この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいる

すべての鳥にこう言った

(黙示録19・17)

新しい聖霊降臨

あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る(ヨエル3・1)

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

 

1.聖書

 

黙示録19・17−21

 

わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

啓示による黙示録解説831

 

17節。「私は一人の天使が陽の中に立っているのを見た、彼は大声で叫んで、天の最中を飛ぶ凡ゆる鳥に向って言った、来て、大いなる神の晩餐に共に集まり」は、主が、真理に対する霊的情愛の中にいて、天界を考える者たち凡てを、新しい教会へ、主御自身との連結へ、かくて永遠の生命へと、その神的愛から、引いては神的熱意から、招かれ、集められることを意味している。

『陽の中に立っている天使』により神的愛における主が意味され、『天使』により主が意味され、『陽』により主の神的愛が意味されている。『大声で叫ぶこと』により、神的熱意から、が意味されている、なぜなら主からその神的愛から発する声または流入は神的熱意から発するからである、なぜなら熱意は愛に属しているから。

 

『天の真中を飛ぶ鳥』により、真理に対する霊的情愛の中にいて、そこから天界を考える者凡てが意味されている。『来て、大いなる神の晩餐に集まること』により、新しい教会へ、主との連結へ招き、呼び集めることが意味され、永遠の生命は主との連結から発しているため、それでそのこともまた意味されている。『来なさい』と叫ぶことにより招くことが意味され、『共に集まりなさい』により呼び集めることが意味されている。聖言に主が『天使』により意味されていることは、前に見ることが出来よう(5、170、258、344、465、649、657、718万)、ここではそのことがさらに意味されているのは、主が陽の中に立っておられるのが見られ給うたためであり、いかような天使も陽の中には現れはしないのである、なぜなら主は霊界の太陽であられ、それで主のみがそこにおられるからである。『太陽』により、それが主について話されるときは、神的愛が意味されることは、53、414番に見ることが出来よう。

 

『大声で叫ぶこと』により、それが神的愛における主について言われているときは、神的熱意から話すこと、または流れ入ることが意味されていることは明らかである、なぜなら神的熱意は、ここでは人間の救いに対する神的な愛から生まれるからである。理解に、引いては思考にぞくした事柄が『鳥』により意味されていることについては、前を参照されたい(757番)、ここでは『天に最中を飛ぶ鳥』と言われて、『天の最中を飛ぶこと』により、観察し、注意し、考えることが意味されているため(245、415番)、真理に対する霊的な情愛の中にいて、天界について考える者たちが『鳥』により意味されている。新しい教会が、かくて主との連結が『大いなる神の晩餐』により意味されていることについては、816番を参照されたい、そこにはその晩餐は『子羊の晩餐』と呼ばれている。

 

 

新しいエルサレムの教義222

 

(前略)霊的な人間でない者はこのことを悟らない、それでそうした者は、聖餐と聖言は主から発しているため、その中には聖いものが在ることのみは信じて―たとえその聖いものは何処にあるかは知らなくとも―そうした者自身の信仰に止まられよ。が、他方、内的な認識を与えられている者たちは、以下の記事で「肉」は肉を、「血」は血を意味しているか、否かを考察されよ、「黙示録」に―

 

私は一人の天使が陽の中に立っているのを見た、彼は大声で叫んで、天の真中を飛んでいる凡ての鳥に向かって言った、来て、大いなる神の晩餐に集まり、王たちの肉と数千の者の指揮者の肉と力ある者の肉と馬とそれに乗っている者との肉と、自由な者と奴隷、大きな者と小さな者の凡ての者の肉を食べよ(19・17,18)。

 

「肉」、「王」、「数千の者の指揮者」、「力ある者」、「馬」、「それに乗る者」、「自由な者」、「奴隷」がその内なる意義で何を意味しているかを知らないかぎり、これらの語を理解することが出来ようか。またエゼキエル書には―

 

主エホバはかく語られる、天の凡ゆる鳥と野の凡ての獣に向って言え、あなたらは共に集まって来よ、わたしがあなたらのために供えるわたしの生贄に、イスラエルの山の上の大きな生贄に、四方から共に集まって肉を食べ、血を飲めよ、あなたらは力ある者の肉を食べ、地の君たちの血を飲み、わたしがあなたのために供えた生けにえから飽き足りるまでも脂を食べ、酔うまでも血を飲まなくてはならない、かくてあなたらはわたしの食卓で馬と戦車に、力ある者に、すべての戦士に飽かなくてはならない、かくてわたしは諸国民の間にわたしの栄光を与えよう(39・17−21)。

 

この記事は主の王国に凡ての者を呼び集めることを、特に異邦人のもとに教会を建設することを取り扱っており、「肉を食うことと血を飲むこと」は神的善と神的真理とを己がものとし、かくて主の神的人間性から発している聖いものを己がものとすることを意味している。

