証拠
1.ヴァッスーラ
2.サンダー・シング
3.スウェーデンボルグ
1.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P315
‘87・9・1
♡ 彼らに与える証拠とはあなた自身だけ、子よ ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P32
こういったすべてに何か証拠がるのでしょうか?
あなた自身です。イエスがあなたを美しくされた。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P135
イエス、この全てがあなたからだという証拠は何でしょう?
自分を見なさい、あなた自身がその証拠です。 我が愛の証しです。
2.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P295
神は、人が限られた知識による程度の低い議論によって、神の存在を証明しようなどと考えぬよう望んでおられる。そんなことを望んでいたとすれば、沈黙していたりはなさらなかったであろう。人間には想いも及ばぬ納得のゆく証拠を与えることは、いつでもできたからである。しかし、神の聖旨は、その甘美なる、生命を分かち与える臨在を楽しんだ者たちが証人となることにある。個人的体験こそが、理屈によるどんな証拠よりも納得できる証明となるからだ。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P422
砂糖の甘味は砂糖のためにあるのではなく、甘味のわかる人間のためにある。同じように、神は神のためばかりか、神との交わりを願う人のために存在する。多くの宗教的、哲学的作品に「実在(リアリティー)」についての記述がみえるが、神との交わりを楽しむ道は人間自身の中にある。神は神と交わりを保てるよう人を造られ、そのために、実在感と神を楽しむ能力をも人に与えているからである。
このような霊的感覚が人間に与えられているという事実は、人間が神との交わりを楽しむことを意図されている証拠である。真偽、正邪の弁別をする試金石が人の中にあるのもそのためである。この良心は、人生の中で真偽を識別するために神がお与えになった試金石だが、罪によって感覚を奪われ働かなくなる場合もある。
だが、神の御恵みよって覚醒すれば、決して欺かれることはない。そして、人が自分の中に実在の現存を実感するとき、その人が生きた力であることは日々の経験が証明する。彼が実在を経験しているという証拠をわたしたち自身が内に確かめていれば、何千という本が彼の霊的経験に反論し、この世の哲学とロジックの最たるものをもって攻撃してこようとも、その証拠を崩すことはできない。実在の知識はわれわれ自身の内的自己の中にあり、哲学的議論の中にはないからである。砂糖の甘味を識別する力は本の中にはなく、人間自身の舌の中にある。
3.スウェーデンボルグ
神の摂理317[3]
「人間が思い込んで、確認した物は凡て彼の中にその自己性の一部として存続する」。 如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない。王国または共和国の社会的なまた経済的な事柄においては、有用で善い物は多くの教令と法令とを知ること無しには認められることは出来ず、また司法上の事柄における有益なまたは善いものも、その法律が知られない限り認められることは出来ず、自然の研究においても、例えば、物理、化学、解剖学、機会学等においても、人間がその科学を教えられない限り、それは認められることは出来ない。しかし純粋に合理的な、道徳的な、霊的な事柄においては、人間が単に健全な教育により多少合理的に、道徳的に、霊的になってさえおれば、真理はそれ自身の特有な光の中に現れるのである。その理由は人間は凡てその霊の方面では―彼はその霊で考えるのであるがー霊界にいて、そこに住む者たちの間におり、従って彼は彼の内なる理解を明るくし、いわば指導するところの霊的な光の中にいるということである。なぜなら霊的な光は、その本質では、主の神的な知恵の神的真理であるから。これが人間が分析的に考え、司法上の事柄で公平で正しいものについて結論を引き出し、道徳的生活の尊いもの、霊的生活の善いものを認め、また多くの真理を理解することが出来る理由であって、真理は誤謬を確認しない限り不明瞭にはならないのである。人間は、各人に生来具わっている知識以外の知識が何らなくとも、他人の性質をその顔の中に認め、その情愛をその声の調子から認めると同じように、これらの物を認めるのである。如何なる動物でも霊界から発する流入により自分自身の自然的な必要な物を知っているのに、なぜ人間はそのような流入によって、霊的で道徳的な己が生命の内的な事実を多少なりと認めないであろうか。鳥はその巣を作り、卵を生み、雛をかえし、その食物を見分ける方法を知っている、我々が本能に帰している他の驚くべき事柄は言わずもがなである。
結婚愛45
諸天界に結婚のあることは前述した。今や世で結ばれた結婚の契約が死後も継続し、持続するか、否かを示さなくてはならない。これは判断の事柄ではなくて、経験の事柄であり、この経験は天使たちと霊たちと交わることを通して私に与えられたので、私から明らかにされることが出来るが、それでも理性もまた承認するような方法で明らかにされることが出来るのである。