天界

 

 

神の国はあなたたちの間にある(ルカ17・21)

天使の喜び

 

 

 

 

 

1.リンボ

2.子供は天界へ行く

3.神を信じることと天界を信じることとはセット

4.天界は人間の内にある

5.巨大人

6.天界すら主の前には純潔ではない

7.神は天国を人間のためにつくられた

8.天を望まない人は天国を得られない

9.「神の国」は天使たちがその中にいる神的な善と真理

10.天界の喜びは相互的な愛から発している

11.天界は相互的な貞潔

12.益々青春の花盛りへ進み

13.天界の喜び

14.楽園の光景・・・春

15.天! それはわたしの目的

16.増し加わるに応じて、益々完全なものになっている

17.天界の霊魂は主御自身

18.天界と言うも、天界の喜びと言うも、意味は同じ

19.天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在す

20.これらの啓示は天界から発している、と言われようが、または主から発している、と言われようが、それは同じこと

21.三つの天界

22.持っているものを凡て各々の者に分け与え、また各々の者はその持っているものを凡てこの交わりから得ている

23.心から善を行うことを求める情愛

24.天界も地獄も人類から成っている

25.天界は主との結合

26.天国とは完全なる霊魂の平和・・・サンダー・シング

27.死後直ぐに天界へ挙げられるのを見た

28.教会は地上の天界

29.天界は霊界と呼ばれ

 

 

 

 

 

マタイ5・3

 

心の貧しい人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである。

 

 

 

ルカ6・20

 

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は幸いである、

神の国はあなたがたのものである。」

 

 

 

マタイ5・10

 

義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。

 

 

 

マタイ13・46

 

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

 

 

 

マタイ13・47−50

 

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

 

 

ルカ17・20、21/新共同訳聖書

 

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 

 

 

同/文語訳聖書

 

「視よ、神の国は汝らの中(うち)に在るなり」

 

 

 

ルカ23・39−43

 

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

ヨハネ14・1−3

 

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 

 

 

 

 

 

1. リンボ

 

 

(マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P37

(ヘロデによる虐殺で、妻子を殺されたエリヤが主にこう質問します。)

「では、私の子供たちはどうなりますか」

「エリヤ、おまえの子供たちは天使と同じです。子供たちは救い主が冠を授けられるとき“栄唱”を何度も歌う」

「王の冠ですか」

「いえ、贖い主の冠です。義人と聖人たちとの行列の前を殉教者の幼な子たちの血に染まった白い軍団が行く。そしてリンボの門が開かれ、一緒に死ぬことのない王国へ昇ります。やがておまえたちが来て、父と母と子供たちとまた会えます。このことを固く信じよ」

「はい、主よ」

 

(マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2/P167)

マルジアムは、幼な子イエズスを見た、あの羊飼いたちに強く関心を寄せ、マリアが快く辛抱強く、様々な質問に一つ一つ答える。

「でも、どうしてあの人たちが罰せられたのですか。いつも良いことだけしていたのに!」

子供は、その人たちに降りかかった災いの話を聞いて、合点がいかないらしい。

「いろいろと間違いを犯した人間が、その災いの責任を罪のない人になすりつけるのはよくあることだからよ。でもね、あの羊飼いたちはとっても心の善い人たちで、ゆるすことを知ったから、イエズスにたいへん愛されているわ。いつでも、ゆるすということを知らなければいけないわ」

「でも、殺された子供たちは、どうやってヘロデをゆるせたの?」

「あの子たちは、小さな殉教者なの、マルジアム。そして、殉教者は聖人だわ。あの殉教者は自分を殺した人をゆるすだけでなく、天の国の門を開いてくれるから愛しているのよ」

「じゃ、あの子たちは天国にいるの?」

「いいえ、今のところ、そうではありません。でもリンボで太祖や義人たちの喜びになっています」

「どうして?」

「あの子たちが血まみれの霊魂でリンボに着いたとき“私たちは救い主キリストの到来を告げるものです。待ち焦がれているあなたちよ、喜びなさい。キリストはもう地上におられます”というよい便りを持って行ったので、皆から愛されているわ」

 

 

 

 

2.子供は天界へ行く

 

 

天界と地獄329

 

子供はすべて教会の内であれ、外であれ、何処に生まれようと、敬虔な両親から生まれようと、不敬虔な両親から生まれようと、死ぬと、主により受け入れられて、天界で教育され、神の秩序に応じて、教えられ、善に対する情愛にひたされ、そのことを通して真理の知識にもひたされ、その後、理知と知恵とが完全になるに応じて、天界へ入れられて、天使となるのである。

 

 

 

天界と地獄332

 

小さな子供たちは、よみがえるとすぐに―それは死後直ぐに起きるのであるが―天界へ挙げられ、婦人の天使たちの手に委ねられるが、その天使たちは身体の生命にいた頃やさしく子供たちを愛したと同時に神を拝した者たちである。

 

 

 

ある子供の死

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P43

 

ある幼児が肺炎のために死んだとき、天の御使い(天使)の一団が訪れ、彼の霊魂を霊界に導いていった。わたしは、母親がその素晴らしい光景をみることができたらと願わずにいられなかった。そうすれば、嘆き悲しむ代わりに彼女は喜びの声を上げたことであろう。というのも、天の御使いは地上のどのような母も示すことのできないほどの愛と配慮をもって、小さき者たちを扱うからである。

わたしは、天の御使いの一人がもう一人に話しかけるのをきいた。「みてごらん。この子のお母さんはこんな短い一時の別れを嘆き悲しんでいる。たったニ、三年で、また子供と幸せになれるのに」

それから、天の御使いたちは、子供たちのために別にされている、天のあの美しい光に満ちた部分にその子の霊魂を連れていった。子供たちが徐々に、やがて天使のようになるときまで、彼らはその場所で天の知恵の限りを尽くしてこどもの世話と教育に当るのである。

やがて、子の母もまた、死んだ。すると、今や天使に似たものとなっていた彼女の子供は、母の霊魂を迎え入れるために他の天の御使いたちを伴って現れた。

子供が「お母さん、わたしがわかりますか。息子のテオドールです」と声をかけたとき、母の胸は喜びに満ち溢れ、彼らが互いに抱擁したとき、歓喜の涙が花のようにこぼれ落ちた。それは胸を打たずにはおかない光景であった。

