部分否定は全否定

 

 

聖言の無限性聖書は成就する

霊の性質はその思考の只一つの観念によっても知られる

天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない(マタイ5・18)

 

 

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

3.ヴァッスーラ

4.スウェーデンボルグ

5.聖母から司祭へ

6.一つの戒めに背くなら他の戒めに背くことも恐れない

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・17

 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするようにと教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

 

 

 

マタイ28・19

 

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

 

 

 

マルコ8・34−38

 

それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命をうしなったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときにその者を恥じる。」

 

 

 

ルカ9・23

 

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 

 

 

ルカ16・17

 

しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。

 

 

 

ヨハネ8・37

 

あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。

 

 

 

ヨハネ8・39-

 

 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。 「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」

 

 

 

ヨハネ8・45−47

 

しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。 わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。 神に属する者は神の言葉を聞く。 あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。

 

 

 

ヨハネ8・49

 

わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。

 

 

 

ヤコブ2・9−13

 

しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

 

 

 

黙示録22・18−19

 

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

 

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P200

 

 牧者で航海者ペトロ! いつかあなたは、牧者だけでは足りず、航海者だけでも足りないであろう。地獄的で残酷なタコの足の群れが羊たちを奪おうとするのを守るためには、双方とも備わった者とならねばならない。恐るべき時代に、牧者または航海者としてのあなたの羅針盤が命と救いになる。それにすべてが語られている。聖なるすべての上智、霊魂たちの問題に対してのすべての回答は、そこにすべて書かれている。では、司祭たちと信者たちとが、その方針を離れないように努められよ。福音と方針にどんな疑いも生じさせないようにせよ。福音に理屈っぽい変化がないように注意せよ。福音とは私自身である。誕生から死に至るまで。福音には神がおられる。なぜならば福音には御父と子と聖霊の業が現わされているからである。福音は愛である。私は言った。・・・私の言葉は生命である。私は言った。・・・神は愛である。そのために民々は私の言葉を知り、自分たちの中に愛、すなわち神をもつべきである。それは神の国をもつためにである。なぜならば自分の中に神を持たない人は、自分の中に生命をもっていないからである。神のみ言葉を迎えようとしない人々は、御父と一致することはできず、私が望むような聖なる柵の者でもあり得ない。彼らはぶどうの木の枝ではないだろう。私の言葉をすべて、もしくはある部分を拒む人には、ぶどうの木の樹液は流れていない。私の言葉は養い生長させ、そして実を結ばせる樹液である。あなたたちに教えた以上の事を、すべて私の記念として行うべきである。

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P80

‘87・12・23

 

わが神よ、プロテスタントの人たちにはショックでしょう!(私はまだそのことを思っていました。)

 

♡ ヴァッスーラ 私は彼らが変わるように何年も待っていた、もうこの願いを自由に書き下ろさせてもらいたい ♡

 

でも ショックでしょう!

 

無礼と感じるであろう ♡ 聞きなさい。 都合のよい時しか私の言葉を聞かないで、自分に合わない時は耳を塞ぐことができようか?

 

この全てを頭から否定するでしょう! 部分的に選ぶわけにはいかないのですから。―これがあなたからではないと主張します。

 

もしそうするなら 私を神として否定することになる ♡

 

主よ、これは彼らにとっては きついことだと敢えて言わせて下さい。あなたを否定しているとは感じないでしょうし、結局はあなたを愛し、主として本当に礼拝しているのですから 主よ。

 

ヴァッスーラ 私はあなた方皆を一致させに来た ジェームズ神父は私の訴えを拒むであろうか?(*) そうはしない、私の弟子なら誰であろうと私の訴えを拒まないであろう?

  ジェームズ神父を誠実の模範となさっています。

 

はい、誠実なら、主よ。

 

