荒れ野で叫ぶ者の声がする

マルコ1・3

 

洗者ヨハネ洗礼

 

 

1.荒野

2.ヨルダンの水

3.かれは水で洗礼を施したが、しかし主は聖霊と火で洗礼を施されるであろう(ヨハネ1・33)

4.曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり

5.らくだの毛衣

6.いなご

7.ヨハネが主の前に遣わされた理由

8.声・・主が来られることについて聖言から告げ知らせること

 

 

1.荒野

天界の秘義2708[]

このすべてからバプテスマのヨハネにかかわる以下の記事により意味されていることを認めることができよう―

 

 イザヤにより、(以下のように)言われた、(すなわち)荒野に叫ぶ者の声、主のために道を備えよ、その路を直ぐにせよ(マタイ3・3、マルコ1・3、ルカ3・4、ヨハネ1・23、イザヤ40・3)。

 

それは教会はそのとき全く剥奪されてしまい、かくてもはやいかような善もなく、またいかような真理もなくなってしまったことを意味しており、そのことは以下の事実から明白になっているのである。すなわち、当時たれ一人人間には内なるものがあることを知らなかったのであり、また聖言には内なるもののあることも知らなかったのであり、かくてたれ一人メシヤまたはキリストが永遠にかれらを救うために来られることになっていたことも知らなかったのである。

 

2.ヨルダンの水

黙示録講解475ロ(19)

 『ヨルダンの水』は、聖言から発している真理と善とにかかわる知識であるところの、教会へ導き入れる真理を意味し、その中で身を『洗うこと』は誤謬から清められ、その結果主により改良され、再生されることを意味したため、それで洗礼が制定されたのであり、それは先ずヨルダン川においてヨハネにより行われたのである(マタイ3・11−16、マルコ1・4−13)。

 

この儀式は主、その来られること、主により救われることについて聖言から与えられる知識の中へ導き入れられることを意味し、人間は主により、聖言から発している真理により改良され、再生するため、洗礼は主により命じられたのである、なぜなら人間が改良され、再生するのは聖言から発している真理によって行われ、改良し、再生させられる方は主であられるからである。(このことについてはさらに多くのことが「新しいエルサレムの教義」の中に見ることができよう、202−209番)。

 

3.かれは水で洗礼を施したが、しかし主は聖霊と火で洗礼を施されるであろう(ヨハネ1・33)

黙示録講解475ロ(20)

ヨハネにより以下のことが言われた―

 

かれは水で洗礼を施したが、しかし主は聖霊と火で洗礼を施されるであろう(ヨハネ1・33)

 

 これはヨハネは主について聖言から発している知識の中へかれらを入れ、かくて主を受け入れるようにかれらを備えたにすぎなかったが、主御自身は主から発出している神的真理と神的善により人間を再生させられることを意味している、なぜならヨハネはエリヤが表象したものと同じようなものを、すなわち、聖言を表象したからであり、ヨハネが洗礼を授けるさいに用いた水は、主にかかわる聖言から発した知識であるところの、導き入れる真理を意味し、『聖霊』は主から発出している神的真理を意味し、『火』は主から発出している神的善を意味し、『洗礼』は聖言から発している神的真理により主が再生させられることを意味している。

 

4.曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり

天界の秘義3527[]

 ルカ伝には―

谷間はことごとくふさがれてしまい、山と岡は凡て低くされるであろう、まがったものはまっすぐになり、荒れた[ごつごつした]所は平らかな道となるであろう(3・5)。

 

ここでは『谷間』は卑しくされたものを意味し(1723、3417番)、『山と岡』は高められたものを意味し(1691番)、『曲がったものがまっすぐになる』は善に変わった無知の悪を意味している、なぜなら『長さ』とそれにぞくしているものとは善について述べられるからであり(1613番)、『平たい道となったごつごつした所』は、真理に変わった無知の誤謬を意味している。(『道』は真理について述べられている、627、2333番)。

 

5.らくだの毛衣

天界の秘義3301

『毛の上着[毛皮]』が自然的なものの真理を意味していることは以下から明白である、すなわち、『上着』の意義は他の何かの着物となるものであり―それでここでは真理が善の着物となるため、真理を意味している、なぜなら真理は着物のようなものであり(1073、2576番)、または、それと同一のことではあるが、真理は善を受容する器であるからである(1469、1496、1832、1900、2063、2261、2269番)また『毛』の意義は自然的なものの真理の方面である。

