暗闇・暗黒

 

狂気冷酷闇・暗黒

サウンド・オブイレンス

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.聖母から司祭へ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ6・22−23

 

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義7

 

第一の状態は先行する状態であり、幼少期からの状態と再生直前の状態とを含んでいる。それは「空ろなもの」、「空しいもの」、「暗闇」と呼ばれている。そして主の慈悲の最初の動きは「水の面の上に動いている神の霊」である。

 

 

 

天界の秘義3643

 

諸天界の中にいる者たちは朝の光と日中の光のような、また夕暮に近づいている光のような静寂な光の気流の中におり、同様に彼らは春の、夏の、秋の熱のような熱の中にいるに反し、地獄にいる者らは粗悪な、曇った、暗い大気の中にいて、また寒冷の中にいることが認められた。全般的にこれらの者の間には均衡が在ることが認められ、また天使たちは愛と仁慈とそこから派生してくる信仰の中にいるに応じ益々かれらは光の気流の中に、春の熱の気流の中にいるが、奈落の者は憎悪の中におり、そこから誤謬の中にいるに応じ、益々彼らは暗黒と冷寒の中にいることが認められたのである。前に言ったように他生では光はその中に理知を持ち、熱はその中に愛を持ち、暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っているのである。

 

 

 

天界の秘義6400

 

真理の中にはいるが、未だ善の中にいない者たちは最低の自然から発した迷妄[妄想]の中にいることは、善が真理とともに、または真理の中にいない限り、真理はいかような光の中にもいないという事実から認めることができよう、なぜなら善はそれ自身から光を放出する焔のようなものであって、善が何らかの真理に会うと、それはそれを明るくするのみでなく、それをそれ自身へ、すなわち、それ自身の光の中へ連れて来るからである。それで真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者は陰と暗闇の中にいるが、それは真理はそれ自身からは何ら光を持たないためであり、彼らが善から得ている光は、消えかかっている光のように、かすかなものであり、それでこれらの人物が真理について考え、論じ、また真理から善について考え、論じる[推理する]ときは、暗がりの中に幻影を見て、それが真の身体であると信じるか、または薄暗い場所の壁に何かのしるしを見て、それが何か人間か、動物の姿であると空想する者のようなものであるが、それでも光が差し込むと、それは何ら形のない単なるしるしに過ぎないことが認められるのである、ここに取扱われている者らにおける真理も同じである、なぜなら彼らは真理ではないところの、むしろ幻影に、また壁の上のしるしに譬えてよい物を真理として見るからである。さらに教会の凡ゆる異端は聖言から多少の真理の中にはいるが、善の中にはいない者らから起こっており、彼らには異端は真理そのもののように見えているのであり、教会内で誤謬も同じように見えているのである。こうしたものを広めた者たちは善の中にはいないことは、彼らが仁慈の善を信仰の真理の遥か背後に押しやって、仁慈の善とは些かも調和しない物を部分的に考案しているという事実から認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義6849

 

人間は試練を受けている時は、神的なものから流入してくる光を、即ち、流入してくる真理と善とを妨害する幾多の誤謬と悪とにより取り囲まれており、その時その人間は謂わば暗黒の中に置かれるのである。他生における暗黒は誤謬にこのように取り囲まれること以外の何物でもない、なぜならこの誤謬は試練を受けている人間から光を取り去り、かくて諸真理による慰安の認識〔諸真理により慰められることを認めること〕も取り去ってしまうからである。

 

 

 

 

3.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1987.12.24

 

 今日、夜はまだ全世界を包んでいて、暗闇は人間ひとりびとりと、その生活のうえに、重くのしかかっています。

 それは、信仰のないことと、神に対して頑固に逆らい、あれほど強く神を否定するという暗闇です。

 人間の心の、いのちと愛のどんな種をも殺してしまう罪の冷たさです。

 尊厳を傷つけられ、軽蔑され、内的な奴隷制度にはまりこんでしまった人間の貧しさです。

 声、叫び、さわぎ、言葉と映像がたえず拡がっていく中に神は沈黙を守ります。

 しかし、この世紀の深い夜に、母としてのわたしの光があけぼののようにのぼり、全世界、いたるところに照り輝きます。