時の終り
日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられ(ダニエル12・11)/
1.スウェーデンボルグ
2.時の終わりが切迫している
3.今は時の終り
4.ヴァッスーラ
5.マリア・ワルトルタ
6.聖母から司祭へ
7.デボラ
8.教会の最後のときに栄える教義
9.王国の福音は凡ての国民に証として、人の住む全地に宣べ伝えられるであろう
ルカ21・9−19
戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
黙示録3・10
あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
1.スウェーデンボルグ
天界の秘義3353
最後の審判が来ると、この目に見える世界の凡ゆる物は破壊され、地は火に焼き尽くされ、太陽と月とは消滅するであろう、星は消え去るであろう、その後新しい天と新しい地が起るであろうと大半の人間は信じている。彼らはこうした意見をこのような事柄が記されている予言の啓示から考えついたのである。しかし実情はそれとは非常に相違していることは最後の審判について前に示したところから認めることができよう(900、931、1850、2117−2133番)、そのことから以下のことが明らかである、即ち最後の審判は一つの国民における教会の終わりと他の国民における教会の初まり以外の何ものでもなく、この終わりと初まりとは主が最早承認されない時、即ち、それと同一のことではあるが、信仰が存在しない時、起るのである。仁慈が存在しない時、承認は無いし、または信仰は無い、なぜなら信仰は仁慈の中にいる者たち以外のもとには在り得ないからである。このような時に教会の終わりが来て教会は他の者へ移されることは、主がその最後の日、または代の終末について福音書に教えられまた予言された多くの事柄から明白である(マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章)。
天界の秘義3353[2]
しかしこれらの記事は内意であるところの鍵がなくてはたれからも把握されることが出来ないものであるため、私はその中に含まれている事柄を秩序正しく明らかにしよう、先ずここではマタイ伝の以下の言葉から始めよう―
弟子たちは秘かにかれのみもとに来て、言った、私たちに教えて下さい、これらのことは何時起こるのでしょうか。あなたが来られるしるしは、また代の終わりのしるしはいかようなものでしょう。イエスは答えて彼らに言われた、たれもあなたたちを迷わさないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名において来て、わたしがキリストであると言って、多くの者を迷わせるでしょう。そしてあなたたちは戦いと戦いとの噂を聞くでしょう。心を乱されないよう気をつけなさい。なぜならこれらの事は必ず起こらないわけにはいかないからである。しかし終わりはまだ来ません。なぜなら国民は国民に反抗し、王国は王国に反抗して奮い立ち、色々な所に飢きん、疫病、地震が起るからである。しかし凡てこれらの事柄は悲しみの始まりである(24・3−8)。
文字の意義に止まっている者はこの章のこれらの事柄とまたその後に言われている事柄とはエルサレムの滅亡とユダヤ民族の四散とについて語られたものか、または最後の審判と呼ばれる諸々の日の終わりについて語られたものであるか、否かを知ることは不可能であるが、内意の中にいる者たちは教会の終わりがここにとり扱われていて、その終わりがここにまた他のところに主が来られることと代の終わりと呼ばれているものであることを明らかに見るのである。そしてこれが意味されている終わりであるため、これらの表現はことごとく教会の幾多の事柄を意味していることを知ることが出来よう、しかしそれらのものの意味していることはその幾多の事柄の内意から明らかとなるであろう、例えば『多くの者はわたしの名において来て、わたしがキリストであると言って、多くの者を迷わせるであろう』と言われている時であるが、しかしそこでは『名』は名を意味しておらず、『キリスト』もキリストを意味しておらず、『名』は主を拝する手段となるものを意味し(2724、3006番)、『キリスト』は真理そのものを意味しており(3009、3010番)、かくて、『これが信仰の事柄である』または『これが真理である』と言う者が来るであろうが、それでもそれは信仰の事柄でもなく、真のものでもなく、誤っているものであることが意味されているのである。彼らは『戦いと戦いの噂を聞くであろう』は真理について論争と争いとが起って、そのことが霊的意義における戦いであることを意味している。