 

『髪の毛[]』または『頭の毛』がしばしば聖言に言われていて、そこでは自然的なものを意味しているが、その理由は髪の毛を人間の最も外なる部分における発生物であって、それは丁度自然的なものもまた人間の合理的なものに対しては、またその内的なものに対してはそのようなものとなっているということである。人間は身体の中に生きている間は、自然的なものがかれの一切であるかのようにかれには見えるが、しかしこれは真のことであるどころか、自然的なものは、毛髪が身体の色々な物から自然に発生しているように、むしろ人間の内なるものから(自然に)発生しているものなのである。

 

ここから身体の生命の中でたんに自然的なものにすぎなかった人間は、他生では、その状態に応じて目に示されると、恰もその顔全面が毛髪で蔽われているかのように現われてくるのである。さらに人間の自然的なものは頭髪により表象されており、それが善から発している時は、それは似合った、念入りに整えられた毛髪により表象されるが、善から発していない時は、似合わない、乱れた毛髪により表象されているのである。

 

[]聖言に『毛髪』が自然的なものを、とくに真理の方面で意味しているのは、こうした表象的なものから発しているのである、例えばゼカリア書には―

 

 その日予言者たちは恥じ、人は、予言をなした時、その幻のために恥じるようになるであろう、かれらはまた欺くために毛皮[毛の上着]を着ないであろう(13・4)

 

『予言者』は真理を教える者たちを意味しているが、ここでは誤謬を教える者たちを意味しており(2534番)、『幻』は真理を、ここでは誤謬を意味し、『毛皮[毛の上着]』は真理の方面の自然的なものを意味しており、真理がなくて、むしろ誤謬が存在したため、『欺くために』と言われているのである。

 

予言者たちは、かの真理を表象するためにこのような衣服を着けたのである、なぜならそれは外なるものであるからである。それでまたテシベ人エリアはこのような衣服から『毛深い人』と呼ばれ(列王記下1・8)、予言者たちの最後のものであったヨハネは『らくだの毛の衣』を着ていたのである(マタイ3・4)。

 

『らくだ』は自然的な人の記憶知であることは前の3048、3071、3143、3145番に見ることができよう)。

 

天界の秘義3540[]

 予言者は教える者を表象し、そこから聖言から善と真理とを教えることを表象し(2534番)、エリアは聖言そのものを表象し(2762番)、同じくヨハネもまた聖言そのものを表象したため―かれはそうした理由から来るべきエリアと呼ばれているが(マタイ17・10−13)―それでかれらは聖言をそれがその外なる形において、すなわち、その文字においてあるがままに表象するため、エリアはその腰のまわりに皮の帯をしめ(列王記下1・8)ヨハネはらくだの毛の衣をつけ、その腰に皮の帯をしめたのである(マタイ3・4)。人間の皮膚と獣の皮とは、霊的なものと天的なものとに対する関係では自然的なものである外なるものを意味したため、また古代教会の書であるヨブ記にも、『皮膚[]』は同一の意義をもっているのであり、このことはその書物のいくたの記事から、また以下の記事からも認めることができよう―

(ヨブ記19−25,26)。

 

6.いなご

黙示録講解543ロ(8)

いなご・・・感覚的な人の誤謬

 

黙示録講解543ニ(12)

 (前に言ったように)人間の感覚的なものは人間の思考と情愛との究極的な最低のものであるため、また最低のものは、高い、またはさらに卓越した所にいる者たちにより観察されるとき僅少なものであるため、そうした理由のため、それはいなごにたとえられている。例えば―イザヤ書には―

 

地の円形の上の方に住まわれるエホバ、地に住む者らはいなごのようである(40・22)。

 

これは人間の理知の方面では最低の物の中におり、主は最高の物の中におられることを意味している。

 

(13)同様に、モーセの書においては、人間は、自らは他の者らにまさっているとの確信を抱いている者らにより観察されるとき、いなごにたとえられている―

 

カナンの地を秘かに偵察した者らは言った、わたしたちはネフィリムを、ネフィリムから出ているアナクの子孫を見ましたが、わたしたちはわたしたち自身の目の中ではいなごのようでありました、わたしたちはかれらの目の中ではそのようなものでありました(民数記13・33)。

 

『ネフィリム』と『アナキム』とは自分らは他の者にまさって卓越しており、賢明であると最も強く確信している者らを意味し、抽象的な意味では恐るべき確信[信念]を意味している(「秘義」、311、567、581、1268、1270、1271、1673、3686、7686番)。

