者たちと、単にこの地球から来ている者のみでなく、他の地球から来ている者とも話すことが許されたため、それで、この他の地球から来ている者たちについて知ることを私は願ったため、また私の知ることを許された事柄は記すに価しているため、私はそれらを以下の諸章の終わりに述べることにしよう。私はこれらの幾多の地球に住んでいる者たち自身と話したのではなく、かつてその地球に住んでいた霊たちと天使たちと話したのであるが、それは単に一日または一週間ではなく、数ヶ月にもわたったのであり、彼らは何処から来ているかについては天界から明らかに教えられたのである。多くの地球が在り、その上には人間がおり、彼らから来ている霊たちと天使たちとがいることは他生では非常に良く知られているのである、なぜならたれでも彼らと話したいと願う者はすべてそのことを許されるからである。

 

 

 

2.主は私たちの地球に生まれることを欲しられて、他の地球に生まれることを欲しられなかった理由・・・聖書が印刷されるため

 

天界の秘義9350

 

 主が私らの地球に生まれて、人間的なものを着けられることを良しとされ、他のいかような地球にも生まれて、人間的なものを着けることを良しとされなかったことには多くの理由が在るが、それについては私は天界から知らされたのである。

 

 

 

天界の秘義9351

 

 その主要な理由は聖言のためであり、即ち、聖言が私たちの地球に書かれることが出来、書かれると、その時は全地球に遍く公刊されることが出来、一度(ひとたび)公刊されると、凡ゆる子孫のために保存されることが出来、かくて神は人間となられたことが他生の凡ての者にさえも明らかにされるためであったのである。

 

 

 

天界の秘義9352

 

 その主要な理由が聖言のためであったことは聖言は神的な真理そのものであり、それは神が在すことを、天界と地獄が在ることを、死後に生命が在ることを教え、また更にそれは人間が天界へ入り、かくして永遠に幸福になることが出来るためにはいかように人間は生きなくてはならないかを教えるためである。啓示がなくては、かくてこの地上に聖言が無くては、こうした凡ての事柄は全く知られなかったのである、それでも人間はその内なる人の方面では死ぬことが出来ないように創造されているのである。

 

 

 

天界の秘義9353

 

 聖言が私たちの地球上で書かれることが出来たことは、書く技術が最古代からここに在り、先ず木の板に、その後、羊皮紙に、後には紙に、遂には印刷してそれが公刊されることが出来たためである。このことは聖言のために主により供えられたのである。

 

 

 

天界の秘義9354

 

 聖言がその後この全地に遍く公刊されることが出来たのは凡ゆる国民が陸の旅によっても、また海路によっても、地球上の凡ゆる所へまでも交わることが出来るためである。それで聖言は一度(ひとたび)記されると、一つの国民から他の国民へと伝えられて、凡ゆる所で教えられることが出来たのである。こうした交わりが在ることもまた聖言のために主により供えられたのである。

 

 

 

天界の秘義9355

 

 聖言はひとたび書かれると、凡ゆる子孫のために保存され、従って数千年もの間保存されることが出来たことは知られている。

 

 

 

天界の秘義9356

 

 かくして神は人となられたことが明らかにされることが出来たことは、このことがそのために聖言が与えられた最初の、また最も本質的な事柄であるためである、なぜならたれ一人何らかの形の下で把握することの出来ない神を信じ、愛することは出来ないのであり、それで把握出来ないものを承認する者らはその思いの中では自然の中へ落ち込み、かくして何ら神を信じないからである(7211、9303、9315番を参照)。それで主はここに生まれて、このことを聖言により明かにすることを良しとされたことはそのことがこの地球に知られるようになるためのみでなく、この手段によりそのことがまた、天界へいかような地球からでも入って来る宇宙の凡ゆる者にも明らかにされるためであったのである、なぜなら天界では凡ゆる者の交流が在るからである。

 

 

 

天界の秘義9357

 

 主により天界を通して与えられた、私たちの地球上の聖言は天界と世とを結合させるものであることを知られたい(9212番を参照)、その目的のために聖言の文字における凡ゆる物は天界の神的なものに相応しており、聖言はその最高の、最も内なる意義では主を、諸天界と地上の主の王国を、主から発し、また主に対する愛と信仰とを、従って主から発し、また主における生命を取り扱っているのである。私たちの地球の聖言が読まれ、説かれもすると、こうした事柄が天界の天使たちに、その天使たちはいかような地球から来ていようとも、示されるのである。

 

 

 

天界の秘義9358

 

