割礼

洗礼包皮

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.基督教会はユダヤ教とは異なって内的な教会であることを示すために洗礼は割礼の代わりに命ぜられた

4.マリア・ワルトルタ

5.心に割礼を受けている者

6.痛み

 

 

 

 

1.聖書

 

 

申命記10・16

 

心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。

 

 

 

エレミヤ4・4

 

ユダの人、エルサレムに住む人々よ

割礼を受けて主のものとなり

あなたたちの心の包皮を取り去れ。

さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに

わたしの怒りは火のように発して燃え広がり

消す者はないであろう。

 

 

 

エレミヤ9・24、25

 

見よ、時が来る、と主は言われる。

そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者をことごとく罰する。

また、心の割礼のないイスラエルの家をすべて罰する。

 

 

 

申命記30・6−7

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせる。

 

 

 

使徒言行録7・51

 

かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。

 

 

 

使徒言行録10・45−48

 

割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。

 

 

 

使徒言行録11・1−4

 

さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。

 

 

 

使徒言行録15・1−2

 

ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

 

 

 

使徒言行録15・5

 

ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。

 

 

 

使徒言行録15・19−20

 

それで、わたし(ヤコブ)はこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。

 

 

 

使徒言行録16・1−3

 

パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。

 

 

 

ローマ2.25

 

あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。

 

 

 

ローマ2・28−29

 

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。

 

 

 

ローマ3・29−30

 

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。

 

 

 

ローマ4・11

 

アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。

 

 

 

ガラテヤ2・3

 

しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2039

 

 「男はことごとく割礼を受けなくてはならない」。これは純潔を意味していることは『割礼を施すこと』の内意における表象とそこから派生してくる意義から明白である。割礼は、即ち、陽の皮[包皮]を切り取ることは、天的な愛を妨害し、汚しているところの、また幾多の欲念の悪であり(特に自己愛の欲念の悪であり)、そこから派生してくる誤謬であるところのものを遠ざけ、拭い去ることを意味したのである。この意義の理由は、両性の生殖器官は天的な愛を表象しているということである。主の王国の天的なものを構成している三種類の愛が存在している、即ち、結婚愛と、幼児に対する愛と社会に対する愛、または相互愛とが存在している。結婚愛はすべての中でも第一次的な[主要な]愛である、なぜならそれはその中に最大の用を、即ち人類を繁殖させ、そのことによって主の王国を繁殖させることをもっているからである―人類は主の王国の苗床である。幼児に対する愛はそれに次いでいて、結婚愛から派生しており、次に社会に対する愛が、または相互愛が来ている。何であれこれらの愛を覆い隠し、妨害し、汚すものは陽の皮[包皮]により意味されており、それでこれを切り取ることが、即ち、割礼を施すことが表象的なものにされたのである、なぜなら幾多の欲念の悪とそこから派生してくる誤謬とが遠ざけられるに正比例してその人間は清められて、天的な愛が現われてくるからである。自己愛[自己を求める愛]は天的な愛にいかに反したものであるか、またいかに汚れたものであるかは前に述べもしまた示しもしたところである(760、1307、1308、1321、1594、2045、2057番)。今言ったことから『割礼』は内意では純潔を意味していることが明白である。

 

 

 

天界の秘義2039[2]

 

割礼は契約のしるしまたは連結のしるしに過ぎないことは以下のことを考察することから明らかに認めることが出来よう、即ち、陽の皮の割礼は心の割礼無しには全く無意味であり、そのことにより意味されているものは心の割礼であり、または前に言及した汚れた幾多の愛から清められることである、このことは聖言の以下の記事から明白である。モーセの書には―

 

  エホバ、あなたの神はあなたの全心をもって、あなたの魂のすべてをもってあなたの神エホバを愛するためにあなたの心に、あなたの裔の心に割礼を授けられるであろう、これはあなたが生きることが出来るためである(申命記30・6)。

 

 このことから『心に割礼を授ける』ことは、神エホバが、または主が心を尽くし、魂を尽くして愛されるために、汚れた幾多の愛から清められることであることが明白である。

 

 

 

天界の秘義2039[3]

 

エレミア記には―

 

  あなたらの休閑地をすきかえしなさい。茨の間に種子を蒔いてはならない、エホバに向かってあなたら自身に割礼を施し、あなたらの心の陽の皮を取り去りなさい、ああユダの者よ、エルサレムに住む者よ(4・3、4)。

