洗礼

 

割礼洗者ヨハネ

荒れ野で叫ぶ者の声がする(マルコ1・3)

 

 

 

 

. 聖書より

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.聖母から司祭へ

5.サンダー・シング

6.幼児洗礼

 

 

 

. 聖書より

 

 

マタイ3・13−15

 

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

 

 

 

マタイ3・11−12

 

 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。

 

 

 

マタイ28・19

 

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

 

 

 

マルコ16・16

 

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

 

 

使徒言行録2・37−42

 

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 

 

 

使徒言行録8・36−38

 

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。†

 

 

 

使徒言行録10・45−48

 

「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。」

 

 

 

ペトロ1・3・21

 

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

新エルサレムの教義202

 

 洗礼は人間が教会に属していることを表すしるしとして、また人間が再生しなくてはならないという記念として定められた、なぜなら洗礼で洗われることは再生という霊的に洗われるということ以外の何ものでもないから。

 

 

 

新エルサレムの教義203

 

 再生はすべて主によって信仰の諸真理とそれに従った生活とを通して行われる。それで洗礼は人間は教会に属しており、再生することが出来ることを証している、なぜなら教会には主が承認され、主のみが再生させられ、またそこには信仰の諸真理を含む聖言が在り、それによって再生が行われるからである。

 

 

 

新エルサレムの教義204

 

 このことを主はヨハネ伝で教えられている。 

 

 人は水と霊とで生まれなくては、神の国に入ることはできない(3・5)。

 

『水』は霊的意義では聖言から発している信仰の真理であり、『霊』はその真理に従った生活であり、『生まれること』はそれによって再生することである。

 

 

 

新エルサレムの教義205

 

再生する者は凡てまた悪と誤謬に対する霊的争闘である試練を受けるため、それもまた洗礼の水により意味されている。

 

 

 

新エルサレムの教義206

 

 洗礼はこうしたことのしるしと記念であるため、人間は幼児の頃でも洗礼を授けられることができ、そのとき授けられないならば、成人後授けられることが出来る。

 

 

 

新エルサレムの教義207

 

 それで洗礼を受けた者は、洗礼それ自身は信仰も救いも与えはしないし、それはもし彼らが再生するならば、信仰を受けて救われることが出来ることを証していることを知らなくてはならない。

 

 

 

新しいエルサレムの教義208

 

 このことからマルコ伝の主の御言葉の意義を認めることができよう―

 

 信じて洗礼を受ける者は救われるであろう、しかし信じない者は罪に定められであろう(16・16)。

 

『信じる者』は主を承認し、主から聖言を通して神的真理を受ける者であり、『洗礼を授けられる者』は主によりその真理によって再生する者である。

 

 

 

新エルサレムの教義209

 

『足を洗うこと』は自然的な人を清めることを意味した(3147、10241番)。主により『弟子たちの足が洗われること』の意味が説明されている(10243番)。

 

 

 

天界の秘義2702[17]

 

このすべてから、今や、聖言で『水』により意味されていることを知ることができよう。またそこから洗礼における水により意味されていることも知ることができるのであり、そのことについては主はヨハネ伝で以下のように話されているのである―

 

 人は水と霊から生まれないかぎり、神の国に入ることはできない(ヨハネ3・5)。

 

すなわち、『水』は信仰の霊的なものであり、『霊』は信仰の天的なものであり、かくて洗礼は人間が主により信仰の諸真理と諸善とにより再生することのシンボルである。再生が洗礼により行われるのではなくて、洗礼の中に意味されている生命[生活]により行われるのであり、その生命[生活]の中へ、聖言を持っているため、信仰の諸真理を持っている基督教徒は入らなくてはならないのである。

 

 

 

天界の秘義5120[12]

 

このことから、試練は悪が誤謬を手段として善と真理とに対し戦うことを通して起きるため、『杯』は試練であることが明白である、なぜなら洗礼は再生を意味しており、再生は霊的な争闘により行われるため、それで『洗礼』により同時に試練が意味されるからである。

 

 

 

天界の秘義9818[23]

 

ダビデの書には―

 

神エホバはその天使たちを霊となし、彼に仕える者たちを燃える火となされる(詩篇104・4)。

 

ここでは『天使たちを霊とすること』は神的な真理を受ける者たちを意味し、『彼らを燃える火とすること』は神的な善、すなわち、神的な愛を受ける者たちを意味している。マタイ伝には―

 

ヨハネは言った、私は悔改めのため水であなたらに洗礼を授けます、しかし私の後から来られる方は聖霊と火をもってあなたたちに洗礼を授けられるでしょう(3・11)。

 

ここで『洗礼を授けること』は再生させることを意味している。『聖霊をもって』は、神的な真理によって、を意味し、『火をもって』は、神的な愛の神的な善から[神の愛の神の善から]、を意味している。(『洗礼を授けること』が再生させることを意味していることについては、5120、9088番を参照し、『火』が神的愛の神的善を意味していることについては、4906、5215、6314、6832、6834、4849、7324番を参照されたい)

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教/第十二章[T]

 

聖言の霊的義の知識なくしては、二つの礼典、即ち洗礼と聖餐の意義と用を知ることが出来ない。

 

 

 

真の基督教667

 

 聖言の各部分には、今まで知られていなかった霊的な意義がある。しかし現今それは主によって建設さるべき新しい教会のために啓示されたのである(聖書および十誡に関する章を参照)。その霊的な意義の啓示なくしては、洗礼と聖餐の二つの礼典を、その自然的なまたは文字的な意義に由らなくて何人が考えることが出来ようか。それで彼は語るであろう、「洗礼は嬰児の頭に水を注ぐ以外の何であろうか。これは救いに何の関係があるのか。また聖餐はパンと葡萄酒とに与る以外の何であろうか。これもまた救いとは何の関係があるか。さらにその聖さには、それが教会の権威により聖い神的なものとして薦められているということ以外に如何なる保証があるか。それはそれ自らにおいては単なる儀式に過ぎず、神の言に是認されて礼典になるものと教会が断定するだけである。」私は平信徒と教職者にこれが彼らのその二つの礼典観を正確に現わしていないかと訴えるのである。しかし洗礼と聖餐はその霊的な意義において考察されるならば、それらの用により間もなく明らかとなるように、礼典の最も聖い物である。この用はその霊的な意義によってのみ示されることが出来る。そうでないならば、それは神の命令によって定められたために聖い単なる儀式として認められるに過ぎない。

 

 

 

真の基督教668

 

洗礼が命ぜられたことは、ヨハネがヨルダンで洗礼を授け、そこへユダヤとエルサレムの凡ての人々が出かけて行ったことによって明白である(マタイ3・5、6。マルコ1・4、5)。我々の救い主なる主もまた自らヨハネから洗礼を受け給うた(マタイ3・13−17)。さらに主はその弟子達に凡ゆる国人に洗礼を授けることを命じ給うた(マタイ28・19)。明らかにこの制度の中には神的な物が在り、それは聖言の霊的な意義が知られなかったために、現在まで隠れていたのである。しかしこの意義は現今啓示されたのである。何故なら、真の基督教会は今始まりつつあり、前の教会は単に名目のみの基督教であり、事実のそれではなかったからである。

 

 

 

真の基督教669

 

