天から与えられなければ、人は何も受けることができない。

(ヨハネ3・27)

 

 

人間が神を造れようか(エレミヤ16・20)

私自身で与えた言葉だけを くり返しなさい

他の者から教えられる賜物

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である(ヨハネ15・5)

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.トマス・ア・ケンピス

4.ヴァッスーラ

5.ルイザ・ピッカレータ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ3・27

 

ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義123

 

天的な人は凡てのものが全般的にも個別的にも主のものであることを認めているため、そのことを認識している。霊的な人も実際そのことを承認はしているが、そのことを聖言から学んだために、口が承認しているに過ぎないのである。世的な形体的な人間はそれを承認しないし、許容しないし、自分の持っているものを凡て自分のものと呼び、もしそれを失うならば、自分は全く滅んでしまうと考えている。

 

 

 

天界の秘義124

 

知恵、理知、理性、知識は人間のものでなく、主のものであることは、主の教えられた凡てから極めて明白である。例えばマタイ伝には主は御自身をぶどう畠を作り、その周囲に垣根を作り、それを農夫たちに貸し与えた家の持ち主に譬えられており(マタイ21・33)、ヨハネ伝には―

 

真理の霊はあなたらを真理の凡てへ導き入れるでしょう、彼は彼自身で語るのではなく、何であれその聞くことを語るでしょう。彼はわたしを栄化するでしょう、わたしを崇めるでしょう、それはわたしのものを受けて、あなたらにそれを明らかにするからである(ヨハネ16・13,14)。

 

また他の所には―

 

人は天から与えられなくては、何も受けることは出来ない(ヨハネ3・27)。

 

それが真にそうであることは天界の若干のアルカナしか知らない人にも知られている。

 

 

 

天界の秘義129

 

人間はその仮定した原理が如何に誤ったものであっても、それにより支配され、その者の知識と理性は尽くその原理を支持することを人各々知ることが出来よう、なぜならそれを支持するようになる無数の考察がその心に現れてきて、かくて彼は誤った物を確認するからである。それ故、見て理解しない中は何物も信じることは出来ないということを原理として心に確認する者は決して信じることは出来ないのである。それは霊的な天的な物は眼で見たり、想像により考えついたりすることは出来ないからである。しかし真の秩序は人間は主から、即ち、聖言から賢明になることであり、その時は凡ての物は続いて起り、彼は理性と記憶知に属した事柄さえも明るくされるのである。

 

 

 

天界の秘義215

 

 人間自身の物は悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、彼ら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、例え彼らは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑を差し挟まない程に完全に確信しているにしても、私はそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、私はその者らが疑い、否定さえしていることを認めることが出来たのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、彼らは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、即ち誤謬の深淵へ沈むのである、そして彼らはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。

 

災いなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。

 

さらに―

 おまえの知恵とおまえの知識とはおまえを迷わせた、おまえは心の中で言った、私であり、私の他にはたれもいない、と。悪がおまえに来るが、おまえはそれが何処から上って来るか、を知らない、災いがおまえに来るが、おまえはそれを償うことは出来ない、お前の知らない荒廃[剥奪]が不意におまえに来るであろう(イザヤ47・10、11)

 

エレミヤ記には―

 

 すべての人は知識により愚鈍となり、すべての鋳物師はその彫んだ像のために狼狽する、その鋳た像は虚偽であって、その中にはまた息がない(エレミヤ51・17)

『彫んだ像』は人間自身のものの誤謬であり、『鋳た像』は人間自身のものの悪である。

 

 

 

 

天界の秘義2904

 

 主から発していない真理は真理ではない、そのことはまた聖言から由来している信仰の教義からも明白である。それは、ヨハネ伝における聖言から明白である―

 

人間は天から与えられなくては、何ものも受けることはできない(ヨハネ3・27)。

 

また他の所には―

 わたしと共にいない限り、あなたたちは何ごとも為すことは出来ない(ヨハネ15・5)。

 