 

『エホバに向って己が自己に割礼を施し、心の陽の皮[包皮]を除く』ことは天界的愛を妨害しているものを遠ざけることであり、そのすべては心の割礼が陽の皮の割礼により意味されている内的なものであることを示している。モーセの書には―

 

  あなたらはあなたらの心の陽の皮に割礼を施し、孤児とやもめとの審判を行い、他国の者を愛して彼にパンと衣服とを与え、重ねてうなじを頑なにしてはならない(申命記10・16,18)。

 

 ここにもまた『心の陽の皮に割礼を施す』ことは汚れた愛の悪からまたそこから派生している誤謬から清められることであることが明らかである。愛の天的な事柄はこれらの仁慈の業により、即ち、『孤児とやもめとの審判を行うこと』と『他国の者を愛して彼にパンと衣服とを与えること』により記されているのである。

 

 

 

 

天界の秘義2039[5]

 

 陽の皮〔包皮〕によりまた『割礼を受けない者』により不潔が意味されていることは、イザヤ書に明白である―

 

 目を覚ましなさい、あなたの強さを着けなさい、ああシオンよ、あなたの美しい上着を着けなさい、ああ聖い都エルサレムよ、今から後はあなたの中に割礼を受けない者と不潔な者とは重ねて入っては来ないからである(イザヤ52・1)。

 

『シオン』により天的な教会が意味され、『エルサレム』により霊的な教会が意味されており、その中には『割礼を受けない』ものは、即ち、『不潔なもの〔清くないもの〕』は入りはしないのである。

 

 

 

天界の秘義2039[7]

 

驚くべきことを言うが、天界にいる天使たちが自然的に汚れたものから清められることを考えると、一瞬にして霊たちの世界に割礼のようなものが表象されるのである、なぜなら天使たちの考えは霊たちの世界で表象的なものに移行するからである。ユダヤ教会では表象的な祭儀の中にはこうした源泉から発したものがあり、またそこから発しなかったものもあるのである。霊たちの世界でそうした割礼を迅速にそのもとで表象された者たちは天界に入れられようと願っていたのであるが、彼らが天界へ入れられる前にこうした表象が起ったのである。このことはヨシュアがその民に割礼を施すように命じられた理由を、即ち、民がヨルダンを渡って、カナンの地に入ろうとしていた時、そのことを命じられた理由を示している、なぜならその民がカナンの地に入ることは、忠実な者が天界に入ることを許されることそのものを表象したからである。

 

 

 

天界の秘義2039[8]

 

こうした理由から割礼は二度命じられたのである、それについてはヨシュア記に―

 

  エホバはヨシュアに言われた、岩からあなたに剣を作って、二度イスラエルの息子たちに割礼を授けなさい、と。ヨシュアは岩から剣を作り、陽の皮[包皮]の岡でイスラエルの息子たちに割礼を授けた、エホバはヨシュアに言われた、今日わたしはあなたらからエジプトの恥辱をころがし去った、と。それで、彼はその所の名をキルガル(ころがし去る)と名づけた(5・2、3、9)。

 

 『岩の剣』は彼らがそれによって汚れた幾多の愛をこらしめ、消散させるために彼らに浸透しなくてはならなかった真理を意味している、なぜなら真理の知識が無くては清められることは不可能であるからである。(『石』または『岩』は真理を意味していることは、前の643、1298番に示されたところであり、『剣』は悪をこらしめる真理について述べられることは、聖言から明白である。

 

 

 

天界の秘義2041

 

「あなたらはあなたらの陽の皮の肉に割礼を施さなくてはならない。」これは自己への愛と世への愛とを遠ざけることを意味していることは、『割礼』の表象と意義とが汚れた幾多の愛から清められることであり(そのことは2039番に説明した)、また『肉』の意義が人間自身のものであることから明白である(このことは前の999番にとり扱った)。人間自身のものは自己へのまた世への愛以外の何ものでもなく、かくてそこから派生してくる凡ゆる欲念であり、そしてそれはいかに汚れたものであるかは第一部に示されたところである(141、150、154、210、215、694、731、874−876、987、1047番)。遠ざけられねばならない人間のこの人間自身のものが意味されているため、『陽の皮の肉』の表現が用いられているのである。

 

 

 

天界の秘義2041[2]

 