 他の凡ゆる地球では、この太陽系の幾多の地球に住んでいる者たちを取り扱った前の諸章で示したように、真理の神的なものは霊たちと天使たちとを通して口ずから〔口頭で〕明らかにされているが、しかしこれは氏族内で行われているのである。なぜなら大半の地球では人類はその氏族に従って離れて生きているからである。それで霊たちと天使たちとを通してこのように啓示された神的真理はその氏族を越えては遠く伝えられはしないのであり、新しい啓示が絶えず続いて与えられない限り、啓示されたものは歪められるか、死滅されるかしてしまうのである。私らの地球ではそうではない、ここでは聖言である神的な真理は永久にそのままに存続するのである。

 

 

 

天界の秘義9359

 

 主は、神を人間の形の下で承認し、拝する者を凡て、その者がいかような地球から来ていようとも、承認され、受け入れられることを知らなくてはならない。なぜなら人間の形を取られた神は主であられるからである。そして主は人間の形をした天使の形をとって諸々の地球に住む霊たちと天使たちから神は現実に人間であられることを聞くと、彼らはこの聖言を受け入れ、それを承認し、それがそうであることを喜ぶのである(7173番)。

 

 

 

天界の秘義9360

 

 すでに引証した理由に、私たちの地球の住民と天使とはかの巨大人の中で外なる身体の感覚に関係しており(9107番を参照)、外なる身体の感覚は究極的なものであって、その中に生命の内的なものは終結し、またその中にそれをその共通の容器として静止していることを附言してもよいであろう(5077、9212、9216番)。『聖言』と呼ばれている文字における神的な真理の場合も同じであり、それはそうした理由からまたこの地球に与えられて、他の地球には与えられなかったのである。そして主は聖言であられ、その聖言の最初のもの、またその最後のものであられるため、それで凡ゆる物が秩序に従って起るために、主はまたこの地球に生まれて、聖言となられることを欲し給うたのであり、ヨハネ伝の以下お御言葉に従っているのである―

 

 初めに聖言が在った、聖言は神と共に在った、神は聖言であられた。聖言は初めに神と共に在った。凡ゆる物はかれにより作られ、かれが無くては作られた物は何一つ作られはしなかった。そして聖言は肉となられて、私たちの間に住まわれた、私たちはその栄光を、父の独り児の栄光しての栄光を見た。たれ一人いかような時にも神を見てはいない、父の胸の中にいます独り児、その方が父を示されたのである(ヨハネ1・1−3、14、18)

 

『聖言』は神的真理を意味している。しかしこれは僅かな者にしか理解されない秘義である。

 

 

 

天界の秘義9361

 

 他の諸地球に住んでいる者たちは、神が人間的なものを御自身に取られて、それを神的なものとされ、かくて神は現実に人間であられることを聞く時喜ぶことは出エジプト記の最後の諸章に見られるであろう。

 

 

 

天界の秘義9362

 

 以下の記事に、出エジプト記の終わりに至るまでも、主の神的慈悲の下に星天の幾多の地球の住民、霊、天使たちについて記そう。

 

 

 

霊界日記4781

私たちの地球について、主はなぜここに生まれ給うたか、について

 

 

 

3.それと同じように語り、現在も語っている者が、この地球の者ではないが、他に多くいる

 

天界の秘義607[2]

 

 しかし今も尚世には知られていないで、恐らく信じるに困難であることは、最古代教会の人々は内なる呼吸を持っていて、単に無音の外なる呼吸しか持っていなかったということである。かくてかれらはその後のように、また今日のように、言葉では余り多く語らないで、天使たちの観念[考え]によって語ったのである。この観念を彼らは眼つきと顔の、特に唇の無数の変化により表現することが出来たのである。唇には無数の連続した筋肉の繊維が在って、それらは現今は自由にされてはいないが、しかしかの時代の人々のもとでは自由になっていて、彼らは現在口で言う音声や言葉では言うのに一時間も要するものを一分間で表現することが出来るほどにも、それらに[無数の唇の筋肉の繊維により]色々な考えを示したり、意味したり、表象したりすることが出来たのであり、しかもこのことを彼らは言葉により、または言葉を連続させて結合させることによって行うことが出来る以上にも完全に、また明白に行って、その場に居合わせている者たちに把握させ、理解させもしたのである。このことは恐らく信じ難いことのように見えるかもしれないが、それでもそれは真である。そしてそれと同じように語り、現在も語っている者が、この地球の者ではないが、他に多くいるのである。その者たちについては主の神的慈悲の下に今後述べよう。

 

 

 

天界の秘義607[3]

 

私はその内なる呼吸の性質とそれが時がたつにつれて如何ように変化したかを知ることが出来た。この最古代の人々は、彼らと同じ様に呼吸している天使達の持っているような呼吸を持っていたため、思考の深遠な観念の中にいて、記すことも出来ないような認識を持つことが出来たが、その認識をそれが真にあるがままに記すことが出来るにしても、それは把握することが出来ないため、信じられないであろう。しかし彼らの子孫の中にはこの内なる呼吸は徐々に終息し、恐るべき信念と幻想にとりつかれた者らのもとでは、それは彼らが思考のいかような観念もその最も下劣なものを除いては最早示すことが出来ない底のものとなり、その結果彼らは生き残ることが出来ないで、そのため凡ての者が絶滅してしまったのである。