『国民は国民に、王国は王国に反抗して奮い立つであろう』は悪は悪と、誤謬は誤謬と戦うであろうということを意味している。(『国民』は善を意味しているが、しかしその対立した意義では悪を意味していることは前の1259、1260、1416、1849番に見ることが出来、また『王国』は真理を意味しているが、その対立した意義では誤謬を意味している(1672、2547番)。
『飢饉と疫病と、地震が色々な所に起るであろう』はもはや善と真理とは承認されなくなり、かくて教会の状態は変化し、そのことが『地震』であることを意味している。
2.時の終わりが切迫している
天界の秘義2126
さらに今教会の中にいる者らは仁慈そのものにいかに対立しているかが表象された。一人の美しい無垢な小さな子供が現れた。これを見ると、魔鬼と悪霊とを忌まわしい行為から抑制している外なる束縛がやや緩められた、すると彼らはその小さな子供を最もむごたらしい方法であしらい始めたのである、即ち、各自さまざまの方法で、その子供を踏みにじり、彼を殺そうと欲し始めたのである、なぜなら他生では仁慈は幼児により表象されるからである。私はこうした人間についてはその者らの身体の生命の間ではそうしたことは現れはしないことを語ったが、しかしそうしたものが彼らの内部であり、もし民法により、また財産を、名誉を、名声を、生命を失いはしなかとの恐れといった他の外なる束縛により妨げられないなら、彼らは無垢であるすべての者に向って同じように猛り狂って飛びかかるであろうと答えられたのである。今言ったことから私たちは現今の人間の性質はいかようなものであるかを、また最後の時が切迫していることを認めることが出来よう。
・征服しようとする意図
天界の秘義6666
「エジプト人はイスラエルの息子たち[子孫]を仕えさせた」(出エジプト記1・13)。これは征服しようとする意図を意味していることは以下のことが明白である、即ち、『仕えさせること』の意義は征服であり、ここでは彼らが征服しようと絶えず努力しているが、しかし善に決して勝利を得ないため、征服しようとする意図であり、『エジプト人』の意義は教会の諸真理に対立した分離した記憶知であり(6651番を参照)、『イスラエルの息子たち』の意義は教会である(6651番を参照)。ここから『エジプト人はイスラエルの息子たちを仕えさせた』により、教会の諸真理に対立した分離した記憶知の中にいる者による征服しようとする意図が意味されていることが明白である。
・ 善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したもの
天界の秘義6666〔2〕
地獄から来ている悪い者のもとに存在しているような、征服しようとする意図については、私はまた以下のことを知ることが出来たのである。善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したものである、なぜなら彼らは凡ゆる悪意、凡ゆる狡知と詐欺、凡ゆる欺瞞と凡ゆる残忍とを用い、それらはもしその一部のみを語るにしても、世では殆どたれ一人それを信じることも出来ないといった性質を持った凄まじいものであり、その術策たるや実に狡猾と技巧と呪詛とに満ち満ちたものである。約言すると、これらの奈落の者はこれにはいかような人間も、実に天使すらも到底抵抗できはしないし、ただ主のみがこれに抵抗されることが出来るといった性質のものである。彼らがこうした努力と意図に取りつかれている理由は、彼らの生命の歓喜の一切は、かくて彼らの生命そのものは悪を為すことに在り、それでそれ以外のことは彼らの思いを占めておらず、従って彼らはそれ以外何事も意図してはいないということである。彼らは善いことを行うことには反感を覚えているため、そのことは全く出来ないのであり、もし善いことを行うなら、自己のためであり、かくてそれは自己のために為されるのである。