主から発している天界的愛の流入を妨害している二つの所謂愛とその愛の欲念とが存在している、なぜならこれらの愛が内的な人を、また外なる人を支配し、それらを占有すると、それらはその流入してくる天界の愛を斥けるか、窒息させるかしてしまい、またそれを歪め、汚してしまうからである、なぜならそれらは主の神的慈悲の下に後に示されるように、天界の愛に全く相反しているからである。しかしこれらの愛が遠ざけられるに正比例して、主から流入してくる天界的愛[天界の愛]が内的な人の中に現れはじめ、否、光を与えはじめ、彼は自分が悪と誤謬の中にいることを認めはじめ、次に自分が現実に[まことに]清くないものと汚れたものの中にいることを認めはじめ、遂にはそれが自分の自分自身のものであったことを認めはじめるのである。再生しつつある者とは、これらの愛が遠ざけられつつある者である。

 

 

 

天界の秘義2041[3]

 

この遠ざけられることは再生していない者らのもとにもまた認めることが出来るのである、なぜなら彼らが不幸になり、健康を害し、病気になった時、特に今にも死のうとしているとき、起ることではあるが、彼らが聖いもの思いに耽っている時、または色々な欲念が静められているとき往々起ってくるように、こうした愛の色々な欲念が彼らの中に静止していると、その時は、身体の、また世の事柄は静まって、いわば死んだようになっているため、彼らは多少天界の光を、またそこから生まれてくる慰めを認めるのである。しかしこれらの人物のもとでは問題の欲念は遠ざけられているのではなくて、単にそれらが静まっているに過ぎないのである、なぜなら彼らはその以前の状態に帰って行くと、直ぐにもその同じ幾多の欲念に再び帰って行くからである。

 

 

 

天界の秘義2041[4]

 

悪い者のもとにもまた、身体のまた世のものは静められることが出来、そのとき彼らは一種の天界的なものの中へいわば引き上げられることが出来るのであって、こうしたことは他生における霊魂たちのもとに起るのであり、特に世に生きていた間に天界について非常に多くのことを聞いていたため、主の栄光を見ようと切望している新しく着いたばかりの者たちのもとに起るのである。前に言及した外なる者はそのとき彼らの中に静まってしまっており、そのようにして彼らは第一の天界に連れて行かれて、彼らの欲望を楽しむのである。しかし彼らは長く止まっていることは出来ない、なぜなら身体のまた世のものが単に静止しているのみであって、天使たちのもとにおけるように、それらのものが遠ざけられてはいないからである(このことについては541、542番を参照されたい)。天界的な愛〔天界の愛〕は主から人間の中へ絶えず流れ入っていて、それらの愛の幾多の欲念とそこから派生してくる幾多の誤謬を除いては、他の何ものもそれを妨害し、妨げはしないのであり、また人間にそれを受けることが出来ないようにさせもしないことを知らなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義2102

 

「彼らの陽の皮〔包皮〕の肉に割礼をほどこした」(創世記17・23)。これは彼らが主から清められ、義しいものとされることを意味していることは以下から明白である、即ち、『割礼を受ける』ことの意義は自己への愛と世への愛とから清められることであり(このことは前の2039番に説明した)、また『陽の皮の肉に割礼を施すこと』の意義はこれらの愛を遠ざけることである(このこともまた前の2041、2053、2057番に説明した、そこには更にそれらの愛は主から善と真理とが流入し働きかけることに対し唯一の妨害となっており、従って主の義が人間に適用されることに対しても妨害となっていることが示されている。

 

 

 

天界の秘義2102〔2〕

 

 この章全体は主の神的な本質がその人間的な本質と結合することを取り扱っており、また主が神的なものとなされたその人間的本質により人間と連結されることに関わっており、また割礼に、即ち、人間の中の汚れたものから清められることに関わっているのである。これらのすべての事柄は一つのものとして連続していて、一つが他に続いているのである。なぜなら主の中に神的な本質が人間的な本質と結合したことは神的なものが人間と連結される目的のために遂行されたのであり、神的なものが人間と連結することは人間がそれらの愛から清められない限り遂行されることは出来ないが、しかし人間がそれらのものから清められつつあるとすぐに、主の人間的なものが流れ入ってかくして人間をそれ自身に連結するからである。このことは聖言の性質を、即ち、内意に意味されていることが理解されると聖言はすべて共に関連づけられて、一つの調和をもった、美しい連続したものとなるのである。

 

 

 

 

天界の秘義3412[2]

 