洗礼と聖餐は王の笏の二つの宝石のようなものであるが、その用が知られないならば、黒檀の杖に彫刻された二つの像のようなものである。それらはまた皇帝の上衣の上の二つの紅玉、または紅水晶に譬え得られよう。しかし、その用が知られないならば、それは単に普通の上着の上の二つの紅王髄、または水晶のようなものであるに過ぎない。霊的な意義によって示されるようなそれらの用の意義を知らなくては、それにかかわる憶測は、星による占い、または鳥の飛行または獣の内臓による占いのようなものであろう。それらの用は、地下に沈んで周囲の廃墟の中に殆ど完全に埋もれている古代の神殿に譬えることが出来よう。その上を青年や老人が歩いたり、また車を走らせたりして、足下に金の祭壇、銀の壁、宝石の装飾のある神殿がある事を知らないのである。これらの物は今日新しき教会に対し主を礼拝するに当り有用であるために明らかにされた所の霊的な意義に由らない限り、掘り出されて明るみに出されることは出来ない。この二つの礼典はまた二階建ての神殿に譬え得られよう。一階には主の新たに来り給うことと、またそのことによって可能となる再生と救いとについて福音が宣べ伝えられている。その祭壇からは二階に至る昇り口があり、二階には聖餐が行われており、この二階からは天界へ至る通路があり、礼拝者達は天界へ主によって受け入れられているのである。この二つの礼典は、また幕屋に譬えることが出来よう。その内には燈台が備えられていて、そこには燈が点ぜられ、その光に供えのパンの机と金の香壇が照らされている。そして遂に自らが光に照らされることを許す者に対して、帳が傍に引かれ、至聖所が示され、そこに十誡を入れた櫃の代わりに聖言が安置されており、その上に金のケルビムと共に贖罪所があるのである。これらの物は洗礼と聖餐をその用と共に表している。

 

 

 

[U]「洗礼と呼ばれる洗いは霊的な洗いを意味する。すなわち、諸々の悪と虚偽とから潔められることを意味し、かくて再生を意味している。」

 

真の基督教670

 

 洗うことはモーゼの法令に命ぜられた。アロンはその祭司の衣服を着る前に(レビ16・4、24)、また祭壇に近づく前に(出エジプト記30・18−21。40・30、32)、自らを洗うことを命ぜられた。レビ人達も同様であった(民数8・6、7)。また諸々の罪によって汚れた者となった者達も同様であった。彼らは洗われることによって、潔められたと言われている(出エジプト記29・4.40・12.レビ8・6)。洗うために真鍮の海と幾多の鉢とが神殿の近くに置かれた(列王記上7・23−39)。実にレビ人たちは机、椅子、寝床、皿のような器物、什器を洗うことを命ぜられた(レビ11・32.14・8、9。15・5−12。17・15、16。マタイ23・25、26)。これらの洗いはイスラエルの子孫のために命ぜられたのである、それは彼らの間に建設された教会は来らんとする基督教会を予め形で表した表象的なものであったからである。それ故、主は世に来り給うた時、外的な表象的なものを廃止し、その内における凡ゆる物は内的でなくてはならない教会を設立し給うたのである。かくて、主は、人が帳を除けて、または戸を開き内なる物を示され、これに近づくことを許すように、表象を取り除け、形そのものを示し給うたのである。その表象的な物の中から、主はその内的な教会に関わる凡ゆる物を概括している二つの物のみを保留したもうた。その二つとは洗いに代わる洗礼と、日々犠牲として捧げられたところの子羊に代わる聖餐であった。

 

 

 

真の基督教671

 

 上記の洗いは霊的な潔めを、または諸々の悪と虚偽から浄められることを表すことは、以下の記事によって極めて明白である、「主は審判の霊と潔めの霊とをもてシオンの娘らの汚れを洗い去り、エルサレムの血を清め給わん時」(イザヤ4・4)。「汝は自らを囌咑(そうだ)をもて洗い、またおおくの灰汁を加うるも、汝の悪は汚れを残さん」(エレミア2・22。ヨブ9・30、31)。「我を悪より洗い給え、さらばわれ雪よりも白からん」(詩篇51・7)。「エルサレムよ、汝の心の悪を洗い潔めよ、さらば救われん。」(エレミア4・14)「汝ら己を洗い、己を潔くし、わが眼前よりその悪業を去り、悪を行うことを止めよ。」(イザヤ1・16)教会の内的な物は凡てイスラエル教会の外的な儀式によって表されていたように、人間の霊の浄めは、その身体を洗うことによって意味されている。以下の記事を参照されよ。「パリサイ人と学者らは彼の弟子達の中に洗わぬ手にてパンを食する者のあるを見てこれを難じたり。パリサイ人と凡てのユダヤ人はその手を懇ろに洗わずば食わず。このほか酒杯、鉢、銅の器、臥床を洗う等、多くの伝を受けて固く執りたり。彼らと群集に主は言い給う、汝ら皆われに聴きて悟れ、外より人に入りて人を汚し得るものなし、されど人より出づるものは、これ人を汚すなり」(マルコ7・1−4、14、15)。洗礼と呼ばれる新しい洗いは明らかに諸々の悪と虚偽からの霊的な浄化を意味する。

 

 

 

真の基督教672

 

 普通の洗浄は身体を浄めるが霊を浄めることは出来ない。何故なら、如何なる盗賊、掠奪者、強盗でもその身体を輝くまでに洗うことが出来るが、彼の盗み、掠(かす)め、奪う性向はそれによって洗い去られるであろうか。内的なものは外的なものに働きかけるが、外的なものは内的なものに働きかけはしない。それは自然と神的秩序とに反している。

 

 

 

真の基督教673

 

 内なる人が諸々の悪と虚偽から浄められない限り、洗いも、洗礼も、ユダヤ人が杯と皿を洗い、または「外は美しく見ゆるなれど、死人の骨と凡ゆる不潔に充つる」墓を白く塗ると同様に何の効果も無い(マタイ23・25−28)。実に地獄の多くの悪魔はこの世では洗礼を受けたのである。それ故、洗礼は間もなく明らかにされるところのその用と実とが無いならば救に寄与しないことは、法皇の三重の冠またはその靴の十字架の印が彼の法皇としての卓越に、監督の上着がその職責の真の遂行に、王の玉座、冠、笏および衣服がその王としての権能に、学殖のある博士の頭上の絹の帽子が彼の理知にまたは騎兵部隊の旗が彼らの戦の勇気に寄与しないと同様である。羊または子羊が剪毛の前に洗われても清められないように、洗礼は人間を清めることは出来ない。何故なら、霊的な人から分離された自然的な人は、単に動物に過ぎず、実に上述したように、彼は野獣よりも狂暴であるからである。貴方がたは雨水、露、最も純粋な泉をもって洗われたにしても、あるいは予言者の言葉を借りて言えば、例え日々囌咑(そうだ)、ヒソプ、または灰汁を以て浄められるにしても、再生に由らない限り、不法からは浄められることは出来ないのである(悔改め、改良、再生に関する章を参照)。

 

 

 

[V]「陽の皮の割礼は心の割礼を意味した。而して内的な教会が外的な表象的な教会に続いて起るために、洗礼は割礼の代わりに制定されたのである。」

 