・最後の時が切迫しているしるし
天界の秘義6666〔3〕
こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大しているが、それは狡猾、詐欺、憎悪、復讐、姦淫のためであり、そうした悪は教会内では他の所よりもはびこっているのである、なぜなら教会内では狡猾は今や利口なこととして、姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議を差し挟む者は嘲笑されてしまうからである。現今教会内でそのようなことが行われていることはその最後の時が切迫しているというしるしとなっている、なぜならマタイ伝24・22の主の御言葉に従って、『終わりが無いなら、たれ一人救われない』からである、なぜなら悪はことごとく丁度酒のおりが塊まりに染み込み、かくて遂に凡てのものに染み込むように、伝染し、染み込むからである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P108
‘90・1・31
あなた方の多くは沢山の印を見て来ました、これらの印は気づくべきもので、時の終わりの印です、世の終わりの印ではなく、ある時代の終わりなのです ♡ 愛と平和の時代に入れるように イエスと私はあなた方皆を準備しています。 それは大昔に約束されていた 新しい天と新しい地です。 ゆえに清めの日が訪れる前に 改心するようにと懇願します、時が差し迫り はっきりと申しますが 選ばれた霊魂たちを通して話していたすべては ♡ ファチマの時から今日にいたるまで ♡ この世代が過ぎ去る前に実現するからです
3.今は時の終り
天界の秘義3398[4]
これがまた彼らのもとにはいかような善も残らなくなり、自然的な善すらも残らなくなるまでは主は来られて、聖言の内なる物を啓示されなかった理由である、なぜなら彼らはその時は(真理を受けるものは善であるため)いかような真理をも内なる承認をもってもはや受けることが出来ず、それでそれを冒涜することが出来なかったからである。こうしたものが予言者の書の中に再三取り扱われている『時が満ちる』により、『代の終わり』により、また『最後の日』により意味されている状態であった。聖言の内意のアルカナが今啓示されつつあるのも同じ理由のためである。なぜなら現今ではいかような仁慈も存在しないため、かくて今は代の終わりであるため、殆どいかような信仰も存在しないからであり、こうしたことが現実に起ると、これらのアルカナは内的には承認されないため、冒涜の危険を伴わずに啓示されることが出来るからである。
天界の秘義3761
成人期になって再生されつつある人間は本章と本章以後の幾多の章の内意に記されている秩序に応じて進んで行くことは、僅かな者しかそのことを考察しないし、また現今僅かな者しか再生されることが出来ないという理由から、僅かな者にしか知られていない。なぜなら今はもはやいかような仁慈もなく、従っていかような信仰も存在しない教会の最後の時であり、それがそうであるため、たとえ人間は信仰により救われると凡ての者から言われてはいるものの、信仰とは何であるかさえも知られていないからである。ましてや仁慈とは何であるかは知られてはいないのであり、この二つのものは単に言葉として知られているのみで、その本質については知られていないため、そうした理由から、僅かな者しか人間が新しくされ、または再生される秩序を反省することが出来ないのであり、また僅かな者しか再生することが出来ないのである。
基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいないのは、彼らが信仰を教会の本質的なものとして、仁慈をその本質的なものとしていないためである。従って信仰に関心を持っている少数の者は仁慈については例え考えるにしても殆ど考えはしないため、またはその何であるかも殆ど知らないため、それで知識がないため、仁慈のものである情愛も認識されることは出来ないのであり、仁慈の情愛の中にいない者は霊的なものの何であるかを到底知ることは出来ないのである。特にこのことは、殆どたれ一人何ら仁慈を持っていない現今に言われるのである、なぜなら今は教会の最後の時であるからである。しかし全般的な意味では『霊的なもの』は善のみでなく真理に対する情愛を意味しており、それゆえ天界は霊界と呼ばれ、聖言の内意は霊的意義と呼ばれているが、しかし特定的には善に対する情愛のものであるものは天的なものと呼ばれ、真理に対する情愛のものであるものは霊的なものと呼ばれていることを知らなくてはならない。