古代教会とそれ以後、生命には殆ど心を用いないで、教義に大いに心を用いはしたが、時が経つにつれ、生命に属している事柄を斥けさえもして、信仰に属している事柄を教会の本質的なものとして承認し、それを生命から分離し、従って古代教会の中では宗教の総計と本質であるところの仁慈の教義的な事柄を軽視し、かくてそれを抹消し、それに代えて、信仰の教義的なものを大いに誇称し、宗教の全部をそれで成立させた者らは「ぺリシテ人」と呼ばれたのでありそのことにより彼らは仁慈に属している生命から離れ去ったため、特に「無割礼の者」と呼ばれた。なぜなら「無割礼の者」によりいかほど教義的な物の中にいても、仁慈の中にいなかった者がことごとく意味されたからである(2049)。

 

 

 

天界の秘義4462

 

なぜなら『割礼』は汚れた愛から、即ち、自己と世への愛から遠ざかって、主に対する愛と隣人に対する愛である天界的愛に近づくことを、かくて教会へ近づくことを意味しているからである。

 

 

 

天界の秘義4462[2]

 

こうした理由から最古代教会のものであった者たちは割礼については何ごとも知らなかったのであり、古代教会のものであった者のみがそれを知っていたのである。

 

 

 

天界の秘義4462[3]

 

この教会から割礼は多くの民族に拡がったのであり、アブラハムとその子孫には新しいものとして命じられたのではなく、単にとぎれたので、元のように回復しなくてはならない儀式として命じられ、彼の子孫には彼らが教会のものであるというしるしとなったのである。しかしかの民族はこの祭儀の意味していることを知りもしなかったし、知ろうともしなかったのである。

 

 

 

天界の秘義7044

 

割礼が石の小刀で行われたことは、汚れた愛から清められることは信仰の諸真理により行われることを意味したのである(2039、2046、2799番)、なぜなら割礼はこうした愛から清められることを表象したからである(2799番)。清められることが信仰の諸真理により行われる理由は、その諸真理により、何が善であるかを、また何が悪であるかを教えられ、かくて何を為さなくてはならないか、何を為してはならないかを教えられ、人間がこれらの真理を知り、それに従って行動しようと欲する時、彼は主から導かれて、主の神的手段により清められるということである。

 

 

 

天界の秘義7225

 

「そして私は唇では割礼を受けておりませぬ」。これは、これらの者には私は不潔なものであることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『割礼を受けないこと』の意義は不潔であることであり―なぜなら割礼により汚れた愛から、即ち、自己と世への愛から清められることが表象され(2039,2632、2799、4462、7045番)、そこから割礼を受けないで『無割礼の者』と呼ばれた者らはそうした愛から清められていない者を表象し、かくて不潔な者を表象したからである(3412、3413、4462、7045番)―『唇』の意義は教義の事柄である(1286、1288番)。かくて『唇で割礼を受けていない』により教義に属した事柄の方面で不潔であることが意味されている、なぜなら『割礼を受けない』は教義にも生命[生活]にも言われるからである。ここからエレミア記には、耳が『割礼を受けていない』と呼ばれているのである―

 

たれにわたしは話し、証をすれば、その者たちは聞くであろうか、見よ、彼らの耳は割礼を受けておらず、彼らは聞くことは出来ない、見よ、エホバの聖言は非難され、彼らはそれを欲していない(6・10)。

 

そして心も以下の記事では『割礼を受けていない』と呼ばれている―

 

 イスラエルの全家は心に割礼を受けていない(エレミア9・26)。

 あなたらは、心に割礼を受けず、肉にも割礼を受けていない他国人の息子らを、わたしの聖所におこうとして、連れて来る(エゼキエル44・7)。

 かくて彼らの割礼を受けていない心は卑しくなるであろう(レビ26・41)。

 

 

 

天界の秘義7225[]

 

これらの記事から『割礼を受けないこと』は不潔であることを意味していることは明白であり、不潔なものはすべて世への愛と自己への愛である不潔な愛から発しているため、それで『割礼を受けない』により善と真理との流入を妨害するものが意味されているのである。こうした愛が在るところには、流れ入ってくる善と真理との流入を妨害するものが意味されているのである。こうした愛が在るところには、流れ入ってくる善と真理とは消滅してしまうのである、なぜならそれらは、天界と地獄のように、相反したものであるからである。ここから『割礼を受けない耳』により服従しないことが意味され、『割礼を受けない心』により善と真理とを斥けることが意味され、それはこうした愛がそれ自身を城壁のように誤謬をもって強固なものになしたとき特に見られるのである。