あなたのくれたこの言葉で、すべては言い尽くされた。 「誠実なら」、耳を貸すであろう ♡♡♡ 一致を可能とするよう 皆の上に輝き 光を与えに来た、しかし ヴァッスーラ 非常に悲しいことに 光よりも闇を好む者がいるであろう その行為が悪に染まっているため、自分たちの行為が露にされるのを恐れて光のもとに来るのを拒む、しかし献身的な者たち 私のわざを真実に認め 従う者たちは 我が光のもとにやって来て 恐れなく自分の行為を表す、神である私のうちに行われた行為だと証して みことばのうちに住む人は、確かに私の弟子となり、真理を知り 真理はあなたを自由にすると私は言った、そしてこのたびは、こう言う:もし今日の我が言葉を認めるなら、確かに私の弟子となる、真理にたいする誠実さを学び 真理はあなたを自由にし 愛のうちの一致を可能とさせ 私に栄光を与えよう ♡ 私は手に我が心をのせ、与えようと、皆のところにやって来た、しかし訴えても多くの者は私を拒む、神として認めてはくれない 心を頑なにして もし私を愛するなら訴えに耳をかすはずであり、聞くのを拒むのは、もう子として私のものではないから、彼らの知恵が盲(めしい)にさせてしまった、しかし真に言う、私の羊たちは声を聞き分け、私の声を聞き分けない者たちは私の羊ではなく 我が全能を信じていない 私の仔羊がなぜ散らされ 私のからだが不具であるかを知っているか、教会の中になぜ不調和があるか知っているか? 夜導く灯を持たないで歩いていたからだ ♡ 光である私を探し求めなさい そうするならあなた方を導く、偽善と頑なさを捨て去り、柔和 謙遜であるように、心を開いて 私のいのちの雫に満たされなさい、私は良い羊飼いで あなた方を愛している ♡♡♡ ヴァッスーラ 私に話しかけなさい、聖なる仲間として接してくれるように ♡ 

 

そういたします わが神、お愛しします 主よ、み名を讃えたいと願っています 主よ。

 

♡ 愛する者よ 私は 我が名に栄光を帰した そして再びそうする、私の支配は永遠に続く、 ♡ 来なさい、勇気を 娘よ、ともにいる ♡♡

 

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P138

‘88・2・10

 

しかし 私のヴァッスーラ 聖書に偽りはない、聖書には書かれてある、「私の主の母」と。聖霊に促され エリザベトはこの言葉を口にした、書くように:「すべての女の中であなたは最も祝福された方、そしてご胎内の子も祝されています。私の主の御母に訪ねていただく名誉をいただくとは?」十字架上で述べた言葉はあなた方の多くが理解するよりはるかに深い(*)。あなた方の聖なる母でもあるこの方を 尊びなさい。もう私の心の中で休むように、私の現存を覚え 喜ばせてほしい、私を尊びなさい 我がヴァッスーラ、

 *イエスは「我が神、どうして私を見捨てられたか。」といった、他の言葉のことも意味しておられます。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P236

‘88・6・4

 

♡♡ 教えてほしい ヴァッスーラ、聖書は切り離し ばらばらにすることができようか?

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P260

‘89・9・20

 

あなたがたによく言っておく。天地の続くかぎり、律法の一点一画も消えうせることはなく、ことごとく実現するであろう。 だから、最も小さな掟の一つでもこれを無視し、またそうするように人びとに教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれるであろう。 しかし、掟を行い、またそうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P147

 

「サタンは率先して 我が教会に戦いを挑んだ。 暴力によって 私が自らの聖血で贖ったものを攻撃している。 真理と我が掟を宣言する すべての忠実な心を呪い、我が教会を分裂させておく。

教会に属するあなた方の多くは今日 略奪者だ。 聖体のうちに我が体を認めず、私が真に制定したやり方で我が聖なる秘義に与るのも拒んで こうして略奪している。 聖体のうちなる我が神性と現存の荘厳を評価するとなるや あなたは私の家から略奪している。 ほかにもさまざまな仕方で我が家から 奪い取っている。 聖書は決して偽りがなく否定し得ない、だがそれをあなた方は部分的に否定し、そうしたやり方でも奪い取った。 我が教会では、私は教会を豊かにしようと使徒を与え、預言者たちと教師を育てて与え、そのほかにも、奇跡や癒しをはじめさまざまな賜を与えてきた。 しかしあなた方は我が家を略奪し、今日そこから持ち去っている。」

 

 

 

 

4.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義215

 

 人間自身のものは悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、彼ら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、例え彼らは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑を差し挟まない程に完全に確信しているにしても、私はそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、私はその者らが疑い、否定さえしていることを認めることができたのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、彼らは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、すなわち誤謬の深淵は沈むのである、そして彼らはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。

 

わざわいなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。

霊の性質はその思考の只一つの観念によっても知られる

 

 

 