天界と地獄311
天界と地獄とは人類から発していることは基督教世界では全く知られていない、なぜなら天使たちは始めから天使として創造られて、彼らにより天界が形作られ、悪魔または悪鬼は光の天使ではあったが、叛いたために、その一味とともに投げ落されて、彼らから地獄が形作られたと信じられているからである。天使たちは、基督教世界にこうした信念があることを非常に怪しみ、さらに天界については―それが教会の教義の主要な事柄であるのに―全く何事も知られていないことを怪しんでおり、そしてこうした無知が遍く支配しているため、彼らは、今や主は天界について、また地獄について多くの事柄を明らかにされることを良しとされ、かくして、教会がその終末に達したために日増しに増大しつつある暗黒を、為し得る限り散らされることを良しとされたことを心に喜んでいる。
然し、我々の或る者は天界より照示され、そのことによって現今基督教界には何等宗教が無いために、最早如何なる教会も無いことを示されました。
真の基督教757
「現今は、主が福音書並びに黙示録に予言し、また示し給うた基督教会の最後の時である。」
真の基督教846
聖言に基礎づけられ、今やその終りに在る基督教会が再び生き、その霊を主により天界を通して新たにするためにそのことが行われたのであると彼らは語った。
結婚愛80
天使は言った、『それは現在の宗教でも同じです。なぜなら主は以下のように言っていられるからです―
代の終わりにダニエルに言われた荒らす憎むべきものが起こるであろう。そして世のはじめからこれまでになかったような大きな苦しみが起こるであろう(マタイ24・15、21)。
「荒らす憎むべきもの」とは凡ゆる真理が誤謬化されることとそれが失われることを意味しています。「苦しみ」は悪と誤謬とにとりつかれて悩まされる教会の状態を意味し、こうしたことが言われている「代の終わり」は教会の最後の時、または終わりを意味しています。その終わりは今です。それは誤謬化されないで残っている真理は一つもないからです。そして真理を誤謬化することは霊的な姦通であって、それは自然的な姦通と一つのものとなって働きます、なぜならその二つは密着しているからです』。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P37
‘88・9・27
愛する被造物よ、あなた方は時の終わりを生きている、この時代には、自らの邪悪な 偽りの教義につき従えるように、宗教を鼻であしらい、預言の霊をしいたげ、幻視者を嘲笑う人びとがいるであろうと 知らせてきた。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P149
ヴァッスーラ:
私たちにふりかかる懲罰は、私たちが呼び寄せたものです。神は懲罰をお好みにはなりません。私たちが、神の義を挑発しているのです。神は愛と慈悲の神であると同時に、義の神でもあることを忘れるべきではありません。時の終りは、世界の終末を意味しているわけではありません。そうではなくて、私たちを誘惑する自由がサタンに与えられている時代の終りのことです。この時の終りの時代に、イエスは聖書のダニエルの預言書の封印を解いて、明らかになさいます。というのも、それは現在起きていることだからです。そればかりか、黙示録のいくつかの章の封印もお切りになりました。ダニエルとエゼキエルの預言書と黙示録には一致する点があります。ダニエルの預言書の獣―敵である獣―は、黙示録の13章にも見られますが、現在ではイエス・キリストの教会を破壊し、とりわけ聖体拝領を廃止して、イエスは単なる預言者、賢人にしようともくろんでいる棄教者と反逆者を意味しているといえそうです。イエスはいつか私に、地上での御自分の王国は教会であり、聖体拝領は教会の生命だとおっしゃいました。イエスが三位一体の第二のペルソナであることをもはや認めないことで、これらの棄教者たちは、イエスの神性を迫害しています。彼らはイエスが神の御独り子だということ、神御自身であることを否定し、イエスの復活を否定して、それは単なる象徴的なものにすぎないと見なしています。イエスは私たちに、時の終りの時代である今、反逆は始まっているが密かに行われていて、それを制止する者は、反逆が公然と明らかになる前には、身を引いているべきだとおっしゃっています。反逆を制止する者とは、教皇のことだそうです。イエスは私たちに、毅然として、教えられてきた伝承を守るようにおっしゃってます。