真の基督教674

 

 内的な人または霊的な人と外的なまたは自然的な人とが存在することは基督教世界には良く知られている。而して教会は人間から成っている故、内的な教会と外的な教会が在ることもまた知られている。もし教会が古代から現代に至るまで継続して来たその順序において考察されるならば、前の教会は外的なものであり、換言すれば、彼らの礼拝は外的な儀式から成り、この儀式は主がその降臨において創設し、今建設し給いつつある基督教会の内的な物を表象したことが認められるであろう。イスラエル教会の特異な儀式は割礼であった。而してイスラエル教会の凡ゆる外的な儀式は基督教会の内的なものの予表であった為、イスラエル教会の主要な特色は内的には、基督教会のそれに類似していた。何故なら、割礼は肉の諸々の悪念を排除し、諸々の悪から浄められることを意味し、洗礼も類似の意義を持っているからである。基督教会はユダヤ教とは異なって内的な教会であることを示すために洗礼は割礼の代わりに命ぜられたのである。下記の洗礼の用についての説明はこれを明らかにするであろう。

 

 

 

真の基督教675

 

 割礼はイスラエル教会の人々はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であったことを示す印として制定されたことは、以下の語によって明白である、「神アブラハムに言い給いけるは、これは我と汝と汝の後の子孫との間に守るべきわが契約なり、汝らの中の男子は割礼を受くべし、汝らその陽の皮の肉を割くべし、これ我と汝らの間の契約の徴なり」(創世記17・10、11)。この契約あるいはその印は後にモーゼにより確立された(レビ12・1−3)。而してイスラエル教会はこのことによって他の凡ての者から区別された為、イスラエルの子等はヨルダンを渡る以前に、再び割礼を受けることを命ぜられた(ヨシュア5)。これはカナンの地は教会を表し、ヨルダン川はその教会へ入れられることを表すためであった。さらに彼らはカナンの地にその印を忘れないように、次の誡命が与えられた。「汝らかの地に至りて、樹を植ん時はその果実をもて割礼を受けざるものと見るべし。即ち三年の間汝らこれをもて割礼を受けざる者となすべし、これは食はれざるなり」(レビ19・23)。割礼は洗礼のように、肉の諸々の欲念を斥け、諸々の悪から浄められることを表したことは、イスラエル人が心の割礼を受くることを命ぜられている聖書の記事によって明白である。モーゼは語った。「然れば汝ら心の陽の皮に割礼を行え、重ねて頸を頑にするなかれ」(申命記10・16)、「汝の神エホバ汝の心と汝の子等の心に割礼を施し、汝らをして心を尽くし、魂を尽くして汝の神エホバを愛せしめ、かくして汝に生命を得させたまふべし」(30・6)。「ユダの人々とエルサレムに住める者よ、汝らみずから割礼を行いて、エホバにつき己の心の前の皮を去れ、然らざれば汝等の悪行の為に怒火の如くに発して燃えん、これを消すものなかるべし」(エレミア4・4)。「イエス・キリストに在りては割礼を受くるも割礼を受けぬも益なく、ただ愛によりて働く信仰と新たに造らるることのみ益あり」(ガラテヤ5・6。6・15)。肉の割礼は心の割礼を表し、それはまた諸々の悪から浄められることを意味する故、洗礼は割礼に代ったことを、これらの記事は示している。何故なら、凡ゆる種類の悪は肉から起り、陽の皮はその不潔な愛を意味するからである。割礼と洗礼とは同一の事柄を意味する故、エレミア記には「エホバに向いて汝ら自らに割礼を行い、己の心の前の皮を去れ」(4・4)、また「エルサレムよ、シロを悪を洗い潔めよ、然らば救われん」(4・14)と語られている。割礼と心を洗うことは何を意味するかを主はマタイ伝(15・18、19)に教え給うている。

 

 

 

真の基督教676

 

 自らは割礼を受けあるいは洗礼を受けているために、選ばれた者であると信ずるユダヤ教徒や基督教徒が多い。しかし、割礼と洗礼とは彼らが諸々の悪から浄められ、かくて選ばれた者とならねばならないという印と記念としてのみ制定されたに過ぎないのである。内的な敬虔を伴わぬ外的な儀式は礼拝の無い教会、作物の無い畠、実の無い葡萄、あるいは主の呪い給うた果を結ばぬ無花果の木(マタイ21・19)または愚かな処女達の手にしていた油の無い燈(25・3)のようなものである。それは床の上に死体があり、壁の周囲に骨があり、屋根の下を妖怪が飛んでいる納骨堂、または豹に引かれ、狼に運転され、白痴が内に座っている戦車のようなものである。何故なら外なる人は単に人間の外形に過ぎず、真の人間を作るものは神から発する智恵によって照示された内なる人であるからである。割礼または洗礼を受けた者達も、もし心に割礼を受けまたはこれを洗わない限り、同様である。

 

 

 

[W]「洗礼の第一の用は基督教会に導き入れられ、その結果霊界の基督教徒と連なることである」

 

真の基督教677

 

洗礼は単に基督教会へ導き入れられることに過ぎないことは、以下の考察により明白である。(1)洗礼は割礼の代わりに制定された。而して割礼はこれを受けた者達はイスラエル教会に属したことを示す印であったように、洗礼はこれを受ける者達は基督教会に属することを示す印である(前項参照。)而して二人の母親の子供達を区別し、その子供達が取り代えられないようにするために、これに異なった色の産衣を着せるように、この印は見分ける手段以外の何物でもない。(2)洗礼を授けられた幼児は木の若枝のように、その理性を用いて信仰を獲得することは出来ない。(3)基督教に改宗する者は老若を問わず、洗礼を受ける。而してこの洗礼は彼らが基督教を抱こうとの願望を表しさえするならば教訓を受ける前に行われる。これもまた使徒達は凡ゆる国人を弟子となし、これに洗礼を授けねばならないとの主の言葉に従い行なったところであった(マタイ28・19)。(4)ヨハネはユダヤとエルサレムから彼の許へ来た凡ての者にヨルダン川で洗礼を授けた(マタイ3・6、マルコ1・5)。彼はヨルダン河で洗礼を授けたのは、カナンの地へ入るにはヨルダン河を渡らねばならなかったからである。カナンは教会を意味したのである。それは教会が其処に在ったからである。それ故ヨルダンはその教会へ入れられることを意味していた(「黙示録の啓示」285番参照)。この教会へ入れられることは地上に生ずるが、しかし、洗礼はまた幼児達をキリスト教天界と接触させ、天使達は彼処に彼らを守護することを主より命ぜられる。嬰児が受洗されると、天使はすぐ任命されてその子供達を主から信仰を受ける状態に居らせる。しかし、彼らは成長し、自分で考え且つ行動するようになるとその守護天使は彼らを離れ、かくて青年達は自分達の生活と信仰とに一致する霊達を自らの交友として惹き寄せる。それ故、洗礼はまた霊界に於けるキリスト教徒との連結へ導くものである。

 

 

 

真の基督教678

 

