聖言に反抗する者について

見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである(マタイ13・13)

内意を斥ける者耳を塞ぐ者は災い

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

 

 

1.聖書

 

 

使徒言行録26・14

 

『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

新しいエルサレムとその天界の教義264

 

「聖言に反抗する者について」。

 

 聖言を軽べつし、愚弄し、冒涜し、汚す者について(1878番)。他生の彼らの性質(1761、9322番)。彼らは血液の粘性部に比較することができよう(5719番)。聖言を汚すことの危険(571−582番)。もし誤った原理[主義]が、とくに自己と世への愛を支持する原理が聖言により確認されるなら、それはいかに有害であろう(589番)。真理のために真理を求める情愛をもたない者は聖言の内なる意義を全く斥け、それを嫌忌する、(そのことが)経験から(説明されている)(5702番)。聖言の内的な物を斥けた者は合理性を剥奪される(1879番)。

 

 

天界の秘義1878

 

 身体の生命の中で聖言を嘲笑した者がおり、またしゃれた無駄口を叩くために聖言の中にある事柄を濫用した者がいる。聖言は取るに足らないもので、一般民衆を抑えつけておくのに役立つものであると考えていた者もいる。聖言を汚した者もおり、それを冒涜した者もいる。すべてこうした人物の他生における運命は、その蔑視、嘲笑、汚辱、冒涜の質と度に応じて、悲惨である。なぜなら、前に言ったように、聖言は諸天界ではそこにいる者たちにはそれが謂わば天界であるほどにも聖いものであって、そこではすべての者の思考が(他の者に)伝達されているため、こうした霊どもは到底彼らと共にいることは出来ないで分離されてしまうからである。

 

 

天界の秘義1761

 

 流れのように流入してこないで、振動により、また彼方此方と、いわば列をなして、動きまわることにより多少鋭く流れ入ってくる霊たちがいる。これらの者はその言葉をもって流れ入ってくるのみでなく、また答えをもって流れ入ってくる。かれらは多くの原因から聖言の内的なものを斥ける者らであり、人間をかれらの道具として、とるに足りないものとして見下げ、ただ己がことのみを考えている。

 

 

天界の秘義5719

 

 聖言の文字を軽蔑し、嘲笑する者、まして、その中に含まれている、さらに深い意味のものに対し、従って聖言から来ている教義的なものに対してこのような態度を取ると同時に、隣人愛には些かもおらず、自己愛にいる者らは、凡ゆる静脈と動脈とに流れ込んで、その全体を汚染する血液の不潔な物に関係している。彼らは人間の近くにいてそうした種類の事柄を何か人間に引き起さないように、他の者から引き離されて彼ら自身の地獄に置かれ、ただこうした性質を持った者らとのみ交わっている、なぜならそうした者らはその地獄の息とスフィアの中へ自らを投げ込むからである。

 

 

天界の秘義571

 

 人間が信仰の真理をその狂った欲念に惑溺させてしまうような性格のものになると、そのとき彼は真理を冒涜し、自分自身から残りのものを剥ぎ取ってしまうのであり、それは残ってはいるけれども、現れることは出来ないのである、なぜならそれは現れると直ぐに汚れた物により再び汚されてしまうからである、なぜなら聖言を冒涜すると謂わば無神経になり、そのため障害が生まれて、残りのものの善と真理が吸い込まれてしまうからである。それ故人は主の聖言を冒涜しないように警戒しなくてはならない、その中には生命が宿っている永遠の諸真理が含まれているのである、たとえ誤った原理の中にいる者らはそれが真理であることを信じてはいないにしても。

 

 

 

天界の秘義589

 

 これらの、また他の多くの記事から聖言は人間における外観に応じて語られたことが明らかである。それ故聖言がそれに従って語られている外観により誤った原理を確認しようとする者はたれでも無数の記事によりそうしたことを行うことが出来るのである。しかし聖言により誤った原理を確認することと聖言にあることを単純に信じることは相違している。誤った原理を確認する者は先ず何かの原理を取り上げ、そこから些かも後退しようとはしないし、また些かも譲歩しようともしないし、そのことを確認させるものを、出来ることならどこからでも、引いてはまた聖言からさえも、かき集め、積み重ねて、遂には最早真理を認めることが出来ないほどにも強固にそれを確信してしまうのである。

 

 しかし単純に、または単純な心から信じる者は最初から原理を取り上げはしないのであった、主がそのように言われたから、それは真理であると考えるのであり、それを如何ように理解しなくてはならないかを聖言の他の言葉から教えられるならば、彼はそれに同意して、心から喜ぶのである。主は怒られる、罰しられる、悔いられる、悲しまれると、単純に信じ、そのように信じて悪を恐れ、善を行う者は、何の害も受けないのである。なぜならこの信仰は主は凡てを見ておられると彼にまた信じさせるのであり、彼はこのような信仰にいるため、後になって、他生以前でないならば、他生において、信仰の他の事柄を明らかにされるからである。自己を求め、または世を求める汚れた愛に応じて、自分が既に取り上げてしまっている原理から派生した何らかの事柄を信じるように自分自身に説きつける者らの場合は非常に異なっている。

 

 

天界の秘義961

 

 ある者は習慣から、ある者は軽蔑から、日常の会話に聖書に含まれている事柄を、冗談をとばしたり、冷罵を浴びせかけたりする補助に、またはお定り文句として利用し、かくしてそれにきめ手をあたえると考えている。しかし聖書のこうした事柄は、それがこのように考えられ、また語られると、かれらの形体的な汚れた観念[考え]に加えられて、他生でかれらに非常な害をもたらすのである、なぜならそれらは汚れた事柄とともになって帰ってくるからである。これらの者もまた引き裂かれる刑罰を受け、ついにはかれらはこのようなものを用いなくなってしまう。

 

 

天界の秘義3427[2]

 

 聖言の内意の実情は以下のようである、すなわち、単なる知識の中にいて、『ペリシテ人』と呼ばれている者らは、また『ゲラルの谷間の羊飼い』と呼ばれて、たんなる信仰の教義的なものの中におり、隣人に対する何らの仁慈の中にいない者らは、聖言の内意が在ることを否定しないわけにはいかないのである。その主な原因は、彼らは唇では主を告白するものの、心では主を承認しないということであり、また隣人に対する愛を口では告白しているものの、心では隣人を愛しないということであり、心で主を承認しないし、心で隣人を愛しない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかないのである、なぜなら聖言はその内意では主に対する愛と隣人に対する愛以外には何ものをもとり扱ってはいないからであり、それで主はこの二つの戒めに律法と予言者とが、すなわち、聖言全体がかかっていると言われているのである(マタイ22・37−40)。これらの者は聖言の内意を如何に甚だしく否定しているかもまたわたしは他生におけるこのような人物から認めることを許されたのである、なぜなら文字の意義に現れてはいない聖書の内意が在って、それは主と隣人に対する愛をとり扱っていることが彼らの前でたんに口に出されるのみで、彼らによる否定のみならず、反感と嫌忌とが認められるからである。これがこの否定の主要な原因である。

 

 

天界の秘義3454

 

しかし内意に暴行を加えることは、この意義の主要な事柄であり、また聖言の本質的な聖いものであるものを否定することであり、その主要な事柄とは主の神的人間性[神の人間性]と主に対する愛と隣人に対する愛である。この三つのものは内意の主要なものであり、聖言の聖いものであり、またそれらは聖言から発している凡ゆる教義的な事柄の内なる聖いものであり、同じく凡ゆる礼拝の内なる聖いものである、なぜならその中に主の王国そのものが存在しているからである。第四のものは、聖言は、その中に凡ゆる事柄の方面で、全般的にも個別的にも、いな、その最小の一点の方面でさえも、神的なものであり、かくて主は聖言の中におられるということである。このことはまた聖言から教義的な事柄を得ている凡ての者により告白され、承認されているが、それでも聖言の中にその文字に現れているもの以外には何ら聖いものを承認していない者らは心ではそれを否定しているのである、なぜならこうした者はその歴史的なものの中にも、またその予言的なものの中にも何ら聖いものを認めることはできないで、ただそれが聖いものであると呼ばれていることから、たんに些細な外なる何かを認めるのみであるが、それでもそれはその最小の点すらも神的なものであるなら、内的には聖いものであるにちがいないのである。

