洗者ヨハネ
洗礼/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
1.聖書
マタイ3・1−17
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイ11・7−15
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群集にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。
ヨハネ1・6−18
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネ1・19−28
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
ヨハネ1・29−37
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
ヨハネ5・35
ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義9372〔2〕
聖言の中には主を真理の神的なものの方面で、または聖言の方面で表象している多くの者がいるが、しかしその中の主要な者はモーセとエリヤとエリシャとバプテスマのヨハネである。モーセがそのことを表象していることはすぐ前に引用した解説の中に見られることが出来、エリヤとエリシャもそのことを表象していることは創世記18章の序言と2762、5247番に見ることが出来、バプテスマのヨハネもそのことを表象していることは、彼が『来ることになっていたエリヤ』であったという事実から認めることが出来よう。バプテスマのヨハネが聖言の方面の主を表象したことを知らない者は、新約聖書の中に彼について言われているその凡ての事柄に含まれ、意味されていることを知ることは出来ない、それでこの秘義を明らかにするために、また同時に、主が御形を変えられた時、(共に)見られたエリヤが、またモーセが聖言を意味したことが明らかになるために、バプテスマのヨハネについて話されている若干の事柄をここに引用しよう、例えばマタイ伝には―
ヨハネの使いが去った後で、イエスはヨハネについて語り初めて、言われた、あなたらは何を見るために荒野へ出て行きましたか。風に揺らぐ葦ですか。しかし何を見るために出て行きましたか。柔かい衣を着た人ですか。見なさい、柔かい物を着た者たちは王の家にいます。しかしあなたらは何を見るために出て行きましたか。予言者ですか。そうです、わたしはあなたたちに言います、まことに予言者以上の者です。この人はその人について、見よ、わたしはあなたの顔の前にわたしの使いを遣わす、彼はあなたの前にあなたの道を備えるでしょう、と記されている者です。まことにわたしはあなたたちに言います、女から生まれた者たちの間でバプテスマのヨハネよりも偉大な者は起ってはいません、それでも天国で小さい者でも彼よりは偉大である。凡ゆる予言者と律法とはヨハネまで予言しました。そしてもしあなたたちが進んで信じようとするなら、彼こそ来ることになっていた者です。耳のある者、その者には聞かせなさい(マタイ11・7−15またルカ7・24−28)。
たれ一人このヨハネは聖言の方面の主を表象したことを知らなくては、また彼がいた『荒野』により意味されていることを、また『風に揺らいでいる葦』により意味されていることを、同じく『王の家の柔かい衣』により意味されていることを、更に彼が『予言者以上のもの』であることにより意味されていることを、また『女から生まれた者たちの間でたれ一人彼よりは偉大でないこと、それにも拘らず天国で小さい者も彼よりは偉大であること』により意味されていることを、最後に彼が『エリヤ』であることにより意味されていることを知らなくては、これらの事柄をいかように理解しなくてはならないかを知ることは出来ないのである。なぜなら更に深い意義が無いなら、すべてこれらの言葉は単に比較から話されたに過ぎないのであり、何ら重要な事柄から話されてはいないからである。
天界の秘義9372〔3〕