霊界では幼児のみでなく他の者も凡て、洗礼によってキリスト教徒の間に入れられる。何故なら、その世界では互いに異なった民や、国人はその宗教によって区別されるからである。基督教徒は中央に、回教徒はその周囲に、偶像教徒は回教徒の背後に、ユダヤ人は両側に居る。さらに、同一の宗教を奉じている者は凡て天界では、神と隣人への愛の種々の形に従って、地獄では、その反対の悪い欲念の種々の形に従ってそれぞれ異なっている社会に排置される。霊界では、すなわち天界と地獄には凡てのものは全般的にまた個別的に最も入念に配置されている。何故なら、全宇宙の維持はその配置に依存しているからである。各人は何れの宗教団体に属しているかを示す或る印によって他と区別されない限り、こうした区別は不可能であろう。何故なら洗礼というキリスト教的な印がなければ、或る回教徒または偶像教徒の霊がキリスト教の幼児と子供達に関係を持つようになり、これに己が宗教に対する愛着を注ぎ込むことが出来るからである。これは彼らの心を乱し、彼らをキリスト教から離反させ、かくして霊的秩序を歪曲し、破壊するであろう。

 

 

 

真の基督教679

 

 凡ゆるものの調和は秩序に懸かっており、而して多様な全般的秩序と個別的秩序とがある。而して凡ゆるものの依存している一つの普遍的な秩序が存在している。何故ならそれは本質がその形の中に入るように他の凡ての物に入り、これを一つのものとして結合させるからである。この結合が全宇宙の維持を確保している。もしそれが無ければ、全宇宙は原始の混沌に還るか、あるいは絶滅するかするであろう。人間の身体では凡ての物は極めて完全な秩序を以て配列され、それらの物に共通の生命は心臓と肺臓とに依存している。そうでなければ、混乱が起り、互に異なった器官はその働きを遂行し得ないであろう。何故なら、全体とその各部とにその特有な単一性を与えるものは秩序であるから。さらに、人間の心または霊に於いて秩序がその全般的な生命と意志と理解とに依存させている。このような秩序が無いならば、人間はその絵または像と同様に考えることも欲することも出来ないであろう。人間は天界から最大の秩序をもった流入を受けない限り、如何になるであろうか。而して、この流入は全宇宙とその凡ての部分が依存しているかの普遍的なものが無いならば何であろうか。何故なら、凡ゆる物は神に依存し、彼の中にまた彼によって生活し、動き、その存在を得ているからである。

これは無数の方法によって自然的な人間に説明することが出来よう。帝国または王国は秩序なくしては人殺し、強盗の一団に堕落するであろう。都会または家庭は秩序なくしては何になるであろうか。而して王国、都会、または家はその各々に或る至高の権威が無い限り、如何ようになるであろうか。

 

 

 

真の基督教680

 

 さらに、区別無くして秩序は何であろうか。而して区別は働きをしめす印無くしては何であろうか。何故なら働きを知ることなくしては秩序は認め得られないから。王国では印は位階の称号であり、それに附せられている行政上の職能である。ここから凡てのものが一つのものとして組織づけられる正当な従属関係が生まれる、このようにして王はその王の権能を多くの者の間に分かち、かくしてその王国を堅固なものにするのである。

一つの軍隊は連隊に、大隊に、小隊に組織され、その各々の上に上官が置かれ、凡ての士官の上に一人の司令官が置かれない限り、その軍隊は如何なる力をもつであろうか。而して各単位の位を示す旗と呼ばれる印がないならば、これらの排列は何に役立つであろうか。この手段によってその軍隊は一人の者として戦うのである、もしそうでなければ彼らは狂犬のように、敵に向かって荒々しく飛びかかり、やがてその勇気が尽く喪失するや、良く組織された敵により粉砕されてしまうであろう。それ故洗礼は霊界ではその人は基督教徒であるという印である。何故なら、かの世界では人は各々その内なるまたは外なる基督教徒的性格に従ってその位置を得るからである。

 

 

 

[X]洗礼の第二の用は、基督教徒は贖罪者にして救い主なる主イエス・キリストを知り、認め、これに従うことである。

 

真の基督教681

 

 この洗礼の第二の用は基督教会に人を導き入れるその第一の用から自然に生まれてくる。第二の用を伴わぬ第一の用は洗礼を笑いぐさにするであろう。それは一人の王に忠誠を誓いその後その律法を否認し外国の王の許に行き、これに仕える従臣に、あるいは或る主人に仕え、その仕着せを着けた後で、逃亡し同じ仕着せを着て他の主人に仕える召使に、あるいは旗を携えて逃げ出し、これを千々に引裂き、投げ棄てる旗持ちに似ている。約言すれば、基督教徒または基督に従う者と呼ばれつつも、しかも彼の誡命を守ることによって彼を認めることをせず、彼に従うことをしない者は、空しい偽り者である。主は語り給う「汝ら我を主よ、主よと呼びつつ、何ぞ我が言ふことを行はぬか」(ルカ6・46以下)。「その日多くの者、我に対ひて主よ、主よと言はん。その時われ明白に告げん、我汝らを知らずと」(マタイ7・22、23)。

 

 

 

真の基督教682

 

 聖言では、主イエス・キリストの名は彼を認め、彼の誡命に従う生活を意味する。「汝神の名を妄りに口にあぐべからず」との第二の誡命の説明を参照されよ(297番以下)。また以下の記事を参照されよ。イエスは語り給ふた、「汝らは我が名のために凡ての人に憎まれん」(マタイ10・12、24・9、10)「二三人我が名によりて集まるところには、我もその中に在るなり」(マタイ18・20)「彼を受けし者、すなわちその名を信ぜし者には、神の子となる権を与え給へり」(ヨハネ1・12)「多くの人々彼の名を信じたり」(2・23)「信ぜぬ者は既に審かれたり、神の独子の名を信ぜざりし故なり」(3・18)。「信じて御名により生命を得ん」(20・31)。「而して汝は我が名の為に労し心ひるまざりき」(黙示録2・3)その他。

 これらの記事の主の名は、主を贖罪者、救い主として認め、彼に服従し、最後に彼を信ずることを意味する。何故なら、洗礼に於いて幼児は主を認め、礼拝するに至ったことを示す十字架の印を、その額と胸とに受けるからである。人間の名もまたその性格を示している。霊界では各人はその性格に従って名を与えられる。それ故、基督教徒の名は基督に対する信仰と隣人に対する仁慈を意味している。このことは黙示録の名によって意味されている。人の子は語り給うた、「サルデスに己が衣を汚さぬ者数名あり、彼らは白き衣を着て我とともに歩まん、かくするに相応しき者なればなり」(3・4)。白い衣を纏うて人の子と共に歩むことは、主に従いその聖言の諸々の真理に従って生くることを意味する。これと同様の事がヨハネ伝の主の名によって意味されている、「イエス言ひ給ふ、羊はその声を聞き、彼は己の羊の名を呼びて、索き出だす。彼は彼らに先立ち行き、羊その声を知るによりて従ふなり。他の者には従はず、他の者どもの声を知らぬ故なり(10・3−5)。「名によりて」は基督教徒としての彼らの性格によってを意味し、彼に従うことは彼の声を聞くこと、即ち主の命令に従うことを意味する。洗礼に於いて凡ゆる者はこの名を印として受けるのである。

 

 

 

真の基督教683

 