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P169
ヴァッスーラ:イエスはメッセージの中で、教皇をご自分の教会の代理人とお呼びになっています。私はカトリックのサークルに呼びかけをする時は、主のメッセージをそのまま伝えます。イエスはカトリック信者に、教皇に盲目的に従いなさいとおっしゃっています。なぜ教皇に従わなければならないかというと、不服従は神からのものではなく、サタンから出たものだからです。ギリシャ正教徒の私が、このようなことを申し上げるものですから、びっくりなさり、なぜカトリックに改宗していないのかと尋ねにくる方もいらっしゃいます。この方々は教皇の回勅がギリシャ正教徒に対して、カトリック教徒になれなどとはまったく求めていないことに耳を傾けもしないし、それを読んだこともないのですね。教皇は東方正教の諸教会を姉妹の教会と呼んでおられます。「来て私たちと一緒になりましょう。体は一つの肺だけでは呼吸できません。二つの肺が必要なのですから」。
ネランク:それはヨハネ・パウロ2世が好んで用いる表現ですね。
ヴァッスーラ:ですから私は「教皇のおっしゃることに従いなさい」と申し上げています。私はといえば、教皇と、教会一致運動を信奉する東方正教会の総主教バルトロマイ1世がおっしゃったことに従います。イエスも、教皇と同じ言い方をなさっています。「一つの体に属する二本の手は、祈りの時のように、結ばれなければならない」。体は、二本の手で仕事をします。一方の手をないがしろにして、片手だけで働くことはできません。
ネランク:ということは、キリスト教会が統合されても、東方正教会、イギリス国教会、ルター派教会というカトリックに最も近い教会が、ローマに従属するような統合ではない。各教会は、個々の組織と典礼を保持しながらも、ローマに結ばれることになるのですね。
ヴァッスーラ:私はローマ・カトリック教会の姉妹である、東方正教会の代りにお答えすることはできます。それ以外の教会は、神聖な秘跡を執行していないからです。イエスはメッセージの中で、聖体拝領の秘跡は、教会の生命の礎だという事実に立ちもどっておられます。イエスは、教会が精彩を欠いているのは、多くの教会が永続的なミサ聖祭の典礼を廃止したからだとおっしゃっています。イエスは、まず「心の一致です」とおっしゃいます。それは一致のための外部での運動というより、むしろ内面の動きです。イエスがおっしゃりたいのは「回心において、あなたがたは一致するだろう。回心においてあなたがたは一つとなって栄えるだろう」ということです。それは機構の変化よりも、心の内面の本質的な変化です。キリスト教徒が自らの行いを悔い改めもせず、イエスを愛することもしないかぎり、全教会の一致は不可能です。最近ルンドベルク牧師からストックホルムに招かれ、聖カタリナ教会を訪れました。この方の言葉がとても印象に残っています。「私たちは聖母マリアの位置を過小評価し過ぎたという、重大な過ちを冒しました。聖母ははかり知れないほど大きな役を果たしてこられたことに、私たちは今気が付いたところです」と。ルンドベルク牧師の教会に入ると、私が講演する場所の前には、聖母マリアの像が置かれていました。教会にはルター派とカトリックの信者が大勢いらしていました。私は神からのメッセージを伝えました。証言を終えると、牧師はとても感動してくださり、皆さんの前で贈り物をしてくださいました。それは幼子イエスを抱く聖母マリアの像でした。本当に感動いたしました。そして、聖母マリアの聖像の問題にはきわめて厳格な態度をとってきたルター派の人たちが、なぜこれほど変化したのか質問してみました。集会にいらした信者の一人が、変化は信者の中から生まれたものだと答えてくださいました。強い欠乏感があり、一致を望んでいるのです。皆さんが『神のうちの真のいのち』のメッセージを通して希望を見いだしているのです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P37
