証明
1.如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない
2.それ自身においては否定である懐疑的な否定に留まっていて、自分は科学的なものにより説得されない限りは、信じはしないと言う者は決して信じはしない
3.感覚的な人間は、その見て触れはしないものは無であると考えて、それを把握はしないのである
4.真理そのものは心の中におのずから輝き出る
5.最古代教会の人たち
6.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する
7.サンダー・シング
マタイ16・1−4
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
1.如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない
神の摂理317[3]
「人間が思い込んで、確認した物は凡て彼の中にその自己性の一部として存続する」。 如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない。王国または共和国の社会的なまた経済的な事柄においては、有用で善い物は多くの教令と法令とを知ることなしには認められることは出来ず、また司法上の事柄における有益なまたは善いものも、その法律が知られない限り認められることは出来ず、自然の研究においても、例えば、物理、化学、解剖学、機械学等においても、人間がその科学を教えられない限り、それは認められることはできない。しかし純粋に合理的な、道徳的な、霊的な事柄においては、人間が単に健全な教育により多少合理的に、道徳的に、霊的になってさえおれば、真理はそれ自身の特有な光の中に現れるのである。その理由は人間は凡てその霊の方面では―彼はその霊で考えるのであるがー霊界にいて、そこに住む者たちの間におり、従って彼は彼の内なる理解を明るくし、いわば指導するところの霊的な光の中にいるということである。なぜなら霊的な光は、その本質では、主の神的な知恵の神的真理であるから。これが人間が分析的に考え、司法上の事柄で公平で正しいものについて結論を引き出し、道徳的生活の尊いもの、霊的生活の善いものを認め、また多くの真理を理解することが出来る理由であって、真理は誤謬を確認しない限り不明瞭にはならないのである。人間は、各人に生来具わっている知識以外の知識が何らなくとも、他人の性質をその顔の中に認め、その情愛をその声の調子から認めると同じように、これらの物を認めるのである。如何なる動物でも霊界から発する流入により自分自身の自然的な必要な物を知っているのに、なぜ人間はそのような流入によって、霊的で道徳的な己が生命の内的な事実を多少なりと認めないであろうか。鳥はその巣を作り、卵を生み、雛をかえし、その食物を見分ける方法を知っている、我々が本能に帰している他の驚くべき事柄は言わずもがなである。
2.それ自身においては否定である懐疑的な否定に留まっていて、自分は科学的なものにより説得されないかぎりは、信じはしないと言う者は決して信じはしない
新エルサレムの教義51
それ自身においては否定である懐疑的な否定に留まっていて、自分は科学的なものにより説得されない限りは、信じはしないと言う者は決して信じはしない(2094、2832番)、
このように振舞う者は教会と天界に属した物については狂ってしまう(128―130番)、
彼らは悪の誤謬に陥る(232、233、6047番)、
学者の多くは霊的な事柄では単純な者よりも狂っている、なぜなら彼らは否定し、その否定を確認する科学的なもの(知識)を豊かにもっているから(4760番)。
霊的な生命については何ごとも理解できなかった一人の学者の例(8629番)。
科学的なものから信仰の諸真理に反抗して論じる者らは感覚の迷妄[妄想]から論じるため、その論理は鋭く、その妄想に他の者は捕らえられて、説得もされる、なぜならそれを払いのけることは容易ではないから(5700番)。
天界の秘義6015[3]
エレミア記には―
イスラエルの神、万軍のエホバは言われた、見よ、わたしはテーベのアモンに、パロに、エジプトに、その神々に、その諸々の王に、特にパロとパロに頼る者とに報いる(エレミア46・25)。
ここにもまた『パロ』は記憶知を全般的に意味し、『彼に頼る者』は、記憶知に頼るが、聖言に、すなわち、聖言の主に頼らない者である。かくて信仰の教義的なものにおいて凡ゆるものが歪められ、そこから誤謬が生まれ、また神的な、天的なものが何か有意義なものであることが否定されるようになるのである。このような者は特に、『これらの事柄を私に目で見させなさい、またはそれがそうであることを科学的に私に示しなさい、そうすれば私は信じよう』と言うことを慣わしとしているのである。しかも彼らは万が一見るにしても、またそれが示されたとしても、否定的なものが全般的に支配しているため、信じようとはしないのである。
3.感覚的な人間は、その見て触れはしないものは無であると考えて、それを把握はしないのである
天界の秘義5094[3]
例えば、合理的な自然的な人は、人間は人間自身から生きているのではなくて、主から天界を通して注がれる生命の流入により生きていることを把握するが、感覚的な人間はそれを把握することは出来ないのである、なぜならかれは自分は生命が自分自身の中に存在することを明白に感じ、認めもしていると言い、また感覚の証明に反したことを語ることは無意味であると言うからである。また他の一例として、すなわち、合理的な自然的な人間は天界と地獄が存在していることを把握するに反し、感覚的な人間はその目で見る世界よりもさらに純粋な世界の存在することを把握しないため、そのことを否定してしまうのである。合理的な自然的な人は目には見えない霊と天使との存在することを把握するが、感覚的な人間は、その見て触れはしないものは無であると考えて、それを把握はしないのである。
4.真理そのものは心の中におのずから輝き出る
天界の秘義4741