それから、共に歩いてゆく途中で、彼は辺りの色々なものを指さしては説明し続け、中有界での彼女に定められた時が過ぎゆくまで共に居続け、母の教示に必要な時が満ちると、彼は自分の住んでいる高い天界へと彼女を伴っていった。

そこは、どこをみても素晴らしい、楽しい環境に満ち、無数の人々の霊魂がいたが、この人々は地上にいたときにあらゆる種類の苦難に耐え、ついにこの輝かしい名誉ある場所にまで上げられたのである。他に類をみない秀麗なる峰々、泉、景観が至る所に広がり、楽園はあらゆる種類の芳しい果物、美しい花々でいっぱいだった。心の願い求めるすべてのものがそこにあった。

そこで、子供は母にいった。「現世はこの真実の世界をおぼろげに映し出したものにすぎません。そこではわたしたちのことを嘆き悲しんでいる人々がいます。でも、これが死ですか。それとも皆があこがれている真実の生ですか」

母はこう答えた。「息子よ、これこそ真実の生です。わたしが現世で天界についての本当のことを知っていたなら、おまえの死を嘆くようなことはしなかったでしょう。現世にいる人たちがそれほど無知とは、何と悲しいことでしょう。キリストがこの栄光の世界についてあれほどはっきりとご説明になり、また福音書も父の永遠の御国について繰り返し書いているにもかかわらず、それでも無知な人ばかりか、多くの光を与えられた信者までもが、まったくその栄光に気づかずにいるのですから。誰もがこの世界の永遠の歓びに入れるよう、神様がお許しくださいますように」

 

 

 

 

3.神を信じることと天界を信じることとはセット

 

 

天界と地獄452

 

何人でも己が霊魂の永遠の生命を否認するに比例して、天界と教会との事柄もまた否認するからである。

 

 

 

 

黙示録講解1096

 

人間に天界を開く最初の、また最も重要な考えは神についての考えであり、そのことは神は天界の凡てのものであられ、私たちが天界と言おうが、神と言おうが、それは同一の事であるとすらなっているのである。天界を構成している天使を天使とならせている神的なものが共に集められるとき神であり、このことが神について考えることが人間に天界を開く凡ゆる考えの中で最初のまた最も重要なものである理由である、なぜならそれは天的な、また霊的な凡ゆる真理と愛との頭部と総計である。しかし光から発している考えがあり、愛から発している考えがあり、光のみから発している考えは、神は存在しているという知識であり、それは承認のように見えはするが、承認ではない。

 

 

 

ウォルター・ヒルトン/完徳の階梯/中世思想原典集成17/平凡社/P208

 

理性を具えた魂にとって天国とは何か。いかにも神イエス以外の何ものでもない。すべてのものの上にあるのが天国だけであるなら、神だけが人間の魂にとって天国である。もし魂が恵みによってイエスという祝福された者を知ることができれば、確かに彼は神を見るのであり、天国を見るのである。

 

 

 

ウォルター・ヒルトン/完徳の階梯/中世思想原典集成17/平凡社/P208

 

こういうイエスの知り方は、私の理解では、清らかな魂の目が天に向かって開かれることであり、これが聖者たちの書物のなかに語られているところのものである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P322

 

わたしたちが主を知れば、二度と挫かれることはありません。苦しみ、悲しみがあっても、主の臨在を感じることでしょう。生命を与えてくださる主の現存が、わたしたちの生を地上天国に変えてくださるのです。

 

 

 

 

4.天界は人間の内にある

 

 

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17・20,21/新共同訳聖書)

 

「視よ、神の国は汝らの中(うち)に在るなり」(同/文語体聖書)

 

 

 

天界の秘義3884

 

内的な天界がわたしに開かれて、私はそこにいる天使たちと語り合っていた時、以下の現象を認めることを許されたのである。私は天界の中にいたものの、それでも私は私自身の外にいたのではなくて、身体の内にいたことを知られるように。なぜなら天界は、人間は何処にいようとも、人間の中に存在しており、それで主が良しとされる時は、人間は天界の中にいつつも尚身体から引き出されはしないからである。

 

 

 

天界の秘義8918[]

 

世の人間のすべては空間の観念から(物を)考えるが、そのように空間の観念から考える者は地獄は人間からはるかに離れており、天界もまたそのように離れているとしか考えていない。しかし実情はそうではない。地獄と天界は人間の近くに在り、実に、人間の中に在り、地獄は悪い人間の中に、天界は善い人間の中に存在しているのである。更に凡ゆる者は世にいる間にすでにその中にいたところのその地獄の中へ、またはその天界の中へ入って行くのである。しかし状態はその時変化するのである。即ち、世では見えなかった地獄が見えるものとなり、世では見えなかった天界が見えるものとなり、凡ゆる幸福に満ちた天界が、凡ゆる不幸に満ちた地獄が見えるものとなるのである。天界は私たちの中に在ることを主はルカ伝で教えられている―

 

神の国はあなたたちの中に在る(ルカ17・21)。

 

 

 

真の基督教719

 

 下記の二つの項目は聖餐に正当に近づく者は誰であるかを、またこれと対照して聖餐に不当に近づく者は誰であるかを説明するであろう。主は天界と地獄の中にまた世の中にそれ故善き者の許にも悪しき者の許にも臨在し給う故、正当な者の許にも、不当な者の許にも臨在し給うのである。然し彼は普遍的にまた個別的に善良な者または再生した者の許に臨在し給う。何故なら主は彼等の中に、彼等は主の中に在り、而して彼の在す所そこに天界が在るからである。天界はまた主の身体を構成する、それ故主の身体の中に在ることは天界の中に在ることである。

 

 

 

天界と地獄33

 

神的諸真理に感動して、それを直接に生命(ライフ)の中へ容れ、引いては己が意志の中へ容れ、意志から行為の中へ容れる者たちは、最も内なる天界または第三の天界におり、[そこに]占める位置は真理に対する情愛から善を受け入れることに応じている。しかしこれらの真理を直接己が意志の中へ容れないで、記憶の中へ容れ、記憶から理解の中へ容れ、そこからその真理を意志し[欲し]、行う者たちは、真中の天界または第二の天界にいるが、道徳的な生活をして、神的なものを信じているものの、教えを受けることをあまり求めない者たちは、最低の天界はまたは第一の天界にいる。このことから、内部の状態が天界を作っており、天界は各人の中に在って、その外にはないことが明らかとなるであろう。それは主が以下のように言われて、教えられているところと同じである。「神の[]国は目に見えるようには来ない。また人は、見よ、ここを、または、見よ、そこを、とも言わないであろう。見よ、神の国はあなたたちの中にある」(ルカ17・20,21)。