 

 

天界の秘義3472

 

聖言には人間が文字から把握するよりも深い物が含まれていることを聞くことは全く人間の反感を買い、それには天使たちの知恵にのみ専ら適応しているところの、把握することのできない事柄が含まれていると言われるときは、さらにその反感を買い、それには天使の理解をも無限に超絶している神的なものそれ自身が含まれていると言われるときは、実にそれ以上の反感を買うのである。基督教界は聖言は神的なものであることを実際承認はしているものの、それでもそれがこのような意味で神的なものであることを、唇ではなくとも、心では否定しているのである、このこともまた、人間が現今抱いている地的な思いは崇高な性格を持っている事柄を把握しないし、また把握しようとも願わないからには怪しむに足りないのである。

 

 

天界の秘義5702

 

「これはエジプト人には忌まわしいことであるからである」。

これはそれらのものは対立していることを意味していることは以下から明白である、すなわち、エジプト人の表象は転倒した秩序の中にいる者であり(5700番を参照)、ヘブル人の表象は―このヘブル人と共に食べることはエジプト人には忌まわしいことであったが、そのヘブル人の表象は―純粋な秩序の中にいる者であり(5701番)、かくてかれらは相互に対立しており、そこから反感が生まれ、ついにはいまいましい感情が生まれるのである。このいまいましい感情については以下のことを知らなくてはならない、すなわち、転倒した秩序の中に、すなわち、悪とそこから派生してくる誤謬の中にいる者はついには教会の善と真理には甚だしい反感を抱くようになり、それを聞くと、とくにその内的なものを聞くと、恰もめまいがして、吐気を感じるほどにも甚だしい忌ま忌ましさを感じるのである。このことはわたしが基督教界は聖言の内的なものを何故受けいれないのかと怪しんだとき、わたしに告げられ、また示されもしたのである。基督教界から来たいく人かの霊らが現れたが、かれらは聖言の内的なものを聞くことを強いられると、非常な嫌悪をかきたてられて、吐き出したいような気持ちがすると言ったのであり、これが現今のほとんど凡ゆる所の基督教会(の状態)であるとわたしは話されたのである。それがそうしたものである理由は、かれらは真理のために真理を求める情愛の中にはおらず、まして善から善を求める情愛にいないということである。かれらが聖言から、またはかれらの教義から何かを考え、話すことは子供時代の初期から得られた習慣と確立された形式から来ており、かくてそれは内なるものをもたない外なるものである。

 

 

天界の秘義9222

 

「君をあなたの民の中で悪し様に言ってはならない。」これは真理の教義もまた冒涜してはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち『君』の意義は教会の主要な真理であり(5044番を参照)、『民』の意義は教義の諸真理の中にいる者たちであり(1259、1260、2928、3295、3581、7207番)、『悪し様に言うこと』の意義は冒涜することである。これらの事柄がいかに密接に関連しているかは内意から明白である、なぜなら『神を呪わないこと』により真理の神的なものを冒涜しないことが意味され、『君を悪し様に言わない』により真理の教義を冒涜しないことが意味されるからである。真理の神的なものは聖言であり、教会の教義はそこから派生してくる真理である。真理の神的なものを冒涜することについて若干述べよう。真理の神的なものは聖言であり、聖言から発した教義である。心でこれらを否定する者らは、例え口では聖言を賛えて、それを宣べ伝えるにしても、冒涜するのである。冒涜はその否定の中に隠れており、それは彼らが彼ら自身に委ねられる時に、特に他生で外に現れてくるのである、なぜなら他生では、外なるものが遠ざけられた後では、心が語るからである。

 

 

天界の秘義9222〔2〕

 

 聖言を冒涜する、または否定する者らは信仰の善と真理のいかようなものをも受けることは出来ない、なぜなら聖言は主、天界と地獄、死後の生命、信仰と仁慈、その他多くの事柄の存在を教えており、そうした事柄は、聖言が無くては、即ち、啓示が無くては、全く知られはしないからであり(8944番)、それで聖言を否定する者らは聖言が教えていることを何一つ受けることは出来ないのである、なぜなら彼らが聖言を読むか、または聞くかすると、否定的な態度が現れてきて、そのため真理は消滅してしまうか、または誤謬に変えられるか、してしまうからである。

 

 

天界の秘義9222〔3〕

 

それで教会の人間における最初の事柄そのものは聖言を信じることであり、それが信仰の真理と仁慈の善の中にいる主要な事柄である。しかし自己と世への愛の悪の中にいる者らにあっては、その主要な事柄は聖言を信じないことである、なぜなら彼らはそれについて聞くと忽ちそれを斥けもし、また同じく冒涜もするからである。もし人がこうした愛の悪の中にいる者らのもとに存在するところの聖言に対する冒涜の大きさと性質とを仮にも見るとするなら、戦慄するであろう。その人間自身は世にいる間はそのことを知らない、なぜならこうした冒涜は人間のもとで言葉に移るかの能動的な思考の観念の背後に隠れているからである。それでもそれらは他生では示されて、戦慄すべきものとして現れるのである。

 

 

新しいエルサレムとその天界の教義265

「さらに聖言に関係した事項」。

 

 聖言を歓んだ者は他生では、愛から発しているその歓びの質と量とに従って、内に天的愛をもった天界の熱を受ける(1773番)。

 

 

天界の秘義2531[3]

 

主の聖言の中には真理そのものが存在しているが、しかしその文字の意義の中には外なる礼拝の中にいる者たちの把握に適応した真理が存在しているに反し、その内意の中には内なる人である者たちに、すなわち、教義の方面と同時に生活の方面でも天使的な者である者たちに適応した真理が存在しているのである。その者たちの合理的なものはそこから明るくされて、その明るくされることが星と陽との輝きにたとえられているほどにもなっている(ダニエル12・3、マタイ13・43)。ここから、内的な諸真理が知られて、受け入れられることがいかに重要なことであるかが明らかである。これらの真理は実さい知られはするが、しかし主に対する愛をまたは主に対する信仰を持っている者たちを除いては、何人からも決して受け入れられはしない、なぜなら主は神的善であられるように、神的真理であられ、従って主は教義そのものであられるからである、なぜなら真の信仰の教義の内にあるものはことごとく主を目指しており、また天界の王国と教会とを目指しており、また天界と教会とのあらゆるものを目指しているからである。しかしこれらのものはことごとく主のものであって、媒介的な目的であり、それらを通して最後の目的が、すなわち、主が顧慮されている[目的とされている]のである。

 

 

真の基督教384(2)

 

基督教国にあっても主と聖言を斥ける者は、たとえ道徳的な生活を送り、信仰に就いてさえ合理的に語り、教え、また書くにしても、何等信仰を持たない。

 これは前に述べた凡てから推論される。何故なら、真の唯一の信仰は主に対する、また主から発する信仰であり、若し、そうでないならば、それは霊的な信仰ではなく、自然的な信仰であり、而して単に自然的な信仰は信仰の本質を欠如していることが示されたからである。更に、信仰は聖言から由来し、他の如何なる起源をも持つことは出来ない。何故なら、聖言は主から来り、主は聖言の中にいまし、それ故、主は自らは聖言である(ヨハネ1・1、2)と語り給うからである。かくて、主と聖言とは一である故、聖言を斥ける者は主をもまた斥け、更に主か或は聖言かその何れかを斥ける者は、主からその聖言によって存在する教会をも斥け、更に教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される者は呪われた者の間にあり、何等信仰を持たないことが推論される。

