闇・暗黒
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
4.ヴァッスーラ
1.聖書
ヨハネ3.19−21
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義1839
「見よ、非常な暗黒の恐怖がかれにのぞんだ」。これはその暗黒は恐るべきものであったことを意味し、『暗黒』は誤謬を意味していることは、『暗黒』の意義から明白であって、それは誤謬であり、そのことについては間もなく説明しよう。陽が『沈みつつあった』ときの、教会の終末以前のその状態が『非常な暗黒の恐怖』により記されているが、太陽が沈んでしまったときのその状態は『暗闇』により、また17節に言われている他のものにより記されている。
[2]同じことが主によりマタイ伝に以下のように示されている、
陽は暗くなり、月は光をはなたないであろう、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺すぶられるであろう(24・29)。
これはこの世界の太陽が暗くなることを意味しないで、愛と仁慈とにぞくした天的なものが暗くなることを意味しており、また月も意味しているのではなくて、信仰にぞくしている霊的なものを意味しており、また星が天からおちることを意味しているのではなくて、教会の人間のもとにある善と真理とにかかわる知識がそのように落ちることを意味しており―なぜならその知識が『天のもろもろの力』であるからである―またこれらの事が天に起こるのではなく、地上に起こるのである、なぜなら天は決して暗くなりはしなからである。
[3]『非常な暗黒の恐怖がかれにのぞんだ』は主はかくも大いなる剥奪[荒廃]に慄然とされたことを意味している。たれでも愛の天的なものの中にいるに比例して、かれは終結[終末]を認めるときは恐怖を感じるのである。主にあってはとりわけそうであられたのである、なぜなら主は天的な愛であり、神的な愛でもある愛そのものの中におられたからである。
[4]『暗黒』が誤謬を意味していることは聖言の極めて多くの記事から明白である、たとえばイザヤ書には―
禍いなるかな、暗黒を光とし、光を暗黒とする者よ(5・20)。
『暗黒』は誤謬を、『光』は真理を意味している。同書に―
かれは地を眺め入られるであろう、見よ、暗黒と困苦。光は暗くなってしまった(5・30)。
『暗黒』は誤謬を、『暗くなった光』は現れない真理を意味している。同書に―
見よ、暗黒は地をおおい、暗闇は民をおおう(60・2)。
アモス書には―
エホバの日、それは暗黒であって、光ではない。エホバの日は暗黒であって、光ではないのではないか。暗闇であって、その中には輝きがないのではないか(5・18、20)。
ゼパニヤ書には―
エホバの大いなる日は近い、その日は憤怒の日、困窮と困苦の日、荒廃と荒涼の日、暗黒と暗闇の日、雲と蔭の日である(1・14、15)。
これらの記事の中では、『エホバの日』は教会の最後の時と状態を意味しており、『暗黒』と『暗闇』は誤謬と悪とを意味している。
[6]主も同様にマタイ伝に誤謬を暗黒と呼ばれている―
あなたの目がもし悪であるなら、全身は暗黒になるであろう。それでもしあなたの中に在る光が暗黒であるなら、その暗黒はいかに大きなものであろう(6・33)。
ここの『暗黒』はいくたの知識の中にいる者らを占有するいくたの誤謬を意味しており、その意味はこの『暗黒』は他の者の暗黒にもまさって、または知識を持っていない異邦人らの暗黒にもまさっていかに大きなものであろうということである。
[7]さらにマタイ伝には―
王国の息子らは外の暗黒の中へ投げ出されるであろう(8・12、22・13)。
『外の暗黒』は教会の中にいる者らのさらに恐るべき誤謬を意味している、なぜならかれらは光を暗くして、真理に向って誤謬を導入しているが、そのようなことは異邦人は行うことはできないからである。ヨハネ伝には―
かれの中には生命が在った、生命は人の光であった、光は暗黒の中に現れる、しかし暗黒はそれを悟らなかった(1・4、5)。
ここの『暗黒』は教会の中の誤謬を意味している。
[8]教会外の誤謬もまた『暗黒』と呼ばれているが、しかしそれは明るくされることができるような暗黒である。このようなものがマタイ伝に語られている―
