人間自身のもの

 

 

自己愛世への愛

 

 

 

1.干からびた骨

2.深い眠り

3.肋骨

4.人間は悪と誤謬以外の何ものでもない

5.ヴァッスーラ

 

 

1.干からびた骨

 

天界の秘義149[]

 

人間自身のものは、天界から見られると、全く骨張った、生命の無い、極めて醜い物のように見え、従ってそれ自身では死んだものとして見えるが、しかし主によって生かされると肉のように見えるのである。なぜなら人間自身のものは人間には何か有意義なものとして、実に凡ての物としてさえ見えるが、全く死んだものであるからである。彼の中に生きているものはすべて主の生命から来ており、もしそれが取り去られるならば、彼は石のように死んで倒れ伏してしまうのである。なぜなら人間は単に生命の器に過ぎず、その器の如何に、生命の情愛が応じているからである。主のみが御自身のものを持たれており、この自分自身のものによって人間を贖われ、この自分自身のものは生命であり、その主御自身のものから、それ自身では死んでいる人間自身のものが生かされるのである。主御自身のものはまたルカ伝の主の御言葉により意味されている―

霊には肉と骨とはない、わたしにはあり、あなたらの見るようである(24・39)。

 

それはまた過越節の子羊の骨が一つも折られないことにより意味されたのである(出エジプト記12・46)。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P253

 

弟子―主よ、わたしは平和と幸せが去ってしまったような気持ちになることがあります。これは自分の隠れた罪によるものですか。それとも自分にはわからない何か他の理由によるものですか。

 

キリスト―1、不従順による場合も確かにあるが、わたしが子供たちを一時離れるようにみえるため、彼らが心寂しく落ち着かなくなる場合もまたある。このような状態にある間に、わたしは彼らの本当の姿、決定的な弱さを明示し、わたしを離れては干からびた骨同然であることを教えることができる。それは、彼らが憩いと平和ばかりの中で自分たちの本来の状態を忘れ去り、自分を神と思い込み、慢心によって地獄の刑罰に落ちたりしないためである。こうして彼らは躾けられ、教育される。そして、心を低くし謙虚に創造主であるわたしの中に生きるときに、彼らは天の永遠の幸せを楽しむのだ。

 

 

2.深い眠り

 

天界の秘義150

 

 人間の状態はその自分自身のものの中にある時は、または自分自身から生きていると考える時は『深い眠り』にたとえられ、実に古代人からは深い眠りと呼ばれ、聖言にはそのような者に就いては彼らは『その上に深い眠りの霊を注いだ』と言われ(イザヤ・29・10)また彼らは眠るとも言われているのである(エレミヤ記51・57)。

 

人間自身のものはそれ自身では死んでおり、たれ一人その者自身からは如何ような生命も持っていないことは霊達の世界に極めて明らかに示されているため、自分自身のもの以外には何物も愛しないで、自分は自分自身から生きていると頑強に主張する悪霊らは感覚的な経験により説得されて自分は自分自身から生きてはいないと告白することを余儀なくされたのである。人間自身のものは事実如何ようなものであるかを私は数年間特別な方法で知ることを許され、私は私自身からでは何事も考えることは出来ないのである、思考の観念はすべて流れ入っていることを明らかに認めることが出来たが、時にはそれが如何ようにしてまた何処から流れ入ってくるかも認めることが出来たのである。自分は自分自身から生きていると考えている人間はそれ故誤ったものの中におり、自分は自分自身から生きていると信じることにより悪いまた誤ったものをことごとく自分自身のものとしてしまうが、もしその者の信仰が実情の真の真理に順応しているならば、彼は決してそのようなことはしないであろう。

 

 

 

3.肋骨

 

天界の秘義151

 

 22節。「神エホバはその人から取った肋骨を女に組み立て、彼女をその人のもとに連れてこられた。」『組み立てる』ことにより堕落したものを引き上げることが意味され、『肋骨』により、生かされていない人間自身のものが意味され、『女』により主により生かされた人間自身のものが意味され、『彼女をその人のもとへ連れてこられた』により、彼自身のものであるものが彼に与えられたことが意味されている。

 この教会の子孫はその父祖のように、天的な人になることを望まないで彼ら自身の自己指導の下に在ることを願い、かくて彼ら自身のものに傾いたため、それが彼らに与えられはしたが、しかしそれは依然主により生かされた自分自身のものであって、それでそれは『女』と呼ばれ、後には『妻』と呼ばれるのである。