 

 

 

天界と地獄54

 

 天界は各人の外に在るとは決して言われることは出来ず、それは常に各人の中に在る。なぜなら各天使は自分の中に在る天界に従って、自分の外にある天界を受けるからである。このことから、己が内的な生命はいかようであろうとも、天界に入ることは単に天使たちの間へ引き上げられることに過ぎないと信じ、かくて天界は凡ゆる者に直接の慈悲から与えられていると信じる者はいかに欺かれているかが明らかである(*2)。即ち、天界は各人の中に存在しないならば、その者の外に在る天界の物は何一つ彼のもとへ流れ入って、受け入れられはしないのである。多くの者がこうした信念を抱いて、そうした理由から天界へ上げられたが、しかしそのとき彼らは、その内的な生命が天使たちの生命に反してしたため、その知的能力は盲目になりはじめ、遂には愚物のようになり、意志能力では苦しみ悶えはじめて、狂人のように振舞ったのである。約言すれば、悪い生活をしているのに、天界に入る者は、魚が水から出て空気中にいるように、また動物が空気の出尽くした空気ポンプの容器中のエーテルの中にいるように、そこでは息切れがして、苦しみ悶えるのである。ここから天界は人間の外にはなくて、その内に在ることが明らかとなるであろう(*3)。

 

*2。天界は直接の慈悲から与えられず、生命に応じて与えられる、そして主により人間が天界へ導かれて行く手段となる生命の凡ゆる物は慈悲から与えらえ、そのことが慈悲により意味されるものである、5057、10659。もし天界が直接の慈悲から与えられるなら、それは凡ての者に与えられるであろう、2401。天界は各々に直接の慈悲から

与えられると信じ、天界から投げ落とされた若干の霊については、4226。

 

*3。天界は人間の中にある、3884。

 

 

 

新エルサレムの教義105

 

 自己と世への愛を目的としている者らは決して仁慈の中にいることは出来ない。彼らは仁慈とは何であるかを知りさえもしない、彼らは報酬を目的としないで隣人に善を欲し、それを行うことが人間の中にある天界であり、その情愛の中には天界の天使の幸福のような大きな幸福があって、それは表現を絶したものであることを些かも理解することは出来ない、なぜなら彼らはもし栄誉と富から来る歓喜が奪われるならば、最早いかような歓喜も与えられることは出来ないと信じているからであるが、しかし他の喜びに無限にまさった天界的な歓喜が初めて始まるのは実にその時なのである。

 

 

 

霊界日記5790イ

 

こうした者(自己愛により他を支配しようとする者)でない者たちはその者たち自身の家で静かに暮らしている。彼らは彼ら自身の持っている物で満足し、彼らに課せられた義務を遂行している。これらの者は天界の喜びを享受している。なぜならそれが彼ら自身の中に在って、彼らの外側には存在しないからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P179

 

真の祖国は天の国であり、真理に生きる人たちは、常に我が内に神を有しているので、天の国を去ることはありません。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P210

 

神または神の民が、罪人たちを天界から締め出し地獄に突き落とすなどと思ってはならない。愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである。自らを地獄に突き落とすのは罪人自身の誤った生活である。生が終わり天界と地獄が迫ってくるはるか以前に、善悪の性質に応じて各人の心の中で自分自身の天界か地獄が形作られている。それゆえ、あの永遠の苦しみから救われたいと切に望む者は、心底悔いて心をわたしに明け渡すがよい。わが現存と聖霊の働きによって、永遠に神の御国の子供となるためである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P326

 

今のわたしは、天においてキリストとともに生きることを予期していますが、天は、この地上に始まるのです。霊魂が神にふれ、わたしたちが主の臨在を実感するときに、天国とは完全なる霊魂の平和であることが理解されるのです。そのときにこそ、地上天国が始まるのです。

 

 

 

 

5.巨大人

 

 

天界の秘義3883

 

巨大人とは何であるか、またその巨大人と相応することとは何であるかは、すなわち、巨大人は天界全体であり、それは全般的には主に似た形であり、主の映像であり、相応とは主の神的なものが巨大人の中の天的な事柄と霊的な事柄とに相応していることであり、また巨大人の中に在る天的な事柄と霊的な事柄とが世における自然的な物に相応していることであり、主として人間における自然的な物に相応していることであることはすでに示したところである。かくて主の神的なものは天界または巨大人を通して人間に相応しており、人間における凡ゆる物に相応しており、それは人間はそこから発生し、すなわち、存続しているほどにもなっているのである。

 

 

 

天界と地獄30

 

人間の中にはその内なる人は天界の映像として形作られ、外なる人は世の映像として形作られ、それゆえ人間は古代人により小宇宙と呼ばれた。3628,4523,6013,6057,9279,9796,10156,10472。

 

 

 

6.天界すら主の前には純潔ではない

 

 

天界の秘義633

 

 人間各々のもとでは、天使各々のもとでは、実に最も天的な者のもとにおいてさえも、その者自身のものは誤謬と悪以外の何物でもないのである。なぜなら諸天界も亦主の前には純潔ではなく(ヨブ15・15)凡ての善と真理は主のみから発していることが知られているからである。

 

 

 

 

7.神は天国を人間のためにつくられた

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P306

 

私は、天国を人間のためにつくりました。

 

 

 

 

8.天を望まない人は天国を得られない

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P307

 

そうです。サタンはあなたたちをより分けるために、罠をしかけるに違いない。私も、あなたたちを救うために、ふるいにかけます。争うものは二人です。サタンと私。その真ん中に、あなたたち。愛と憎しみ、知恵と無知、善と悪との間の決闘が、あなたたちの目前で行われます。あなたたちに対しての邪悪な打撃をかわすためには、私だけで足ります。あなたたちを愛しているから、私が代りに傷つけられるのを引き受け、サタンの武器の前に立ちはだかります。

 

そうはいっても、あなたたちの中の打撃は、あなたたちの自由意志で私の方へ走り寄り、真理と命である私の道によって、自分でかわすべきです。天を望まない人は天国を得られません。キリストの弟子となるにふさわしくない人は、世間の風が吹き飛ばしていく軽い塵みたいなものです。

 

 

 

 

9.「神の国」は天使たちがその中にいる神的な善と真理

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡8

 