しかしヨハネにより聖言の方面の主が理解され、または聖言が表象的に理解される時、非常に異なってくるのである。その時は『ヨハネがいたユダヤの荒野』により、主が来られた時、聖言が置かれていた状態が意味されており、即ち、聖言は『荒野』に置かれており、即ち、それは主が些かも承認されず、その天国についてもまた何ごとも知られていなかった程にも甚だしい暗闇に置かれていたことが意味されているのである―こうした暗闇にも拘らず凡ての予言者は主について、また主の王国について、それは永久に存続するに違いないことを予言したのである。(『荒野』はこうした暗闇を意味していることについては、2708、4736、7313番を参照されたい)。こうした理由から聖言はそれが気ままに説明される時『風に揺らぐ葦』に譬えられているのである、なぜなら『葦』は文字における聖言のような、究極的なものにおける真理を意味しているからである。
天界の秘義9372〔4〕
究極的なものにおける、または文字における聖言は〔聖言の究極的なものは、または聖言の文字は〕人間の目には粗雑で、不明確なものではあるが、しかしその内意ではそれは柔かくて、輝いたものであることが、彼らは『柔かい衣を着た人を見なさい、柔かい物を着ている者たちは王の家にいる』ことにより意味されているのである。こうした事柄がこれらの言葉により意味されていることは『衣』または『上着〔衣服〕』の意義が真理であることから明白であり(2132、2576、4545、4763、5248、6914、6918、9093番)、またそうした理由から天使たちはその者たちのもとにある善から発した諸真理に従って輝いた柔かい衣服を着て現れているのである(5248、5319、5954、9212、9216番)。そのことは『王の家』の意義からも明白であって、それは天使たちの住居であり、その普遍的な意義では、天界である、なぜなら『家』は善からそのように呼ばれ(2233、2234、3128、3652、3720、4622、4982、7386、7891、7996、7997番)、『王』は真理からそのように呼ばれているからである(1672、2015、2069、3009、4575、4581、4966、5044、6148番)。それで天使たちは、主から真理を受けるため『王国の息子〔子〕』、『王の息子〔子〕』、また『王』とも呼ばれているのである。
天界の秘義9372〔5〕
聖言は世のいかような教義にもまさり、世のいかような真理にもまさっていることが『あなたらは何を見るために出て行きましたか、予言者ですか、そうです、わたしはあなたたちに言います、予言者以上のものです』により意味されているのである、なぜなら『予言者』はその内意では教義を意味し(2534、7269番)、『女から生まれた者たち』、または『女の子』である者たちは真理を意味しているからである(489、491、533、1147、2623、2803、2813、3704、4257番)。
天界の秘義9372
〔6〕
聖言は内意では、またはそれが天界で把握されるような意義では、外なる意義における、またはそれが世で把握されるような、またはバプテスマのヨハネが教えたような意義における聖言よりは度においてまさっていることは、『天国の小さい者でも彼よりは偉大である』により意味されているのである、なぜなら天界で認められているように聖言は人間の把握をことごとく超えている程にも大いなる知恵を秘めているからである。主と主が来られることに関わる予言は、また主とその王国を表象するものとは主が世に来られた時終わったことが『予言者の凡てと律法とはヨハネまで予言した』により意味されているのである。聖言はエリヤにより表象されたように、ヨハネによっても表象されたことは、彼が『来ることになっているエリヤ』であることにより意味されている。
3.かれは水で洗礼を施したが、しかし主は聖霊と火で洗礼を施されるであろう(ヨハネ1・33)。
黙示録講解475ロ(20)
ヨハネにより以下のことが言われた―
かれは水で洗礼を施したが、しかし主は聖霊と火で洗礼を施されるであろう(ヨハネ1・33)。