 

 

天界の秘義152

 

たれでも多少でも注意しさえするなら、女は男の肋骨から組み立てられはしなかったことを認めることができ、またここには、これまで人の知らなかった深いアルカナが意味されていることは認めることが出来よう。『女』により人間自身のものが意味されていることは、欺かれたのは女であったという事実から知ることが出来よう、なぜなら人間自身のものを除いては、またそれと同一の、自己と世への愛を除いては何ものも人間を欺きはしないからである。

 

 

天界の秘義155

 

 『肋骨が女にくみ建てられた』という言葉は人がその文字から発見することのできないものをその中のその最も深い辺りに隠しているのである。なぜなら主の聖言はその最も深い内容では主御自身との王国とに関わるものであり、ここから聖言の凡ゆる生命が発しているからである。それで今取扱っている記事の中で、その最も深い内容において問題とされているものは天界の結婚である。天界の結婚はその自分自身のものの中に存在するといった性質のものであって、その自分自身のものが主によって生かされる時、それは主の『花嫁、妻』と呼ばれるのである。このように生かされた人間自身のものは愛の善と信仰の真理とをことごとく認識し、従って言い尽くし難い幸福と連結した知恵と理知とをことごとく持っているのである。しかし主の『花嫁と妻』と呼ばれるこの生かされた自分自身のものの性質は簡単に説明することは出来ない。それでただ以下のようにのみ述べておこう、即ち天使たちは自分たちが主から生きていることを認めてはいるものの、それでもその主題について反省していない時は、自分は自分自身から生きているとしか考えてはいないのである。しかし彼らが愛の善と信仰の真理から些かでも外れると、変化を認めるといった共通した情愛が在り、従って彼らは自分は主から生きているという共通した認識の中にいる時は、言い尽くしがたい平安と幸福との中にいるのである。

 

エレミヤ記の以下の記事で意味されているものはまたこの自分自身のものである―

エホバは地に新しい事を創造られた、女は男を抱くであろう(31・22)。

 

この記事にもまた意味されているものは天界の結婚であり、そこには『女』により主により生かされているのは、この自分自身のものは肉となった肋骨が心臓を囲む[抱く]ようにも囲むものであるからである。

 

 

天界の秘義156

 

 23節「その人は言った、今これは私の骨の骨、私の肉の肉である。それで彼女は男から取られたために、妻と呼ばれるであろう。」『骨の骨と肉の肉』は外なる人の自分自身のものを意味し、『骨』は余り生かされていないこの自分自身のものを意味し、肉は生かされている自分自身のものを意味している。更に男は内なる人を意味しており、その内なる人が後の節に述べられているように、外なる人と共になることから、前には『女』と呼ばれた自分自身のものはここでは『妻』と呼ばれている。『今』は、状態が変わったためそれがこの時そのようになったことを意味している。

 

 

天界の秘義157

 

『骨の骨と肉の肉』は、内なる人がその内に存在した外なる人の自分自身のものを意味したためそれで古代では、彼ら自身のものと呼ばれることが出来て、一つの家または一つの氏族のものであり、または多少なりと血縁関係に在った者はすべて『骨の骨、肉の肉』と呼ばれたのである。かくてラバンはヤコブについて以下のように言った―

 

  まことにあなたは私の骨、私の肉である(創世記29・14)。

 またアビメレクはその母の兄弟とその母の父の家の家族とについては、

  私はあなたらの骨、あなたらの肉であることを憶えてください(士師記9・2)。

 と言った。イスラエルの諸族もまた自分自身についてダビデに言った―

 見よ、私たちはあなたの骨、あなたの肉である(サムエル記後5・1)。

 

 

 

 

4.人間は悪と誤謬以外の何ものでもない

 

 

天界の秘義154

 