この創造の秩序から以下のことが明らかとなるであろう、すなわち、最初のものから最後のものまで凡てを関連づけ、結びつけている鎖はこのようになっているので、凡ての物は合して一つのものとなり、その中では(ちょうど原因はその結果から分離されることができないように)先在的なものは後在的なものから分離されることはできず、かくて霊界は自然界から分離されることはできず、また自然界も霊界から分離されることはできず、かくて天使的天界も人類から分離されることはできず、人類も天使的天界から分離されることはできない。

それ故、各々が他のものに互いに助けを与えるように、すなわち、天使的天界は人類に、人類は天使的天界に助けを与えるように主により定められている。ここから、天使の住居は実に天界に在って、外観的には人間の居る住居から分離してはいるが、しかも人間とともにその善と真理との諸情愛の中に在ることが生まれている。彼らが分離しているように目に映ずるのは外観から起こっている。このことは「天界と地獄」の著作の中で、天界の空間を取り扱っている項目に見ることができよう(191−199)。天使たちの住居は人間のもとに、その善と真理との諸情愛の中に在ることは、主の以下の語により意味されている。

 

わたしを愛し、わたしの言葉を守る者をわたしの父は愛し、わたしたちはその者のもとに来て、その者とともに住むであろう(ヨハネ14・23)。

 

この記事の「父」と「主」によりまた天界が意味されている。なぜなら「天界と地獄」を取り扱った著作(7−12、116−125)に見ることができるように、主から発する神的なものが天界を作る故、主のおられるところに、天界が在るからである。

(中略)

 

神の国はあなたがたの中にある(ルカ7・21)。

 

「神の国」は天使たちがその中にいる神的な善と真理である。

 

 

 

黙示録講解695ニ

 

「報い[報酬]」は、真理と善とに対する霊的な情愛の中にいる者たちが得るところの、祝福、幸福、歓喜の方面の天界を意味し、報いはかの情愛そのものである。なぜなら天界と言うも、またはかの情愛と言うも、同じことであるから。なぜなら天界はその情愛の中にあり、そこから発しているからである。

 

(20)しかし、霊的な情愛でなく、単に自然的な情愛から真理を話し、善を行い、天界を絶えず報いとして考える者らはイスラエル教会においては「雇われた僕」により表象されたのであり、かれらについてはその教会においては多くの法令があったのである。例えば―

 

雇われた僕らは過越節のものを食べてはならない(出エジプト12・43、45)(他略)

 

 

 

 

10.天界の喜びは相互的な愛から発している

 

 

天界の秘義537

 

或る一人の霊が私の左側に身を寄せてかれは如何ようにして天界に入ることができるかをわたしが知っているか、否かと尋ねた。わたしは天界へ入れられることはひとえに主にのみ属していて、主のみが人間の性質の如何ようなものであるかを知られていると、彼に語ることを許された。天界とは何であるか、天界の喜びとは何であるかを、また天界は相互的な愛であり、天界の喜びはそこから発してくる喜びであることを全く知りもしないで、ひとえに天界に入ることのみを求める極めて多くの者が世から入ってくる。

 

それでこのことを知らない者は実際の経験により先ずそれについて教えられるのである。例えば、世から到着したばかりの或る一人の霊がいたが、彼も同じように天界に憧れたのである、彼は天界の性質は如何ようなものであるかを認めるために、その内部が開かれたが、それはかくして彼が天界の喜びを些かなりと感じるためであった。しかし彼はそれを感じると、忽ち、嘆き、身をもがき始め、救われるようにねがって、自分はその苦悶のゆえに生きることはできないと言った、それでその内部は天界に向って閉じられて、かくして彼は元に復ったのである。この例から我々は天界に対する備えもないままに些かでもそこへ入れられる者は如何ような良心の呵責といかような苦悶で責め苛まれるかを見ることができよう。

 

 

 

天界の秘義538

 

 天界の何であるかを知ることもなしに、天界に入れられることを求めた若干の者がいた。彼らは愛の信仰の中に留まっていない限り、天界へ入ることは焔の中へ飛び入るのと同じく危険なことであると言われたが、依然それを求めた。彼らは最初の入口の庭に、すなわち天使的な霊たちの低いスフィア[領域]に到着すると、真逆様に身を後に投げつけたほどにも激しく打たれ、このことにより、主により準備させられて信仰の諸情愛を受けない中は単に天界に近づくことのみでもそれは如何に危険なものであるかを教えられたのである。

 

 

 

 

11.天界は相互的な貞潔

 

 

天界の秘義547

 

 他生に入って来る霊魂はすべて天界と天界の喜びの性質を知っていない。極めて多くの者は、天界は相互的な貞潔であり、天界の喜びはそこから派生してくる幸福であることを全く知っていないで、実に隣人に憎しみを抱いて、その生活を姦淫に過ごした者でも入ることが出来る一種の喜びであると想像している。

 

 

 

天界の秘義548

 

私は彼らに告げた、主のみが天界と宇宙を統べられている、なぜなら後のものを支配される者は前のものをも支配されるからである、あなたらが今居る王国は主の王国であった、その法律は永遠の諸々の真理であり、その凡ては人間は何物にも勝って主を愛し、隣人を自分自身のように、否、今は自分自身以上に愛さなくてはならないという一つの大いなる律法に基礎づけられている、なぜならもしあなたらは天使のようになりたいと願われるなら、それがあなたらの為さねばならないものであるから、と。これに対し彼らはその身体の生活の中でそうした種類のことは若干聞きはしたものの、それを信じなかったため、答えることが出来なかった。彼らは自分自身のように愛さなくてはならないことを聞いていたので、天界にこのような愛があり、隣人を自分自身以上に愛することがたれにでも可能であることを怪しんだのである。しかし彼らは以下のように教えられた、即ち、他生では凡ゆる善は無限に増大するのである、身体の中の生命は、人間は身体の諸々の物の中にいるため、自分自身のように隣人を愛する以上には進み得ない底のものではあるが、しかし身体の諸々の物が除かれると、その愛は更に純粋なものとなり、遂には自分自身以上に隣人を愛する天使的な愛になるのである。このような愛の可能性は自分の結婚した配偶者に害を受けさせるよりは寧ろ死を選ぼうとする若干の人々の許に在る結婚愛から明らかであり、また子に対する親の愛からも、即ち、母は自分の幼児が飢えるよりは餓死を厭わないことからも、この愛は鳥獣にも存在していることからも明らかであり、同じく友のためには危険も厭わぬ真摯な友情からも明らかであり、実に私たちが良かれと願っている相手に善い物を提供し、例え心から言うのではないにしても、誇大な告白をして、真実の愛を偽装しようとする丁重な、似而非なる友情からさえも明らかである。最後にその可能性は自分自身のためでなく、愛それ自身のために、他に役立つことに喜びを見出す愛の性質そのものからも明らかである、と。しかしこの凡ては他の者よりも自分自身を愛し、身体の生命の中にいた頃は利得をむさぼった者には理解されなかったのであり、貪欲な者からは全く些かも理解されはしなかったのである。

