わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である

(ヨハネ15・5)

 

 

天から与えられなければ、人は何も受けることができない(ヨハネ3・27)

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.愛の実を結ぶこと、即ち、忠実に、誠実に、勤勉に、自分の職務の業を行うこと

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ15・1−10

 

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。

しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊に実を結ぶように手入れをなさる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊に実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2904

 

 主から発していない真理は真理ではない、そのことはまた聖言から由来している信仰の教義からも明白である。それは、ヨハネ伝における聖言から明白である―

 

人間は天から与えられなくては、何ものも受けることはできない(ヨハネ3・27)。

 

また他の所には―

 

  わたしとともにいないかぎり、あなたたちは何ごとも為すことはできない(ヨハネ15・5)。

 

そのことは信仰の教義からも明白である、すなわち、信仰の凡ゆるものは、すなわち、真理はことごとく主から発しているということから明白である。

 

 

 

天界の秘義2904

 

 []聖言における表象的のものと表意的なものとはことごとくその一切のものはその最高の意義では、主にかかわっていて、そこから聖言の生命そのものが発しており、それらは主に関わるものであるため、また主の王国にかかわっている、なぜなら主はその王国における凡てのものであられ、その王国における主から発している神的なものが王国を作っているからである。それゆえ天使が、霊がまたは人間が主から善と真理とを受け、それが主から発していることを信じるに比例して、益々その者は主の王国の中にいるが、善と真理を受け入れないで、それが主から発していることを信じないに比例して、益々その者は主の王国の中にはいないのである。かくて主から発している神的なものは、主の王国を、または天界を作っており、そのことが主がその天界における凡てのものであられることにより意味されているところである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P200

 

 牧者で航海者ペトロ!いつかあなたは、牧者だけでは足りず、航海者だけでも足りないであろう。地獄的で残酷なタコの足の群れが羊たちを奪おうとするのを守るためには、双方とも備わった者とならねばならない。恐るべき時代に、牧者または航海者としてのあなたの羅針盤が命と救いになる。それにすべてが語られている。聖なるすべての上智、霊魂たちの問題に対してのすべての回答は、そこにすべて書かれている。では、司祭たちと信者たちとが、その方針を離れないように努められよ。福音と方針にどんな疑いも生じさせないようにせよ。福音に理屈っぽい変化がないように注意せよ。福音とは私自身である。誕生から死に至るまで。福音には神がおられる。なぜならば福音には御父と子と聖霊の業が現わされているからである。福音は愛である。私は言った。・・・私の言葉は生命である。私は言った。・・・神は愛である。そのために民々は私の言葉を知り、自分たちの中に愛、すなわち神をもつべきである。それは神の国をもつためにである。なぜならば自分の中に神を持たない人は、自分の中に生命をもっていないからである。神のみ言葉を迎えようとしない人々は、御父と一致することはできず、私が望むような聖なる柵の者でもあり得ない。彼らはぶどうの木の枝ではないだろう。私の言葉をすべて、もしくはある部分を拒む人には、ぶどうの木の樹液は流れていない。私の言葉は養い生長させ、そして実を結ばせる樹液である。あなたたちに教えた以上の事を、すべて私の記念として行うべきである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P190

 

イエズス:

キリストは人々のために、この世界を離れる前に多くの奇跡を行い、人々のために死に至るまで人間を愛した後、さらにもう一つのある奇跡を行った。それは、私の体と私の血である。それを私の記念として行い、宗教生活の基盤とするように、私の代々の後継者にそれを行うようにと命じてある。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P202

 

私は御父の所に戻るが、あなたたちを独りぼっちでは残さない。あなたたちに聖体、すなわち人間の糧となったあなたたちのイエズスと聖霊を残すから、聖霊があなたたちを導くであろう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P221

 

ヨハネは、イエズスの腕に自分をゆだねて激しいすすり泣きに全身を震わせながらも、皆の望みを直感し、イエズスに頼む。

「私たちを今、この時に強めてくださるように、あなたのパンをください」

 

「・・・そうであるように!」と、イエズスは答えて一片のパンを取り、それをささげて祝福し、裂いて儀式の言葉を述べる。同じようにぶどう酒に対しても行い、その言葉を繰返す。

 

そして言う。

「これを私の記念として行いなさい。私がこの愛の記念を残すのは、いつの日か、あなたたちが私と共に天の国にいるように、また、いつまでもあなたたちと共にいるためである。

 

 

 

 

天界の秘義10227

 

 主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]とが生まれてくるのである。この凡てから或る者は賢明になり、また或る者はそれほど賢明でなくなることが何処から生まれてくるかが明白であり、また富んだ者はさらに多く捧げてはならないし、貧しい者もさらに少なく捧げてはならない理由も明白である―すなわち、凡ての者は同じく賢明になる能力をもっているのであり、実に賢明になる等しい能力をもっているのではないが、何れも賢明になることができるため、賢明になる能力をもっていることにおいては似ているのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・3・2

 

 このみ言葉がなければ、だれひとり明らかに悟ることも正しく判断することもできない。

 

 

 

 

 

4.愛の実を結ぶこと、即ち、忠実に、誠実に、勤勉に、自分の職務の業を行うこと

 

 

結婚愛9

 

あなた方は神を賛美することの意義を知られない。それは愛の実を結ぶことです。即ち、忠実に、誠実に、勤勉に、自分の職務の業を行うことです―なぜならそれが神に対する愛と隣人に対する愛に属しているからです。またそれが社会とその善のきずなともなっています。それによって神は崇められ、そこから定期の礼拝によって崇められるのです。あなた方は主の以下の御言葉を読まれませんでしたか―

 あなたらが多くの果を結ぶことによって、わたしの父は崇められたもうのである、かくてあなたはわたしの弟子となるでしょう(ヨハネ15・8)。