 現実性の無い名前は反響、夢見る者の声、または風、海あるいは機械の騒音の如く空しい音響である。称号はそれに結び附けられている職能を伴わないならば虚栄に過ぎない。野蛮人のように生活し、基督の律法を破る基督教徒は洗礼の際、金糸を以てキリストの御名が織り込まれたその御旗の下に、自らを置かないで、悪魔の旗の下に置くものである。基督の印を受けた後、その礼拝を嘲り、その名を愚弄し、彼を神の子として認めず、ヨセフの子と認める者達は、反逆者であり、弑逆者であり、その言葉はこの世でも、また次の世でも赦されることの出来ない聖霊に対する冒瀆である。彼らは聖言に噛みつき、これを千々に引裂く犬のような者である。これらの者はイザヤ書(28・8)およびエレミア記(48・26)に従えば、その凡ての食卓は嘔吐と汚穢に満たされている者である。しかし主イエス・キリストは至高なる神の子にて在し(ルカ1・32、35)、独子にて在し(ヨハネ1・18、3・16)、真の神にして永遠の生命にて在し(ヨハネ第一書5・20)、その中には神性の完全性は尽く身体を成して宿り(コロサイ2・9)、ヨセフの子ではないのである(またい1・25)。

 

 

 

[Y]「洗礼の第三の最終の用は再生である。」

 

真の基督教684

 

 これは洗礼の主要なまた最終の用である。何故なら真の基督教徒は贖罪者であると共にまた再生者にて在す主イエス・キリストを知り、これを認めるからである(贖罪と再生とは一を為している。改良と再生に関する章の第三項を参照)。而して基督教徒はまた再生の手段、即ち、主に対する信仰と隣人への仁慈とを包含する聖言を持っている。これが「彼は聖霊と火とを以て汝らに洗礼を授けん」(マタイ3・11.マルコ1・8、ルカ3・16)の記事の意義である。聖霊は信仰の神的真理を、火は愛または仁慈の神的善を意味し、ともに主から発する(聖霊に関する章および「黙示録の啓示」(395、468番を参照)。信仰と仁慈とに由って主は凡ての再生を遂行し給うのである。主御自らヨハネによって洗礼を受け給ふた(マタイ3・13−17。マルコ1・9.ルカ3・21、22)それは単に主はその模範によって洗礼を制定し給う為のみではなく、さらに人間を再生し之を霊的なものに為し給う如く、自らの人間性を栄化し、これを神的なものに為し給うためであった。

 

 

 

真の基督教685

 

 洗礼の三つの用は目的、原因、結果のように一つのものとして結合されている。何故なら、洗礼の第一の用は人間は基督教徒の名をもつことであり、第二は第一から由来し、人間が主、贖罪者、再生者、救い主を知り、認めることであり、第三は彼によって再生することであるから。このことが起る時、彼は贖われ、救われるのである。天使達はこの三つの用を一つのものとして考えている。それ故、洗礼が執行され聖言の中に読まれ、または語られる時、その場に列席している天使達の理解するものは洗礼ではなく再生である。それ故「信じて洗礼を受ける者は救わるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし」(マルコ16・16)との主の御言によって、天界の天使達は凡て、主を認め再生する者は尽く救われることを理解する。これがまた洗礼は基督教会に再生の洗いと呼ばれる理由である。それ故、洗礼を受けても主を信じない者は何人も再生することが出来ず、洗礼は主に対する信仰無くしては些かの益もないことを(673番)、凡ゆる基督教徒は知らなくてはならない。洗礼は諸々の悪から浄められ、その結果、再生することを意味することは、凡ゆる基督教徒に明白であるに相違ない、何故なら、幼児は洗礼を受ける時、祭司は主の記念としてその額と胸とに十字架の印をつけ、その後名付け親の方へ向いて、この子は悪魔とその凡ての業を斥けるであろうか、彼はその信仰を受けるであろうか否かと尋ねるからである。これらの質問に対し、彼らはその幼児の名に於いて「然り」と答える。悪魔即ち地獄の諸々の悪を斥けることと主に対する信仰とは再生を成就させるものである。

 

 

 

真の基督教686

 

 我々の贖罪者、主なる神は聖霊と火とをもって洗礼を授け給うと聖言に言われている。これは主は人間を信仰の神的真理と愛または仁慈の神的善とによって再生させ給うことを意味する(684)。聖霊、即ち、信仰の神的真理によって再生した者達は、天界で、火即ち愛の神的善によって再生した者達から区別される。前者は白い麻布の衣を着た霊的な天使であり、後者は紅色の衣服を着た天的な天使である。霊的な天使は以下の如く記されている。「彼らは白く潔き細布を着、子羊に従う」(黙示録19・14)、「彼らは白き衣を着て我とともに歩まん」(3・4)而して主の墓場の天使達は白く輝いた衣服を着ていた(マタイ28・3。ルカ24・4)、細布は聖徒達の義を意味する(黙示録19・8)。白衣と細布の衣は神的諸真理を意味する(「黙示録の啓示」379番)。紅色は愛の色である故、天的天使達は紅色の衣を着ている。愛は赤く色づけられて愛を意味する霊的な太陽からこの色を得ているのである(「黙示録の啓示」469、725番)。衣服は真理を意味するため、婚礼の衣裳を着ないで結婚の式場に来た人間は外の暗きに投げ出された(マタイ22・11−13)。

 

 

 

真の基督教687

 

洗礼または再生は天界と地上の多くの物を以って表されている。天界では今、述べたように、それは白と紅の衣服によって、教会と主との結婚によって、新しい地と新し天界とによって、そこから降る新しいエルサレムによって―それについては王座に座し給うた者は、「視よ、我は凡ての物を新になすなり」と語り給うた(黙示録21・5)―「神と子羊との王座から発する生命の水の河」によって(22・1、2)、また燈と油を携え花婿と共に婚礼の式場へ入った五人の賢明な処女達によって(マタイ25・1、2、10)表されている。洗礼を受けた者、即ち、再生した者は、「創造されし者」(マルコ16・15.ロマ8・19−21)および「新に創造られし者」(コリント後5・17.ガラテヤ6・15)によって意味されている。何故なら、創造られし者という言葉は、再生を意味する創造から由来しているからである(「黙示録の啓示」254番)。

世では、再生は春の凡ゆる植物の開花により、果実に至るまでの花の漸進的な発達により、温かい季節の間の凡ゆる木、潅木、花の成長により、凡ゆる果実の成熟により、朝と夕の急雨と露により―それが降り注ぐと花は開き、夜が来ると再び閉じる―庭園と畠から発する芳香により、雲の中の虹により(創世記9・14〜17)、暁の輝かしい色彩により、全般的に身体の不断の更新により―身体を健康に保つことは、いわば不断の再生である―表されている。地上の極めて些細な物ですら再生の姿を見せている。幼虫が蝶に変形する驚異とこれに類似した他の不思議な事柄を考察されよ。恐らく我々は、或る鳥は水浴を好み、その身体を洗った後、新しく歌い出すことに注意を向けることが出来よう。約言すれば、全世界は始めから終わりまで、再生の表象と模型とに充ちているのである。

 

 

 

真の基督教688

 