そのことは信仰の教義からも明白である、即ち、信仰の凡ゆるものは、即ち、真理はことごとく主から発しているということから明白である。

 

 

 

天界の秘義2904 []

 

聖言における表象的のものと表意的なものとはことごとくその一切のものはその最高の意義では、主にかかわっていて、そこから聖言の生命そのものが発しており、それらは主に関わるものであるため、また主の王国にかかわっている、なぜなら主はその王国における凡てのものであられ、その王国における主から発している神的なものが王国を作っているからである。それゆえ天使が、霊がまたは人間が主から善と真理とを受け、それが主から発していることを信じるに比例して、益々その者は主の王国の中にいるが、善と真理を受け入れないで、それが主から発していることを信じないに比例して、益々その者は主の王国の中にはいないのである。かくて主から発している神的なものは、主の王国を、または天界を作っており、そのことが主がその天界における凡てのものであられることにより意味されているところである。

 

 

 

天界の秘義9445

 

 人間は人間自身からは善いことを行うことは出来ないし、また真のことを考えることも出来ないのであり、そのことはただ主のみから可能であることはヨハネ伝に明白である―

 

 人間は天から与えられなくては何一つ行うことは出来ない(ヨハネ・27)。

 

 わたしの中に止まり、わたしもその中に止まっている者は多くの実を結ぶのである。わたし無しではあなたらは何一つ行うことが出来ない(ヨハネ15・5)。

 

このことからただ主を除いてはたれ一人何人をも罪から引き出して、これを救うことは出来ないことが明白である。

 

 

 

天界の秘義10227

 

 主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、即ち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛と共に誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]とが生まれてくるのである。この凡てから或る者は賢明になり、また或る者はそれほど賢明でなくなることが何処から生まれてくるかが明白であり、また富んだ者は更に多く捧げてはならないし、貧しい者も更に少なく捧げてはならない理由も明白である―即ち、凡ての者は同じく賢明になる能力を持っているのであり、実に賢明になる等しい能力を持っているのではないが、何れも賢明になることが出来るため、賢明になる能力を持っていることにおいては似ているのである。

 

 

 

真の基督教8(2)

 

「人間の霊魂に対し、神は存在し、その神は一人であるとの意味を伝える神からの普遍的な流入がある。」

 人間へ神からの流入があることは、それ自身善であり、また、人間の中にあり、而して人間によって為される善は凡て、神から由来し、また凡ての仁慈と信仰とは神から来ていることが一般的に認められているということに含まれている。何故なら次の如く記されているからである。「人は天より与えられずば、何をも受くること能はず。」(ヨハネ3・27)。「而してイエス語り給う、汝ら我を離れては何ごとをも為し能はず。」(ヨハネ15・5) 即ち、仁慈あるいは信仰の何物をも為し得ないのである。人間の霊魂にこのような流入があるのは、霊魂は人間の最も深い且つ最も高い部分であり、神より来る流入はその中に入り、そこから下の物に入り、そしてこれをその霊魂が流入を受けるに応じて活かすからである。今後、信仰の主要問題となるそれらの真理は、実に聞くことによって入り来たり、心の中に植え付けられ、かくて霊魂の下に植え付けられる。しかし、人間はこれらの真理によって神からの流入を霊魂を通して受ける準備を為すに過ぎない。而してその受けることはその準備の如何に応じ、かくて単に自然的な信仰は霊的な信仰に変えられる。人間の霊魂に神は一人であるとの意味の流入があるのは凡て神的なものは、全体的にまた個別的に一人の神であり、而して神的なものは一つである故、それは人間に一人の神の観念を注ぎ込まざるを得ないからである。この観念は、人間が神により天界の光へ挙げられる時、日々確実にされる。何故なら、天使はその光の中に神々なる語を発することが不可能であることを知っており、それ故、彼らの凡ての言語はその言葉の終わりでは単一な調子を以て終わっている。これは彼らの霊魂に神は一人であるとの流入がある結果である。人間の魂に神は一人であるとの流入があるにも拘らず、極めて多くの人々が神の神性は同じ本質を持つ幾多の人格に分割されると考える理由は、下降して来る流入がそれに相応していない形に入り、而してその形が、自然界の至る所に行われるように、その流入を改変するということである。同一の神性が人間と獣に生命を与えるが、しかしそれを受け入れる形が獣を獣たらしめ、人間を人間たらしめる。人間もその心に獣の形を植え付ける時これと同様になる。太陽からの流入は凡ての木に同一であるが、しかし各々の形に応じて変化する。葡萄に入る流入は茨に入る流入と同一であるが、しかし茨が葡萄に接ぎ木されるなら、流入は他にその茨の形に応じて発する。更に鉱物界も同様に、石炭と金剛石の上に落ちる光は同一であるが、後者は透明であり、前者は不透明である。人間の心について言えば、それは内的には霊的なものであるその形に従って、神に対するその信仰と神から来るその生命とに従って変化する。この形は一人の神を信ずる信仰によって透明となり且つ天使的となるが、しかしその反対に全き無信仰と殆ど相違しない数人の神に対する信仰によって曇り、獣的になる。