 

 

 

 

12.益々青春の花盛りへ進み

 

 

天界の秘義553

 

 天界に相互的な愛の中にいる者たちは絶えずその若い青春期へ進んでおり、数十年間生きるに応じて益々喜ばしい幸福な春へ進んで行くのである。年老いて死に、身も衰弱したものの、主に対する信仰と隣人への愛とその夫との幸福な結婚愛に生きた女性達は年が経つにつれ益々青春の花盛りへ進み、自然的な視覚に認められることができるような美の凡ゆる観念さえも凌駕した美しさに入って行くのである。なぜならそれは善と仁慈とがそのもの自身に似た形を形作り、示し、その容貌の最小の造作の各々からさえも仁慈の歓びと美しさとを輝き出させているものであり、かくてそれらは仁慈の形そのものとなって、或る者はそれらを眺めて、驚嘆するからである。他生で、そのあるがままに見られる仁慈の形はこうしたものであり、表現し、また表現されるものは仁慈そのものであり、しかしそれは天使全体が、特にその顔がいわば仁慈となり、仁慈が明白に眼前に現れもし、心に認められるようにもなっているのである。こうした形が見られるとき、それを見る者の心の最も内なる生命そのものを仁慈をもって感動させるものはその言い尽くし難い美である。この形の美を通し信仰の諸真理は映像となって目のあたりに示され、そこから認識されさえもしている。主に対する信仰の中に、すなわち、仁慈の信仰の中に生きた者はこうした形にまたはこうした美になるのである。天使は凡て無数の変化をもったこうした形であり、天界はこうした者から成っているのである。

 

 

 

 

13.天界の喜び

 

 

天界の秘義540

 

 他生に入って来る者の殆ど凡ての者は内的な喜びの性質と特質とを知っていないため、天界の幸福と祝福の性質を知っていない。彼らは身体と世の歓喜と喜びからのみそれを考えているに過ぎない。彼らはその知っていないものを無価値なものとして考えているが、真理は身体と世の喜びはそれに比較すれば存在しないものであり、卑賤なものであるということである。それで気質の良い者が天界の喜びはいかようなものであるかを学び、知るために凡ゆる想像を絶した楽園に先ず連れて行かれて(この楽園については後に主の神的慈悲の下に述べよう)自分達は天界の楽園に到着したと考えるのである。しかし彼らはそれが真の天界の幸福ではないことを教えられ、それ故彼らの最も内なる存在にまで認められる喜びの内的な状態を経験することを許される。次に彼らは平安の状態へ、その最も内なる存在にいたるまでも入れられて、その如何ようなものも凡て表現し難いものであり、または考えることもできないものであると告白する。最後に彼らは無垢の状態へ、同じくまたその最も内なる感情へ至るまでも入れられる。このようにして彼らは真の霊的な天的な喜びの性質を学ぶことを許されている。

 

 

 

天界の秘義541

 

 天界の喜びの性質を知らなかった或る霊達が天界に入れられることが出来るような状態に入れられた後で、不意に天界に挙げられた。そこから一人が私に以下のように語るのを私は聞いたのである、すなわち今始めて自分は天界の喜びは如何に大いなるものであるかを感じている。自分は今まで大いに欺かれて、それについては異なった考えを抱いてきたが、今は人間が身体の生命の中にいて喜んでいる身体の快楽の中に自分がこれまでに感じていたものよりも無限に勝った喜びを自分の最も内なる存在の中に認めている、と。かれは身体の快楽を下劣なものであると言ったのである。

 

 

 

天界の秘義543

 

 或る霊たちが天界の喜びの性質を知ろうと切望した、それで彼らは彼ら自身のものの最も内なるものを、最早それに堪えることが出来ない程にも認めることを許されたが、それでもそれは天使の喜びではなく、最小の天使の喜びにも殆ど等しいものではなかった。そのことをその喜びを伝えられることにより私は認めることが出来たのである。それは謂わば冷え冷えとしている程にかすかなものであったが、しかも彼らはそれが彼らの最も内なる喜びであるため、それを極めて天界的なものであると呼んだのである。このことから以下のことが明らかになった。すなわち、喜びには度が在るのみでなく、一人の最も内なるものも他の者の最も外なるものにさえまたは中間のものにさえも殆ど近づいてはおらず、たれでも自分自身の最も内なる喜びを受けると、その者は[その者の]天界の喜びの中におり、それ以上更に内的なものには堪えることが出来ないのである。なぜならそれは苦痛を与えるからである。

 

 

 

天界の秘義996

 

実にそれは善良な霊たちは身体の歓喜を全くはねつけてしまう程にも、たとえ全世界の凡てのものを与えられても、それに帰ろうとはしない程にも卑賤なものであるということから充分に明らかになるであろう。

 

 

 

天界の秘義996〔2〕

 

その天界では、内なる物はそこでは生きていて、相互愛を除いては何物も存在していないからには、幸福は言語を絶しているのである。

 

 

 

真の基督教622

 