これはヨハネは主について聖言から発している知識の中へかれらを入れ、かくて主を受け入れるようにかれらを備えたにすぎなかったが、主御自身は主から発出している神的真理と神的善により人間を再生させられることを意味している、なぜならヨハネはエリヤが表象したものと同じようなものを、すなわち、聖言を表象したからであり、ヨハネが洗礼を授けるさいに用いた水は、主にかかわる聖言から発した知識であるところの、導き入れる真理を意味し、『聖霊』は主から発出している神的真理を意味し、『火』は主から発出している神的善を意味し、『洗礼』は聖言から発している神的真理により主が再生させられることを意味している。
黙示録講解724ロ[7]
ルカ伝には―
その天使はヨハネについてゼカリアに言った、かれは主の前にエリアの霊と力とをもって行き、父の心を子に向けるであろう(1・17)。
マラキ書には―
わたしはエホバの大いなる恐るべき日が来る前に予言者エリアをあなたらにつかわそう、かれが父の心を子に向け、子の心を父に向けるためであり、わたしが来て地を呪いをもって打つことのないためである(4・5,6)。
洗礼者ヨハネが前に送られたのは人々を洗礼により主を受け入れるように備えるためであったことは、洗礼は悪と誤謬から浄められることを、また主により聖言を通して再生することを表象し、意味したためであった。
この表象が先行しなかった限り、主は御自身を明らかに示されることはできず、ユダヤとエルサレムにおいて教え、生活されることはできなかったのである、なぜなら主は人間の形を取られた天と地の神であられ、主は、教義の方面では単なる誤謬の中に在り、生命の方面では単なる悪の中に在った国民のもとには現存されることはできず、従ってその国民が洗礼により誤謬と悪から浄められることを表象することにより主を受け入れる備えをなさなかったかぎり、神的なものそれ自身が現存されることにより凡ゆる種類の病気により破壊されてしまったのであり、それゆえこのことが『わたしが来て、地を呪いをもって打たないために』により意味されていることである。
それがそうであることは霊界には充分に知られている、なぜなら誤謬と悪との中にいるそこの者らは主の眼前にいることにより凄まじく責め苛まれて、霊的に死んでしまうからである。
黙示録講解724ロ[8]
ヨハネの洗礼はそうした効果を生み出すことが出来たのは、ユダヤ教会は表象的な教会であり、彼らの天界との連結はことごとく表象的なものにより遂行されたためであり、そのことはそこに命じられた洗うことから認めることが出来よう、そのことは不潔になった者は凡て自分自身と自分の衣服を洗わねばならず、その結果清潔な者として考えられたのであり、同様に祭司とレビ人らとは集会の天幕に入り、後に神殿に入り、聖い任務を司る前には彼ら自身を洗わねばならず、同様にナーマンはヨルダン川で身を洗うことにより癩病から清められたのである。
洗うことと洗礼を受けることそれ自身は実に彼らを誤謬と悪とから清めはしなかったのであり、単にそうしたものから清められることを表象し、そこからそのことを意味した過ぎなかったものの、そのことは天界では恰も彼ら自身が清められたかのように受け入れられたのである。このようにして天界はヨハネの洗礼によりその教会の人々に連結したのであり、天界が彼らに連結したとき、主は、天の神であられたため、そこで彼らに御自身を示され、教えられ、彼らの間に住まわれることが出来たのである―
ヨハネのもとへエルサレムとユダヤ全部とヨルダンの周囲の全地域が行き、彼らはヨルダンの中で彼により洗礼を授けられ、己が罪を告白した(マタイ3・5,6)。
かれはかれらに言った、ああ、まむしの裔よ、たれが来るべき憤怒から逃れることを警告したか(ルカ3・7)。
ユダヤ人とイスラエル人とは表象的なものにより天界と連結したことは「新しいエルサレムの教義」の中に見ることができよう(248番)。今やこのことがヨハネが主のために道を備えるために、また主のためにその民を備えるために前以て送られた理由であった。そしてこのことから『父の心を子に向け、子の心を父に向けること』が意味していることを結論づけることが出来よう。すなわち、それは霊的な善を真理に連結することを、かくて真理を善に連結し、かくて主により聖言を手段として再生することを表象することを招致することを意味している。
なぜなら再生は善を真理と、真理を善と連結することであり、再生される方は主であり、教えるものは聖言であるからである。
