誇る

 

1.スウェーデンボルグ

2.トマス・ア・ケンピス

3.知的な誇り

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界と地獄342

 

 わたしは天使たちに小さな子どもについて質問して、彼らは大人とはことなって、実際に悪は犯していないから、全く悪を持っていないのか、いるのかと言ったが、以下のように言われたのである、すなわち彼らも同じように悪におり、実に、彼らもまた悪以外の何ものでもないが(*注3)凡ての天使のように、主によって悪から遠ざけられて、善の中におかれているため、彼らは彼ら自身によって善にいるかのように彼らには見えるのである。そうした理由からまた子供たちは、天界で大人となった後で、自分の善は自分から発して、主から発しているのではないという誤った見解を自分自身について持たないように、ときどき、彼らが遺伝から受けついでいる彼らの悪の中へ送りかえされて、その問題の真理を知り、承認し、信じるまではその悪の中におかれるのである。ある王の息子であったある一人の者も、幼児のころ死んで、天界で成長したのであるが、同じような考えをもっていた。それでかれはその持って生まれた悪の生命の中へ送り返されたのであるが、そのときわたしは、彼が他の者を威圧しようとの気質を持ち、姦淫を当然なことに考えており、そうした悪を、その両親から受けついできていることを、彼の生命のスフィアから認めたのである、しかしかれは自分がそうした性質を持っていることを承認した後で、以前ともにいた天使たちの間に再び迎えられたのである。何人も他生では遺伝悪のために刑罰を受けはしない、なぜならそれは彼のものではなく、従ってかれがそうしたものであることはかれの責任ではないからであるが、しかしかれはかれ自身のものである実際の悪のために、従ってかれが実際の生活により遺伝悪を自分自身のものとするに応じて、刑罰を受けるのである。子供たちが、成人すると、その遺伝悪へ送りかえされるのは、そのために刑罰を受けるためではなくて、自分は自分自身では悪以外の何物でもなく、自分が自分のもとにある地獄から天界へつれて行かれるのは主の慈悲によっており、自分が天界にいるのは、自分自身の何らかの功績によるものではなくて、主によっていることを知るためであり、従って彼らが己がもとにある善を他の者の前に誇らないためである―なぜならこの誇ることは信仰の真理に反しているため、相互愛の善にも反しているからである。

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・7

 

[2]自分の住居(すまい)を天にこしらえた者は、この世では貧しく、みじめな境遇のうちに捨ておかれた。これはかれらが卑しい貧しい者とされ、自分の翼で飛ぼうとせず、信頼をもってわたしの翼の下に隠れることを学ぶためであった。

 

[3]誇ることのできるものは、たくさん持つより少なく持つ方が、あなたのためによい。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・14・3

 

ああ、私は自分のことを、どんなにつまらない、卑しいものと思うべきでしょうか! たとい自分に何かよいところがあるように見えても、いかにそれを無いも同然と思うべきでしょうか!

 ああ主よ、主の測り知れぬおん審判(さばき)に、私はどれほどふかく屈服すべきでしょう! なんとなれば、私は自分が虚無のまた虚無に外ならぬことを知るからであります。

 ああ、測り得ぬ量よ、際涯(はてし)ない大海原よ、それに対しては、私などまったく虚無としか思えないのであります。

 だから高慢の潜む余地がどこにありましょうか? みずから徳と思い上がってこれを頼みとすることがどこにありましょうか?

 あらゆるむなしい誇りは、私の上に臨む主のおん審判(さばき)の深淵(ふかみ)に呑まれてしまうのであります。

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・14・4

 

 主のみ前においては、すべての肉(ひと)はなんでありましょうか!

「粘土(つち)が陶器師(やきものし)に対して、誇ることができましょうか?」(イザヤ書49・6)

心がほんとうに神に服従している人は、どうしてむなしい讃辞(ほめことば)などを聞いて、思い上がっていることができましょうか?

 真理が服従させた人は、全世界もこれを高慢にすることはできません。

 希望(のぞみ)をまったく神においている人は、すべての人に口でほめられても、動かされることは決してありません。

 なんとなれば、ごらんください、ほめる人々もやはりみな虚無であって、自分たちの言葉の響きとともに消え失せてしまうからであります。

 しかし「主の真理は永遠に存する」(詩篇116・2)のであります。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・58・8

 

 もし人々が満足して、そのむなしい議論を慎みさえすれば、かれら諸聖人も大いに―この上なく満足するのである。

 

かれらは自分の功績を誇らない、なぜならかれらは何一つ自分に帰せず、ことごとくわたしに帰するからで、それはわたしがかぎりない愛からすべてをかれらにあたえたためである。

 

 

3.知的な誇り

 

神の摂理233(ヘ)

 

 自己への愛はその好むものを何であれ極めて巧妙に証明するのは、虹色の光の一種の輝きでその外の表面が作られているからである。この輝きは知的な誇りであって、それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている。