他の者から教えられる

 

 

霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来る

聖言は明るくされている者によらなくては理解されない

天から与えられなければ、人は何も受けることができない(ヨハネ3・27)

 

 

 

 

 

1.たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ない

2.人は各々直接の啓示によらず、神の教えを宗教から知っている他の者によって神の教えを教えられる

3.人間は人間に何を信じなくてはならないか、何を行わなくてはならないかを知らせる信仰の諸々の知識を先ず自分の中に播かれない限り、地のように善い物は何一つ生み出すことは出来ない

 

 

 

 

 

1.たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ない

 

 

天界と地獄512

 

しかし誰一人、例えば[一人の]神がおられ、天界と地獄があり、死後の生命があり、神を何ものにもまさって愛さなくてはならない、隣人を自分自身のように愛さなくてはならない、聖言は神的なものであるため、聖言にあることは信じなくてはならないというようなことを先ず教えられない限り、そのように行動することは出来ない。人間はこうした事を知り、また承認しなくては霊的に考えることは出来ず、そうしたことを考えなくては、それを欲しもしない、なぜなら人間は知らないことを考えることは出来ず、考えないことは欲することも出来ないから。それゆえ人間がそうしたことを欲するとき、天界は流れ入り、即ち、主は天界を通して、人間の生命へ流れ入られる、なぜなら主は意志へ流れ入られ、意志を通して思考へ流れ入られ、その二つを通して生命へ流れ入られるから。それは人間の生命はすべてその二つのものから発しているためである、これらのことから、霊的な善と真理とは世から学ばれないで、天界から学ばれ、また、たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ないことが明らかである。主はまた誰でも人間の生命へ流れ入られるに応じて、教えられる、なぜならそれに応じて主は意志を真理を知ろうとする愛で燃やし、その思考を明るくされて、人間は真理を知りそしてこうしたことが起るに応じて、人間の内部は開かれて、その中に天界が植え付けられ、さらに、それに応じて神的なものと天界的なものとが、人間における道徳的な生活の誠実な物の中へ、また社会生活の公正な物の中へも流れ入って、それらの物を霊的なものにするからである。

 

 

 

 

2.人は各々直接の啓示によらず、神の教えを宗教から知っている他の者によって神の教えを教えられる

 

 

神の愛と知恵249

 

人は各々直接の啓示によらず、神の教えを宗教から知っている他の者によって神の教えを教えられるのである、この主題については、「新エルサレムの聖書の教義」(114−118)を参照されよ。

 

 

 

聖書114

 

 このことは以下のすでに言いもし、示しもしたことから全般的な結論として生まれてくる、例えば、聖言は神的真理そのものである(1−4)、それは天界の天使たちと連結する手段である(62−69)、その中の凡ゆる所に主と教会との結婚があり、従って善と真理との結婚がある(80−89)、教会の性質は聖言に対するその理解に左右される(76−79)、聖言は天界にもまた存在していて、天使たちはそこから知恵を得ている(70−75)、教会外の諸国民と諸民族もまた聖言により霊的な光を得ている(104−113)、その他さらに多くのことが言われている。この凡てから、聖言がないなら誰一人、神を知り、天界と地獄を知り、死後の生命を知ることに在る霊的な理知を持たないであろうし、主について、主に対する信仰と主に対する愛について何ごとも知らないであろうし、また贖い[贖罪]についても何ごとも知らないであろうことが結論づけられることが出来るが、それでもそのことから救いが生まれてくるのである。主もまたその弟子たちに以下のように言われている、

 あなたらはわたしがいなくては何一つ為すことは出来ない(ヨハネ15・6)。

 またヨハネは言った、

 人は天から与えられなくては何一つ受けることは出来ない(ヨハネ3・27)。

 

 

 

聖書115

 

