霊界

 

リンボ(古聖所)低地剥奪[荒廃]

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.公教要理

3.それゆえ天界は霊界と呼ばれ

4.霊界はその世界(霊たちの世界)と天界と地獄とを含んでいる

 

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界と地獄421

 

 霊たちの世界は天界ではなく、また地獄でもない、それはその二つのものの間の中間の場所または状態である。なぜならそれは人間が死後まず入って行く場所であり、そこから人間は、その定められた時の後で、世で送ったその生活に従って、天界へ挙げられるか、または地獄へ投げ込まれるかするからである。

 

 

 

天界と地獄422

 

 霊たちの世界は天界と地獄との中間の場所であり、また死後の人間の中間の状態である。それが中間の場所であることは以下のことから、すなわち、地獄は下に在り、天界は上に在ることから私に明らかにされ、それが中間の状態であることは、以下のことから、すなわち、人間はそこにいる間は、まだ天界にも地獄にもいいないということから私に明らかにされたのである。人間における天界の状態とは人間の中に善と真理とが連結することであり、地獄の状態とは人間の中に悪と誤謬とが連結することである。人間霊の中に善が真理と連結するとき、今述べたように、その連結が彼の中の天界であるため、彼は天界に入るが、しかし人間霊の中に悪が誤謬と連結するとき、その連結は彼の中の地獄であるため、彼は地獄に入る。この連結は霊たちの世界で行われる、なぜなら人間はそのとき中間の状態にあるから。理解と意志の連結と言うも、真理と善との連結と言うも、意味は同じである。

    

 

 

 

天界と地獄426

 

 霊たちの世界には莫大な数の者がいるが、それは凡ての者は先ずそこに集まり、また凡ての者はそこで点検され、準備するからである。彼らがそこに止まっていることには何ら定まった期間はなく、その世界に入ったのみで、すぐに天界へ挙げられるか、地獄へ投げ込まれるかする者もあり、そこに数週間しか止まっていない者もあり、数年間止まっている者もいるが、しかし三十年以上は止まらない。時間の相違は人間の中に内部と外部とが相応するか、相応しないかに懸かっている。しかしその世界で人間はいかようにして一つの状態から他の状態へ入って、準備をするかを以下に述べよう。

 

 

 

天界と地獄498

 

 この死後の人間の状態は人間によって数日、数ヶ月、一年続くが、誰のもとでも一年を超えることはない、即ち、各々のもとに内部が外部に一致しているか、一致していないかに応じてその時は短くも長くもなっている。

 

 

 

天界と地獄510

 

各々の者は、その霊が世で宿っていたその者自身の社会へ入って来る、なぜなら人間各々はその霊の方面では、奈落の社会か、天界の社会か、その何れかの社会に連結しており、邪悪な人間は奈落の社会に、善良な人間は天界の社会に連結していてーそこへ死後帰って行くからである(438番参照)。その霊はその社会へ次々と段階を経て連れて行かれ、遂にはそこへ入って行く。悪い霊はその内部の状態にいるときは徐々にその霊自身の社会へ向き、その状態の終わる前に、遂にはその社会へ真っ直ぐに向き、そしてこの状態が終わると、その同類の者のいる地獄に向かって自ら自分自身を投げつける。

 

 

 

天界と地獄511

 

悪い霊は善い霊からこの第二の状態の中で分離する。

 

 

 

(死後の人間の第三の状態、即ち、天界に入る者たちの、教えを受ける状態)

天界と地獄512(太字は当方による)

 

 死後の人間の、またはその霊の第三の状態は教えを受ける状態である。この状態は天界に入って天使となる者たちのためにあるが、地獄に入る者らのためにはない、なぜなら地獄に入る者たちは教えられることが出来ず、そのため彼らの第二の状態がまた第三の状態であって、その最後は、彼らは全く自分自身の愛に向き、従って類似した愛にいる奈落の社会に向くからである。こうしたことが起こると、その時は、彼らはその愛から考え、また意志し〔欲し〕、そしてその愛は奈落的なものであるため、悪いこと意外には何ごとも欲しないし、また誤ったこと以外には何ごとも考えないし、そうしたことが彼らの愛から生まれるため、それが彼らの楽しさとなり、従って以前自分の愛に仕える手段として役立つために用いた善で真のものはことごとく斥けてしまう。しかし善良な者は第二の状態から第三の状態へ入れられるが、それは教えを受けることによって、天界へ入る準備をする状態である。なぜなら何人も善で真のものを知らない限り、引いては教えられなくては、天界に入る準備をすることが出来ないからである。それは何人も教えられなくては霊的な善と真理の何であるかを、またその反対のものである悪と誤謬の何であるかを知ることは出来ないためである。

(中略)