 

 

真の基督教705

 

 肉、血、パン、葡萄酒はその言葉が記されている聖言の記事から明らかであるように、それに相応している霊的な意義と天的な意義とを意味している。以下の記事を参照されよ。「いざ神の大いなる宴席に集いきたりて、主たちの肉、将校の肉、強き者の肉、馬とこれに乗る者との肉、すべての自主および奴隷、小なる者大なる者の肉を食え」(黙示録19・17、18)。而してエゼキエル書には、「我が汝らのためにささげし犠牲に、イスラエルの山々の上なる大いなる犠牲に、汝ら四方より集まれ。肉を食い、血を飲め。汝ら勇者の肉を食い、地の君達の血を飲め。汝らは我が犠牲より飽くまで脂を食い、酔うまで血を飲むべし。汝らは我が席につきて、馬と戦車と勇士と諸々の軍人に飽かん、而して我わが栄光を国々の民に示さん」(39・17−21)。これらの記事では、肉と血とはこれに相応する霊的な意義と天的な意義とを明らかに意味している。何故なら、そうでなければ、彼らは王達、将校達、勇士達の馬、これに乗る者達の肉を食い、彼の食卓に於いて馬と戦車、勇士、凡ゆる戦士に飽き、地の君達の血を飲み、酔うまでも血を飲むというこの奇妙な表現には、何らの意義も有り得ないであろう。これらの表現は主の聖餐に関連していることは明白である。何故なら、大いなる神の晩餐および大いなる犠牲が記されているからである。扨(さて)、凡ゆる霊的な天的なものは専ら善と真理とに関係を持っている故、肉は仁慈の善を、血は信仰の真理を意味し、それらはその最高の意義においては愛の神的な善と智恵の神的な真理の方面の主を意味していることが推論される。エゼキエル書の以下の語「我かれらに一つの心を与え、汝らの衷に新しき霊を賦けん、我かれらの身の中より石の心を取去りて、肉の心を与えん」(11・19。36・26)の肉によってもまた霊的な善が意味されている。聖言では心は愛を意味し、それ故善への愛は肉の心によって意味されている。さらに、肉と血とは霊的な善と真理とを意味することは、主が自らの肉はパンであり、自らの血は杯から飲まれる葡萄酒であると語り給う記事のパンと葡萄酒との意義により更に明白である。

 

 

啓示による黙示録解説832

 

18節。「王たちの肉を、数千人の者の肉を、力ある者の肉を、馬の肉を、その上に坐る者たちの肉を、自由な者であれ、奴隷であれ、小さな者であれ、大いなる者であれ、凡ゆる者の肉をたべよ」は、主から諸善を凡ゆる意義、度、種類における聖言の諸真理を通して、そこから発する教義の諸真理を通して己がものとすることを意味している。すぐ前に(831番)聖言による主との連結がとり扱われ、ここでは聖言の諸真理を通して主から善を己がものとすることがとり扱われている。

 

『食べること』により所有することが意味され(89番)、かれらの食べなくてはならない『肉』により聖言の善が意味され、引いては教会の善が意味され、『王たち、数千人の者の司令官、力ある者、馬、それに乗る者、自由な者と奴隷、小さな者と大きな者』により、凡ゆる意義、度、種類の真理が意味されている。『王』により聖言から発した教会の諸真理の中にいる者たちが意味され、抽象的には聖言から発した教会の諸真理が意味されている。『数千人の者の司令官』により、善と知識の中にいる者たちが、抽象的にはそうした知識が意味されている(337番)。『力ある者』により聖言から来ている教義から博学な者たちが、抽象的にはそこから発している博学[博識]が意味されている(337番)。

 

『馬』により聖言の理解[聖言を理解すること]が意味され、『馬に坐る者』により聖言の理解から知恵のある者たちが、抽象的には聖言の理解から発した知恵が意味されている(298、820番)。『自由な者と奴隷』により、自分自身から知っている者と他の者から知っている者とが意味されている(337、604番)。『小さな者と大きな者』により低い度と高い度にいる者たちとが意味されている(527、810番)。これらの事柄から『かれらがそれらの肉を食べる』により凡ゆる意義と度と種類における聖言の諸真理おける聖言の諸真理を通し、またそこから発している教義を通して、主からいくたの善を己がものとすることが意味されていることが明らかである。

 