 マラキ書に、「視よ、我はわが使を遣さん、かれ我面の前に道を備えん、また汝らの求むる所の主すなわち汝らの悦ぶ契約の使者、忽然その殿に来らん。その来る日には誰か堪え得んや。その顕わるる時には誰か立ち得んや。」(3・1、2)さらに「視よ、エホバの大いなる畏るべき日の来るまえに、われ予言者エリアを汝らに遣さん、これは我が来りて呪をもて地を撃つことなからんためなり」(4・5、6)而してゼカリアはその子のヨハネについて予言を為し、「幼児よ、汝は至高者の預言者と称えられん、これ主の御前に先立ちゆき、その道の備をなせばなり」(ルカ1・76)と語っている。而して主自らヨハネについて「視よ我が使を汝の顔の前に遣す、彼は汝の前に汝の道をそなえんと録されし者なり」(ルカ7・27)と語り給う。これらの記事はヨハネは神エホバが世に降り贖罪の業を成就し給うために、その道を備えるべく遣わされた予言者であり、彼は洗礼と、主の来り給うことを宣べ伝えることによってその道を備え、このような準備が無かったならば世の凡ゆるものは呪を以て打たれ、滅亡したであろうことを証しているのである。

 

 

 

真の基督教689

 

 ヨハネの洗礼によって道が備えられた。それは上述したように人はそれによって主の来らんとする教会へ入れられ、メシアの降臨を切望した天界の人々と聯(つらな)ったからである。これらの者は悪魔が地獄から飛び出て彼らを滅ぼさないように、天使たちによって守られた。それ故、マラキ書には「誰かその来る日には堪え得んや」「これはエホバ来りて詛をもて地を撃つことなからんためなり」(3・2.4・6)と記されている。イザヤ書にも同じく、「視よエホバの日は苛くして憤怒とはげしき怒とをもて来らん、我は烈しき怒の日に天を動かし地を震わせてその処を失はしむべし」(13・9、13.22・5、12)。さらにエレミア記にはその日は「荒廃、復讐、破滅の日」と呼ばれ(4・9。7・32。46・10、21。47・4。49・8、26)、エゼキエル書には「怒、雲と深き闇の日」と呼ばれ(13・5。30・3。24・11、12。38・14、16、18、19)、アモスもまた同じく(5・13、18、20、8・3、9、11)、ヨエル書には「エホバの偉大なる恐るべき日、而して誰かこれに堪へん。」(2・1、2、11、29、31)、而して、ゼパニア書には「その日には叫びの声あらん。エホバの大いなる日は近づけり、その日は憤怒の日、艱難および痛苦の日、荒れかつ亡ぶるの日なり、エホバの怒の日に全地は呑まるべし、即ちエホバ地の民をことごとく滅ぼしたまはん」(1・7−18)。他の多くの記事も同様である。凡てこれはエホバの降臨に対する道が、洗礼によって備えられねばならぬことが如何に必要であったかを示している。何故なら、これは天界に諸々の地獄を閉じ、かくしてユダヤ人を全的破滅から救い出す効果をもったからである。この事が無かったならば、全人類は破滅したに相違ない。エホバはまたモーゼに、「我もし直ちに汝らの中に行かば、汝らを滅ぼすにいたらん」(出エジプト記33・5)と語り給うた。ヨハネから洗礼を受けるために彼の許に来った多くの人々に対する彼の言葉と比較されよ。「蝮の裔よ、誰が汝らに来らんとする御怒を避くべき事を示したるぞ」(マタイ3・7.ルカ3・7)。ヨハネはまた洗礼を授けた時、キリストとその来り給うことを宣べ伝えた(ルカ3・16.ヨハネ1・25、26、31−3.3・26)。これは、如何にしてヨハネはその道を備えたかを示している。

 

 

 

真の基督教690

 

 ヨハネの洗礼は外なる人を浄めることを表したが、基督教徒の洗礼は再生即ち内なる人を浄めることを表している。それ故ヨハネは水を以て洗礼を授けたが、主は聖霊と火とを以て洗礼を授け給うたと記されているのである。故にヨハネの洗礼は悔改めの洗礼と呼ばれている(マタイ3・11。マルコ1・4、5。ルカ3・3、16。ヨハネ1・25、26、33。使徒行伝1・22。10・37。18・25)。洗礼を受けたユダヤ人達は、単に外的な人々であった。而して外的な人は、基督に対する信仰無くしては、内的になることは出来ない。我々は使徒行伝にヨハネに洗礼を授けられた人々はイエスの名に於いて洗礼を受け、基督に対する信仰を得た時、内的な人になったことを読むのである(19・3−6)。

 

 

 

真の基督教691

 

 モーゼはエホバに語った、「汝の栄光を我に示し給え、エホバ言いたまわく、汝は我が面を見ること能わず、我を見て生くる人あらざればなり。視よ汝磐の上に立つべし、我が栄光彼処を過る時に我汝を磐の穴にいれ、我が過る時にわが手をもて何時を蔽わん、而してわが手を除る時に汝わが背後を見るべし、我が面は見るべきにあらず」(出エジプト記33・18−23)。何人も神を見て生くる事は出来ない。それは神は神的な愛それ自体にて在し、天使達によって太陽として見られ、我々の世界の太陽が我々から離れているように、彼らから離れているからである。もし、その太陽の最中に在す神が天使達に近づき給うならば、丁度我々の太陽が我々の近くに来ると、我々は死滅するように、彼らも死滅するであろう。この理由からその愛の燃ゆる熱により、天使達は焼き尽くされないように、それは絶えず和らげられ、調節されている。それ故主が天界に在ってさらに赫々と輝き給う時、天界の下に在る邪悪な者共は死の苦悶を嘗め、そのため洞穴と岩の割け目の中へ逃れ入り、「我らの上に倒れよ、而して我々を王座に座する者の面より隠せ」(黙示録6・16。イザヤ2・19、21)と叫ぶのである。主御自身は降り給わない、しかし天使がその愛のスフィアに囲まれて降って来る。彼が近づくや、邪な者は絶望に駆られ、恰も死を逃れるかのように地獄に向って飛び込むのを私は見たのである。

 イスラエルの子等はエホバがシナイ山に降り給う前の三日間備えをし、山の周囲に柵をはって、人を近づいて死なせまいとした(19章)神の指により二枚の石板の上に記された十誡は櫃の中に安置され、贖罪所を上にシロ、二人のケルビムによって守られた、それは何人もエホバの聖さに触れたり、またはこれを見たりしないためであった。アロン自身が一年に一度これに近づき得るのみであり、しかもそれは自らを犠牲と燻物とによって浄めない中は許されなかったのである。数千の数にのぼるエクロンとベテシメシの住民は単に櫃を眺めたのみで死滅した(サムエル前5・11、12、6・19)。同様にアザもこれに触れたために亡くなった(サムエル5・6、7)。

 この僅かな例は、ユダヤ人の若干が、人間の形を取り給うた神エホバにて在ますメシヤを受けるために、ヨハネのバプテスマによって準備されなかったならば、ユダヤ人は如何なる呪いと破滅とを以て打たれたであろうかを示している。而して、これと同様の事が、彼が人間性を取り給わないで、自らを示し給うたならば、起ったであろう。彼らの準備とは、その名を天界に記されて、メシアの来り給うを待ち望んでいる人々の中に数えられることであり、彼らはかくして守護天使によって守られたのである。