 

しかし誰一人、例えば[一人の]神がおられ、天界と地獄があり、死後の生命があり、神を何ものにもまさって愛さなくてはならない、隣人を自分自身のように愛さなくてはならない、聖言は神的なものであるため、聖言にあることは信じなくてはならないというようなことを先ず教えられない限り、そのように行動することは出来ない。人間はこうした事を知り、また承認しなくては霊的に考えることは出来ず、そうしたことを考えなくては、それを欲しもしない、なぜなら人間は知らないことを考えることは出来ず、考えないことは欲することも出来ないから。それゆえ人間がそうしたことを欲する時、天界は流れ入り、即ち、主は天界を通して、人間の生命へ流れ入られる、なぜなら主は意志へ流れ入られ、意志を通して思考へ流れ入られ、その二つを通して生命へ流れ入られるから。それは人間の生命はすべてその二つのものから発しているためである、これらのことから、霊的な善と真理とは世から学ばれないで、天界から学ばれ、また、たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ないことが明らかである。主はまた誰でも人間の生命へ流れ入られるに応じて、教えられる、なぜならそれに応じて主は意志を真理を知ろうとする愛で燃やし、その思考を明るくされて、人間は真理を知り、そしてこうしたことが起るに応じて、人間の内部は開かれて、その中に天界が植え付けられ、更に、それに応じて神的なものと天界的なものとが、人間における道徳的な生活の誠実な物の中へ、また社会生活の公正な物の中へも流れ入って、それらの物を霊的なものにするからである。

 

 

 

天界と地獄513

 

ある者は先ずその誤謬を剥奪されるが、それは低地と呼ばれる足の裏にある場所で行われ、そこである者は非常な苦しみを舐める、これらの者は誤謬を確認はしたものの、善い生活を送った者たちである。なぜなら確認された誤謬は非常な力をもって密着しており、それが消散しない中は、真理を認められず、引いては受け入れられることは出来ないからである。しかし剥奪のことは、それが行われる方法と共に、「天界の秘義」の中に取扱われており、以下の註はそこから集められたものである(*1)

 

 

 

 

 

 

 

黙示録講解537イ(2)

 

 『深遠』が聖言の中で意味していることは下に話そう。『深遠の坑を開くこと』はそうした地獄との交流と連結とを意味しているのは、地獄は悪霊が入って来る時を除いては開かれはしないためであり、そのことは彼らが霊たちの世界の中で彼らの時を完全に過ごした時に起るのである、なぜならいかような悪霊にも、その者が一度び地獄へ投げ込まれた時は、そこから外へ出ることは許されはしないからであり、もし外へ出るにしても直ぐにその中へ後退してしまうのである。しかし人間は各々委く(こまかく?)、霊たちの世界の中にいて、その人間自身が得ている性質と同じような者である霊と連結しており、従って聖言を生命の幾多の悪に、その悪を確認する誤謬に聖言を適用することにより聖言を誤謬化してしまう人間はその人間に同じような霊どもと連結し、その霊どもにより同じような誤謬の中にいる幾多の地獄と連結してしまうのである。人間は各々ことごとく死後は霊となり、その時すぐにも奈落の社会か、天界の社会か、その何れかに、世に送ったその生命[生活]に応じて、密着してしまうのであり、霊は凡て、地獄へ投げ込まれるか、または天界へ挙げられるかする前には、先ず霊たちの世界におり、その際世に生きている人間のもとにおり、悪霊は悪い者と共に、善い霊は善い者と共にいるのである。これらの者を通して人間は地獄か、それとも天界か、その何れかと交流し、連結するのである。このことが『地獄を開くこと』は地獄を開くことを意味しないで、地獄と交流し、交流により連結を持つことを意味していることを明らかにしている。地獄の凡ゆる者から悪の誤謬が大量に放出され、そうした誤謬の中に霊たちの世界の中にいる霊たちがおり、同時に私たちの世の中で同じような誤謬の中にいる人間がいるのである。霊または人間は一人としてその生命の愛が在る所以外の何処にもいることは出来ない、なぜなら人間はその愛するものを意志する[欲する]のであり、考えるのであり、呼吸するからである。(霊たちの世界とは何であるか、については「天界と地獄」、421−431番以下を参照されたい)。

 

 

 

 

天界の秘義2041[4]

 