 人間自身のものでない、また人間自身のものから発していない悪いまた誤った物は決して在り得ないのである。なぜなら人間自身のものは悪それ自身であって、従って人間は悪と誤謬以外の何ものでもないからである。このことは以下の事実から私に明白にされたのである。即ち、人間自身のものに属したものが霊達の世界に明らかに示されると、それはその自分自身のものの性質に応じて相違はあるが、それ以上醜悪な物を描くことは不可能である程にも奇形に見えて、それでその自分自身のものの幾多の物を明らかに示された者らは恐怖に襲われて、自分自身からは丁度悪魔から逃れようとでもするかのように逃れようとするのである。しかし主によって生かされている人間自身のものの幾多の物は真に、主の天的なものが適用されることが出来る生命に応じた変化を伴って、美しく、可憐に見えるのである。実に仁慈を与えられ、またはそれによって生かされている者達は容貌の極めて美しい少年少女のように現れ、無垢にいる者は裸身の幼児のように現れ、胸をめぐる花環で色々に身を飾って、頭には頭飾りをつけ、金剛石のような気流の中に生活し、戯れ、心の底から幸福を感じているのである。

 

 

 

天界の秘義210

 

 人間自身のものとは何であるか以下のように述べることが出来よう。人間自身のものとは、自己と世への愛から、主をまたは聖言を信じないで自己を信じることから、また感覚的に、記憶知により把握されることの出来ないものは無であると考えることから発してくる悪と誤謬との凡てである。

 

 

 

天界の秘義215

 

 人間自身の物は悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、彼ら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、例え彼らは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑を差し挟まない程に完全に確信しているにしても、私はそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、私はその者らが疑い、否定さえしていることを認めることが出来たのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、彼らは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、即ち誤謬の深淵へ沈むのである、そして彼らはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。

 

災いなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。

 

さらに―

 おまえの知恵とおまえの知識とはおまえを迷わせた、おまえは心の中で言った、私であり、私の他にはたれもいない、と。悪がおまえに来るが、おまえはそれが何処から上って来るか、を知らない、災いがおまえに来るが、おまえはそれを償うことは出来ない、お前の知らない荒廃[剥奪]が不意におまえに来るであろう(イザヤ47・10、11)

 

エレミヤ記には―

 

 すべての人は知識により愚鈍となり、すべての鋳物師はその彫んだ像のために狼狽する、その鋳た像は虚偽であって、その中にはまた息がない(エレミヤ51・17)

『彫んだ像』は人間自身のものの誤謬であり、『鋳た像』は人間自身のものの悪である。

 

 

 

天界の秘義633

 

人間各々のもとでは、天使各々のもとでは、実に最も天的な者のもとにおいてさえも、その者自身のものは誤謬と悪以外の何物でもないのである、なぜなら諸天界もまた主の前には純潔ではなく(ヨブ記15・15)、凡ての善と凡ての真理は主のみから発していることが知られているからである。しかし人間または天使が完全なものになされることが出来るに比例して、彼は主の神的慈悲の下に完全にされ、謂わば真理の理解と善の意志とを受けるが、しかし彼がそれらを持っていることは単に外観に過ぎないのである。

 

 

 

 

天界の秘義761

 

 人間の中の霊的な試練はその者のもとにいる天使たちと悪霊らの争闘であり、この争闘は彼の良心の内に普通感じられることは前に述べたところであるが、この争闘についてはまた以下のことを知っておかなくてはならない、即ち、天使たちは絶えず人間を守っていて、悪霊どもが彼に加えようと努力している幾多の悪を外らしているのである。天使たちは人間の中の誤った悪いものを守りさえしている、なぜなら彼らは彼の幾多の誤謬と悪とは何処から発しているかを、即ち、悪い霊らと鬼どもから発していることを充分に知っているからである。人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしない、それを生み出すと同時にその人間にその人間が自分自身からそれを行っているのであると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。かくの如きが彼らの悪意である。更に、私は多くの経験から確認することが出来るのであるが、彼らはこの信念を注ぎ入れ、強制していると同時に人間を訴え、罪に定めるのである。主に対する信仰を持っていない者は自分は自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることは出来ない、それで悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊どものようなものになる。これが人間の実情である。天使たちはこのことを知っているため、再生の試練においては彼らは人間の幾多の誤謬と悪をまた守るのである、なぜならもしそれらを守らないなら人間は屈服するからである。なぜなら人間の中には悪とそこから発した誤謬以外には何ものもなく、かくて人間は諸々の悪とその諸々の誤謬の集合体、合成体そのものに過ぎないからである。

 

 

 

天界の秘義987

 

 再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することが出来ると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪に過ぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。すなわち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、すなわち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復讐、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験により私に示されたのである。

 

 

 

天界の秘義987[2]

 

