ダニエル
時の終り/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
4.ヴァッスーラ
5.聖母から司祭へ
1.聖書
ダニエル12・9−13
彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」
マタイ24・15−16
予言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義3488[8]
王国の福音は凡ての国民に証として、人の住む全地に宣べ伝えられるであろう。
このことはこれが先ず基督教世界に知られるようにならねばならないことを意味し、『宣べ伝えられるであろう』は、それが知らされなければならないことを意味し、『この王国の福音』は、それがそうであるというこの真理であり、『福音』は告知であり、『王国』は真理であり(『王国』は真理を意味していることは前の1672、2547番に見ることができよう)、『人の住む全地に』は基督教世界を意味している(『地』は教会が在る領域であり、かくて基督教世界であることは、前の662、1066、1067、1262、1733、1850、2117、2118、2928、3355番に見ることができよう)。ここの教会は信仰の生命から、すなわち、真理のものである善から『人が住む』と呼ばれている、なぜなら内意では『住むこと』は生きることを意味し、『住む人』は真理の善であるからである(1293、2268、2451、2712、3384)、『証として』は、彼らが知るように、また自分たちは知らなかったという口実を設けないように、を意味し、『凡ての国民に』は、幾多の悪に、を意味している(1259、1260、1849、1868、2588番)、なぜなら彼らが誤謬と悪との中にいる時は、彼らは真のものと善いものとは最早知らなくなり、その時誤謬は真理であり、悪は善であり、またその逆に真理は誤謬であり、善は悪であると信じ、教会がこうした状態にいるとき、その時終りが来るからである。今以下に記されている事柄と主の神的慈悲の下に創世記の次の章の序言に明らかにされる事柄との中に、第三の状態であるところの『荒らす憎むべきもの[荒れすさばせる忌まわしいもの]』と呼ばれる教会の状態がとり扱われている。
天界の秘義3652[2]
予言者ダニエルにより話されたところの
は、内意では、いくたの予言者たちによって、を意味している。なぜなら聖言にたれか予言者の名が言われているところでは、意味されていることはその予言者ではなくて、予言的な聖言そのものであるからであり、それは名は決して天界には浸透しないためであり(1876、1888番)、それでも予言者の名が異なることによって意味も異なってくるのである。『モーセ』と『エリヤ』と『エリシャ』により意味されていることは第18章の序言と2762番に見ることができようが、しかし『ダニエル』によっては主の降臨にかかわる、また教会の状態にかかわる、現在の場合では、その最後の状態にかかわる予言的な凡ゆる事柄が意味されているのである。剥奪の主題は予言的に詳細に取扱われており、それによって文字の意義ではユダヤ、イスラエル教会の剥奪[荒廃]が意味されているが、しかし内意では教会の剥奪が全般的に意味されており、かくてまた今や切迫している剥奪が意味されているのである。
天界の秘義5222[4]
霊的なものを知り、そこからまた啓示を受けていた者たちは、『法術師』または『マギ』と呼ばれたことは、東からエルサレムにきて、ユダヤ人の王として生まれられた方はどこにおられるのか、と尋ね、自分たちは東にその星を見たので、その方を拝するために来たと言ったマギたち[法術師]から明白である(マタイ2・1、2)。そのことはまた『法術師』たちの君と呼ばれているダニエルからも明白であり(ダニエル4・9)、さらに―
王妃はベルシャザル王に言った。あなたの王国には聖い神々の霊が宿っている人が一人います。あなたの父の時代に、神々の知恵のような、光と理解と知恵とがその人の中に見いだされました。それで、あなたの父のネブカドネザルはかれを法術師たち、占師、カルデヤ人、予言者たちの君としました(ダニエル5・11)。
真の基督教135
神は怒り、復讐し、試み、罰し、地獄に投げ入れ、罪に定め、否、悪を為し給うとさえ言われている場合のように、神は聖言では外観に従って語り給うたことが知られていますが、事実は神は決して怒らず、決して復讐せず、決して試みず、罰せず、地獄に投げ込まず、また罪に定め給いません。このような事は地獄が天界から隔たっているように神から隔たっており、否、無限に遠く隔たっており、単に外観に従ってのみ用いられた言葉の形式であります。償い、宥め、執成し、調停の語もまた他の意味の外観の表現であります。何故ならこれは神への近接と神からその人間性を通して来る恩寵とを表現する言葉の形式であるからです。これらの言葉は理解されなかったために、人間は神を三人の神に分割し、そしてこの三人の神の上に教会の教義の凡てを基礎づけ、かくして聖言を虚偽化してしまいました。これがダニエル書にさらにマタイ伝24章に主によって予言された「荒らす憎むべきもの」であります。
結婚愛80
天使は言った、『それは現在の宗教でも同じです。なぜなら主は以下のように言っていられるからです―
代の終わりにダニエルに言われた荒らす憎むべきものが起こるであろう。そして世のはじめからこれまでになかったような大きな苦しみが起こるであろう(マタイ24・15、21)。
「荒らす憎むべきもの」とは凡ゆる真理が誤謬化されることとそれが失われることを意味しています。「苦しみ」は悪と誤謬とにとりつかれて悩まされる教会の状態を意味し、こうしたことが言われている「代の終わり」は教会の最後の時、または終わりを意味しています。その終わりは今です。それは誤謬化されないで残っている真理は一つもないからです。そして真理を誤謬化することは霊的な姦通であって、それは自然的な姦通と一つのものとなって働きます、なぜならその二つは密着しているからです』。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P71
黙示録の四頭の獣(ダニエル書7)
‘44年1月25日
イエズスは言われる。
「ダニエルはヨハネと同じ音色をもつ人であり、そしてヨハネはダニエルの初めの音色を集め拡大する人である。小さなヨハネよ、それが、こんなに貴女の気に入ったのだろう。
マリア・ヴァルトルタ/天使館第4巻上P77
それから、今夜わたしのイエズスは私に微笑みながら言われる。
「わたしはあなたをダニエルと呼ぶべきだろう。あなたは望みを持ち、あなたの神を熱望しているので、わたしにとって大切な人です。わたしの天使によってダニエルに告げられたことをあなたに言い続けることができます。『恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し神意を知ろうとし始めたその最初の日からお前の祈りは聞き入れられており、お前の祈りのためにわたしは来た』(ダニエル10・12)。しかし、ここで話しているのは天使ではありません。わたし、イエズスが話しているのです。
ああ、マリア、誰かが『神意を知ろうとして心を傾ける時』、わたしはいつでも来ます。わたしは厳しい、容赦無用の神ではありません。わたしは生ける憐れみです。わたしを求める人のところへ、考えるよりも素速く行きます。そして、こんなにも罪の中に浸っていた哀れなマグダラのマリアのもとにも、彼女のうちに神意を知ろうという願望が生まれるのを感じるやいなや、素速くわたしの霊と共に行きました。神の光に照らして理解し、彼女の闇の状態を理解することでした。そしてわたしは彼女の光となりました。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P98
分かるか、娘よ、今の時代は我が預言者、ダニエルが、語った忌むべきことを犯そうとたくらんでいる。それは恐怖すべきことを行おう。御父の憤りがどうして燃え上がらないでいよう? 御父は、聖ミカエルと同様、独り子が踏みにじられ、地面に投げ倒される眺めは 忍ばれないー聖ミカエルとその軍団が立ち上がるであろう。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P276
‘03・1・6
先にも言った通り、行きなさい、我が王者の富に養われた者たちよ そして国たみに 我が王国を宣べ伝え すべての栄光住まう救い主は 私だと宣言しつづけなさい。 ほかの誰でもなく私が あなたの贖い主だと。 行って 灰たちに宣べ伝え それらを金に変えなさい こうして、彼らが 光である、私のうちに自由を見いだすように。 行って伝えなさい あなた自身がどう捕らえられ 鳩として檻に入れられたかを、そして私がいかに、手厚い慈悲をもって訪れ 檻を壊して自由の身にさせたかを。 あなたを悪霊から解き放って聖別し 額には我が口づけの油を注いで、我がものとして封印した・・・行って、私の名によって、民を慰め 励ましなさい、我が庭園を美しく整え、救いの真の知識を彼らに与えなさい。 我が聖櫃の心を美しく飾るように。
あなたの生涯のどの日も、世代よ、我が恵みは現われ出ている そして私および隣人と和解もたらすよう 私が全人類の上に輝くと同じように、彼らも 私に耳を傾けさえするなら 人びとの間で輝くだろう。 私はあなたを解放した者、我がヴァッスーラ、そしてこれらの頌歌を通してあなたや ほかの者たちも同様に花咲かせた、ちょうど水辺に咲く薔薇の花のように、そして聖書でもこう言っている、「香のような甘い薫りを放ちなさい、百合のように花咲かせなさい、まわり中に香りを放って、讃美の歌をうたい、私が行った神聖なわざすべてのゆえに 私を祝福し 我が名の偉大さを宣べ伝えなさい!」
これが あなたに与えた仕事。 私の名によってこの一切を行うに当り 恐れないように 私はあなたと結ばれているゆえ。 人生のどの瞬間にも 愛が共にいて あなたに見方している。
一つとなるように。
私は在る(I Am)
5.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1992.12.31
<時の終わり>
(前略)
―第四のしるしは、キリストにそむく者、すなわち、偽キリストによってなされる“あらす者のいとわしき者”[つまり恐ろしい涜聖]です。偽キリストは、神の聖所に入り、その玉座に座って、自分自身を神であるかのように礼拝させるでしょう。
「反逆者は自分を神として示し、神ととなえられるもの、崇敬される者の上に自分をたてるだろう。不法の者は、サタンの力に従ってあらわれ、偽りの奇跡と不思議とをすべて行い、[亡びのために、]あらゆる不義のまどわしを使うだろう。」(テサロニケ後・4,9−10)
「いつか聖所に恐ろしい涜聖を犯す者を見るだろう。預言者ダニエルがいった“あらす者の、いとわしき者”が聖所に立つのを見たら、読む人はさとれ」(マタイ24・15−16)
最愛の子らよ、この恐ろしい涜聖が何ものであるかを理解するために、預言者ダニエルによって予言されたことを読みなさい。
「ダニエル、行け、このことばは、終わりの時まで秘され、封じられているからである。おおくの人は、ためされ、白くされ、清められる。悪人は、悪を行う。悪人は、なに一つさとらないが、知恵者は、さとる。日々のいけにえが廃止され、荒廃のいとわしいものが、そこに置かれる時から数えて、1290日が経つ。それに耐えて、1335日にいたるものは、しあわせである。」(ダニエル12・9−12)
“日々のいけにえ”とは、ミサ聖祭がいたる所に、日の出る所から日の沈む所まで捧げられる清いそなえもののことです。
ミサのいけにえは、イエズスが、カルヴァリオ山上で行われたいけにえを新たにします。
プロテスタントの教えをうけ入れるとしたら、ミサがいけにえではなく、ただの聖なる晩餐、つまり、イエズスが、最後の晩餐のときに行われたことを記念するにすぎない、と人々はいうようになるでしょう。こうして、ミサ聖祭を捧げることが廃止されるでしょう。日々のいけにえを廃止することこそ、偽キリストが行う恐ろしい涜聖です。これは、約三年半、つまり1290日間続くでしょう。