自尊心

 

 

1.サンダー・シング

2.ルイザ・ピッカレータ

3.ヴァッスーラ

4.トマス・ア・ケンピス

 

 

1.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P183

 

 人は、キリストの霊が宿っていなければ、神でありながら仕える者の姿をとられた主のように、謙虚にはなれない。自分の本当の姿を忘れ去り、誤った自尊心を植付けてはならない。人は自尊心によって真理から外れ、自らを滅ぼすのだ。かりに他の人より進んでいたとしても、ダイヤモンドと木炭が同じ炭素から出来ているのを忘れてはいけない。条件の違いによってかくまで違った形になるとはいえ、高価なダイヤモンドも木炭と同じく、焼けば灰と化す。

 

 

2.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P110

 

我が娘よ、人間の中で、どこから悪が始まるか知りたいか? その始まりは、人が自分自身を知るとき、つまり道理を分り始めるやいなや自分自身に「ぼくは、人物である」と言うときである。彼は自分が何者かであると信じて、私から離れて私を信頼しなくなる。それが原因となって、色々な善い原則の目標を見失うということが起こる。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P232

 

 我が娘よ、私の前や人々の前で、自分が何者かであると信じている人は、何の価値にも値しない。自分が無であると信じる人は、すべてに値する。私の前で一番になる人とは、何かをすることが出来、その力と能力をもっていても、それをしていないと信じる人である。この人は神から恵み、助け、そして照らしを受けるから行うことができるのだ。つまりこの人は、神の権能のおかげで働くことができるのだと言える。神の権能を自分自身とともに有している人は、すべてに値するのである。

 人間は、この神の権能のおかげで行動することによって、それはまったく異なった働きとなる。このような行動は、神の権能が有している光を伝承することだけをする。ゆえにもっとも邪悪な者も、気づかないうちにこの光の力を感じて、その意志に自分を従わせる。人々の前においても同じことが言え、他の人たちもすべてに値するようになる。

 反対に、自分が何かに値すると信じている人は、何にも値しないだけでなく、私の存在の前ではいまわしい者ともなり、何者かであると信じているこのような人たちが取る、見かけ倒しで欠点だらけのやり方は、他の人たちを馬鹿にすることにもなる。だから人々は、このような者を、嘲笑と迫害の目標として指さすようになるだろう。

 

 

3.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P35

 

‘87・11・8

 

ヴァッスーラ 決して何者かであることを求めないように。 無のままでいなさい 達成する全ての聖なるわざは純粋に私のものであり あなたによるのではない

 

 

4.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・8・1

 

「私は塵と灰とに過ぎない者ですが、あえて主に申し上げましょう」。(創世記18・27)

 

 もし私が自分をそれ(塵灰)以上のものと考えるなら、見よ、主は私に反対され、私の罪はそれを実際に証拠立て、私はそれに対し、弁解することができないだろう。

 しかし自分を軽んじて虚無にひとし者と思い、すべての自尊心を去って、自分がほんらい塵に過ぎぬことを考えるならば、主の恩恵は私にくだり、主の光明(ひかり)は私の心に近づき、すべての自存の念は、たとえそれがいかに小さなものであろうとも、ことごとく私の無の深淵(ふち)に沈んで、永遠に消え失せてしまうだろう。

 そしてそこにおいて主は、私がどういう者であるか、どういう者であったか、またどこまで迷い下落(くだ)ったかをお示しになるだろう。なんとなれば、私は無にひとしい者であるのに、それを知らないからである。

 もし独りほうっておかれるならば、私は無にひとしい、まったく弱い者に過ぎない。

 けれども主が突然私を顧みたもうやいなや、私はたちまち強い者となって、新たな喜びに満たされるのである。自分の重みでいつも下へ下へと沈みつつある私が、かくも速やかに引き上げられて、主の慈悲のふところに抱かれるとは、まったくふしぎのきわみである。