黙示録講解724ロ[9]
このヨハネについて『彼はエリアの精神と力との中に主の前に行かねばならない』、彼はエリアであった、とこのヨハネについて言われたことは、ヨハネはエリアのように、聖言に関連した主を表象し、そこから主から発している聖言を意味したためであり、神的な知恵と神的な力は聖言の中に在るため、これらのものは『エリアの霊と力』により意味されている。(聖言はそうしたものであることについては「天界と地獄」303―310番、小著「白馬」を参照されたい。)
真の基督教688
マラキ書に、「視よ、我はわが使を遣さん、かれ我面の前に道を備えん、また汝らの求むる所の主すなわち汝らの悦ぶ契約の使者、忽然その殿に来らん。その来る日には誰か堪え得んや。その顕わるる時には誰か立ち得んや。」(3・1、2)さらに「視よ、エホバの大いなる畏るべき日の来るまえに、われ予言者エリアを汝らに遣さん、これは我が来りて呪をもて地を撃つことなからんためなり」(4・5、6)而してゼカリアはその子のヨハネについて予言を為し、「幼児よ、汝は至高者の預言者と称えられん、これ主の御前に先立ちゆき、その道の備をなせばなり」(ルカ1・76)と語っている。而して主自らヨハネについて「視よ我が使を汝の顔の前に遣す、彼は汝の前に汝の道を備えんと録されし者なり」(ルカ7・27)と語り給う。これらの記事はヨハネは神エホバが世に降り贖罪の業を成就し給うために、その道を備えるべく遣わされた予言者であり、彼は洗礼と、主の来り給うことを宣べ伝えることによってその道を備え、このような準備が無かったならば世の凡ゆるものは呪を以て打たれ、滅亡したであろうことを証しているのである。
霊界日記1656
バプテスマのヨハネも主の降臨の告知者としてのこの務めを果し、主に対するヨハネの立場はこの霊のその天使たちに対する立場と同一であり、すなわち、(聖書)に記されているように、ヨハネもまた主が宣べ伝えられたことを理解しなかったため、疑念を抱いたが、後でさらに良く教えられると、その心は開かれて、それを受け入れたのであり、そのことは私の耳元にいる霊と同じであったのである。
静思社/神学論文集P100
ベイエル博士に宛てたイマヌエル スエデンボルグの第六番目の手紙から
「飼い葉桶」は、らばと馬とが聖言を理解することを意味しているため、聖言から与えられる教えを意味しており(「啓示による黙示録解説」、297番を参照)、「飼い葉桶」はそれらの食物を含んでおります、宿屋に部屋が無かったことはエルサレムには教える所が無かったことを意味しており、それで、来るべき教会を意味している羊飼いたちに、「このことがあなたらに与えられる印となりましょう、あなたらは飼い葉桶に寝かされている赤児を見つけるでしょう」(ルカ伝2・12)と言われています。
ヨハネの洗礼は、神御自身がユダヤ人の間に降臨されるとき、ユダヤ人たちが存続するようにと諸天界を備えたのです。ヨハネは主と主の降臨とについて言われた旧約聖書の凡ゆる予言を意味したのであり、同じくエリアも、予言者たちの首頭であったため、そのことを意味したのです。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P145
(訳者注)
ヨハネの意味は、“神(ヤーヴェ)は嘉す”である。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P256
羊飼いのマティア:
「おまえは私とともに、ヨハネの弟子だった。ヨハネが聖なることに関して、どんなに慎重であったかを思い出してくれ。『ある日、神は今まで多くの恵みを与えたように、他の恵みもくださるが、このことのために酔ったようなおしゃべりになってはいけない。神は霊魂にご自身を現される。
この霊魂は肉体の中に潜んでいる天の宝石だから、世間の汚れにさらしてはいけない。肉体の本能を抑えるために、体と感覚において聖なるものであれ。目にも耳にも舌にも手にも、そして考えにも聖なるものでなければならない。自分が何を持っているかという思い上がった考えを抑えねばならない。
感覚、肢体、理性は、支配すべきではなく、仕えるべきである。肉体と理性を抑えることによって功徳が生まれるように、神の栄光が包む祭壇を造る役に立たないなら、肉体も理性も無駄であるばかりか、危険なものだからである』と教えられた。
