サウンド・オブ・サイレンス
闇・暗黒/
1.聖書
2.再生に先行する状態
3.人間は愛と信仰との幾多のものを教えられない中は、明確でない状態の中に、即ち、知識の方面では明確でない状態の中にいる
4.自分だけのいる夜の沈黙の中で、またよく閉まった孤独な部屋で、人の自我よりもずっと強い、音のない音をもって話しかけるもう一つの自我
創世記1・1−5
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
詩篇88・2−19
主よ、わたしを救ってくださる神よ
昼は、助けを求めて叫び
夜も、御前におります。
わたしの祈りが御もとに届きますように。
わたしの声に耳を傾けてください。
わたしの魂は苦難を味わい尽くし
命は陰府にのぞんでいます。
穴に下る者のうちに数えられ
力を失った者とされ
汚れた者と見なされ
死人のうちに放たれて
墓に横たわる者となりました。
あなたはこのような者に心を留められません。
彼らは御手から切り離されています。
あなたは地の底の穴にわたしを置かれます
影に閉ざされた所、暗闇の地に。
あなたの憤りがわたしを押さえつけ
あなたの起こす波がわたしを苦しめます。
あなたはわたしから
親しい者を遠ざけられました。
彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。
わたしは閉じ込められて、出られません。
苦悩に目は衰え
来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び
あなたに向かって手を広げています。
あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり
死霊が起き上がって
あなたに
感謝したりすることがあるでしょうか。
墓の中であなたの慈しみが
滅びの国であなたのまことが
語られたりするでしょうか。
闇の中で驚くべき御業が
忘却の地で恵みの御業が
告げ知らされたりするでしょうか。
主よ、わたしはあなたに叫びます。
朝ごとに祈りは御前に向かいます。
主よ、なぜわたしの魂を突き放し
なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。
わたしは若い時から苦しんで来ました。
今は、死を待ちます。
あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。
あなたの憤りがわたしを圧倒し
あなたを恐れてわたしは滅びます。
それは大水のように
絶え間なくわたしの周りに渦巻き
いっせいに襲いかかります。
愛する者も友も
あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。
今、わたしに親しいのは暗闇だけです。
天界の秘義7
第一の状態は先行する状態であり、幼少期からの状態と再生直前の状態とを含んでいる。それは「空ろなもの」、「空しいもの」、「暗闇」と呼ばれている。そして主の慈悲の最初の動きは「水の面の上に動いている神の霊」である。
3.人間は愛と信仰との幾多のものを教えられない中は、明確でない状態の中に、即ち、知識の方面では明確でない状態の中にいる
天界の秘義1453
「海の方にはベテルがあり、東にはアイがあった」ことは主の状態は依然明確なものではなかったことを、すなわち、天的な霊的なものにかかわる知識については依然明確ではなかったことを意味している、なぜなら天的なものの中にいることと天的なものにかかわるいくたの知識の中にいることとは異なっているからである。幼児と子供とは、彼らはその良心に対する愛の中に、相互愛の中に、また無垢の中にいるため、大人以上に天的なものの中にいるが、しかし大人はその中の非常に多くの者は愛の天的なものの中にいないがらも、幼児と子供以上に天的なものにかかわる知識の中にいるのである。人間は愛と信仰との幾多のものを教えられない中は、彼は明確でない状態の中に、即ち、知識の方面では明確でない状態の中にいるのであって、その状態がここに海の方面に、即ち、西にベテルがあり、東にアイがあることにより記されているのである。すでに言ったように、『ベテル』により天的なものにかかわる知識が意味されているが、『アイ』により世的なものにかかわる知識が意味されているのである。天的なものにかかわる知識は、それが明確なものでないときは、『西』にあると言われている、なぜなら聖言では『西』は明確でないものを意味しているからであり、世的なものにかかわる知識はそれが明白であるときには『東に』あると言われている、なぜなら東は西に比較すると、澄明であるからである。西と東にこうした意義のあることを確認する必要はない、なぜならそれはたれにでも確認しなくとも明白であるからである。
4.自分だけのいる夜の沈黙の中で、またよく閉まった孤独な部屋で、人の自我よりもずっと強い、音のない音をもって話しかけるもう一つの自我
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P203
『被造物である人間には、創造主の輝きがある。徳を行う人は、神の完全さにまで上るために命を与えられている。それは人間が徳をもって、自分を気高くすることに比例する。人間には“存在する者”を知る力が与えられ、“存在する者”は人間の一生の中で少なくとも一度は、厳しい、あるいは父の愛をもって御姿を現される。私がよい者とならないなら、あわれなことである! その威光は私の前に稲妻のように輝き、徳を積むことが私の義務であり、人間の気高さのしるしであることを理解させる。神のこの輝きは、ときとして自然界の美しさの中に見られ、ときとして臨終の人のことばに、あるいは人が裁く不幸な者の眼差しに、あるいはある不名誉な行為を黙って非難する人に、ある暴力沙汰を見た子供の恐れおののきの中に見られる。それとも、自分だけのいる夜の沈黙の中で、またよく閉まった孤独な部屋で、人の自我よりもずっと強い、音のない音をもって話しかけるもう一つの自我を感じる。被造物の世界が多分知らずに礼拝しているこの神、真に唯一のこの神は、我々の儀式や教義によっては慰めも満足も感じない。ただ徳に生きる者に満足を与える。儀式や教義によっても、あるいは偶像を飾り立てた空っぽな祭壇の前にあって、満足も慰めも感じない徳に生きる人間に、満足を与える唯一の神は、人間が多分知らず、被造物が知らないままに礼拝している真に存在する神である』
私がこれらのことばを、よく知っているのは、何年も前から私の法典として、希望として繰り返しているからです。私は生きており、働き苦しんだことも泣いたこともあるが、おそらく徳をもってと思うが、すべてを耐え忍びました。死ぬ前にヘルモゲネスが会うだろうと約束した、その神に会えることを希望して、生きてきましたが、今、自分自身に、その神を本当に見たと言えます。それは稲妻のようにではなく、音のない音のようにでもなく、そのことばを聞きました。神なるお方が、明るい非常に美しい人間の形で私に現れてくださったのだと感じ、聖なる驚きに打たれています。