こうしたものが彼自身のものであり、こうしたものが彼の意志である。このことはまたたれにでも若しその者が反省するならば、単に以下のことからでも明白であるに違いない、即ち、人間は生まれた時は、凡ての野生の動物と獣の中でも最も野卑な生物なのである。そして彼は成長して、自分自身の主人となると、もし法律の外的な束縛により妨害されないなら、また彼が大きな名誉と富とを得る目的から自分自身に課する束縛により妨害されないなら、彼は凡ゆる犯罪に突入して、宇宙の凡てを征服し、宇宙の凡ての者の富をかき集めない中は休むことも知らず、また自分の卑賤な僕として甘んじる者を除いては何人をも容赦しようとはしないのである。これが人間各々の性質である。たとえ無力であって、こうした企てが不可能である者には、また前に言った束縛の中にいる者にはそのことは知られていないにしても。しかしその可能性と権力とが与えられ、束縛が緩められるならば、彼らはその力の及ぶ限り突入するのである。動物は決してこのような性質を示しはしない。彼らはその性質のある秩序へ生まれているのである。凶暴で貪欲なものは他の生物に危害を加えはするが、しかし単にそれも自己防禦に過ぎないのであり、彼らが他の動物を貪り食うのも飢えを満たすためであって、それが満たされると何物にも危害を加えはしないのである。しかし人間は全くそれと異なっている。この凡てから人間自身のものと人間の意志の性質のいかようなものであるかが明白である。

 

 

 

天界の秘義987[3]

 

人間はこうした悪と排泄物に過ぎないからには、彼は彼自身では決して悪を支配することが出来ないことは明白である。悪が悪を支配することが出来る、単に悪のみでなく、地獄もまた支配することが出来るとは全く矛盾である。なぜなら人間各々は悪霊を通して地獄と交流していて、そのことにより彼の中に悪が刺激されているからである。この凡てからたれでも主のみが人間の中の悪を、また人間のもとになる地獄を支配されていることを知ることができよう。また健全な心を持った者はそのように結論することが出来よう。人間の中の悪が征服されるために、即ち、人間の中に殺到して、これを永久に破壊しようと各瞬間努めている地獄が征服されるために、人間は主により再生されて、新しい意志を、即ち、良心を与えられ、良心を通して主のみが凡ゆる善を遂行されるのである。以下が信仰の要点である。即ち、人間は悪以外の何ものでもない、善はことごとく主から発しているということである。それでそれらは単に人間により知られているのみでなく、承認され、信じられてもいるのである。もし彼が身体の中でそのように承認しないなら、また信じないなら、それは来るべき生命の中にそのあるがままに彼に示されるのである。

 

 

 

天界の秘義1044

 

「そしてそれは私と地との間の契約の印となるであろう」。これは主が現存されているしるしを意味し、ここの地は人間の人間自身のものを意味していることはすでに言われたことから明白である。『地』は人間の人間自身のものを意味していることはまた内意から明白であり、それがここに用いられている関連からも明白である。なぜなら前には以下のように言われたからである。『これはわたしがわたしとあなたとあなたと共にいる生きた凡ての魂との間に立てる契約の印である』。このことにより何であれ再生したものがことごとく意味されたのである。しかしここでは異なった風に言われている。すなわち、『それはわたしと地との間の契約の印となるであろう』。このことから、また『契約の印』という言葉がくり返されていることからも、ここには他の事柄が意味されており、事実『地』は人間の意志の部分の人間自身のものであるところの、再生しない、また再生することの出来ないものを意味していることが明らかである。

 

 

天界の秘義1044[2]

 

なぜなら人間は再生した時はその知的な部分の方面では主のものであるが、しかしその意志の部分の方面では人間自身のものであって、霊的な人間の中ではこの二つの部分は対立しているからである。しかし人間の意志の部分は対立しているけれど、それでもそれは現存しないわけにはいかないのである。なぜなら彼の理知的な部分における曖昧さはことごとく、または彼の雲の濃厚さのことごとくはそこから発しているからである。それは絶えずそこから流れ入っており、そしてそれが流れ入って来るに応じて、彼の知的な部分の中の雲は厚くなるが、しかしそれが遠ざけられるに応じて、その雲は稀薄になるのである。かくて『地』によりここでは人間の人間自身のものが意味されている。(『地』により人間の形体的な部分が意味されまた他の多くの事柄も意味されていることは前に示しておいた。)

 

 

天界の秘義1044[3]

 

