神の存在証明

 

証明証し証拠

 

 

 

1.サンダー・シング

2.スウェーデンボルグ

信仰について論じることは疑い、否定すること

3.蜂について知られている事柄を考察するなら、自然の目に見える物から神的なものを確認することが出来よう

4.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する

5.最古代教会の人たち

 

 

 

 

1.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P145

 

 人間の霊においてもそうなら、まして、永遠の言葉が体を通してその神性を十分に表現することなど不可能である。主は人間の救いにとって可能な、必要な範囲においてのみ、ご自分を現されたのであり、その真の栄光は天界においてのみ完全に現されるのである。

 

三、ここで、「それを完全に見も知りもせずに、どうやって実在(リアリティー)を信じられるのか」との疑問も起こるかもしれない。ここで述べたいのは、実在を信じるのにそれについての完全な知識は必ずしも必要ではないとうことである。例えば、われわれの生命がこれほどまで頼っている身体の器官の多くは目で見ることはできない。自分の脳や心臓をみた者は誰もいないが、その存在を否定する者もまたいないであろう。われわれの生命がかくまで大きく頼っている脳や心臓がみることのできないものであれば、生命全体が頼りきっているその創造者をみることは、さらに不可能である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P294

 

キリストの人格と言葉にも霊と生命があることに触れて、パーカー博士はこういった。「イエスの宗教的教えを、同じ時代と同じ場所の宗教―どの時代と場所の宗教でもいいが―と比較してみよ。主の御言葉と行ないとが世界にどれほど大きく貢献したか考えてみよ。神と人に向けられた完全無欠な愛を、キリスト以上に気高く伝えられた者はいない。そんな人間はいなかったということになれば、すべてが作り話だったということになるではないか。プラトンやニュートンが存在しなかったと仮定してみよ! 誰がその思想を考え、発明したというのだろうか。いったい誰がイエスを創作したというのか。イエス以外いないのである。

 

単なる道徳哲学も形而上学、知識主義、文明も、罪を克服するには何の役にも立たない。神の御恵みと力が与えられていなければ、どんな教育も文化も助けになるどころか、罪を犯し人間が滅ぼし合うための新しい手段を考案するだけに終わるのである。そこで、罪とその悪しき結果から救われるためには、完全な無償の救いを与えることの出来る神の御手に自分を委ねることが、絶対に必要である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P295

 

 神は、人が限られた知識による程度の低い議論によって、神の存在を証明しようなどと考えぬよう望んでおられる。そんなことを望んでいたとすれば、沈黙していたりはなさらなかったであろう。人間には想いも及ばぬ納得のゆく証拠を与えることは、いつでもできたからである。しかし、神の聖旨は、その甘美なる、生命を分かち与える臨在を楽しんだ者たちが証人となることにある。個人的体験こそが、理屈によるどんな証拠よりも納得できる証明となるからだ。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P317

 

生けるキリストの力と臨在の証拠は、この世の哲学と不完全なロジックにはなく、真にキリストを信ずる者の生活と経験の中にこそあるのだ。読者が心を開いてこの事実を受けとめ、わたしを含む幾百万人の人々の生涯を豊かにした生けるキリストの経験を持たれることを、切に願っている。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P394

 

神について議論したり疑ってはなりません。そのようなことをすれば、主を辱めることになります。主を信頼し、従わなければなりません。わたしたちは主の力を見、主を証することでしょう。わたしにしてくださった大いなることを、主はあなた方にもしてくださることを、わたしは証言します。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

信仰について論じることは疑い、否定すること

 

 

天界の秘義215

 

 人間自身の物は悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、彼ら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、例え彼らは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑を差し挟まない程に完全に確信しているにしても、私はそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、私はその者らが疑い、否定さえしていることを認めることが出来たのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、彼らは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、即ち誤謬の深淵へ沈むのである、そして彼らはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。

 

災いなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。

 

さらに―

 おまえの知恵とおまえの知識とはおまえを迷わせた、おまえは心の中で言った、私であり、私の他にはたれもいない、と。悪がおまえに来るが、おまえはそれが何処から上って来るか、を知らない、災いがおまえに来るが、おまえはそれを償うことは出来ない、お前の知らない荒廃[剥奪]が不意におまえに来るであろう(イザヤ47・10、11)