‘88・9・27
愛する被造物よ、あなた方は時の終わりを生きている、この時代には、自らの邪悪な 偽りの教義につき従えるように、宗教を鼻であしらい、預言の霊をしいたげ、幻視者を嘲笑う人びとがいるであろうと 知らせてきた。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P80
‘88・12・3
ちょうど、自らの友により不具となってしまった、乞食のようにして、懇願する、皆ペトロのもとに立ち帰り 一つとなりなさい、父と私が一つであるように ♡ 母を拒むすべての人にも呼びかける(*)、耳を開いて聞くように、母は天の元后、神の母と呼ばれている。 知らなかった人びとを非難してはいない、真理に連れ戻そうとしているだけだ。 この世の改心のためにも呼びかける、私の全能を忘れてしまった人びとは 私を自らと比較しないように(**)、皆に思い出させているが、あなた方は時の終わりに生きている それで我が印も増えてきた・・・ 聖書が成就されつつある・・・ 私は平和と愛、私、あなたの主イエスは 慈しみに満ち溢れ、そう、我が慈しみは偉大。 我が慈しみを信じなさい、それでもなお、私が義の神であるのを決して忘れないように。 私の送る浄めは、愛によってなされる。 これを誤解したり 解釈を誤って 神からの脅し とは呼ばないように、脅しからではなく、愛を込めて警告している。 子に注意を与え、道理を説いて、家に帰らそうとする父親のように、私も、道理を説き あなた方のある者たちが いかに誤っており 道を逸れているか、罪によって我が光を妨げ得るかを 示そうとしている。 多くが深い眠りに陥っているために、起こしに来た。 我が限りない慈しみを通して、死者を甦らせに 皆のもとを訪れよう、あなた方皆に抱く限りない愛ゆえに、悔い改め 生き方を変えて 聖となるようにと、来て頼んでいる、私は聖であるから、聖なる生き方をしなさい ♡ 私の平和を与える、あなたが平和のうちに留まり 兄弟にもこの平和を分け与えられるように ♡ さあ 来なさい、この一年の終わりに当たって 祈りのうちに気を落ちつかせていなさい、来て 主である私があなたを愛するように 互いに愛し合いなさい。 あなた方一人ひとりに 祝福を与える ♡
*プロテスタントの人びと
**今日の神の御わざを理性で推し量ろうとする人びと。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P108
‘90・1・31
あなた方の多くは沢山の印を見て来ました、これらの印は気づくべきもので、時の終わりの印です、世の終わりの印ではなく、ある時代の終わりなのです ♡ 愛と平和の時代に入れるように イエスと私はあなた方皆を準備しています。 それは大昔に約束されていた 新しい天と新しい地です。 ゆえに清めの日が訪れる前に 改心するようにと懇願します、時が差し迫り はっきりと申しますが 選ばれた霊魂たちを通して話していたすべては ♡ ファチマの時から今日にいたるまで ♡ この世代が過ぎ去る前に実現するからです、愛する子どもたちよ、私どもの現存も一つの神秘です それを覚えておくように あなた方は決して独りではないと いつも覚えておいて下さい ♡ 絶え間なく 心を込めて祈ることを学び、断食と 償いをするようになさい。 月に一度は告解しに行くようになさい。 倦むことなく善いことを行い それを他人のために実践なさい。 主の掟を生きるように。 愛しています、子どもたちよ、そして愛ゆえに あなた方が主と出逢う準備をしているのです。 一人ひとりを祝福します。 私どもの平安をもって あなた方の家にお入りなさい そして私どもも一緒だということを決して忘れないように ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P98
分かるか、娘よ、今の時代は我が預言者、ダニエルが、語った忌むべきことを犯そうとたくらんでいる。それは恐怖すべきことを行おう。御父の憤りがどうして燃え上がらないでいよう? 御父は、聖ミカエルと同様、独り子が踏みにじられ、地面に投げ倒される眺めは 忍ばれないー聖ミカエルとその軍団が立ち上がるであろう。