 

 

 

真の基督教439

 

天使の眼には純粋な善は紫色を呈しているが、功績によって腐食された善は錆のように見える。善は報酬を望んで為されてはならぬことを主は以下の記事によって教え給う。「汝等おのれに善を為す者に善をなすとも、何の感謝を得べき。汝らは仇を愛し、善を為し、何をも求めずして貸せ。然らばその報は大ならん。かつ至高者の子たるべし。至高者は感謝を知らぬ、悪しき者にも仁慈あるなり。」(ルカ6・33−36)善良な人間は主によらない限り、真に善なる善を為し得ないことを、主はヨハネ伝に教え給う。「我に居れ、然らば我汝の中に居らん。枝もし樹に居らずば、自ら実を結ぶこと能はぬごとく、汝らも我に居らずば亦然り。汝ら我を離るれば、何事をも為し能はず。」(ヨハネ15・4,5)他の場所には、「人は天より与えられずば何も受くる能はず。」(ヨハネ3・27)

 

 

 

生命17

 

たれ一人自分自身からは真に善である善を何ら為すことが出来ないことはヨハネ伝に主から教えられている―

 

人間は天から与えられない限り何一つ受けることは出来ない(ヨハネ3・27)。

わたしの中に宿り、わたしもその中に宿っている者、その者こそ多くの果を結ぶのである、なぜならわたしなしではあなたらは何一つ為すことができないから(ヨハネ15・5)。

 

 

 

聖書114

 

 このことは以下のすでに言いもし、示しもしたことから全般的な結論として生まれてくる、例えば、聖言は神的真理そのものである(1−4)、それは天界の天使たちと連結する手段である(62−69)、その中の凡ゆる所に主と教会との結婚があり、従って善と真理との結婚がある(80−89)、教会の性質は聖言に対するその理解に左右される(76−79)、聖言は天界にもまた存在していて、天使たちはそこから知恵を得ている(70−75)、教会外の諸国民と諸民族もまた聖言により霊的な光を得ている(104−113)、その他さらに多くのことが言われている。この凡てから、聖言がないなら誰一人、神を知り、天界と地獄を知り、死後の生命を知ることに在る霊的な理知を持たないであろうし、主について、主に対する信仰と主に対する愛について何ごとも知らないであろうし、また贖い[贖罪]についても何ごとも知らないであろうことが結論づけられることが出来るが、それでもそのことから救いが生まれてくるのである。主もまたその弟子たちに以下のように言われている、

 あなたらはわたしがいなくては何一つ為すことは出来ない(ヨハネ15・6)。

 またヨハネは言った、

 人は天から与えられなくては何一つ受けることは出来ない(ヨハネ3・27)。

 

 

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・3・2

 

 このみ言葉がなければ、だれひとり明らかに悟ることも正しく判断することもできない。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・7・2

 

 あなたの技量(うでまえ)や才能(はたらき)を鼻にかけて、神のおん怒りを招くな。あなたの生まれつき持っているよい所は、みな神から出たものだからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・9・2−3