悪い者のもとにもまた、身体のまた世のものは静められることが出来、その時彼らは一種の天界的なものの中へいわば引き上げられることが出来るのであって、こうしたことは他生における霊魂たちのもとに起るのであり、特に世に生きていた間に天界について非常に多くのことを聞いていたため、主の栄光を見ようと切望している新しく着いたばかりの者たちのもとに起るのである。前に言及した外なる者はその時彼らの中に静まってしまっており、そのようにして彼らは第一の天界に連れて行かれて、彼らの欲望を楽しむのである。しかし彼らは長く止まっていることは出来ない、なぜなら身体のまた世のものが単に静止しているのみであって、天使たちのもとにおけるように、それらのものが遠ざけられてはいないからである(このことについては541、542番を参照されたい)。天界的な愛〔天界の愛〕は主から人間の中へ絶えず流れ入っていて、それらの愛の幾多の欲念とそこから派生してくる幾多の誤謬を除いては、他の何ものもそれを妨害し、妨げはしないのであり、また人間にそれを受けることが出来ないようにさせもしないことを知らなくてはならない。

 

 

 

真の基督教622

 

 天界への準備は天界と地獄との中間に在る霊達の世界に行われる。この準備を終えた者はすべて、熱心に天界に入ることを欲する。間もなく彼らの眼は開かれ、天界の或る一つの社会へ通ずる道を眺める。彼らは直ちにこの道を登ろうとして出発する。登って行くと、一つの門があり、その番人がこれを開いてその新来の客を中へ入れる。彼らは次に一人の試験官に会う。彼は彼らに己がものとして認めることの出来る家を探して宜しいという統治者の言葉を伝える。何故なら新しい家が一軒、新来の天使の各々に備えられているからである。若し彼らはその家を見出すならば、その事実を報告し、其処に止まるが、それを見出さないならば、帰ってきて、試験官にその空しかったことを告げる。すると彼らの中に在る光と温かさとは、その社会の光と温かさとに調和しているか否かを知るために或賢明な天使によって試験がなされる。何故なら、天界の光と温かさとは、その本質に於いては神的な真理と善であり、両者は天界の太陽としての主から発するからである。若し、彼らの光と温かさとが、即ち、彼らの真理と善とがその社会のものと相違しているならば、彼らは受け入れられない。それ故、彼らは去り、天界の一つの社会から他の社会に通ずる他の道を探し求め、その旅を続け、遂にその諸々の情愛が全く彼らのそれと一致している一つの社会を見出すのである。そこが彼らの永遠の家庭である。何故なら、彼らは謂わば彼ら自身の親類と友との間に来り、これらの者をその願うところが同一であるために心から愛するからである。其処に神の平安が彼らの心に入り、彼らは永遠に完全な幸福の中に生きるのである。何故なら天界の温かさと光との中では言い尽くし難い歓喜があり、それはそこに住むすべての人々に伝えられるからである。それ故、これが天界へ入る道である。

諸々の悪と誤謬との中に在る者はこれと異なっている。彼らは欲するならば、天界に昇ることを許される。しかし彼らはその入口そのものの所で呼吸が困難になり始める。間もなく彼らの視覚は曇り、その理解は鈍り、考えることが出来なくなり、死がその面を凝視し、彼らを麻痺させるように思われる。その時、彼らの心臓は激しく鼓動し、その胸は締め付けられて痛み、精神的な苦悶は絶えず増し加わって行く。この状態に於いて、彼らは火に焼かれる蛇のように身悶えし、その時彼らに現れる険しい道をまっしぐらに駆け降る。彼らは止まらないで、遂に地獄の彼らに似た者たちの間に達する。何故なら、その時彼らの心臓は以前のように鼓動し、彼らは再び呼吸することが出来るからである。彼らはその後天界を嫌忌し、真理を斥ける。而してその心に於て主を涜し、彼らが天界で嘗めた苦悶と苛責とを加えた者こそ彼であると信ずる。

 これは信仰の真理と愛と仁慈の善とを―これらは天界の天使達の光と温かさである―軽視する者の運命を示している。それはまた何人でも、天界に入ることを許されるならば、その祝福を享受することが出来ると信ずる者の誤りをあらわに示している。何故なら、天界に迎えられることは、純粋な慈悲の行為であり、それは結婚の祝宴に行って、その喜びと楽しみとに与るようなものであると、現今信ぜられているからである。しかし霊界には情愛と思考との社会の在ることを知られよ。何故なら、人間はその時霊であって霊の生命は愛の情愛であり、また、そこから発する思考であり、而して類似した情愛は互に結合するが、類似しない情愛は分離するからである。この非類似が、悪魔が天界に悩み、天使が地獄に悩む苛責の原因である。この理由から、天使と悪魔とはその愛の相違に従って遠く分離される。

 

 

 

真の基督教678

 