 

 

 

霊界日記6110(74)

 

割礼について。割礼は、自己愛である感覚的な、形体的な愛が遠ざけられなくてはならないことを表象するものであった。それが石のナイフで行われなくてはならなかった理由。なぜなら真理が悪を遠ざけるからである。それが廃止された理由。いかような理由のために、イスラエルの子孫は、霊的な教会を意味しているカナンの地へ入ったとき、再び割礼を受けたのである。

 

 

 

 

3.基督教会はユダヤ教とは異なって内的な教会であることを示すために洗礼は割礼の代わりに命ぜられた

 

 

[V]「陽の皮の割礼は心の割礼を意味した。而して内的な教会が外的な表象的な教会に続いて起るために、洗礼は割礼の代わりに制定されたのである。」

 

 

真の基督教674

 

 内的な人または霊的な人と外的なまたは自然的な人とが存在することは基督教世界には良く知られている。而して教会は人間から成っている故、内的な教会と外的な教会が在ることもまた知られている。もし教会が古代から現代に至るまで継続して来たその順序において考察されるならば、前の教会は外的なものであり、換言すれば、彼らの礼拝は外的な儀式から成り、この儀式は主がその降臨において創設し、今建設し給いつつある基督教会の内的な物を表象したことが認められるであろう。イスラエル教会の特異な儀式は割礼であった。而してイスラエル教会の凡ゆる外的な儀式は基督教会の内的なものの予表であった為、イスラエル教会の主要な特色は内的には、基督教会のそれに類似していた。何故なら、割礼は肉の諸々の悪念を排除し、諸々の悪から浄められることを意味し、洗礼も類似の意義をもっているからである。基督教会はユダヤ教とは異なって内的な教会であることを示すために洗礼は割礼の代わりに命ぜられたのである。下記の洗礼の用についての説明はこれを明らかにするであろう。

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P38

 

 あなたたちの血のなかにはサタンの毒が醗酵している。わたしの哀れな子供たちよ、わたしはそのことを知っている。だがわたしはわたし自身を解毒剤としてあなたたちに与えた。あなたたちの上に、そしてあなたたちの内部に、サタンに打ち勝つわたしのしるしを刻みつけるようにあなたたちに教えた。

 わたしによって霊に割礼を施しなさい。それは肉体における割礼よりもはるかに高められた、より完全な割礼だ! それはあなたたちの肉から死の胚のひそむ細胞を取り除き、わたしである生命を接ぎ木するものである。あなたちから獣性を剥ぎ取り、あなたたちにふたたびキリストを身にまとわせる。この割礼は、あなたたちもまた原罪と自罪のために罪を犯したアダムの子たちとしてキリストの洗礼と告白のうちにあなたたちを埋葬し、あなたたちをいと高き者の子供として再生させる。

 

 

 

5.心に割礼を受けている者

 

天界の秘義4462[3]

 

こうした愛から清められている者は霊的に割礼を受けている者であって、心に割礼を受けている者と言われている、例えばモーセの書には―

 

 あなたの神エホバは、あなたの神エホバを心を尽くし、魂を尽くして愛するために、あなたの心に、あなたの裔の心に割礼を施されるであろう(申命記30・6)。

 

同書には―

 

 あなたらはあなたらの心の陽の皮に割礼を施し、重ねてうなじを頑なにしてはならない(申命記10・16)。

 

エレミア記には―

 

 休閑地を掘り起し、心の陽の皮を取り去れよ(エレミア4・3,4)。

 

 

 

 

6.痛み

 

 

天界の秘義4496

 

「かれらが痛みをおぼえていたとき」。これはいくたの欲念を意味していることは割礼の後の『痛み』の意義から明白であり、それは欲念である。この痛みが欲念を意味している理由は、割礼は自己と世を求める愛から浄められることを意味しているということであり(2039、2044、2049、2632、3412、3413、4462番)、肉の欲念はことごとくこれらの愛から発していて、それでこの『痛み』により意味されているのである、なぜなら人間が再生しつつある場合のように、人間がこれらの愛から清められつつあるときは、かれらは痛みを覚え、苦しみ悶えるのであり、痛みを覚え、苦しみ悶えるものはそのとき遠ざけられつつあるいくたの欲念である。