 

エレミヤ記には―

 

 すべての人は知識により愚鈍となり、すべての鋳物師はその彫んだ像のために狼狽する、その鋳た像は虚偽であって、その中にはまた息がない(エレミヤ51・17)

『彫んだ像』は人間自身のものの誤謬であり、『鋳た像』は人間自身のものの悪である。

 

 

 

 

(科学により理解することを離れて信仰を持つことはさらに良いことについて)

霊界日記1291

 

 信じはするものの、見はしない者たちは、(科学により)見なくては信じない者たちよりは幸いであることは明らかである(ヨハネ2029)、さらに、見なくても信じることは、丁度何かの対象〔物体〕を見る者が自分はそれを見ていることを証明されることを拒絶するように、証明をことごとく顧慮しないし、また斥けもするといった性質を持っており、信仰もそうしたものである。なぜなら自分が見ている対象が単に証明の対象となるように思われることはそれを問題にされることであるからである、なぜなら証明はそうした結果を生み出すからである。1748年〔60歳〕3月10日。

それで証明は単に、自分が言わばそれを見るように仕向けられなくては、何一つ信じはしない者らのためのものに過ぎない。それでこうした者らが依然その盲目の中にとどまって、さらに盲目とならないように、証明されてはならない事柄を証明しなくてはならない。例えば神は存在される、ということである。たれでもそのことを証明する議論なしにそのことを信じなくてはならないのである。しかし、その反対に、そのことが証明されつつあるとき、各々の論旨の中には何らかの疑惑が存在し、そのため反対の見解が生まれ、かくて反感が生まれてくるのである。1748年〔60歳〕3月10日

 

 

 

 

3.蜂について知られている事柄を考察するなら、自然の目に見える物から神的なものを確認することが出来よう

 

 

真の基督教12

 

蜜蜂は人類に役立つ故、地上の人間の間に、而して天界の天使達の間にすら存在するような政治形態を、霊界を経て来る神的流入によってもっていることを充分に証明している。

 

 

 

結婚愛419

 

人はたれでももし蜂について知られている事柄を考察するなら、自然の目に見える物から神的なものを確認することが出来よう

 

 

 

 

4.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する

 

 

結婚愛419

 

これらのものから、また獣の間にもあるこれらに似たものから、自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する、なぜなら、霊的な人間はそれらのものの中に霊的なものを見、自然的な人間はそれらのものの中に自然的なものを見るからである。かくて人は各々そのあるがままに見ている。私自身については、こうした物は私にとり自然的なものに注いでいる霊的なものの、または自然界に注いでいる霊界の流入の証明となっており、それで霊界が主の神的知恵から自然界へ流入している証明となっている。また神的なものがその知恵から霊界を経て流れ入らない限り、あなた方は何らかの形の政治を、または何らかの民法を、または何らかの道徳的な徳を、または何らかの霊的な真理を、分析的に考えることが出来るか、否かを考察されよ。私について言うなら、私にはそれは出来なかったし、また出来もしないのである。実に私は今や二十五年間絶えずその流入を明白に認めているのである。それで私はそのことを、それを見ているから、主張するのである。

 

 

 

5.最古代教会の人たち

 

 

天界の秘義1122

 

 私は更に以下のように告げられた、即ち最古代教会の人々は極めて楽しい夢をまた幻を見ると同時にその意味していることも彼らに伝えられたのである。そこから彼らの楽園の表象物やその他多くのものが生まれたのである。それで地的なものであり、世的なものである外なる感覚の対象は彼らには無価値であり、彼らはまたその中に歓びを何ら認めないで、ただそれが意味し、表象しているものにのみ歓びを認めたのである。それで彼らは地的な対象を眺めた時、それについては全く考えないで、ただそれが意味し、表象しているものについてのみ考えて、そうしたものが彼らには極めて歓ばしいものであったのである、なぜならそれらは天界に存在するようなものであり、そこから彼らは主御自身を見まつるからである。