軽蔑

 

 

自負心自負自己愛

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1080

 

「そして外にいる二人の兄弟に告げた」(創世記9・22)。これは彼が嘲ったことを意味していることは今言ったことから当然の帰結として生まれてくる。なぜなら仁慈の中にいない者らのもとには、他の者に対する不断の軽蔑があり、または不断の嘲笑が在って、機会のある毎に彼らの過誤を公にするからである。彼らが公然と行動しないのはひとえに外なる拘束物に抑制されているためであり、即ち、法律を恐れる恐怖、生命を、名誉を、利得を失いはしないかとの恐怖、またそうしたもののために世間の評判を悪くはしないかとの恐れに抑制されているためであって、このことが彼らはうわべでは友情をつくろってみせてはいるものの、内ではそうしたものを抱いている理由となっている。ここから彼らは二つのスフィアを得ているが、それらは他生では明白に認められている。すなわち一つは内的なもので、憎悪に満ちているが、他の一つは外的なもので、善いものを模倣している。これらのスフィアは元来全く調和しないものであるため、互に衝突しないわけにはいかないのであり、それで外的なスフィアが彼らから取り去られて、彼らが偽ることが出来なくなると、彼らは凡ゆる邪悪に突入するのであり、それが取り去られないときは、憎悪が彼らの語る一つ一つの言葉の中にひそんでいて、それが認められるのである。ここから彼らの刑罰と拷問とが起っている。

 

 

 

天界の秘義2219[]

 

しかし自己愛は必ずしも、誇り、傲慢として外なる形の中に現れるものではない、なぜなら時折こうした人物は隣人を慈しむことが出来るからである、なぜなら或る者にはこのような外なるものは生まれながらに備わっており、また或る者には早期に取得されるからであるが、しかし後には征服されてしまって、しかし外なるものは依然残っているからである。しかし他の者を軽蔑し、自分自身に比較して他の者を取るに足らない者とし、共通の善を、それが自分の益にならない限り、何ら顧慮しない者は自己愛の中におり、その者ら自身が、謂わば、その自己愛なのである、特に自分に好意を持たず、また仕えもしない者をことごとく憎み、迫害し、能う限り、その者らの財産を、名誉を、名声を、また生命をすら奪う者は自己愛なのである。こうしたことを意図の中に息づいている者らは一際自己愛の中にいることを知られよ。

 

 

 

天界の秘義2273

 

わたしは人間はもし試練に何らかの功績を置くならば、その者はその試練のために救われはしないとすら言いたいのである、なぜならもしかれがそうしたことを行うならば[もしかれが試練に功績をおくなら]それは以下の点で自己愛から発しているからである、すなわち、かれはその試練のために自分自身を祝って、自分は他の者以上に天界に価しているものであると信じると同時に他の者を自分に比較して軽蔑することにより自分自身が他の者よりも遥かに卓越しているものと考えるのであるが、こうしたことのすべては相互愛に反しており、それで天界の祝福にも反しているのである。

 

 

 

天界の秘義3318

 

なぜならその容器は従順ではなくて、生命がそれに応じて活動する天界の秩序に反抗して頑強に抵抗し、また自分自身を頑なにするからである。なぜならそれらの容器を動かし、またそれらの容器がそれに順応している善は自己と世を求める愛のものであり、その善は、その中にあるところの粗悪な熱から、それらの容器にこのような特質をもたせるからである。それ故それらのものは柔軟なものとなり、主の愛の生命の何らかのものを受けるのに適合したものとなることができる以前に、柔らげられなくてはならないのである。この柔らげられることは試練以外のいかような手段によっても遂行されはしないのである。なぜなら試練は、自己への愛にぞくし、また自己に比較し他の者に対し覚える軽蔑の念に属しているところの凡てのものを遠ざけ、従って自負心に属し、また自負心のための憎悪と復讐とに属している凡てのものを遠ざけるからである。それでその容器が試練により多少なりと和らげられ、征服されると、その容器は、人間のもとに絶えず流れ入っているところの、主の愛の生命に服従し、またそれに従順になり始めるのである。ここからそのとき善は真理と連結され始めるのであり、それは先ず合理的な人の中に、後には自然的な人の中に行われるのである。なぜなら前に言ったように、真理は絶えず変化しつつあるいくたの状態に応じた形のいくたの多様なものの認識以外の何ものでもなく、これらの認識は流れ入ってくる生命から発しているからである。これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、すなわち、新しくされる理由である。その後かれは他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。これらのいくたの考察から、試練がいかような用を増進するかを今や認めることができよう。すなわち、主から発している善が単に流れ入るのみでなく、そのいくたの容器を処理して、服従させ、かくしてその善自身をその容器に連結させるためである。真理は善を受けることのできる容器であることは前に認めることができよう(1496、1832、1900、2063、2261、2269)。