たれ一人聖言から発した真理によらなくては、主から霊的な善を全く得ないことを知らなくてはならない、なぜなら聖言の真理は天界の光の中に在り、その善はかの光の熱の中に在り、それで、理解が聖言を通して天界の光に浴さないかぎりは、意志は天界の熱の中に入ることはできないからである。愛と仁慈とは聖言から真理によらなくては形作ることはできず、人間は聖言から発した真理によらなくては改良されることはできない。人間のもとで教会そのものは聖言から発した真理により形作られはするが、しかし理解内のその真理のみにより形作られるのではなく、その真理に従った生活[生命]により形作られるのであり、かくて真理は意志に入って、善となるのである。かくして真理の色つやは善の色つやに変化する。なぜなら意志のものとなり、かくて愛のものとなったものは善と呼ばれ、意志または愛のものとなった物は凡てまた人間の生命のものとなるからである。このことから、主から聖言と通して、凡ゆる教義、度、種類における真理を通して善を自分のものとすることが、ここに名を挙げられている者の『肉をくうこと』により意味されていることを認めることができよう。肉が『肉』によりここに意味されてはいないことをたれが認めることができないか。主が大いなる晩餐に凡ての者を招かれ、また呼び集められて、これに王たち、数千人の者の司令官、力ある者、馬、これにのる者、自由人と奴隷、小さな者と大きな者の肉を食べさせられると信じるほどにたれが狂うことができようか。それらの物の中には霊的な意義が在り、その意義がなくてはたれ一人その意味していることを知りはしないことをたれが認めることができないか。たれが聖言はその中心は霊的なものであることを飽くまで否定するか。もしそれらの事柄が文字の意義に従って理解されなくてはならず、霊的な意義に従って理解されてはならないとするなら、それは物質的なもの以上のものではないのではないか。エゼキエル書からとった以下のものもこれらの事柄に類似しているのである―

 

主エホバはこのように言われた、凡ゆる翼の鳥に、野の凡ゆる獣に言え、共に集まって、来よ、イスラエルの山々の上のわたしの大いなる生けにえに向って周りから共に集まって、肉を食べ、血を飲めよ、あなたらはわたしがあなたらのために生けにえとするわたしの生けにえから、力ある者の肉をたべ、地の君たちの血を飲み、脂を飽くまでも食べ、血を酔うまでも飲まなくてはならない、あなたらはわたしの食卓で馬と戦車と凡ゆる戦士とに飽かなくてはならない、かくてわたしは諸国民の間にわたしの栄光を与えよう(39・17−21

 

ここでも『肉』により同じように主から聖言を通して発する教会の善が意味され、教会の真理が『血』により意味されている。たれが血が酔うまでも飲むために与えられはしないことを認めないか、またかれらは主エホバの食卓で馬、戦車、力ある者、凡ゆる戦士を飽食はしなことを認めないか。それで『肉』により教会の善が意味され、『血』により教会の真理が意味されるからには、ヨハネ6・51−58に話されている『パンとぶどう酒』により意味されていることと同一の、主から発した神的善と神的真理とが聖餐における主の『肉と血』によっても意味されていることが明らかである。『肉』はまた以下のように、聖言の他の多くの記事の中で善を意味している―

 

わたしはかれらの肉から石の心を遠ざけ、肉の心をかれらに与えよう(エゼキエル11・19、36・26)

わたしの肉は干ばつの地であなたを求めまつる(詩篇63・1)。

わたしの心と肉とは生ける神を求めて高らかに叫ぶ(詩篇84・2)

わたしの肉は安んじて住むであろう(詩篇16・9)。

あなたは裸の者を見るときは、これに着せよ、あなたの肉からあなた自身をかくしてはならない(イザヤ58・7)

 

 

天界の秘義3813[7]

 

 

天界の秘義4735[5]

 

エゼキエル39・17−21

 

ここにとり扱われている主題は凡ての者を主の王国に呼び集めることであり、特に異邦人の間に教会を再び設立することであり、彼らが肉を食べ、血を飲むことにより神的な善と神的な真理とを彼ら自身のものとすることが意味されており、かくて主の神的な人間的なものから発出する聖いものを彼ら自身のものとすることが意味されているのである。彼らは力ある者たちの肉を食べ、地の君たちの血を飲まなくてはならない、彼らは馬と戦車を、強い者を、凡ての戦士を食べ飽きなくてはならないと言われている所で、肉により肉は意味されてはいないし、また血によっても血は意味されてはいないことをたれが認めることが出来ないであろうか

 

 

天界の秘義4735[6]

 

 黙示録にも同様に―

 

 

天界の秘義9393[]

 

『血』は血を意味しているのではなくて、神的な真理を意味していることは聖言の多くの記事から認めることが出来、エゼキエル書の以下の記事からは明らかに認めることが出来るのである―

 