 

 

 

真の基督教699

 

 凡て真の基督教徒は洗礼と聖餐は礼拝の最も聖なる物であることを認める。

 

 

 

真の基督教729

 

 聖餐に与るに足る程成長しない中に他界する者は洗礼を通し主によって天界に入れられる。何故なら上述したように、洗礼は基督教会へ導き入れることであり、霊界の基督教徒とつらなる手段であるから。霊界では教会と天界とは同一の物である。それ故かの世界で教会へ入れられることはまた天界へ入れられることである。幼児または少児の頃他界した者達は主の特別の配慮の下に教育され、再生し、かくして主の子等となるのである、何故なら彼らは他の如何なる父をも知らないからである。

 基督教会の外に生まれた嬰児と少児達は、主に対する信仰を受け入れた後、彼らの宗教を奉じている人々に宛てられている天界へ、洗礼以外の手段によって入れられ、基督教天界に在る者と混入しない。実に、凡ゆる国人は、もし、神を認め、正しく生活するならば、救われるのである。何故なら、凡ゆる人は霊的に生まれ、それ故贖いの益を受けることが出来、主は彼等凡てを贖い給うたからである。主を受ける者達、即ち、主に対する信仰をもち、悪を避ける者達は「神の子」「神より生まれし者」(ヨハネ1・12、13、11・52)と呼ばれ、また「御国の子」(マタイ13・38)「後継者」(マタイ19・29、25・34)と呼ばれている。主の弟子達はまた「子達」(ヨハネ13・33)と呼ばれ、凡ての天使もそのように呼ばれているのである(ヨブ1・6、2・1)。

 

 

 

秩序が在る所には主が現存されている

 

天界の秘義6703

 

 主が現存されるときは、凡ゆる物は主の現存そのものにより秩序づけられるのである。主は秩序そのものであられ、それで主が現存される所には秩序が在り、秩序が在る所には主が現存されているのである。その秩序そのものは今以下に記されている頁に記されており、それは諸真理が善の下に正当に秩序づけられるということである。

 

 

 

主の聖言29―経験から―(『仁慈の教義』に併録)

 

人間は各々その者自身と同一の宗教を抱いている霊たちと交わっているため、それで彼と話している霊たちはその人間がその人間の宗教の一部ともしている凡ゆる事柄を確認するのである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P190

 

キリストはどのような新しい奇跡を行うであろうか? キリストは人々のために、この世界を離れる前に多くの奇跡を行い、人々のために死に至るまで人間を愛した後、さらにもう一つのある奇跡を行った。それは、私の体と私の血である。それを私の記念として行い、宗教生活の基盤とするように、私の代々の後継者にそれを行うようにと命じてある。そして、あの晩、あなたたちを清めて、私がどうしたかを覚えているだろうか? 私は一本の手ぬぐいを腰に巻き、あなたたちの足を洗った。その屈辱的な仕草に躓いた一人に言った、『もし、あなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもなくなる』と。あなたたちは、どんな肢体についてであるか、どんな象徴をしているか、私が言いたい事が分からなかった。今、その事について話そう。

私は、あなたたちに謙遜を教え、私の国に与るためにはどんなに清くあるべきかという必要を説き、また私は慈悲深く、もはや義人である人からは、そのための霊と知恵において、清い人からは、汚れるに最もたやすい肢体において、もう一つの洗いを要求する。あなたたちの足、体の一番低い部分、泥と埃、時として芥の中に行くその部分、それは肉体、人間の物質的な部分で原罪をもっていないが、神のみ業として、神しか見えない一番小さい不完全さがある。そして実際には自然の習慣になってしまう。そうならないように小さい不完全さも根の底から戦うべきである。そのためにはその小さいものにも警戒をすべきである。そこで私はあなたたちの足を洗った。いつだったか? パンとぶどう酒を私の体と血に変える前だった。私は神の子羊で、悪魔はその足跡を残した所に下る事ができない。それから私自身をあなたたちに与えた。そのようにあなたたちも洗礼をもって、私に来る人々を洗うべきである。そして私の体を相応しく受け、それによって洗礼が死の恐るべき断崖に変わる事のないように導きなさい。

 あなたたちはびっくりしているのか? それに、ではユダはどうなのかと目で聞き合っている。私は答えよう。ユダは自分で死を食べた。私の至誠の行いも、彼の心に触れることはなかった。自分の師の最高の試みは、彼の意志にぶつかった。その意志には、タウの代わりにサタンの恐るべき刻印、獣のしるしが刻まれてあった。

私はあなたたちが聖体の宴にあずかる前に、あなたたちの罪の告白を聞く。そして、あなたたちに聖霊を注ぐ。そのために、真のキリスト者は恩寵に固められる。私は司祭の資格を与える前に、あなたたちを洗った。あなたたちも、キリスト教の生活を準備すべきである。三位一体の神のみ名において、そしてまた私の限りなき功徳によって、水で洗いなさい。それによって、心の原罪が消されて、罪がゆるされ、恩寵と聖なる徳が注がれる。そして聖霊は神殿を住まいにすることができる。

主の恩寵に生きる人々の体はそうなるであろう。罪を消すためになぜ水が必要なのか? なぜならば人間はそのすべての行いにおいて、そのような物質的なものだから。水は霊魂に触れない。非物質的であるしるしも、人間の目には触れない。そのようにして、私は示現的手段なしに生命を注ぐ事もできた。しかし、どれほどの人々が信じただろうか? 見ずして固く信じ得る人々が、どの位いるであろう? だからモーゼの律法から、不浄者の人のために使用されていた清めの水を取りなさい。それは、屍に触れて不浄とされていた人々を改めて幕屋に入れるためだった。私の洗礼を授けよ。だが、三位一体のみ名によって・・・。

 もし真に御父が望まなかったならば、聖霊が行わなかったならば、み言葉は託身する事なく、あなたたちは贖われなかったであろう。洗礼によって生命を受ける。洗礼を授ける時は、父と子と聖霊のみ名によってである。その洗礼は、キリストという名を受ける。それは、現在と未来にあるであろう他の洗礼と区別するためである。今、こう言うのは、それは儀式であっても不滅の部分において消され得ないしるしがあるからである。私がしたようにパンとぶどう酒を取り、私の名においてそれを祝福し、裂いて配り、キリストを信じる者が私で養われますように。また、そのパンとぶどう酒を天の御父にささげるように。私があなたたちの救いのために、十字架の上に生贄となって、私自身をささげ尽くしたその記念として、私の後継者であるあなたたちは、それを行いなさい。

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1984.3.25

 

 なぜ、わたしは奉献を願っているのでしょう?