 

 

 

天界の秘義608

 

 内なる呼吸が止んだ時殆ど現今の外なる呼吸に似た呼吸が徐々にそれに続いて起り、外なる呼吸と共に言葉の言語が起り、または思考の諸観念が決定づけられて生じたところの発音された音声の言葉が起ったのである。かくて人間の状態は全く変化し、最早人間は類似の認識も持つことが出来なくなって、認識の代わりに良心と呼ばれてもよい他の種類の指示を持つようなものとなったのである、なぜならそれは認識と現今の或る者に知られている良心との間の一種の中間的なもの[媒介的なもの]であったけれど良心に似ていたからである。そしてこのような思考の諸観念の決定が起った時、即ち、思考の諸観念がこのように話される言葉に決定づけられることが起こった時、彼らは最早最古代の人のように内なる人を通して教えられることが出来なくなり、外なる人を通して教えられたのである。それ故最古代教会の啓示の代りに、教義的な物が続いて起ったが、それは先ず外なる感覚により受け入れられることが出来て、そこから記憶の物質的な観念が形作られることが出来、その物質的な観念から思考の幾多の観念が形作られ、それによりまたそれに従って彼らは教えられたのである。ここから(最古代教会に)続いたこの教会は最古代教会の資質とは全く相違した資質を持ったのであるが、主がもし人類をこの資質に、またはこの状態に入れられなかったならば、何人も救われることが出来なかったのである。

 

 

 

4.霊らが天使たちがいる天界へ昇る時、彼らはたれ一人をも見はしない

 

主の聖言―経験から―(静思社『仁慈の教義』に併録)

P106

 

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彼らは以下のことをつけ加えた、即ち、たれ一人自然神学からは霊的な神学へ入ることは出来ないのであり、凡ゆる者は霊的な神学から自然神学へ入ることが出来るのである、それは後の入り方は神の秩序に叶ってはいるが、前のものは神の秩序に反しているためである、なぜなら自然的なものは粗悪で、不純であるに反し、霊的なものは精妙で、純粋であるからである。粗悪で不純なものから精妙で純粋なものへ入ることは与えられてはいないのである。しかし、逆に天使たちはその者たちの下を見下ろして、そこに在る物を凡て認めることが出来るに反し、たれ一人下からは諸天界に在る物を見ることは出来ないのである。実に、天使はその天使自身からは粗雑な霊は認めることは出来るが、しかしその霊はその霊自身からは純粋なその天使を認めることは出来ないのである。それで、しばしば起ることではあるが、このような霊らが天使たちがいる天界へ昇る時、彼らはたれ一人をも見はしないし、また彼らの家さえも見もしないで、そのためその所は人気が無くて砂漠である、と言って、立ち去ってしまうのである。

 

 

 

5.『全地』について語った時は、全地球を意味しない

 

天界の秘義1066

 

 「これらの者から全地に拡がった」。これはそれらから真のまた偽りの凡ゆる教義が由来したことを意味していることは『地』の意義から明白である。聖言では『地[大地]』または『地』は種々の意義に用いられている。普遍的な意義ではそれはカナンの地、ユダの地、イスラエルの地のように、教会が存在している、または存在していた場所または地域を意味している。かくてわたしたちが普通の言葉の中で知っているように、それは地がその地の中にいる人間について述べられているため、教会に属した者を普遍的に意味している。それで古代では人々が『全地』について語った時は、全地球を意味しないで、単に教会が存在した地のみを意味し、引いては教会そのものを意味したのであり、このことは聖言の以下の記事から明白である。イザヤ書には―

 

  見よ、エホバは地を空しくされる、地はまったく空しくなるであろう、地は嘆き、狼狽するであろう、地はまたその住民の下に汚されるであろう。そのため呪いは地を食いつくすであろう、それで地の住民はやかれ、人間は弱いままにすておかれるであろう。瀑布は高いところから開かれ、地の基は震える、地は全く砕かれる、地はことごとく解体された。地は甚だしく動かされた、地はよろめいて、よいどれのようによろめき、小屋のようにあちらこちらと動かされるであろう、その咎はその上に重くかかり、それは倒れて再び起き上がらないであろう(24・1、3−6、18・20)。

 

 ここの『地』はその中にいる人々を意味しており、事実教会の人々を、引いては教会そのものを意味し、また教会の荒廃した事柄を意味しており、それについて、それが荒廃すると[剥奪されると]それは『空しくなった』『甚だしく動いた』、『酔いどれのようによろめく』『あちらこちらと動く』『倒れて再び起き上がらない』と言われている。