「かれらはヨセフからその肌着をはぎとった」。これはかれらが真理のいくたの外に現れたもの[外観]を消散させ、消滅させたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『はぎとること』の意義は、それがここでは『ヨセフ』である神的な真理について述べられているときは、消散させ、また消滅させることであり、『肌着』の意義は、それが色々な色のものであったため、真理のいくたの外に現れたもの[外観]である(4677番)。真理のいくたの外に現れたもの[外観]を消散させ、消滅させることは、真理そのものが斥けられた後に起こるのである、なぜなら真理そのものは心の中におのずから輝き出るのであり、それがいかほど消滅されようとも、依然として現れるのであり、とくに善の中にいる者たちの中に現れるからである。これはまた己が中に真理を消滅させてしまった者たちにより明らかに見られるのであり、それでまたかれらはこれらの外に現れたもの[外観]を消散させ、消滅させようと努めるのである。
5.最古代教会の人たち
天界の秘義1122
私は更に以下のように告げられた、即ち最古代教会の人々は極めて楽しい夢をまた幻を見ると同時にその意味していることも彼らに伝えられたのである。そこから彼らの楽園の表象物やその他多くのものが生まれたのである。それで地的なものであり、世的なものである外なる感覚の対象は彼らには無価値であり、彼らはまたその中に歓びを何ら認めないで、ただそれが意味し、表象しているものにのみ歓びを認めたのである。それで彼らは地的な対象を眺めた時、それについては全く考えないで、ただそれが意味し、表象しているものについてのみ考えて、そうしたものが彼らには極めて歓ばしいものであったのである、なぜならそれらは天界に存在するようなものであり、そこから彼らは主御自身を見まつるからである。
6.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する
結婚愛419
これらのものから、また獣の間にもあるこれらに似たものから、自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する、なぜなら、霊的な人間はそれらのものの中に霊的なものを見、自然的な人間はそれらのものの中に自然的なものを見るからである。かくて人は各々そのあるがままに見ている。私自身については、こうした物は私にとり自然的なものに注いでいる霊的なものの、または自然界に注いでいる霊界の流入の証明となっており、それで霊界が主の神的知恵から自然界へ流入している証明となっている。また神的なものがその知恵から霊界を経て流れ入らない限り、あなた方は何らかの形の政治を、または何らかの民法を、または何らかの道徳的な徳を、または何らかの霊的な真理を、分析的に考えることが出来るか、否かを考察されよ。私について言うなら、私にはそれは出来なかったし、また出来もしないのである。実に私は今や二十五年間絶えずその流入を明白に認めているのである。それで私はそのことを、それを見ているから、主張するのである。
徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P97
哲学者:「それにしても、あなたが実在の大海とお呼びになる沈黙の神の存在についてはまったくわかりかねますが、神の実在を証明するような納得のゆくお話を伺えませんか」
聖人:「わたしは、自分自身の内にも外にも、自分自身が存在するのと同じほど、いや、それ以上にはっきりと、神の存在する証拠を感じ、みることができます。しかし、神を知ろうとする以前に、まず自分自身を知ることが必要でしょう。そうすれば、自らの似姿に人間をお造りになったという神を知ることができるようになります。とはいえ、神はどのような人間の知識も理解も超えていることを知る必要があります。人間の理性に神が理解できれば、それは神ではなくただの人間ということになりますから。子供のような信仰をもち、聖なる愛に満ちている心の中に神が常に宿られることを、自分自分の体験から証言できる人は数多くいるでしょう。手を火に近づければ手が暖かくなって火の存在が証明されるのと同じく、神の愛と生命にみなぎる交わりの体験をもつことが、神が実在する確固たる証拠となるのです。
またわたしたちは言葉や外的な知識がなくとも、神を感じ、知ることはできます。例えば、わたしは三重苦のある男性を知っています。十五歳になったときに、触覚を使って神がわかるかどうかときかれたときに、彼はこう応答したそうです。“この世の外側のことはほとんどわからないが、自分の理解する力と必要から、自分の創造主とキリストについてはよくわかる。自分はいつも内なる目で神をみ、神の甘美なる臨在を楽しんでいる”と。ボストンのヘレン・ケラーも似たような体験をしています。十二歳になって、ブルックス博士が初めて彼女に神と神の愛について教え始めたとき、“そのようなことはとうに知っています。でも、神のお名前は知りませんでした”と彼女は答えました」
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P167
また、頑固さの故に神を信じない者は、どんなに筋道を立てて神の存在を説いてみたところで、たとえその目で神をみようとも信じない。それには二つの理由がある。神がそのお姿を彼らに現わし、その神性を証明する論拠をお示しになっても、その論拠は神の論理に基づくものであるから、彼らは神を理解できない。そのような論拠は人間のロジックと哲学の及ぶ範囲を超えているからだ。一方、神が人間の知的水準に合わせて理由を説明すれば、やはり彼らは神を侮辱していうだろう。「そんなことは知っている。神も人間として大して変わりはしない。考え方がまるで同じではないか、人間より少し位レベルが高い、その程度の存在だ」と。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P268
「それにしても、神秘家が直観で得た知識が正しいかどうかを、どうやって証明できますか?」と質問者。
「神秘家が嘘をいっていないことは、その生き方によって確かめることができる。そこで、まず、彼のいうことに耳を傾け、次にその言葉をあなた自身が体験によって生き、確かめてみることである。
霊的事柄を、霊的経験を何一つ持たない科学者の判断に委ねることほど愚かなことはない。日食がいつ起るかがわかる科学者も、罪という日食については何一つ知らずにいるのだ。眼球にはものを見る力が備わっているが、光に照らされなければものを見ることはできない。同じように、知性という目にも、見る力は備わっているが、“義の太陽”に照らされないうちは、見ることができないのである。」