意志と理解の間のこうした事柄の条件は最古代教会の人間における意志と理解のように、前には友情の契約により結合していた二人の者が―人間がその意志の部分を全く腐敗させてしまった時おこったように―その友情を破壊されてしまって敵意が起ってきたようなものであり、かくて契約が再び結ばれるとき、敵意を抱いた部分が契約がそれと結ばれるかのようにさし出されるが、しかしそれは全く対立して、相反したものであるため、契約はそれとは結ばれないで―既に言ったように―そこから流れ入って来るものと結ばれるようなものであり、すなわち理解の人間自身のものと結ばれるのである。契約の『象徴』または『印』は以下のようなものである。すなわち、理解の人間自身のものの中に主が現存されるに比例して意志の人間自身のものが遠ざけられるのである。この間の実情は天界と地獄との実情に性格に同一である。再生した人間の知的な部分は、主がその中に現存されている仁慈から、天界であり、かれの意志の部分は地獄である。主がこの天界の中に現存されているに応じ、それに比例してこの地獄は遠ざけられるのである。なぜなら人間は人間自身では地獄の中におり、主により、天界の中にいるからである。そして人間は絶えず地獄から天界へ挙げられつつあり、かれが挙げられるに応じて、それに正比例してかれの地獄は遠ざけられるのである。それゆえ主が現存されているという『印』は、またはそのことを指示するものは、人間の意志の部分が遠ざけられるということである。それが遠ざけられる可能性は試練により、また他の多くの再生の方法により行われるのである。

 

 

 

天界の秘義1047

 

 「そしてわたしが地の上に雲をもたらすとき」。これは人間の意志の部分の人間自身のもののために仁慈の信仰が現れない時を意味することは、今し方地について、または人間の意志の部分の人間自身のものについて言われたことから明白である。すなわちそれは人間の知的な部分の中へ、不明確なものを、または誤ったものを絶えず注ぎこむといった性質のものであり、その不明確なものが『一面に雲となってかげらすもの』であって、凡ゆる誤謬の源泉となっているのである。このことは自己を求める愛と世を求める愛が―それらは人間の意志に属したものであるが―憎悪以外の何ものでもないという事実から充分に明らかである。なぜならたれでも自分自身を愛するに応じて益々隣人を憎むからである。そしてこれらの愛は天界的な愛に極めて対立しているため、相互愛に反したものが必然的に絶えずそこから流入し、この凡てのものが知的な部分の中で誤謬となるからである。ここからその暗黒と明確でないもののすべてが発している。黒雲が太陽の光をくもらすように、誤謬は真理をくもらせる。そして誤謬と真理とは丁度暗黒と光のように、共になることができないため、その一方は他方が来ると去ってしまうことが明らかに生まれてくる。そしてこうしたことが交互に起ってくるため、それでここに『わたしが地の上に雲をもたらすとき』と言われているのである、すなわち意志の部分の人間自身のものを通して、仁慈の信仰が、または真理がそこから派生する善とともに現れず、まして善がそこから派生する真理とともに現れないとき、と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義1049

 

 「そしてわたしはわたしとあなたとの間にある契約を覚えよう」。

 

これが再生した者と再生することのできる者にとくに注がれる主の慈悲を意味していることもまた生まれてくる、なぜなら主にあっては『記憶する[覚える]』ことは慈悲を持つことであるから。記憶する[憶える]ことは主について述べることはできない。なぜなら永遠から主は凡ゆる物を全般的にもまた個別的にも知られているからである、しかし慈悲を持つことは主について述べられるのである、なぜなら主はそのようなものが人間の性格であることを知られているからである、すなわち、前に言ったように、人間自身のものは奈落的なものであり、それが彼の地獄そのものであることを知られているからである。なぜなら人間はその意志の人間自身のものにより、地獄と交流し[連なり]、この人間自身のものは地獄からは、またその人間のものそのものからは、そのもの自身を地獄にむかって投げこむほどには甚だしくまた強く何ごとも欲してはおらず、またそれはそのことにも満足しないで、宇宙の凡ゆるものを投げこもうとさえ欲しているからである。人間は人間自身ではこのような悪魔であって、主はこのことを知られているからには、主が契約を憶えられることは人間に慈悲を抱かれて神的な手段によりかれを再生させ、かれがそのことを可能にするようなものである限り、かれを強力な力により天界へ引かれるということ以外には何ごとも意味していないことが生まれてくる。

 

 

 

天界の秘義1438

 