 

 

 

天界の秘義1066[5]

 

聖言では『地』または『大地[地]』は教会を意味しているため、それはまた教会でないものを意味している。なぜならこのような言葉はことごとく相反した、または対立して意義を持っているからである。例えば異邦人の色々の地のようなものにはその意義があり、全般的にカナンの地の凡ゆる地にその意義があるのである。それで『地』はまた教会の外にいる民と人として考えられ、かくて外なる人として、その意志として、その人間自身のもの、その他のものとして考えられている。この言葉は全人類がその状態の方面で―それが教会の状態であるにしても、その状態の方面で―意味されている時を除いては、聖言では全世界の意味にはめったに用いられてはいないのである。そして大地[地]は土地を含んでいるものであり、土地もまた教会を意味し、土地は畠を含んでいるため、『大地[地]』という言葉は、多くの事柄を含んでいるため、多くの事柄を意味しており、その意味していることは、とり扱われている主題から―それはそれについてその言葉が述べられているものであるが、その主題から―明白になっているのである。この凡てからノアの息子たちがその上一面にひろがった『全地』により全世界が、または全人類が意味されているのではなく、教会に属した真の、また誤った教義がことごとく意味されていることが明白である。

 

 

 

6.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P94

 

 マリアよ、これからわたしは貴女の手を取り、ヨハネの書のいちばんわかりにくい箇所に案内する。注釈者たちは、この書物のなかの『大バビロン』が誰かを、自分自身に、また誰であれ群集に説明するため、多岐にわたる推論によってその能力を使い果たした。無関係ではなかった人間的見方で熱望された出来事、あるいは降り掛かった出来事によって刻印された衝撃は、多くの物事にバビロンという名前をつけた。

 

 だが彼らはどうして『大バビロン』が地球全体であるとは決して考えなかったのだろうか? もしわたしが、人間の住む世界としての地球しか創らなかったとすれば、わたしはまことに小さな限られた創り主なる神であろう! わたしはわたしの意志の一鼓動をもって無から無数の世界を起こし、それらを光り輝く粉塵のように、無限の天空のなかに投じたのだ。

 

 あなたたちがそこでかくも傲慢で、かくも残忍に振る舞っている地球は、無限の空間のなかで回転している無数の粉塵の一粒にすぎないし、いちばん大粒の粉塵ではない。しかし言うまでもなくいちばん腐敗している粉塵なのだ。澄んだ夜々に、あなたたちの目を楽しませる幾百万の世界に無数の生命が充満し、の完全さがあなたたちに現れるであろう時、あなたたちはふたたびと合体した霊魂の知的視覚をもって、この諸世界の驚異を見ることができるだろう。

 

 地球は、地上と地獄のすべての権力者と姦淫の罪を犯した大淫婦、また地球の住人たちは自分自身、すなわち肉体と霊魂を、地上のたった一日の勝利のために売ったのではないのか?

 

 そうだ、そういう事なのだ。地球とその住人たちが勝ち誇るために同盟を結んだとまったく同じように、地球の犯罪は冒涜の全名称を持っている。七つの罪は、地球と地球人たちをの牧草地に移動させるの頭上の戦慄すべき飾り物のようであり、隠喩的な数字の十本の角は、どんな代価を支払ってでも、その残忍な貪欲さが欲するすべてをせしめようとして成し遂げた無限の極悪非道を証明している。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P99

 

 わたしは雑巾、哀れなぼろぎれです。甘美さの中に浸る霊魂しかもっていません。

 イエズスはわたしに書き取らせながら、あのかたが地球というとき、それは塵と水の球体としてではなく、人々の結びつきとしての世界であることをわたしに分からせてくださいました。わたしがうまく説明しているかどうかは、わかりません。あのかたが言う地球とは、道徳的な実在を意味しており、地球と言うとき、それは野原や山や水から成る単なる惑星を意味しているとでも言いましょうか。前者には罪があり、後者には罪がないのです。

 

 殉教者たちの血は、それを涜聖的怒りをもって飲んだ(その住人たちにおいて)、またを畏れぬ地上的権力の濫用をもってそれを撒き散らした(国家権力において)地球に対して毒となったということを、前言に反することなく言えるのは、このためです。一方、エーテル空間の回転物体地球―球体は、殉教者たちの血を尊敬をもって飲み、彼らの断末魔のけいれんを愛をもって迎え入れ、殉教者たちの血が空しく撒き散らされたのではなく、彼らの苦悩がむなしくならず、彼らの正義が認められるようにと求めつつ、母性的な憐憫の情をこめてそれを代わる代わる永遠者に差し出すのです。