 

 

真の基督教380

 

不義なる似非信仰は主を神として認めず、単に人間として認める者たちによって抱かれている。これは二つの邪悪な異端アリウス派およびソツイヌス主義によって極めて明瞭である。彼らは主の神性を否定し、他の途より攀じ登る故、基督教教会から呪詛され、追放されたのである。しかし、私はその憎むべきものが現今教会の多くの会員たちの思考の中に潜んでいることを恐れている。人が自らを学問と判断力とにおいて他に勝っていると考えるに従い、主は人間であって神ではないとの考えをとらえ、これを採用し勝ちになることは注意すべきことである。しかしかかる考えを採用する者は凡て、霊界では地獄にあるアリウス派およびソツヌス派との交わりに入って行く。これらの考えは現今では普通の考えであるのは、各人間にこれに付き添っている霊が在るからであり、もしそうでなければ、人は分析的に、合理的に、霊的に考えることが不可能となり、人間ではなく、獣となり、しかし、人間はすべて己が意志の情とそこから生まれる思考に類似した霊を自らに惹き寄せるからである。聖言から発する真理とこれに従う生活によって確認された善い諸情は、天界から天使を惹き寄せ、虚偽と悪しき生活によって確認された悪い諸情は地獄から霊を惹き寄せる。かくして悪い人間は益々悪魔との交わりに入り、それ故聖言の真理に抗う虚偽を、主に抗うアリウスの、またソツヌスの憎むべきものを益々確認するのである。これは如何なるサタンも聖言から真理を聞くに堪えず、実にイエスの御名をすら聞くに堪え得ないからである。もし、これを聞くならば、彼らは狂暴になり、彼方此方と駈け廻って、涜言を吐き散らし、そのとき、もし、天界から光が射し入るならば、彼らは暗い洞穴に飛び込み、そこで地下室で鼠を狩り立てる猫、あるいは梟の光によって見るのである。かくの如きが情と智とをもって主の神性と聖言の聖さとを否定するすべての者たちの死後の運命である。またこれが彼らの外なる人が如何に偽善を行い、基督教徒らしく佯り装うとも、その内なる人の状態である。私はこれを見、かつ聞いている故、それが真理であることを知っている。

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P109

‘88・1・18

 

イエス、分かり始めたのですが、身を低くする謙遜な本当の弟子たちは主の啓示に喜び 主に不忠実な者たちはこの啓示を喜ばないでしょう、つまりある人にはよくて ある人には悪いわけです。

 

そうだ ヴァッスーラ、これで分かったであろう(*) ♡♡

 *イエスは悲しみを込めてそう言われました。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P119

‘89・2・15

 

我がヴァッスーラ、決して落胆しないように、あなたの前に立っている、それに私のような者がほかにあろうか? 私は初めであり終わり、永遠なる者、今在り(I Am)、以前も在り、永遠に在り続ける ♡ みことばはこの地上の 隅々まで知られよう、みことばを足げにする者は 羊飼いの杖を自分で蹴っているのを見出す ♡ これからも世界の四隅で 迫害する者がさらに多く出ては、巨大な岩の塊となって、我が道を遮る垣根を 人類全体に張り巡らそう。 彼らが無慈悲で、驕りと反逆にみち、荒れ果てた荒野だと 初めから知っていた。 軍団となって立ちはだかるが、全てが空しく、我が息の一撃をもって打ち負かされ、排除されよう、私は主、あなたの聖なる者、みことばが知られるように、私は王や王国を打ち倒したことで知られている、我が力をもって、玉座を崩し 自らを「権威」と呼ぶ人びとに 恥じをおわせた、そしてこのたびもそうする、どの眼にも見えるように 彼らを露にする、もうこれ以上は 怒りを抑え留めないで。