凡ゆる翼の鳥に、畠の凡ゆる野生の動物に言いなさい、集まって、来なさい、あなたたちが肉を食べ、血を飲むために、わたしがあなたらのために生贄とする生贄のまわりから集まって来なさい。あなたらは強い者の肉を食べ、地の君たちの血を飲まなくてはならない。あなたらはわたしがあなたらのために生贄とするわたしの生贄から、飽くまでも脂を食べ、酔うまでも血を飲まなくてはならない。あなたはわたしの食卓で馬と戦車とを、凡ゆる戦いの男を飽きるまで食べなくてはならない。このように実にわたしはわたしの栄光を諸国民の間に置くのである(39・17−21)。

 

『血』によりここでは血が意味されてはいないことは極めて明白である、なぜなら彼は『酔うまでも地の君たちの血を、また生贄の血を飲まなくてはならない』と言われているが、血を、特に君たちの血を飲むことは忌まわしいことであり、イスラエルの子孫には死の刑罰の下に禁じられていたからである(レビ3・17、7・26、17章、申命記12・17−26、15・23)。また彼らは『馬、戦車、凡ゆる戦いの男を飽きるまで食べなくてはならない』とも言われているのである。それゆえ『血』は神的な真理を、『君』は主要な真理を、『生けにえ』は礼拝の事柄を、『馬』は真理を理解することを、『戦車』は教義を、『戦いの男[戦士]』は誤謬に反抗して戦う真理を意味していることを知らない者はこの記事の細目に仰天するに違いない。

 

[]ヨハネ伝の主の御言葉にも同じく仰天するに違いない―

 

イエスは言われた、まことにまことにわたしはあなたたちに言います、あなたらが人の子の肉を食べ、その血を飲まない限り、あなたらはあなたらの中に生命を持たない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の生命を得る、わたしは最後の日にその者を甦らせよう。わたしの肉は実に糧であり、わたしの血は実に飲物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしの中に住み、わたしはその者の中に住む(6・53−56)。

 

しかし4735、6978、7317、7326、7850、9127番にこれらの言葉についてすでに述べたことを参照されたい。肉はパンと同じく善に相応し、血はぶどう酒と同じく真理に相応していることは天界から極めて再三わたしに話されたのであり、また天使たちは聖言を相応に応じてのみしか認めてはおらず、そのことにより人間は聖言を通して天界と連結し、天界を通して主と連結していることも再三話されたのである。

 

 

3.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P100

‘90・1・22

(‘90・2・11にフランス、ニースで行われる祈りの集いのためのメッセージ)

 

あなた方に平和。 私は愛、平和、和解の霊 ♡ あなた方を最も愛する者です。 私はあなた方の創造主です。 はっきり言うが、何世代も起きたことがないほど、あなた方の息子や娘たちに我が聖霊をひろげて行く、手ずから養い 心に私の掟をそっくりとおくために ♡ 私は、あなた方の時代に我が聖なる顔を誰にでも顕している、そう、あなた方の上に我が聖なる顔は輝こう

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P122

‘89・2・20(再会の集いに与えられたメッセージ)

 

我が限りない慈しみと、深い哀れみにより、大空を予兆で満たした。 絶え間なく、人類すべてに 我が霊を注ぎ、若者たちに幻視を与え、印と恵みを降り注いでいる、見たであろう? この飢えた世代のために天の倉を開いた、あなた方は心ゆくまで食し、満たされるであろう。 聖書が成就されつつある。 私は時の終わりの印を与えている、にもかかわらず、私自身の者たちの 非常に多くが これらの印を認めるのを拒んでいる・・・どうして時の印が見分けられないか? しかし、我が子たちの殆どが背を向け、私を見捨てた今、永遠の愛をもって 倦むことなく彼らを追い求め、繰り返し一人ひとりに声をかけるのを 決してやめはしない、心から戻って来なさい、断食して悔い改めなさい、私に心を開くなら あなたを癒す、あなたの父、私のほうを向くなら、悔い改め 立ち帰る者たちを、父親が自身の子を扱うように 大切に扱おう、弱い者たちには非常に優しく みじめな者たちには まことに同情深いからだ、私は哀れみに満ち 慈しみに富んでいる ♡ 

ぼろを纏(まと)い 素足のまま 乾いた唇をして 乞食の姿で訪れている

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Piv

 

私を愛しなさい 我が聖心の富をこれからも注ぎ出そう、あなたの時代のために取ってあったこのすべての豊かさを。私はかつてこう述べた、時の終わりに、今までより一層、私のわざを行い、それらのわざは我が聖心の輝く栄光を示し、あなた方を驚嘆させるであろう。 蜂蜜より甘いみことばによって、霊魂を誘惑するために、我が聖心を 全心を傾けて すっかり開くと約束していた。(ノート53、‘91・8・20)

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P154

‘90・5・12

 

今日は 世代よ いまだかつてないほど惜しみなく 我が恵みの霊が助けに訪れている、見たであろう? 私は国々と あなた方皆に聖成の恵みを与えようと 地上の四隅に新たな祭壇をきずいているところです。