いかような者であれ人間は凡て汚れた奈落的なもの以外の種は持っておらず、その汚れた奈落的なものの中に人間自身のものがありまたそこから人間自身のものが発しているのである。これはたれでも知られているように、父から受け継がれたものから発しており、それで、人間は主から新しい種と新しい自分自身のものを、すなわち、新しい意志と新しい理解とを受けない限り、呪われて地獄に投げこまれないわけにはいかないのであり、この地獄から凡ゆる人間と霊と天使とは主により引き出され、また絶えず遠ざけられているのである。

 

 

 

天界の秘義1581

 

「『願わくは、わたしから離れてください』。これは善はそれと調和しないものが無とされない限り、現れることが出来ないことを意味していることは今しがた言ったことから明白である、すなわち内なる人は、外なる人の中にあって、一致していないものがそれ自身を分離させようにと願っているのである、なぜならそれが分離されない間は内なる人から、すなわち主から内なる人を通して絶えず流れ入っている善は現れることが出来ないからである。しかしこの分離については、それは分離ではなくて、静止であることを知らなくてはならない。主を除いては、人のもとでは、外なる人の中にある悪は分離されることは出来ないのである。何であれ人間が一度び得たものはことごとく残るのであるが、しかしそれが静止すると、それは分離してしまったように見えるのである、なぜならそれはそのようになると存在していないように見えるからである。それはまた主によらなくては存在しないように見える程に静止するようになりもしないのであり、それがそのようになって静止したようになると、そのとき初めて善が主から流れ入って、外なる人を感動させるのである。こうしたものが天使たちの状態であり、彼らもまた悪は彼らから分離してしまったとしか考えもしないが、事実はそれに反していて、彼らは単に悪から遠ざけられているに過ぎないのであり、かくて悪が静止して、そのためそれが存在していないように見えているに過ぎないのであり、従って、これは天使もまた反省するとき知っているように、外観である。」

 

 

 

天界の秘義1864

 

 そして内意では主がここにとり扱われたもうているため、それは内的な連結を意味している。なぜなら主はその父エホバとの連結と結合に向って益々進まれて、ついには主は一つのものとなられたからである、すなわち人間的な本質それ自身もまた主の内なるものそれ自身である。たれでもエホバは人間との契約を決して結ばれはしないことを認めることができよう、なぜならそうしたことは神的なものに反するからである。人間はそれ自身では悪以外には何ごとも考えないし、また行ないもしないところの、卑賤な汚れたもの以外の何ものであろうか。

 

 

 

天界の秘義2196[]

 

人間は彼が主により悪から遠ざけられて、善の中に維持されるとき、彼のもとには善で正しいもの以外には、否、聖いもの以外には何ものもないと外観から考えはするが、(真理は)それに反して人間の中には悪い、不正な、汚れたもの以外には何ものも存在していないのである。

 

 

 

天界の秘義5660[]

 

 天界的なものである自分自身のものについては、それは主から与えられる新しい意志から生まれており、人間の自分自身のものとは以下の事実により相違しているのである、すなわち、それを持っている者たちはその行う一切の物の中に、またその学び、または教える一切の物の中にもはや自分自身を求めはしないで、そのときは社会、教会、主の王国を求め、かくて主御自身を求めるのである。変化するものは生命の目的なのである。低い物を、すなわち、自己と世とを求める目的は遠ざけられ、高いものを求める目的がそれに取って代るのである。生命の目的とはその人間の生命そのもの以外の何ものでもないのである、なぜなら人間はその愛するものを欲し、その目的とするため、その目的はかれの意志と愛そのものであるからである。天界的なものである自分自身のものを与えられている者はまたおだやかで平安である、なぜならかれは主を信頼し、悪いことは何一つ自分にはふりかかりはしないと信じており、欲念も自分にとりついて自分を悩ましはしないことを知っているからである。さらに天界の自分自身のものの中にいる者たちは自由そのものの中にいるのである、なぜならかれらは主により、善の中に導かれ、善から善へ導かれるからには、主により導かれることは自由であるからである。このことからかれらは祝福と幸福の中にいることは明白である、なぜならかれらを乱すものは何一つなく、自己愛は何一つなく、従って敵意、憎悪、復讐は何一つなく、世への愛もなく、従って詐欺、恐怖、不安も何一つないからである。

 

 

 

結婚愛262

 