何かが奉献されるときは、それをほかの目的のために使わず、聖なる目的のためにだけ使うことになります。神の崇拝のために使われる祭具の場合がそうです。しかし、人間も奉献されることができます。それは、その人が、神への完全な崇敬を捧げるために召されるときです。そうすると、あなたがたの奉献の真の行為は、洗礼の行為であることがわかるでしょう。

イエズスが制定なさったこの秘跡によって、あなたがたは、恵みを受けるようになります。その恵みによって、あなたがたは、生活のもっとすぐれた段階である超自然的な段階に入れるようになります。こうして、あなたがたは、神性にあずかり、神との愛の交わりに入ります。したがって、あなたがたの行為は、神的なまことの価値を得て、あなたがたは、自然的な価値を超える新しい価値をうるようになるのです。

洗礼を受けることで、あなたがたは、聖三位に完全な光栄を帰するために召されます。

そして、おん子にならって、おん父の愛のうちに生き、聖霊との完全な交わりのうちに生きるために奉献されたものとなるのです。

奉献の行為を特徴づけるものは、その全体性にあります。すなわち、ひとたび奉献されれば、もはや、あなたがたは、全面的に、しかも永遠に奉献されたものとなるのです。

 

 

 

 

5.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P181

 

人は、信仰によって聖霊から火の洗礼を受ける。これがなければ、水による洗礼も清めと救いには不十分である。金も銀も水で洗えるのは外側だけであって、水が中にまで浸み込み金属を純化するわけではない。精錬するには火が必要なのだ。そこで、完全に魂を清めるにも、聖霊の火が必要である。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P40

 

「弟子にしてください」と男はいった。「自分自身が弟子にすぎないのに、どうして弟子がとれますか」とサンダーは答えた。とはいえ、しばらくの間、この男が付いてくることは許した。それから、彼はガルワルの伝道所に彼を連れてゆき、そこで洗礼を受ける準備をさせた。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P44

 

翌朝、この男は自分の邪悪な生活のすべてをわたしに告白し、洞窟の中に捨てられた人骨の山を見せ、『これがわたしの罪です』といった。わたしは彼に深く同情したものの、神がともにいてくださったことに感謝した。そうでなければ、自分もまた、これら人骨の一つになっていたかもしれないからである。

あとで、わたしは盗賊の話をしてやり、主が彼に対して『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』と約束されたことを話した。それから、ふたたび祈った。相手は『神は自分をも救ってくださる』との思いに心を和らげた。

彼は、わたしから洗礼を受けることを望んだが、わたしの助言により、山を下りて他の宣教師から洗礼を受けた。

 

 

 

A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/P181

 

スンダル・シングはルディアーナから生まれ故郷のランプール村へ行き、年老いた父と何日かすごした。

 これまで見てきたように、初めのうちシャー・シングは息子がキリスト教徒になったことを聞いて大いに悩み、彼に一族の名を汚させないため、ありとあらゆる手段を使った。受洗してからというものは、父親が心変わりをして、自分と同じく主イエス・キリストに仕える身となってくれますように、とサドゥは14年間ずっと祈り続けてきた。この日ランプールで父親と会ったとき、自分もキリスト教徒になるという言葉を父親の口から聞いて、スンダル・シングは大きな喜びを覚えた。

 これこそ、今までで一番深く神に感謝した瞬間だった。そして、これを聞いたスンダル・シングは、喜びのあまり胸がぞくぞくした。シャー・シングは息子に「おまえがわたしの心の目を開かせてくれたのだから、おまえから洗礼を受けたい」といった。しかし、スンダル・シングはそれを断わった。洗礼という問題について、彼はつねにこの立場を固守してきた。そして、洗礼をおこなうことではなく、福音を宣べ伝えるのが自分の使命であると主張した。さらに、シングは父親に「ほかの何百人というひとびとの洗礼を断わったのに、どうして父上の洗礼をおこなえるでしょうか」といった。

 スンダル・シングの父親は、だれからも洗礼を受けることなくこの世を去った。

 

 

 

 

6.幼児洗礼 

 

 

[W]「洗礼の第一の用は基督教会に導き入れられ、その結果霊界の基督教徒と連なることである」

 

真の基督教677

 

洗礼は単に基督教会へ導き入れられることに過ぎないことは、以下の考察により明白である。(1)洗礼は割礼の代わりに制定された。而して割礼はこれを受けた者達はイスラエル教会に属したことを示す印であったように、洗礼はこれを受ける者達は基督教会に属することを示す印である(前項参照。)而して二人の母親の子供達を区別し、その子供達が取り代えられないようにするために、これに異なった色の産衣を着せるように、この印は見分ける手段以外の何物でもない。(2)洗礼を授けられた幼児は木の若枝のように、その理性を用いて信仰を獲得することは出来ない。(3)基督教に改宗する者は老若を問わず、洗礼を受ける。而してこの洗礼は彼らが基督教を抱こうとの願望を表しさえするならば教訓を受ける前に行われる。これもまた使徒達は凡ゆる国人を弟子となし、これに洗礼を授けねばならないとの主の言葉に従い行なったところであった(マタイ28・19)。(4)ヨハネはユダヤとエルサレムから彼の許へ来た凡ての者にヨルダン川で洗礼を授けた(マタイ3・6、マルコ1・5)。彼はヨルダン河で洗礼を授けたのは、カナンの地へ入るにはヨルダン河を渡らねばならなかったからである。カナンは教会を意味したのである。それは教会が其処に在ったからである。それ故ヨルダンはその教会へ入れられることを意味していた(「黙示録の啓示」285番参照)。この教会へ入れられることは地上に生ずるが、しかし、洗礼はまた幼児達をキリスト教天界と接触させ、天使達は彼処に彼らを守護することを主より命ぜられる。嬰児が受洗されると、天使はすぐ任命されてその子供達を主から信仰を受ける状態に居らせる。しかし、彼らは成長し、自分で考え且つ行動するようになるとその守護天使は彼らを離れ、かくて青年達は自分達の生活と信仰とに一致する霊達を自らの交友として惹き寄せる。それ故、洗礼はまた霊界に於けるキリスト教徒との連結へ導くものである。

 

 

 

真の基督教678

 

霊界では幼児のみでなく他の者も凡て、洗礼によってキリスト教徒の間に入れられる。何故なら、その世界では互いに異なった民や、国人はその宗教によって区別されるからである。基督教徒は中央に、回教徒はその周囲に、偶像教徒は回教徒の背後に、ユダヤ人は両側に居る。さらに、同一の宗教を奉じている者は凡て天界では、神と隣人への愛の種々の形に従って、地獄では、その反対の悪い欲念の種々の形に従ってそれぞれ異なっている社会に排置される。霊界では、すなわち天界と地獄には凡てのものは全般的にまた個別的に最も入念に配置されている。何故なら、全宇宙の維持はその配置に依存しているからである。各人は何れの宗教団体に属しているかを示す或る印によって他と区別されない限り、こうした区別は不可能であろう。何故なら洗礼というキリスト教的な印がなければ、或る回教徒または偶像教徒の霊がキリスト教の幼児と子供達に関係を持つようになり、これに己が宗教に対する愛着を注ぎ込むことが出来るからである。これは彼らの心を乱し、彼らをキリスト教から離反させ、かくして霊的秩序を歪曲し、破壊するであろう。

 

 

 

天界の秘義6637

 

霊的な善の中に、即ち、仁慈の善の中におらず、また霊的な諸真理の中に、即ち、信仰の諸真理の中にいない者は、教会の中に生まれていても、教会の者ではない。なぜなら主の天国全体は愛の、また信仰の善の中にいるからであり、教会もそれに似たものの中にいない限り、それは天界と連結していないため、教会で在り得る筈はないのである、なぜなら教会は地上の王国であるからである。