再生する者は僅か

 

試練剥奪[荒廃]

 

 

 

1.再生する者は僅か

2.現今何らかの霊的な試練に入れられる者は殆どいない

3.現今ではこのように進む者は極めて少数である

4.坑

 

 

 

 

1.再生する者は僅か

 

天界の秘義2682

 

 しかし自分には死後生くる霊があると信じている者は僅かしかいないため、再生しつつある者も僅かしかいないのである。それを信じている者たちには他生はその者たちの思考と情愛のすべてであり、世はそれに比較すると無価値なものであるが、しかしそれを信じない者らには世がその者らの思考と情愛のすべてであって、他生はそれに比較すると無価値なものである。前の者は再生することの出来る者であるが、後の者は再生することが出来ない者である。

 

 

 

天界の秘義3761

 

成人期になって再生されつつある人間は本章と本章以後の幾多の章の内意に記されている秩序に応じて進んで行くことは、僅かな者しかそのことを考察しないし、また現今僅かな者しか再生されることが出来ないという理由から、僅かな者にしか知られていない。なぜなら今はもはやいかような仁慈もなく、従っていかような信仰も存在しない教会の最後の時であり、それがそうであるため、たとえ人間は信仰により救われると凡ての者から言われてはいるものの、信仰とは何であるかさえも知られていないからである。ましてや仁慈とは何であるかは知られてはいないのであり、この二つのものは単に言葉として知られているのみで、その本質については知られていないため、そうした理由から、僅かな者しか人間が新しくされ、または再生される秩序を反省することが出来ないのであり、また僅かな者しか再生することが出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義3787

 

ここに隠れているアルカナは仮にも充分な状態に到達する者は僅かしかいないということであり(その状態については前の2636番を参照)、かくて再生することが出来る者は僅かしかいないということである。

 

 

 

 

2.現今何らかの霊的な試練に入れられる者は殆どいない

 

新エルサレムの教義193

 

現在仁慈はないため、信仰も稀であるので―なぜなら教会はその終わりにあるから―現今何らかの霊的な試練に入れられる者は殆どいない。かくてそれはいかようなものであるか、またそれはいかようなことに役立っているかは殆ど知られていない。

 

 

新エルサレムの教義197

 

 それで現今では霊的試練に入れられる者は極めて僅かしかいない(8965番)。

 

 

天界の秘義7090〔4〕

 

 ここから霊的な教会は『闘う』ものと呼ばれなくてはならないのである。しかし今日ではそれは世の何人のもとでもめったに闘う教会とはなっていないのである、なぜなら教会の人間は、世で生きている間は、悪い者の群の真中に置かれているため、また弱い肉の中に置かれているため、争闘に堪えることは出来ないからである。他生では人間は良心の絆の中に堅く留められることが出来るが、しかし世ではそれは不可能である、なぜならもし彼が、争闘に置かれている者の常として、何か絶望状態に入れられると、彼はすぐにその絆を破ってしまい、もしそれを破るなら、その時は降伏し、もしそのように降伏するなら、その救いは絶望となるからである。ここから今日の教会の中では僅かな者しか真理のために誤謬に反抗する争闘に主により入れられることを許されていないのである。この争闘は霊的な試練である。(低地とそこにおける剥奪について前に示したことを参照されたい、4728、4940−4951、6854番)。

 

 

天界の秘義8965

 

 現今信仰はまれにしか存在しないため―なぜなら教会はその終わりに達しているからである―それで今日では霊的な試練を受ける者は僅かしかいない。それでその何であるかは、またそれは何に貢献するかは殆ど知れらてはいない。

 

 

 

3.現今ではこのように進む者は極めて少数である

 

天界の秘義6047[4]

 

 その後、彼が確認し、かくてその教義的な事柄が信仰の真理であることを聖言から肯定するとき、そのときは彼がその得ている凡ゆる記憶知によって―それがいかような名前のものであれ、またいかような性質のものであれ―その教義的な事柄を確認することが許されるのである、なぜならそのときは、肯定的なものが遍く支配しているため、彼は一致している記憶知は受け入れはするが、そこに含まれている妄想のために一致してはいない記憶知は斥けてしまうからである、なぜなら信仰は記憶知により強められるからであり、それでたれ一人自分がその中に生まれた教会の教義的な事柄が真であるか否かを知ろうとする情愛から聖書を調べることを禁じられてはならないのである。なぜなら彼はそれ以外の方法では明るくされることは出来ないからである。そのように行った後は何人も記憶知によって自分自身を強めることを禁じられてはいないが、しかしそれ以前ではそうしたことを為してはならないのである。これが信仰の諸真理を記憶知に、たんに教会の記憶知のみでなく、またいかような記憶知にも連結する方法であり、またその唯一の方法である。しかも現今ではこのように進む者は極めて少数である、なぜなら聖言を読んでいる大半の者は、それを真理の情愛[真理を求める情愛]から読みはしないで、彼らがその中で生まれた教義的な事柄を、それがいかようなものであろうと、聖言から確認しようとする情愛からそれを読んでいるからである。

 

 

4.坑

 

天界の秘義4728

 

「彼を坑の一つに投げ入れた」(創世記37・20)。これは、誤謬の間に、を意味していることは、『坑』の意義から明白であり、それは誤謬である。『坑』が誤謬であるのは、誤謬の原理の中にいる人間は、死後、誤謬がその者から遠ざけられてしまって、いわば周辺に斥けられてしまうまでは、しばらくの間低地の下に留め置かれるためである。これらの所は坑と呼ばれ、その中へ入って行く者らは剥奪の中に置かれなくてはならないといった者である(1106−1113、2699、2701、2704番)。こうした理由から、『坑』により、抽象的な意義では、誤謬が意味されている。低地は足の真下に在り、周囲の地域は僅かしかそこから隔たってはいない。ここに大半の人物が死後天界へ挙げられる以前にいるのである。この地もまた再三聖言に言われている。その下に『坑』と呼ばれている剥奪の場所が在り、その場所の下にまた周囲に非常な範囲にわたって地獄が存在している。