そして人間自身のものは生来悪そのものであり、悪そのものは主に正反対のものであり、それで人間はその悪に進むに応じて神と教会の聖いものを否定し、自分自身と自然とを崇めるということである。願わくはその愛にいる者はそれを自分の中に点検されるように。さすればその者らは認めるであろう。この愛は、不可能なものによって妨げられない時に認められることではあるが、放任されるに応じ、一歩一歩、実に最高度にも突進し、そこにおいてさえも抑制されないで、それ以上の段階がないと、嘆き悲しむといった性質を持っている。政治家の間ではこの愛が昂じると、遂には王、皇帝になることを欲し、得べくば世界の凡ゆる物を支配して、王の王、皇帝の皇帝と呼ばれようと欲するようにもなる。しかし教職者たちの間では、その同じ愛は、自分たちが神々にさえもなって、可能な限り、天界の凡ゆるものを支配して神々の神と呼ばれようと欲するまでにも昂進する。以下に後の者もいかような神をも認めていないことが見られるであろう。他方用への愛から支配することを欲する者は自分自身からではなく、主から支配することを欲している―それは用への愛は主から発していて、主そのものであるためである。彼らは権威を用を遂行する手段以外のものとしては認めていない。用を彼らは権威のはるか上においているが、しかし前の者は権威を用のはるか上においている。

 

 

 

結婚愛267

 

彼らはその談話を始めて、言った、人間は各々生来内的には欲念の中にいるが、しかし教育により外的には理知の中にいる。そしてたれ一人主によらなくては内的にも、即ち、霊の中でも理知の中にはいない、なぜなら人は各々主を見上げると同時に主に連結することに応じて悪い欲念から遠ざけられて、理知の中に保たれるからです。これがなくては人間は欲念以外の何ものでもありませんが、しかしそれでも外部では、または身体の方面では、人間は教育により理知の中におります。なぜなら人間は栄誉と財産を、または卓越することと富とを求めており、そして彼は道徳的で霊的なものに、引いては理知的で賢明なものに見えない限り、その二つを得ないため、それで彼は幼い頃からそのようなものに見えることを学ぶからです。

 

 

聖書60

 

これと反対のことが、己が名誉を、またはこの世の富を仰ぎながら、誤った宗教の教義から聖言を読む者らのもとに起るのであり、ましてその教義を聖言から確認する者らのもとにはさらに起るのである。彼らに対しては聖言の真理はいわば夜の暗闇のようなものではあるが、誤ったものは日の光の中に在るようにも見えるのである。彼らは真のものを読みはするが、しかしそれを見はしない、その影を見るならば、それを誤謬かする。これらが主から以下のように言われている者らである、

 

 彼らは目があるが、見ない、耳があるが悟らない(マタイ13・13)。

 

なぜなら人間を盲目にするものはその人間自身のものと誤ったものを確認すること以外の何ものでもないから。人間自身のものとは自己への愛であり、そこから派生してくるところの自分自身の理知に対する自負[誇り]であり、誤ったものを確認することは光を装っている暗闇である。こうした人間の光は単に自然的なものであって、その視覚はうすぐらい所に妖怪を見る者のそれに似ている。

 

 

聖書115

 

しかし聖言がなくても人間は神の存在を、天界と地獄を、その他聖言から教えられている事柄を凡て知ることが出来ると主張し、またそうした見解を確認もしている者がいるため、また彼らはそのことによって、たとえ唇でなくても、心の中で、聖言の権威と聖さとを弱めてもいるため、それで彼らと聖言から論じることは不可能であって、ただ合理的な光からのみ彼らと論じることしか出来ない、なぜなら彼らは聖言を信じていないで、自分自身を信じているからである。[こうした凡ての者に私たちは言おう]そのことを合理的な光から探求されよ、さすればあなたらは、人間の中には理解と意志と呼ばれる生命の二つの能力があって、理解は意志に服従しているが、意志は理解に服従していないことを知られるであろう、なぜなら理解は単に道を教え、示すに過ぎないからである。さらに探求されよ、さすればあなたらは人間の意志は、その人間自身のものであって、これはそれ自身において観察されるならば、悪意外の何ものでもなく、そこから理解の中に誤ったものが発生してくることを知られるであろう。

 

 

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P191

‘90・7・19

 

忠実であり続け 私であるすべてを恋い慕い あなたであるすべてを打ち消しなさい。 私であるすべてを吸収し あなたであるすべてを無くしなさい ♡