5.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P358
それは光りがこの世に来たと知らせるためでした。しかし、今度のニーザンのときは、天地にしるしが現れ、この世は闇と地震に揺れ動き、世の終わりと見えるでしょう。ところが、それは終りではなく、始りです。最初私が来たときには、神の御業によって救い主が生まれたことを知らせ、大きな平和がありました。ニーザンのときには、地が自分の救い主を“生み”ます。それは人間の業であって、平和が伴うことはありません。いや、むしろ恐るべき混乱があるでしょう。地は神の怒りの稲妻に打たれ、気違いの産婦のように、呪われた子だと思い込んで我が子を殺すように見えますが、実はそうではなく、その子をもはや苦しみと災いが届かない所まで、上げるということも分からなくなるでしょう。それを理解するには、あまりにサタンに捕らわれ狂っているからです。木、新しい木は、そのとき代々全地に枝を広げ、あなたたちに話している者(キリスト)が愛、あるいは憎みをもって、神の真の子、主のキリストとして認められるでしょう。そして認めても告白しようとしない、私に回心しようとしない人々は災いです。
(中略)
真理を望んでいるすべての人々にとって、一つの民、唯一の神殿、唯一の信仰になるでしょう。
6.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1979.1.28
こうして、ついには、カトリックの信仰の土台となっている真理そのものまでも、くつがえしてしまうことになるのです。
これらの真理をあからさまに否定するのではありませんが、あいまいなしかたで受け取っています。そのために、教義に関して、かつてなかったほどの誤謬と非常におそろしい妥協をしてしまいました。
まだ、いくらか話したり議論したりもしますが、もう信じていません。迷いの暗闇は、広がっていくばかりです。
混乱が教会を支配し、その真理をくつがえそうとしていること自身、教会の清めのときが来たという確かなしるしです。
事実、教会は、あなたがたのあいだに神秘的に生きておられるキリストなのです。
キリストこそ、真理です。だからこそ、教会は、真理そのものであるキリストの光でいつも輝いていなければなりません。それなのに、敵は、その狡猾なだましの手を使って、とうとう教会の中に多くの暗闇をしのびこませるのに成功しました。もう、今日では、教会はサタンの煙でくらくなっています。
サタンがまっ先にやってのけたことは、私の多くの子らに傲慢と、うぬぼれを注いで、かれらの知恵と思想をくらませ、かれらの手で教会をくらませてしまいました。
天の母として、愛する子らよ、私があなたがたを、この汚れなき心の使徒として召し出したのは、今日のためです。すなわち、こうした事情のためだったのです。
あなたがたが召されているのは、すべての人が真理をますます喜んで迎えることができるように、あなたがたの言葉と手本で、悪と戦うためです。こうして、あなたがたの光によって、混乱のこの暗闇も敗北させられるのです。
あなたがたは、私のおん子イエズスの福音を文字通り、生活に実行しなければなりません。
あなたがたは、生きた福音以外の何ものであってもなりません。福音を、力と勇気をふるって、すべての人々に告げるのです。こうすれば、やがて、あなたがたに聖霊がみちあふれ、あなたがたの言葉は、聖霊の力と、あなたがたの天の母から受ける知恵の光によって、輝きわたるでしょう。
聖母から司祭へ/1992.12.31
<時の終わり>
(前略)
―第四のしるしは、キリストにそむく者、すなわち、偽キリストによってなされる“あらす者のいとわしき者”[つまり恐ろしい涜聖]です。偽キリストは、神の聖所に入り、その玉座に座って、自分自身を神であるかのように礼拝させるでしょう。
「反逆者は自分を神として示し、神ととなえられるもの、崇敬される者の上に自分をたてるだろう。不法の者は、サタンの力に従ってあらわれ、偽りの奇跡と不思議とをすべて行い、[亡びのために、]あらゆる不義のまどわしを使うだろう。」(テサロニケ後・4,9−10)
「いつか聖所に恐ろしい涜聖を犯す者を見るだろう。預言者ダニエルがいった“あらす者の、いとわしき者”が聖所に立つのを見たら、読む人はさとれ」(マタイ24・15−16)