霊界では幼児のみでなく他の者も凡て、洗礼によってキリスト教徒の間に入れられる。何故なら、その世界では互いに異なった民や、国人はその宗教によって区別されるからである。基督教徒は中央に、回教徒はその周囲に、偶像教徒は回教徒の背後に、ユダヤ人は両側に居る。さらに、同一の宗教を奉じている者は凡て天界では、神と隣人への愛の種々の形に従って、地獄では、その反対の悪い欲念の種々の形に従ってそれぞれ異なっている社会に排置される。霊界では、即ち天界と地獄には凡てのものは全般的にまた個別的に最も入念に配置されている。何故なら、全宇宙の維持はその配置に依存しているからである。各人は何れの宗教団体に属しているかを示す或る印によって他と区別されない限り、こうした区別は不可能であろう。何故なら洗礼というキリスト教的な印がなければ、或る回教徒または偶像教徒の霊がキリスト教の幼児と子供達に関係を持つようになり、これに己が宗教に対する愛着を注ぎ込むことが出来るからである。これは彼らの心を乱し、彼らをキリスト教から離反させ、かくして霊的秩序を歪曲し、破壊するであろう。

 

 

 

 

啓示による黙示録解説204

 

『彼らは吐き出されるであろう』と彼らについて言われているのは、霊たちの世界が―胃に相応しているためであり、胃の中ではその中へ入れられた物は凡て血や肉になるか、排泄物と尿とになるか、その何れかであり、後のものは地獄と相応し、前のものは天界と相応しているためである。しかし胃から吐き出される物は分離されないで、混入しているものである。

 

 

 

霊界日記1772

 

 低地にいる者たちは実際巨大人の中にはいないものの、それでも主の生命から生きているのである。これらの者については、そこには非常に多くの者がおり、或る者はそこに、剥奪されてしまうまで、長い期間、実に数代にも亘って抑留されていると言われた。

 

 

2.公教要理

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約

 

210 煉獄とは何ですか

 煉獄とは、神との親しさの中に死ぬ一方で、永遠の救いは確実であるものの、天の至福に入るために、まだ清めを必要とする人々の状態です。

 

 

 

211 わたしたちはどのようにして煉獄の霊魂の清めを助けることができますか。

 まだ地上の旅路を歩んでいるキリスト信者は、聖徒の交わりの力により、煉獄の霊魂のために祈りを捧げること、特に聖体のいけにえを捧げることによって、また施し、免償、償いのわざを捧げることによって、彼らを助けることができます。

 

 

 

 

3.それゆえ天界は霊界と呼ばれ

 

 

天界の秘義5639[3]

 

 基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいないのは、彼らが信仰を教会の本質的なものとして、仁慈をその本質的なものとしていないためである。従って信仰に関心を持っている少数の者は仁慈についてはたとえ考えるにしても殆ど考えはしないため、またはその何であるかも殆ど知らないため、それで知識がないため、仁慈のものである情愛も認識されることは出来ないのであり、仁慈の情愛の中にいない者は霊的なものの何であるかを到底知ることは出来ないのである。特にこのことは、殆どたれ一人何ら仁慈を持っていない現今に言われるのである、なぜなら今は教会の最後の時であるからである。しかし全般的な意味では『霊的なもの』は善のみでなく真理に対する情愛を意味しており、それゆえ天界は霊界と呼ばれ、聖言の内意は霊的意義と呼ばれているが、しかし特定的には善に対する情愛のものであるものは天的なものと呼ばれ、真理に対する情愛のものであるものは霊的なものと呼ばれていることを知らなくてはならない。

 

 

 

 

4.霊界はその世界(霊たちの世界)と天界と地獄とを含んでいる

 

 

神の愛と知恵140

 

 霊とは何であるか、天使とは何であるかを先ず説明しよう。人間は凡て死後先ず天界と地獄の中間に在る霊たちの世界に入り、そこに己が時を、即ち己が状態を経過し、己が生命に応じて、天界か地獄か、その何れかに向かって準備する。人間はその世界に止まる限り霊と呼ばれている。その世界から天界に挙げられた者は天使と呼ばれるが、しかし地獄に投げ込まれた者は悪鬼かまたは悪魔と呼ばれている。これらの者が霊たちの世界に止まる限り、天界に向って準備をしている者は天使的霊と呼ばれ、地獄に向って準備をしている者は奈落的な霊と呼ばれ、その間天使的霊は天界と連結し、奈落的な霊は地獄に連結している。霊たちの世界の凡ての霊は人間に接合している。なぜなら人間は、その心の内部の方面では、同じく天界と地獄との中間におり、これらの霊を通して、己が生活に応じ、天界かまたは地獄かその何れかと連絡(コミュニケイト)しているからである。霊たちの世界と霊界とは異なっており、霊たちの世界は今語ったところであるが、しかし霊界はその世界と天界と地獄とを含んでいることに注意しなくてはならない。

 

 

 

神の愛と知恵339

 

霊界により天界と地獄が意味されている。