 

 

 

天界の秘義7370

 

 自分自身に較べて自分の隣人を軽蔑し、もしその者が自分を支持し、尊敬しないなら、これを自分の敵とみなす人間は自己への愛の中におり、そのため隣人を憎んで迫害する者は、更に自己への愛の中におり、それで彼に対する復讐心に燃え、その破滅を求める者は、それよりも更に自己への愛の中にいるのである。こうした人物は遂にはその隣人に向かって荒れ狂うことを愛し、もしその者がまた姦通者であるなら、残酷にもなるのである。

 

 

 

天界の秘義8318〔2〕

 

 悪は二つの起源から、即ち、自己への愛から、また世への愛から発していることを知られたい。自己愛から悪の中にいる者らは自分自身のみを愛して、自分自身と一つになっている者以外の者は軽蔑しており、自分自身と一つになっている者を愛しても、それはその者を愛しているのではなくて、自分自身を愛しているのである、それは彼らはその者の中に彼ら自身を見出しているためである。この起原から発している悪は凡ゆるものの中でも最悪のものである、なぜならその悪の中にいる者らは他の者を凡て自分に較べて軽蔑するのみでなく、また彼らを毒舌をもって弾劾し、些細な原因からでも彼らに憎悪を抱き、これを破滅させようと息づくからである。このようにして復讐と残酷とが彼らの生命の歓喜となっている。この愛の悪の中にいる者らはその愛の質と量とに応じて地獄の深い所にいる。

 

 

 

天界と地獄481

 

形体的な愛にいる者らは天界の熱の中では全く生きることは出来ず―なぜなら天界の熱は天界の愛であるから―地獄の熱の中に生きるが、その熱は自分自身に好意を示さない者に対しては激怒する愛である。他の者を軽蔑し、敵意を持ち、憎悪し、復讐することがその愛の楽しさであり、彼らはそうしたものの中にいるときに、自分の生命の中におり、善そのものから、また善そのもののために他の者のために善を為すことの何であるかを知らず、ただ悪から、また悪のために善を為すことしか知らない。形体的な愛にいる者らはまた天界では呼吸することは出来ない、なぜならたれか悪霊がそこへ連れて来られると、彼は激しい競技でもしている者のように息切れがするからであるが、これに反し天界的な愛にいる者たちは天界の奥深くにいるに応じて益々のびのびと呼吸し、また益々豊かに生きるのである。

 

 

 

天界と地獄553

 

 地獄の霊らは凡て、天界の何らかの光の中に見られると、その者の悪の形をとって現れる、なぜなら各々はその悪の映像となっているからであるが、それは各々の者のもとでは、内部と外部とは一つのものとなって、内部は、顔、身体、言葉、動作である外部の中にそれ自身を示して[他から]見られるようになっており、それでその性質はそれが見られるとすぐに認められるのである。全般的に彼らは他を軽蔑し、自分を尊敬しない者を威嚇する心の形であり、色々な種類の憎悪の形であり、また色々な種類の復讐の形である。狂猛と残酷とが彼らの内部からそうした形を通して現れているが、しかし他の者から尊敬され、礼拝もされると、その顔は整って、楽しさのあまり喜ばしそうに見える。