最愛の子らよ、この恐ろしい涜聖が何ものであるかを理解するために、預言者ダニエルによって予言されたことを読みなさい。
「ダニエル、行け、このことばは、終わりの時まで秘され、封じられているからである。おおくの人は、ためされ、白くされ、清められる。悪人は、悪を行う。悪人は、なに一つさとらないが、知恵者は、さとる。日々のいけにえが廃止され、荒廃のいとわしいものが、そこに置かれる時から数えて、1290日が経つ。それに耐えて、1335日にいたるものは、しあわせである。」(ダニエル12・9−12)
“日々のいけにえ”とは、ミサ聖祭がいたる所に、日の出る所から日の沈む所まで捧げられる清いそなえもののことです。
ミサのいけにえは、イエズスが、カルヴァリオ山上で行われたいけにえを新たにします。
プロテスタントの教えをうけ入れるとしたら、ミサがいけにえではなく、ただの聖なる晩餐、つまり、イエズスが、最後の晩餐のときに行われたことを記念するにすぎない、と人々はいうようになるでしょう。こうして、ミサ聖祭を捧げることが廃止されるでしょう。日々のいけにえを廃止することこそ、偽キリストが行う恐ろしい涜聖です。これは、約三年半、つまり1290日間続くでしょう。
7.デボラ
生ける神より明かされた英知/1巻下P74−75
デボラ:「お父様、何人かの神父様方は、聖書によっておおやけの啓示は終わったと私に言われました。このことについてあなたはどうおっしゃいますか?」
イエズス:「書きなさい、書きなさい、わが魂よ。『私が肉体をもって地上に生きていた限り、私はもはやしるしはないであろうと約束した。しかし、私が父の元にいる今、私のしるしは地上にあるのみでなく、それはさらに二倍、三倍に増すだろう。なぜなら父親は、自分の子どもたちを孤児にして残すことはできないからである。さらに現代は、私の存在が不可欠となる『時のうちの時』だからである。さもないと、私の敵が、今まで決して彼らのものではなかったものについてまで、所有権を獲得するからである。
私は、取り消すことのできない言葉を有している。生ける神の子である私の無限の憐れみを、あらゆる時に用いたいのである。』
私に信頼しなさい。そうすればぐらつくことはない。あなたは山のようでありたいと思わないか?」
8.教会の最後のときに栄える教義
天界の秘義2371
これが、教会が消滅し始めつつある[教会の]最後のときに栄える教義であり、またそれが熱烈に教えられて、喜んで受け入れられもするのである。
9.王国の福音は凡ての国民に証として、人の住む全地に宣べ伝えられるであろう
天界の秘義3488[8]
王国の福音は凡ての国民に証として、人の住む全地に宣べ伝えられるであろう。
このことはこれが先ず基督教世界に知られるようにならねばならないことを意味し、『宣べ伝えられるであろう』は、それが知らされなければならないことを意味し、『この王国の福音』は、それがそうであるというこの真理であり、『福音』は告知であり、『王国』は真理であり(『王国』は真理を意味していることは前の1672、2547番に見ることが出来よう)、『人の住む全地に』は基督教世界を意味している(『地』は教会が在る領域であり、かくて基督教世界であることは、前の662、1066、1067、1262、1733、1850、2117、2118、2928、3355番に見ることができよう)。ここの教会は信仰の生命から、すなわち、真理のものである善から『人が住む』と呼ばれている、なぜなら内意では『住むこと』は生きることを意味し、『住む人』は真理の善であるからである(1293、2268、2451、2712、3384)、『証として』は、彼らが知るように、また自分たちは知らなかったという口実を設けないように、を意味し、『凡ての国民に』は、幾多の悪に、を意味している(1259、1260、1849、1868、2588番)、なぜなら彼らが誤謬と悪との中にいる時は、彼らは真のものと善いものとは最早知らなくなり、その時誤謬は真理であり、悪は善であり、またその逆に真理は誤謬であり、善は悪であると信じ、教会がこうした状態にいるとき、その時終りが来るからである。今以下に記されている事柄と主の神的慈悲の下に創世記の次の章の序言に明らかにされる事柄との中に、第三の状態であるところの『荒らす憎むべきもの[荒れすさばせる忌まわしいもの]』と呼ばれる教会の状態が取扱われている。