 

密偵はこれらの者には、またかれら自身にもいなごのように見えたことは霊界における現象[外観]に一致している、なぜならそこでは、自分自身の卓越を確信している者らは他の者らを眺めるとき、その者らを小っぽけな、卑賤な者として見、そのさいこれらの者もまたその者自身にはそのように見えるからである。

 

(14)『いなご』は人間の思考の生命の究極的なものである感覚的なものを、又は究極的なものを―その中に理解が終結し、又その上に理解は安んじているが、そうした究極的なものを―意味し、その上に静止するように、この究極的なものは人間の理解と意志とに属している内的な、または高い物がその上に立つ基底と土台のようなものであり、同様に霊的なものと天的なものと呼ばれている聖言の内的な高いものがその上に立つ基底と土台のようなものである。そして凡ゆるものは、連続するためには、また生存するためには、土台を持たねばならぬように、聖言の究極的なものと基底であるその文字の意義は自然的な感覚的なものであり、このことが、従って、善い意味では、その真理と善とは『いなご』により意味されている。これが洗礼者ヨハネがいなごを食べた理由であり、またイスラエルの子孫がそれを食べることを許された理由である。洗礼者ヨハネについては以下のように言われている―

 

かれはらくだの髪の衣服を着、その腰には皮の帯を巻いていた、かれはいなごと野蜜とを食べた(マタイ3・4、マルコ1・6)。

 

 洗礼者ヨハネはそのようなものを着たのはかれはエリヤのように聖言を表象したためであり、『らくだの髪のその衣服と皮の帯といなごと野蜜を食べること』によりかれは聖言の究極的な意味を表象したのであり、聖言の究極的な意味は、すでに言ったように、感覚的な自然的なものであるのは、それは感覚的な自然的な人のためのものであるためである。『衣服』は善の衣服となっている真理を意味し、『らくだの髪』は感覚的なものであるところの自然的な人の究極的なものを意味している、『いなごと野蜜』もまた専用の方面の究極的なものまたは感覚的なものを意味し、『いなご』は真理の方面の感覚的なものを意味し、『野蜜』は善の方面の感覚的なものを、『食べること』は己がものとして用いること[専用]を意味している。古代、教会が表象的な教会であったとき、神事に仕えた者たちは凡てその表象していることに従って衣服をつけ、食事もしたのである。

 

7.ヨハネが主の前に遣わされた理由

 

黙示録講解724ロ[]

ルカ伝には―

その天使はヨハネについてゼカリアに言った、かれは主の前にエリアの霊と力とをもって行き、父の心を子に向けるであろう(1・17)。

 

マラキ書には―

わたしはエホバの大いなる恐るべき日が来る前に予言者エリアをあなたらにつかわそう、かれが父の心を子に向け、子の心を父に向けるためであり、わたしが来て地を呪いをもって打つことのないためである(4・5,6)。

 

 洗礼者ヨハネが前に送られたのは人々を洗礼により主を受け入れるように備えるためであったことは、洗礼は悪と誤謬から浄められることを、また主により聖言を通して再生することを表象し、意味したためであった。

 

この表象が先行しなかった限り、主は御自身を明らかに示されることはできず、ユダヤとエルサレムにおいて教え、生活されることはできなかったのである、なぜなら主は人間の形を取られた天と地の神であられ、主は、教義の方面では単なる誤謬の中に在り、生命の方面では単なる悪の中に在った国民のもとには現存されることはできず、従ってその国民が洗礼により誤謬と悪から浄められることを表象することにより主を受け入れる備えをなさなかったかぎり、神的なものそれ自身が現存されることにより凡ゆる種類の病気により破壊されてしまったのであり、それゆえこのことが『わたしが来て、地を呪いをもって打たないために』により意味されていることである。

 

それがそうであることは霊界には充分に知られている、なぜなら誤謬と悪との中にいるそこの者らは主の眼前にいることにより凄まじく責め苛まれて、霊的に死んでしまうからである。

 

 

[]ヨハネの洗礼はそうした効果を生み出すことができたのは、ユダヤ教会は表象的な教会であり、かれらの天界との連結はことごとく表象的なものにより遂行されたためであり、そのことはそこに命じられた洗うことから認めることができよう、そのことは不潔になった者は凡て自分自身と自分の衣服を洗わねばならず、その結果清潔な者として考えられたのであり、同様に祭司とレビ人らとは集会の天幕に入り、後に神殿に入り、聖い任務を司る前にはかれら自身を洗わねばならず、同様にナーマンはヨルダン川で身を洗うことによりらい病から清められたのである。