 

 

 

天界と地獄554

 

 地獄の霊らのそうした怪物のような形を点検することにより―その形は、私が言ったように、凡て他の者を軽蔑し、また自分を尊敬しない者たちを威嚇する心の形であり、また自分に好意を示さない者たちを憎悪しこれに復讐する心の形でもあるが―彼らは凡て全般的には自己への愛と世への愛との形であり、彼らが各々その形をもって示している悪はその二つの愛から発していることが明白となったのである。

 

 

 

天界と地獄562

 

 自己愛にいる者らに属している悪は全般的に他の者に対する軽蔑であり、羨望であり、自分を支持しない者凡てに対する憎悪であり、そこから発する敵意であり、色々な種類の憎悪、復讐、狡猾、詐欺、無慈悲、残酷であり、宗教的な事柄については、神と、教会の真理と善である神的な物とを軽蔑するのみでなく、それに向って怒ることである。この怒りはその人間が霊になると、憎悪に変わり、そのときは彼は今記した事柄を聞くに堪えることが出来ないのみでなく、神を承認し、礼拝する者凡てに対し憎悪に燃え上がりさえする。私はかつて、世では権威を持った人間であって、自分自身を過度に愛した或る一人の霊と話したが、彼は神と言われるのを聞いたのみで、特に主の御名が言われるのを聞くと、怒りから発する憎悪のあまりに、主を殺そうとさえする欲望に燃え上がったのである。その当人もまた、その愛の手綱がゆるめられると、自己愛から絶えず天界を悩ませようとして、悪魔そのものになろうと欲したが、これもまた、教皇派の者の中で或る者が、他生で主が凡ゆる権能を持たれて、自分自身は何らそれを持っていないことを認める時、その抱く欲望である。

 

 

 

霊界日記4347「軽蔑と憎悪」

 

 

 

新エルサレムの教義124

 

また同じく彼は天界を報酬として考えており、それでその心の中には功績があり、また自己愛もあり、同じくまた用を、引いては隣人を軽蔑し、また無視する思いがあると同時に、彼は自分を過ちのないものであると信じ切っている。ここから仁慈の生活から分離して敬虔な生活は神礼拝には不可欠な霊的生活ではないことが明らかとなるであろう(マタイ6・7、8と比較されよ)。

 

 

 

真の基督教400(4)

 

 隣人が自分に諂(へつら)い、尊敬を示さぬ限り、これを軽蔑する者は凡て自己への愛に取り憑かれる。彼は彼らを敵として認めるか、更に悪くなると、彼らを憎み、迫害し、更に最悪に至ると、彼らに対し復讐の念に燃え上がり、その破滅を欲する。かかる人間は遂に残酷を喜ぶに至る。

 

 

 

真の基督教400(10)

 

 自己への愛に付随する悪は、一般的に、他を軽蔑すること、羨望、反対者に対する敵意、反感、憎悪、復讐、狡猾、詐偽、無慈悲、残酷である。而して、これらの物のある所にはまた神と教会の神的真理と善に対する軽蔑があり、もし、彼らはこれらの物を尊敬するならば、それは単に唇を以てするのみであり、心を以てするのではない。これからの凡ての悪に、それらに結ばれている虚偽が附加されなくてはならない。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P144

 

「私はだれも軽蔑するはずがない。私は貧乏人と同じように金持ちを、奴隷たちと同じように王たちを、清い人と同じように罪人を訪れます。だが、私が疲れている時にパンとひさしとをくれる人々は、そのパンとひさしとがどんなものであろうと、私は感謝して、何よりもこの素朴な人々を選びます。私は、いつでも、何よりも貧乏人、悲しんでいる人々と罪人に背をかがめます。私はおまえの善意を感謝しています。しかし、私と平和と祈りをここに残して、行きなさい。神はおまえに善いことを唱道するように」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P260

 