暗黒の中に坐っていた人々は大いなる光を見た、死の地域と蔭の中に坐っていた者たちに光がのぼった(4・16)。
この『暗黒』は異邦人がもっているような無知の誤謬を意味している。
[9]ヨハネ伝に―
これが審判である、すなわち光が世に来た、しかし人間は光よりも暗黒を愛した、彼らの業は悪であったからである(3・19)。
『光』は真理を、『暗黒』は誤謬を意味しており、真理はことごとく主から発しているため、光は主を意味しており、誤謬はことごとく
地獄から発しているため、『暗黒』は地獄を意味している。
[10]さらに―
イエスは言われた、わたしは世の光である、わたしに従う者は暗黒の中を歩みはしない(8・12)。
またさらに―
あなたらは光を持っている間に歩んで、暗黒にとらえられないようにしなさい。暗黒の中を歩む者は自分がどこに行くかを知ってはいないからである。わたしは世に光として来た、たれでもわたしを信じる者が暗黒の中にとどまらないためである(12・35、46)。
『光』は善と真理とがことごとく発してくる源泉である主を意味し、『暗黒』は主のみによって消散される誤謬を意味している。
[11]最後の時の誤謬は―それはわたしたちの前に今おかれている節の中では『暗黒』と呼ばれており、またはそれについては『非常な暗黒の恐怖』という言葉が述べられているが―(十字架上の刑死にさいし)第六時から第九時まで全地にひろがった暗黒により、またそのとき陽が暗くなったことにより表象され、意味されたのであり、そのことによりそのときはもはや愛も信仰も存在しなかったことが表象され、意味されたのである(マタイ27・45、マルコ15・33、ルカ23・44、45)。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P174
「知っています。ともかく灯りをつけなさい。闇の中で話すのは、正しい人のすることではない。泥棒、うそつき、好色家、人殺しのすることです。悪の共犯者は闇が好きなのです。だが私は共犯者ではない・・・」
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P61
‘43年7月23日
イエズスは言われる。
「時が到来するであろうとき、打ち勝つためには、霊魂の光を減少させる必要があるルシフェルのとぐろによって、多くの星が薙ぎ倒されるだろう。
それは起きうるだろう。なぜなら一般信徒だけではなく聖職者たちも、神の光の圏内にとどまるために必要な、信仰、愛徳、力、純粋さ、現世の誘惑からの離脱などの毅然さを失ったし、ますます失いつつあるからだ。
わたしがここで語る星が誰を意味しているか、貴女は理解しているだろうか? それはわたしが地の塩として、世の光として定義づけたもの、すなわちわたしの奉仕者たちだ。
サタンの鋭い悪意の計画は、これらの星を薙ぎ倒すことによって、大衆にわたしの光を反射する光であるこの無数の灯火を消すことである。司祭的教会はまだ多くの光を放ちつづけているが、霊魂たちはますます闇のなかに沈みこもうとしており、わたしの空から数多くの星が消え去るであろうとき、どんな闇が大衆を押し砕くか容易に理解できる。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P276
‘03・1・6
我が現存とはいのち そして光。 我が現存とは希望 そして救い。 見よ、私は 夜明けの太陽のように夜闇の後に光注いで 闇に潜むジャッカルのように生きる人たちや、深い陰の地、自らの悪行を隠すために自ら闇に変えた地に住まう者たちに 光をもたらす。
あなた方の「パトスの日々(*3)」に 私はいよいよ はっきりと現存する、あなた方はこの世の野心を追い求め それは私へと導くことはないゆえ。 だが私は ここにいる。 あなたの神はここにいて、心の戸口に立っている。 私は ここにいて、あなたもしばしば言うように、娘よ、千の星座を合わせたよりも眩しく輝き、足もとを明るく照らして 平和の道へと案内する。
分かるか? 私のやり方は 人間のやり方とは違う。 私の現存は光であり 我が光は闇を悩ます。 闇は今や光と戦い 光が消えて あなた方にもはや陽光が射さないようにと願っている。 しかし私は 永久に沈まず明るく輝きつづける太陽のように 我が荘厳をもってあなた方皆を飾る。