 

洗うことと洗礼を受けることそれ自身は実にかれらを誤謬と悪とから清めはしなかったのであり、たんにそうしたものから清められることを表象し、そこからそのことを意味したすぎなかったものの、そのことは天界では恰もかれら自身が清められたかのように受け入れられたのである。このようにして天界はヨハネの洗礼によりその教会の人々に連結したのであり、天界がかれらに連結したとき、主は、天の神であられたため、そこでかれらに御自身を示され、教えられ、かれらの間に住まわれることができたのである―

 

ヨハネのもとへエルサレムとユダヤ全部とヨルダンの周囲の全地域が行き、かれらはヨルダンの中でかれにより洗礼を授けられ、己が罪を告白した(マタイ3・5,6)。

 

かれはかれらに言った、ああ、まむしの裔よ、たれが来るべき憤怒から逃れることを警告したか(ルカ3・7)。

 

 ユダヤ人とイスラエル人とは表象的なものにより天界と連結したことは「新しいエルサレムの教義」の中に見ることができよう(248番)。今やこのことがヨハネが主のために道を備えるために、また主のためにその民を備えるために前以て送られた理由であった。そしてこのことから『父の心を子に向け、子の心を父に向けること』が意味していることを結論づけることができよう。すなわち、それは霊的な善を真理に連結することを、かくて真理を善に連結し、かくて主により聖言を手段として再生することを表象することを招致することを意味している。

 

なぜなら再生は善を真理と、真理を善と連結することであり、再生される方は主であり、教えるものは聖言であるからである。

 

[]このヨハネについて『かれはエリアの精神と力との中に主の前に行かねばならない』、かれはエリアであった、とこのヨハネについて言われたことは、ヨハネはエリアのように、聖言に関連した主を表象し、そこから主から発している聖言を意味したためであり、神的な知恵と神的な力は聖言の中に在るため、これらのものは『エリアの霊と力』により意味されている。(聖言はそうしたものであることについては「天界と地獄」303―310番、小著「白馬」を参照されたい。)

 

 

静思社/神学論文集P100

 

ベイエル博士に宛てたイマヌエル スエデンボルグの第六番目の手紙から

 

「かいばおけ」は、らばと馬とが聖言を理解することを意味しているため、聖言から与えられる教えを意味しており(「啓示による黙示録解説」、297番を参照)、「かいばおけ」はそれらの食物を含んでおります、宿屋に部屋が無かったことはエルサレムには教える所が無かったことを意味しており、それで、来るべき教会を意味している羊飼いたちに、「このことがあなたらに与えられるしるしとなりましょう、あなたらはかいばおけに寝かされている赤児を見つけるでしょう」(ルカ伝2・12)と言われています。

 

ヨハネの洗礼は、神御自身がユダヤ人の間に降臨されるとき、ユダヤ人たちが存続するようにと諸天界を備えたのです。ヨハネは主と主の降臨とについて言われた旧約聖書の凡ゆる予言を意味したのであり、同じくエリアも、予言者たちの首頭であったため、そのことを意味したのです。

 

 

 

8.声・・主が来られることについて聖言から告げ知らせること

 

天界の秘義9926[]

 

イザヤ書には―

荒野に叫ぶ者の声、エホバの道を備えよ、エホバの栄光が示される[啓示される]からである。その声は言う、叫べよ。ああシオンよ、善い音づれを告げる者よ、高い山に上れよ!ああエルサレムよ、善い音づれを告げる者よ、強く声を上げよ!声を上げよ、見よ、主エホビは力をもって[強さをもって]来られる(40・3、5,6,9,10、またヨハネ伝1・23)、

 

ここの『声』は主が来られることについて聖言から告げ知らせることを意味し、かくてそれはまた聖言が告げる神的な真理[神の真理]を意味し、『荒野』は、聖言がもはや理解されなかったため、恰も荒野であった当時の教会の状態を意味し、『示される栄光』は聖言の内部[内部の方面の聖言]を意味している。(このことが『栄光』により意味されていることが前に見ることができよう。)『その方のために道が備えられねばならなかったエホバ』と『力をもって来られるにちがいない主エホビ』が主を意味していることは明らかである、なぜならそのことが明らかに述べられているからである。