 天界への準備は天界と地獄との中間に在る霊達の世界に行われる。この準備を終えた者はすべて、熱心に天界に入ることを欲する。間もなく彼らの眼は開かれ、天界の或る一つの社会へ通ずる道を眺める。彼らは直ちにこの道を登ろうとして出発する。登って行くと、一つの門があり、その番人がこれを開いてその新来の客を中へ入れる。彼らは次に一人の試験官に会う。彼は彼らに己がものとして認めることの出来る家を探して宜しいという統治者の言葉を伝える。何故なら新しい家が一軒、新来の天使の各々に備えられているからである。若し彼らはその家を見出すならば、その事実を報告し、其処に止まるが、それを見出さないならば、帰ってきて、試験官にその空しかったことを告げる。すると彼らの中に在る光と温かさとは、その社会の光と温かさとに調和しているか否かを知るために或賢明な天使によって試験がなされる。何故なら、天界の光と温かさとは、その本質に於いては神的な真理と善であり、両者は天界の太陽としての主から発するからである。若し、彼らの光と温かさとが、即ち、彼らの真理と善とがその社会のものと相違しているならば、彼らは受け入れられない。それ故、彼らは去り、天界の一つの社会から他の社会に通ずる他の道を探し求め、その旅を続け、遂にその諸々の情愛が全く彼らのそれと一致している一つの社会を見出すのである。そこが彼らの永遠の家庭である。何故なら、彼らは謂わば彼ら自身の親類と友との間に来り、これらの者をその願うところが同一であるために心から愛するからである。其処に神の平安が彼らの心に入り、彼らは永遠に完全な幸福の中に生きるのである。何故なら天界の温かさと光との中では言い尽くし難い歓喜があり、それはそこに住むすべての人々に伝えられるからである。それ故、これが天界へ入る道である。

諸々の悪と誤謬との中に在る者はこれと異なっている。彼らは欲するならば、天界に昇ることを許される。しかし彼らはその入口そのものの所で呼吸が困難になり始める。間もなく彼らの視覚は曇り、その理解は鈍り、考えることが出来なくなり、死がその面を凝視し、彼らを麻痺させるように思われる。その時、彼らの心臓は激しく鼓動し、その胸は締め付けられて痛み、精神的な苦悶は絶えず増し加わって行く。この状態に於いて、彼らは火に焼かれる蛇のように身悶えし、その時彼らに現れる険しい道をまっしぐらに駆け降る。彼らは止まらないで、遂に地獄の彼らに似た者たちの間に達する。何故なら、その時彼らの心臓は以前のように鼓動し、彼らは再び呼吸することが出来るからである。彼らはその後天界を嫌忌し、真理を斥ける。而してその心に於て主を涜し、彼らが天界で嘗めた苦悶と苛責とを加えた者こそ彼であると信ずる。

 これは信仰の真理と愛と仁慈の善とを―これらは天界の天使達の光と温かさである―軽視する者の運命を示している。それはまた何人でも、天界に入ることを許されるならば、その祝福を享受することが出来ると信ずる者の誤りをあらわに示している。何故なら、天界に迎えられることは、純粋な慈悲の行為であり、それは結婚の祝宴に行って、その喜びと楽しみとに与るようなものであると、現今信ぜられているからである。しかし霊界には情愛と思考との社会の在ることを知られよ。何故なら、人間はその時霊であって霊の生命は愛の情愛であり、また、そこから発する思考であり、而して類似した情愛は互に結合するが、類似しない情愛は分離するからである。この非類似が、悪魔が天界に悩み、天使が地獄に悩む苛責の原因である。この理由から、天使と悪魔とはその愛の相違に従って遠く分離される。

 

 

 

 

14.楽園の光景・・・春

 

 

天界の秘義1622

 

 楽園の光景については、それらは驚嘆に価する。楽園の庭園が無限のひろがりをもって目に示され、それはあらゆる種類の木から成っていて、思考のあらゆる観念[考え]をも凌駕しているほどにも非常な美と楽しさとをもっており、またこれらの庭園はそこに居る者たちがそれらを見るのみでなく、肉眼が地上のそうしたものを認めるよりも遥かに生々とあらゆる微細なものを認めているほどにも生命をもって外なる視覚の前に示されているのである。私はこのことについて疑念を差し挟まないために、楽園の生活を送っている者たちが居る地域に導かれて、それを見たのである。それは右の眼の隅の前方の、やや上の方に存在している。そこの在りと凡ゆるものは驚嘆すべき壮麗さと変化とをもって、その最も美しい春の時と花の中に現れており、その一切のものは、それが表象的なものであるため、生きているのである、なぜなら天的な霊的なものを表象し、意味していないものは何一つ存在していないからである。かくてそれらは楽しさをもって目を歓ばせるのみでなく、また心を幸福感で満たすのである。

 

 

 

天界の秘義1626

 

こうした事柄は霊的な観念を人間の哲学の述語と定義により、また理論により消滅させてしまった者らからは信じされることは出来ないが、それでも極めて真である。それらは真であることはそれらが聖徒たちにより極めて頻繁に見られているという事実から把握されることが出来よう。

 

 

 

 

15.天! それはわたしの目的

 

 

マリア・ワルトルタ29・10/天使館1巻P240

 

わたしは、神が私に知らせようとなさったことのみを一途に知ろうとし、自分自身に、あるいは神に対して、自分に言われたこと以外何一つ尋ねず、暴飲暴食、知識欲、所有欲に打ち勝ちました。何やかやと詮索せずに、わたしは信じました。わたしが快楽の暴飲暴食に打ち勝ったのは、味覚に耽溺することを一切拒否したからです。わたしは自分の肉を足の下に置きました。サタンの道具である肉を、天に上る階段とするために、わたしはサタン諸共踵で踏みつけました。天! それはわたしの目的です。神が在したのはあそこです。わたしの唯一の渇望です。食い意地ではなく、神に祝福される必然の飢えであり、彼はわたしたちが彼に飢え渇くことを望んでおられます。

 

色欲にわたしは打ち勝ちました。色欲は大食に至る貪婪です。抑制されない悪癖は、より大きな悪癖に導くからです。エバの貪欲は、すでにそれだけでも咎められるべきですが、さらに彼女を色欲へと導きした。一人で満ち足りるだけでは済まなくなりました。自分の犯罪を、計算された強度にまで押し進めようとし、伴侶の色欲の師となりました。わたしは状況を逆転させ、下降する変わりに常に上昇しました。わたしの連れ合いである誠実な男を、下降させる代わりに常に高みへと引き上げ、彼を天使にしました。

 

 

 

 

16.天界は増し加わるに応じて、益々完全なものになっている

 

 

天界の秘義549

 

それ故主の王国を構成している者が多くなるに応じて、その幸福も大きくなっている、なぜならそれは数に比例して増大しており、そのことが天界の幸福は筆舌に表現することが出来ない理由となっている。

 

 

 

天界と地獄71

 

 天界の一つの社会の中に多くの者がいるに応じて、そしてその者たちが一致して活動するに応じて、益々その社会の人間としての形は完全になることは注目に価する、なぜなら前に述べたように(56)、天界の形をもって配置された変化は完全を作り出し、そして多くの者がいるところには変化が生まれるからである。更に天界の社会各々は日毎にその構成員を増し加えられており、それが増し加わるに応じて、益々完全なものになっている。それで単にその社会のみが完全になるのみでなく、天界も全体として完全になっている、なぜならそれは諸々の社会から構成されているから。天界は構成員が増し加わることから完全に増して行く以上は、天界は満員になって閉じられるかもしれないと信じている者はいかに欺かれているかは明らかである、それどころか、天界は決して閉じられはしないで、充実するに応じて、益々完全になってゆくのである。従って、天使たちは、自分たちのもとへ新しい天使の客が来てくれることを何ものにもまさって望んでいる。

 

 

 

 

17.天界の霊魂は主御自身

 

 

啓示による黙示録解説5.