「あなたの話しを聞くのは好きです。あなたのことばには軽蔑もなく傲慢もない。他のパレスチナ人が、私たちにつばを吐きかけ、侮辱し、私たちへの嫌悪をあらわにし、それは・・・女のことか、それとも何かの買い物の場合、私たちの骨までしゃぶるときは、別だが。その場合ローマの黄金はもう嫌悪を呼びさまさない」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/『イエズスに出会った人々』2・P268

 

私はいろいろな知識や学説にまだ染まっていない人々を選ぶために、おまえたちを選びました。おまえたちのような人々に私の教えがもっとも楽に浸透し、また、おまえたちが将来、まことの神を伝道すべきだから、おまえたちは各自もとの道を思い出して、こういうふうな人々を軽蔑せず、私がおまえたちをどれほどの思いやりをもって教え導いたかを思い出し、同じようにするためです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3P91

 

また、敵や乞食への憎しみ、軽蔑を込めた目つきも同様です。肉体がどうしても敵を拒否するのなら、少なくとも心の愛をもってゆるすべきです。“ゆるすことは心の愛であり、復讐しないこともそうです”貧しい人はだれからも慰められることがないのだから、愛されるべきです。投げ捨てるように施しを与え、軽蔑した態度で通り過ぎるのでは十分ではない。施しは、飢えている裸、宿のない肉体のためにあるのだけれど、何かを与える際に、ほほえみをたたえ、不幸な人の涙に気づく愛とあわれみは、心の糧になります。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/380.3/P224

 

「主よ、思いやりとは・・・何をおっしゃりたかったのですか?」とヨハネが尋ねる。

「私が言いたかったのは、彼らは私たちに親切にしてくれたことで、少なくともかなり報いを得るだろうということです。ここでは回心は起きませんでしたが、じわじわと効いて、いつか起きるかもしれません。だから、私は言いました、『彼らの贈り物を拒んではならない』と。そして、罪の臭いがしましたが、受け取りました」。

「でも、何も召し上がらなかった・・・」

「断って、罪人たちに恥をかかせることはしませんでした。彼らには善意の芽生えが見られました。どうしてそれを摘むことがあるでしょう? あの早い流れだって、最初は岩山から滴る湧水だったのではありませんか? いつも覚えておきなさい。これはあなたたちの将来の生き方についての教訓です、もはや私があなたたちの中にいられなくなったときの。伝道の旅で、あなたたちは罪人と出会うはずです。ファリサイ派のように皆を軽蔑してはいけません。彼らは自分だって同じように間違いだらけなのに、まず自分を軽蔑しなければならないとは考えもしません。大いなる愛で、罪人と接しなさい。『無限の愛』と言いたいほどです。いえ、そう言います。人間は『有限の、劣った』存在ですが、行為によってそれが可能なのです。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/手記P145/天使館

 

サタンと俗世間と肉の偶像崇拝者たちから離れなさい。軽蔑はせずに、彼らから離れなさい。軽蔑はなんの役にもたたない。役に立たぬどころか破壊する。無益である。ただし、彼らに汚染されないように、彼らから離れなさい。贖い主の愛で彼らを愛し、彼らとあなたたちの間にキリストへのあなたたちの信仰を城壁として据えなさい。あなたたちは彼らの間に混じって危険なしに生きることが出来るほど強くはない。何世紀にもわたる精神的な退廃が、あなたたちをますます弱くしているからだ。初代教会のキリスト者たちに倣いなさい。俗世間のなかで生きるすべは学ぶべきだが、神へのあなたたちの愛の力によって、俗世間から身を引き離して生きるように心がけなさい。

(中略)

 

あなたたち、祝福された者よ、彼らのために祈りさない。それは愛徳の行為だ。それだけで充分だ。御言葉に対して自分を閉じている者に言葉は役に立たない。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/手記P162/天使館

 

せめてわたしにとってもっとも大切なあなたたちは、怨恨や軽蔑を心に抱いてはならない。