自負心

 

 

軽蔑自尊心誇る

 

 

 

 

天界の秘義3318

なぜならその容器は従順ではなくて、生命がそれに応じて活動する天界の秩序に反抗して頑強に抵抗し、また自分自身を頑なにするからである。なぜならそれらの容器を動かし、またそれらの容器がそれに順応している善は自己と世を求める愛のものであり、その善は、その中にあるところの粗悪な熱から、それらの容器にこのような特質をもたせるからである。それ故それらのものは柔軟なものとなり、主の愛の生命の何らかのものを受けるのに適合したものとなることができる以前に、柔らげられなくてはならないのである。この柔らげられることは試練以外のいかような手段によっても遂行されはしないのである。なぜなら試練は、自己への愛にぞくし、また自己に比較し他の者に対し覚える軽蔑の念に属しているところの凡てのものを遠ざけ、従って自負心に属し、また自負心のための憎悪と復讐とに属している凡てのものを遠ざけるからである。それでその容器が試練により多少なりと和らげられ、征服されると、その容器は、人間のもとに絶えず流れ入っているところの、主の愛の生命に服従し、またそれに従順になり始めるのである。ここからそのとき善は真理と連結され始めるのであり、それは先ず合理的な人の中に、後には自然的な人の中に行われるのである。なぜなら前に言ったように、真理は絶えず変化しつつあるいくたの状態に応じた形のいくたの多様なものの認識以外の何ものでもなく、これらの認識は流れ入ってくる生命から発しているからである。これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、すなわち、新しくされる理由である。その後かれは他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。これらのいくたの考察から、試練がいかような用を増進するかを今や認めることができよう。すなわち、主から発している善が単に流れ入るのみでなく、そのいくたの容器を処理して、服従させ、かくしてその善自身をその容器に連結させるためである。真理は善を受けることのできる容器であることは前に認めることができよう(1496、1832、1900、2063、2261、2269)。