 

「天使」・・・天使たちの天界、最高の意義では主。

天使は人間とは天界から分離しては決して話さない。なぜなら各々の者は、その交わりから、たとえその天使はそのことに気づいてはいなくとも、話しているから。

天界は主の眼前には一人の人間として存在されており、その霊魂は主御自身であられるからであり、それで主は、天界を通して人間と話されるが、それは(丁度)人間がその霊魂からその身体を通して他の者と話すさまに似ているのである。

 

 

 

 

18.天界と言うも、天界の喜びと言うも、意味は同じ

 

 

天界と地獄397

 

 天界はそれ自身では楽しさに満ちたものであり、それでそれは、それ自身において観察されるならば、祝福された、歓ばしいもの以外の何ものでもない、なぜなら主の神的愛から発出している神的善はそこの各々の者のもとに、全般的にも、個別的にも天界を作っており、神的愛は凡ての者が救われて、その最も内なる部分からも、完全に幸福になることを切望するものであるからである。従って天界と言うも、天界の喜びと言うも、意味は同じである。

 

 

 

 

19.天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在す

 

 

真の基督教416(太字は当方による)

 

 主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。

 

 

 

 

20.これらの啓示は天界から発している、と言われようが、または主から発している、と言われようが、それは同じこと

 

 

黙示録講解8

 

『遣わすこと』が啓示することであることは天界から遣わされるものはことごとく啓示であるためである。

 

 

 

黙示録講解8

 

これらの啓示は天界から発している、と言われようが、または主から発している、と言われようが、それは同じことである。なぜなら天使たちのもとに在る主の神的なものが天界を構成しており、天使たちの「固有性」(自己性、または天使たち自身のもの)から発しているものが天界を構成しており、天使たちの「固有性」(自己性、または天使たち自身のもの)から発しているものは何一つ、いかようなものであれ、天界を構成はしないからである。

 

 

 

 

21.三つの天界

 

 

天界と地獄65

 

全般的に、最高の、または第三の天界は頭から首までを形作り、真中の、または第二の天界は胸から腰と膝までを形作り、最低のまたは第一の天界は足から足の裏までと、また腕と指までを形作っている―腕と手とはまた、両側にあるけれども、人間の最低の、または最も外なる部分である。このことからもまた三つの天界の在ることが明らかである。

 

 

 

神の愛と知恵232

 

天使たちのこの三つの度は天的な度、霊的な度、自然的な度と呼ばれ、彼らにとり天的な度は愛の度であり、霊的な度は知恵の度であり、自然的な度は用の度である。これらの度がこのように呼ばれているのは、天界は、一つは天的王国と呼ばれ、他は霊的王国と呼ばれている二つの王国に分けられ、それに世の人間が住まっている第三の王国が加えられて、第三の王国は自然的王国であるからである。更に天的王国を構成している天使は愛におり、霊的王国を構成している天使は知恵におり、他方世の人間は用におり、それ故これらの王国は連結している。人間が用にいることは如何にして理解することが出来るかは次の部に示されるであろう。

 

 

 

聖書6

 

第三の、または最高の天界を構成しているところの主の天的王国の天使たちは、天界的なものと呼ばれているところの主から発出しているかの神的なものの中にいる、なぜなら彼らは主から発している愛の善の中にいるからである。第二の、または中間の天界を構成している主の霊的王国の天使たちは、霊的なものと呼ばれているところの主から発出しているかの神的なものの中にいる、なぜなら彼らは主から発している知恵の諸真理の中にいるからである。しかし、地上の教会の人間たちは、同じく主から発出している神的な自然的なものの中にいる。

 

 

 

聖書34

 

天使たちのいる諸天界も、人間がいる世界がないなら、同じようなものになるであろう。人類は天界の基底であり、容器であり、支柱であり、聖言は人間の間に、また人間の中に在るのである。なぜなら諸天界はすべて、天的王国と霊的王国と呼ばれている二つの王国に区別されており、この二つ王国は人間がいる自然の王国に基礎づけられているからである。それで人間の間に、また人間の中に在る聖言も同じである。(天使たちの諸天界は天的王国と霊的王国の二つの王国に区別されていることは、「天界と地獄」を扱った著作に見ることが出来よう、20−28)。

 

 

 

天界の秘義4286[2]

 

 

 

天界の秘義4286[4]

 

こうした事柄を言ったのは、『イスラエル』が意味していることを明らかにするためである。しかし『イスラエル』はその最高の意義では主を神的な天的な霊的なものの方面で意味し、その内意では天界と地上における主の霊的王国を意味している。地上における主の霊的王国は霊的教会と呼ばれている教会である。そして『イスラエル』は主の霊的王国意味しているため、『イスラエル』は同様に霊的な人を意味している、なぜならこのような人の各々の中には主の王国が存在しているからである、なぜなら人間は最小の形における天界であり、また教会であるからである(4279番)。ヤコブについて言うなら、彼によりその最高の意義では主が自然的なものの方面で、その天的なもののみでなく、霊的なものの方面でも表象されており、内意では最も外なる、または、第一の天界に在るような主の王国が表象され、従ってまた教会における同一のものが表象されている。自然的なものにおける善はここに天的なものと呼ばれているものであり、自然的なものにおける真理は霊的なものと呼ばれているものである。これらの事柄から聖言の中で『イスラエル』により、また『ヤコブ』により意味されているところが明らかであり、またヤコブがイスラエルと名付けられた理由も明らかである。

 

 

 

天界の秘義6637

 

なぜなら教会は地上の主の王国であるからである。

 

 

 

 

22.持っているものを凡て各々の者に分け与え、また各々の者はその持っているものを凡てこの交わりから得ている

 

 

天界と地獄73

 