しかし聖言がなくても人間は神の存在を、天界と地獄を、その他聖言から教えられている事柄を凡て知ることができると主張し、またそうした見解を確認もしている者がいるため、また彼らはそのことによって、たとえ唇でなくても、心の中で、聖言の権威と聖さとを弱めてもいるため、それで彼らと聖言から論じることは不可能であって、ただ合理的な光からのみ彼らと論じることしかできない、なぜなら彼らは聖言を信じていないで、自分自身を信じているからである。[こうした凡ての者に私たちは言おう]そのことを合理的な光から探求されよ、さすればあなたらは、人間の中には理解と意志と呼ばれる生命の二つの能力があって、理解は意志に服従しているが、意志は理解に服従していないことを知られるであろう、なぜなら理解は単に道を教え、示すにすぎないからである。さらに探求されよ、さすればあなたらは人間の意志は、その人間自身のものであって、これはそれ自身において観察されるならば、悪意外の何ものでもなく、そこから理解の中に誤ったものが発生してくることを知られるであろう。

 

 

 

聖書115[2]

 

こうした事実を発見されたなら、あなたらは人間は人間自身からはその人間の意志の自分自身のものから来ているものを除いては何ごとをも理解しようとは欲しないことを知られるであろうし、また人間はある何か他の源泉があって、そこからそれを[人間の意志の自分自身から来ていないものを]知ることが出来ない限り、それを知ろうと欲することが出来ないことも知られるであろう。人間はその意志の自分自身のものからはその人間自身と世とに関係したものを除いては何ごとも理解しようとは欲しないのであり、これを超えて上に在るものはすべて彼には暗闇に包まれているのである。それで彼が陽、月、星を眺め、たまたまその起原について考えもするとき、それらはそれら自身から[おのずから]存在しているとしか考えることは出来ず、それ以外のことをいかにして考えることが出来よう。彼はその思いを、神による万物の創造を聖言から知らされているという事実にも拘らず、ただ自然のみしか承認していない世の学者らの多くの者よりも高く高揚させることが出来るであろうか。それでこの学者らは聖言から何ごとも知らなかったとするなら、何を考えていたのかと。

 

 

 

 

聖書115[3]

 

神と霊魂の不滅について書いたところの、アリストテレス、キケロ、セネカといった古代の賢人たちはそのことを彼ら自身から得たのであるとあなたは信じられるか。そうではない、(彼らはそれを)他の者から得たのであって、その他の者もそれを、初めてそのことを[古代の]聖言から知った者たちから言い伝えられて、得たのである。自然神学について記した者たちもその者自身からそうした事柄を得ているのではない。彼らは単に聖言を持っていた教会からすでに熟知していたものを合理的な論旨によって確認しているにすぎないのであって、その中にはそれを信じもしないで確認している者もいるのである。

 

 

 

神の摂理254

 

「単に自然的な人間は色々な民族の諸宗教を考察するとき、例えば、或る人々は神を全然知らず他の者は太陽や月を、または偶像や彫像を拝しているのを見ると、神的摂理に対する不信仰を確認する」。これらの事実を神的摂理に対する反証として用いる者は天界の無数のアルカナを全く知らないものであり、またそのアルカナは殆ど一つとして人間には知られていない、その中には以下のアルカナが含まれている、即ち、人間は天界から直接に教えられないで、間接に教えられ、福音は地球に住む凡ての者に宣教師から宣べ伝えられることは出来なかったものの、宗教は世界の最も遠い地方に住む民族にすら種々の方法で伝えられることが出来たため、そのことは、神的摂理により起ったのである。なぜなら何人もその宗教を自分自身から得ないで、他の者から伝えられて得、その他の者も、神、天界、地獄、死後の生活が在り、真の幸福は神を拝することから生まれることを、聖言から直接学んだか、また聖言から教えられた者たちから聞いたか、しているからである。宗教は古代の聖言から、後にはイスラエルの聖言から全世界に広まったことは「新エルサレムの聖書の教義」(101−103)に見ることが出来、そして聖言なしには何人も神、天界と地獄、死後の生命を知らず、まして主を知らないことも同書(114−118)に見ることができよう。

 

 

 

 

3.人間は人間に何を信じなくてはならないか、何を行わなくてはならないかを知らせる信仰の諸々の知識を先ず自分の中に播かれない限り、地のように善い物は何一つ生み出すことは出来ない

 

 

天界の秘義44

 

人間は人間に何を信じなくてはならないか、何を行わなくてはならないかを知らせる信仰の諸々の知識を先ず自分の中に播かれない限り、地のように善い物は何一つ生み出すことは出来ない