 

 だから一つの物もあなたに帰せず、一つの徳も人間に帰してはならぬ。ただいっさいを神に帰せよ、神がなければ人間は何ももつことができないからである。

 わたしはいっさいを与えた。ゆえにいっさいがわたしに帰することを望む。そしてそれに対してきわめてきびしく感謝を要求する。

これこそ真理であって、これによってすべての虚栄は駆逐される。

 もし天からの恩恵と、ほんとうの愛とが心に宿るなら、嫉妬も、悩みも、自我の愛もはいる余地がない。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P222

 

では、何か主にお捧げする善いものがあるでしょうか?

 

ある。 しかしすべての善いものは私から出ている。 私がそれをあなたに与えたのです。 善いものは何であっても私からのものです。

 

(ちょっとがっかりしました。それでは主を喜ばすことができません。)では、私は自分自身からのもので、何も善いものが差し上げられないのですね。

 

あなたが持っている善いものは すべて私が与えた。

 

もしかして、あなたによい絵を描いてお捧げできるかもしれません!*

 

*私の手作りの絵を。

 

あなたの絵か ヴァッスーラ? この美術にたいする才能も 私が与えたものではないか? これも私からであろう?

 

では、何をお捧げできるでしょう?

 

愛を。 私を崇めなさい。 私に身を明け渡し あなたの意志を捧げなさい、これが私に捧げられる最も美しいものです

 

主よ、お愛ししていることも、もう自分を明け渡していることもご存知です!

 

私はそれを聞くのが楽しい 小さな者よ!

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P72

‘89・12・19

 

小さな者よ、試練が訪れる時、抗議してはならない、自分の意見を出さないように、あなたからは 私の平安だけが出てくるべきです。 主の平安が。 議論に対する即答は取り返しつかない誤りとなり得る。 与えたものを 我が心から取り出しなさい、それ以下でも、それ以上でもなく、与えたものの中から取り出しなさい。 もう分かったであろう?

 

私自身で与えた言葉だけを くり返しなさい

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P198

 

‘90・7・31 (まだネクタリオ修道院にて)

 

後ほど、何かについて言及したのですが、自慢のように聞こえました。

 

娘よ、あなたにたいする私のわざを考慮しなさい、知っているつもりにはならないように。 人間は私が与えなければ 愛が何であるかを知らない、賢者さえも、知っていると言うかも知れないが、それを見い出すことはできない。 天上から命を下し みことばは地上に反射する、みことばを送ると 凍えきった心は溶かされ ぬくもりが生じる。 精神を高め 識別の霊を求めなさい。 このメッセージ全体を宣言できるように 欠点があろうとあなたを支える 皆の耳に届くために ♡

 

 

 

 

5.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P232

 

 我が娘よ、私の前や人々の前で、自分が何者かであると信じている人は、何の価値にも値しない。自分が無であると信じる人は、すべてに値する。私の前で一番になる人とは、何かをすることが出来、その力と能力を持っていても、それをしていないと信じる人である。この人は神から恵み、助け、そして照らしを受けるから行うことができるのだ。つまりこの人は、神の権能のおかげで働くことができるのだと言える。神の権能を自分自身とともに有している人は、すべてに値するのである。

 

 人間は、この神の権能のおかげで行動することによって、それはまったく異なった働きとなる。このような行動は、神の権能が有している光を伝承することだけをする。ゆえにもっとも邪悪な者も、気づかないうちにこの光の力を感じて、その意志に自分を従わせる。人々の前においても同じことが言え、他の人たちもすべてに値するようになる。

 

 反対に、自分が何かに値すると信じている人は、何にも値しないだけでなく、私の存在の前では忌まわしい者ともなり、何者かであると信じているこのような人たちが取る、見かけ倒しで欠点だらけのやり方は、他の人たちを馬鹿にすることにもなる。だから人々は、このような者を、嘲笑と迫害の目標として指さすようになるだろう。