それがそうであるのは、天界は一つの交わりの団体であり、即ち、その持っているものを凡て各々の者に分け与え、また各々の者はその持っているものを凡てこの交わりから得ているためである。天使は受容体であり、かくて前のそのことを取り扱った章で示したように、最小の形の天界である。人間もまた、天界を受けるに応じて、益々受容体となり、天界となり、また天使となっている(前の57参照)。

 

 

 

 

23.心から善を行うことを求める情愛

 

 

天界の秘義3776[2]

 

 この間の実情は以下のようである、即ちその外なる形では仁慈として見える仁慈は内なる形では必ずしも仁慈ではないのである。その性質とその源泉とはその目的から知られるのである。その内なる形では利己的なまたは世的な目的から発している仁慈は仁慈ではなく、またそれは仁慈と呼ばれてもならないのである、しかし隣人を、全般的な善を、天界を、かくて主をその目的として注視している仁慈は真の仁慈であり、その中には心から善を行うことを求める情愛を持っており、またそこから派生してくる生命の歓喜をもっていて、その歓喜は他生では祝福となるのである。人間が主の王国はそれ自身ではいかようなものであるかを知るためには、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、この善について探求することが今これらの節にとり扱われており、ここに先ずそこに在る仁慈がいかような起原から発しているかが尋ねられており、そのことが『兄弟たちよ、何処からあなた方は来ましたか』により意味されているのである。

 

 

 

 

24.天界も地獄も人類から成っている、天界は創造の目的

 

 

神の摂理27

 

私は天使と霊と共に長期間話し合うことにより以下のことを明らかにされ、また証明されたのである。即ち、天界は最初から天使として造られた天使から成るのでなく、地獄も光の天使として造られたが、天界から投げ落とされた悪魔の住み家でもない。天界も地獄も人類から成り、天界は善の愛に居りそれ故真理を認める者たちから成り、地獄は悪の愛におり、それ故誤謬を認める者から成っている。このことについては更に天界と地獄を扱った著作(311−316)、「最後の審判」を扱った著作(14−27)、「続最後の審判と霊界」の始めから終わりまでを参照されよ。

さて、天界は人類からおこり、永遠に主と共に住むことが天界であるゆえ、主はこのことを創造の目的として定められ、かくて天界は創造の目的であるゆえ、それはまた神的摂理の目的であることが生まれてくる。主は宇宙を御自身のために創造されたのでなく、御自身と共に天界に住むことの出来る者たちのために創造されたのである。なぜなら霊的愛はその持っている一切を他に与えようと願い、そしてその願いを満たすことが出来るならば、その平安を、その祝福を得るからである。霊的愛はそのような性質を無限度に持たれている主の神的愛からその性質を得ている、このことから以下のことが生まれる。すなわち、神的愛は、ひいては神的摂理は、天使となった人々また天使になりつつある人々から成る天界をその目的としており、主はこの者たちの中に居られることによって、これに主の賜物として愛と知恵の凡ての祝福と幸福とを与えることが出来るのである。

 

 

 

 

25.天界は主との結合

 

 

神の摂理28[1]

 

「天界は主との結合である」。天界は天使から始まらず、主から始まっている。なぜなら天界を作る天使たちの愛と知恵は彼ら自身から発生しないで、主から発し、実に彼らの中の主であるからである。そして愛と知恵は主のものであり、天界の主であり、また天使たちの生命を作っているゆえ、彼らの生命は主のものであり、実に主であることもまた明らかである。天使たち自身、己が生命を主から得ていることを認めている。これにより天界は主との結合であることを理解することが出来よう。

 

 

 

 

26.天国とは完全なる霊魂の平和・・・サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P326

 

今のわたしは、天においてキリストとともに生きることを予期していますが、天は、この地上に始まるのです。霊魂が神にふれ、わたしたちが主の臨在を実感するときに、天国とは完全なる霊魂の平和であることが理解されるのです。そのときにこそ、地上天国が始まるのです。

 

 

 

 

27.死後直ぐに天界へ挙げられるのを見た

 

 

天界の秘義317

 

しかし主に対する信仰の中にいた者はその新しく始めた生活から一歩一歩天界へ導かれて行くのである。しかし或る者は天界へ向って緩慢に進み、他は速やかに進んで行く。私は或る者が死後直ぐに天界へ挙げられるのを見たが、その中の二つの場合のみを記すことが許されている

 

 

 

天界の秘義318

 

彼は自分はどうしてかくも大きな親切に報いることが出来ようかと、仁慈から考え始めたのである。そのことから彼は身体の中で生きていた間は信仰の仁慈の中にいたことが明らかとなり、それで彼は直ぐに天界へ挙げられたのである。

 

 

 

天界の秘義319

 

 

私はまた天使たちにより天界へ直ぐに挙げられ、主により受け入れられ、天界の栄光を示された他の一人に会ったが、若干の時間が経った後で天界へ移された他の者たちについての他の多くの経験については割愛しよう。

 

 

 

28.教会は地上の天界

 

 

天界と地獄57

 

 天界について言われることは教会にも言うことができよう、なぜなら教会は地上の主の天界であるから。

 

 

 

神の摂理30

 

自然界における主の天界は教会と呼ばれる。この天界の天使は主と結合した教会員である。彼はこの世を去った後、また霊的な天界の天使となる。

 

 

 

天界の秘義8900

 

地上の主の王国は『教会』と呼ばれる

 

 

 

 

29.天界は霊界と呼ばれ

 

 

天界の秘義5639[3]

 

 基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいないのは、彼らが信仰を教会の本質的なものとして、仁慈をその本質的なものとしていないためである。従って信仰に関心を持っている少数の者は仁慈については例え考えるにしても殆ど考えはしないため、またはその何であるかも殆ど知らないため、それで知識がないため、仁慈のものである情愛も認識されることは出来ないのであり、仁慈の情愛の中にいない者は霊的なものの何であるかを到底知ることは出来ないのである。特にこのことは、殆どたれ一人何ら仁慈を持っていない現今に言われるのである、なぜなら今は教会の最後の時であるからである。しかし全般的な意味では『霊的なもの』は善のみでなく真理に対する情愛を意味しており、それゆえ天界は霊界と呼ばれ、聖言の内意は霊的意義と呼ばれているが、しかし特定的には善に対する情愛のものであるものは天的なものと呼ばれ、真理に対する情愛のものであるものは霊的なものと呼ばれていることを知らなくてはならない。