覚えているか、シメオン、私はそうでありたいと望んでいる。もし皆が最初の先生のことばを忘れてしまうなら、その人はもう皆にとって死んだ者となる。自分の教えが弟子たちの中に生きている間、先生は生きている。後にもっと偉大な先生に代っても、イエズスの弟子の場合、先生たちの先生に代っても、最初の先生のことばを忘れてはいけない。その人は神の子羊を理解し、愛するように、我々の心を準備してくれたからだ」
マリア・ワルトルタ天使館第2巻79.8
羊乳と黒パンを運んできたエリヤは言う。「待っていた間に、わたしはイサクと一緒に、ヘブロンの人たちを説得しようと努力しました・・・でも信じないし、誓わないし、ヨハネしか望んでいません。ヨハネは彼らの『聖者』であり、彼しか望んでいないのです。」
「現在と未来の多く国々と信者たちの共通の罪です。働きびとを見るが、その働きびとを遣わした主人を見ていません。『あなたのご主人にこれを言ってください』とも言わずに、働きびとに頼みます。主人がいるから働きびとがいるのであり、働きびとを教育し、働く者にするのは主人であることを忘れています。働きびとは執り成すことができるのを忘れています。だが、執り成しを好意的に認めるのは、一人、主人のみです。この場合、神と、彼と共にそのロゴスです。構いません。ロゴスはそのために苦しみますが、恨みはしません。行きましょう」。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P79
「それなら私たちはあなたを失ってしまうわけですね」
「そうではないニコデモ。洗者ヨハネのところにもいろいろな宗派の人々が行く。同じように私のところには、どんな位の人でも、どんな宗派の人でも来ることができる」
マリア・ヴァルトルタ/天使館/第4巻中/P188
イエズスは言う。
「ヨハネは偉大な聖人です。彼のやり方も奇跡の欠如も問題にしてはなりません。まことにわたしはあなたたちに言います、『彼は神の王国の偉人です』と。そこでは彼はそのすべての偉大さのうちに現れるでしょう。
多くの人たちは、彼はなぜ無骨なまでに荒々しく厳しかったし、厳しいのかと不平を言います。まことにわたしはあなたたちに言いますが、彼は主の道を整えるために巨人的仕事を成し遂げました。またこのように働く人には豪奢な生活をして失う時間などありません。ヨルダン川沿いにいた間、彼は、彼とメシアについて預言したイザヤの言葉、すなわち『あらゆる谷は埋め立てられ、あらゆる山は低くされ、曲がりくねった道は真っ直ぐにされ、凸凹道は平らにされるだろう』、そしてそれは主なる王に道を整えるためだ、と言わなかったでしょうか? しかし彼はわたしに道を整えるのに全イスラエルよりももっと働いたのです! そして山々を打ちのめし、谷を埋め立て、道を真っ直ぐにし、あるいは骨の折れる坂道を緩やかな坂にするには、荒々しく働かざるをえません。なぜなら彼は先駆者であったし、ほんの数か月ほどわたしに先駆けて生まれ、贖罪の日に太陽が高く昇る前にすべてをなし終えねばならなかったからです。太陽がシオンの上に、そしてそこから全世界に輝くために昇る今こそその時です。ヨハネは道を整えたのです。しなければならなかったように。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P283
そして今は、私は完全な生贄をもって、また人間に恩寵をもってくるために来たにしても、アダムのわざに対しての裁きは、そのまま残り、それはいつまでも“原罪”と呼ばれるであろう。人間があがなわれ、すべての清めにまさる清めによって洗われるであろうが、凡ての人間は、そのしるしをもって生まれるのである。なぜなら、神が、女から生まれるすべての人にあるべきであるとお定めになったからである。これに例外であるのは、人間のわざによってではなく、聖霊によって造られ、または前もって免除されたもの(聖母マリア)また、前もって聖とされたもの(洗者ヨハネ)だけである。前者は神を産む処女であるためで、後者は救い主の無限の功徳によって、生まれる前に清められて、罪のないものの先駆者となるためであった。