 

天界の秘義1919[4]

 

しかし主の人間的な本質がその神的な本質に結合されると同時に、エホバとなってしまった後では、主はそのときは諸天界の中に存在し、そこから地上に存在している秩序の上方におられたため、認識と呼ばれるものの上方にもおられたのである。秩序の根源[源泉]であられるものはエホバであり、かくてエホバは秩序そのものであられると言うことができよう、なぜならエホバはエホバ御自身から秩序を統べ治められるからである、それは一般に考えられているように全般的にのみ統べ治められるのではなく、単一なものそれ自身をも統べ治められているのである、なぜなら全般的なものはこの単一なものから発しているからである。全般的なもののことを語って、それを単一なものから分離することは、その中に部分が何ら存在していない一つの全体のものを語り、それでその内には何物も存在していない何ものかを語るということ以外の何ものでもないであろう、それで主の摂理は全般的なものであって、単一なものそのものの摂理ではないと言うことは、全く誤ったことを言うことであって、ens rationis(すなわち、想像の作りごと)と呼ばれるものである。なぜなら全般的なものを供え、またその全般的なものを統べ治めはするが、個別的なものは供えはしないし、またそれを統べ治めはしないことは絶対に何ものをも供えないし、また何ものをも治めないことであるからである。これは哲学的に真であるが、しかも驚くべきことには、哲学者自身は、そのいとも高く天がけている者すらも、そのことをそのようには把握しておらず、またそのように考えてもいないのである。

 

 

 

天界の秘義9430[]

 

文字における聖言は秩序の究極的なものにおける神的真理であり、神的真理がそのもとに存在している教会の人間も、その自然的な、感覚的な心の方面では、それと同じものである。その何れのものの中に、家がその基礎の上に終結し、依存しているように、内的なものは終結し、依存しているのである。家そのものは天界であり、天界では神的真理は内意における聖言のあるがままのものであり、基礎は世であり、世では神的真理は外意における聖言のあるがままのものである。家がその基礎に依存しているように、天界もまた教会に依存しており、従って天界の神的真理は地上の神的真理に依存しているのである、なぜなら聖言により主から天界を通して下の人間に至るまでも連続した関連があるからである。これが、神的真理の究極的なものがその中に在ることのできる教会が地上に存在するように常に主により供えられている理由である。これは未だにたれにも知られていないで、前に引照したことにより意味されている秘義である(9357、9360番)。それで凡ての者は聖言を決して害わないように警戒しなくてはならない、なぜならそれを害う者は神的なものそのものを害うからである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡41

 

即ち、そこの各々の物は、否、一切の言葉はその内に霊的な意義を含んでおり、教会の凡ての物は、その霊的な状態については、始めから終りまで、その意義の中に完全に記されており、そこの一切の言葉は或る霊的な事柄を意味しているゆえ、その一語でも欠けるならば、必ずそのため連続した事柄が内意で変化を受けるのである。それゆえ、その書物の終りに、

 

 もし人がこの予言の書の言葉を省くならば、神は彼の分を生命の書から、かの聖い都から、その書に記された物から除かれるであろう(黙示録22・19)。

 

と記されている。旧約聖書の書でも同一であって、その中でもまた凡ゆる物は、凡ゆる言葉は内なるまたは霊的な意義を含んでおり、それゆえ一語もまたそこから省かれることは出来ない。ここから主の神的摂理により、それらの書は、それが記された時から一点に至るまでも、その最も微細な物をさえ列挙した多くの者の注意により完全に保存されたのであり、これはそれらの書の含んでいる一つの点、文字、語、事柄の各々に存在している神聖さのために主により定められたのである。

 

 

 

真の基督教523

 

 何人も律法を成就することは出来ない、特に十誡の一つに対して罪を犯す者は、凡てに対して罪を犯す以上は、尚更律法を成就することは出来ないと主張されている。然し、この主張は容易に誤解され易い。それは何人であっても、慎重に、定まった目的をもって一つの誡命に反して行動する者は凡て、他の誡命に反抗して行動することを意味しているのである。何故なら、このように行動することは、罪は罪であることを否定することになり、何人でもこれを為す者は凡て罪を軽視するからである。悔改めについて聞くことを拒絶することは、罪は罪であることを否定することに至るが、罪の除去に於いて悔改めによって協力することは主に対する信仰と隣人への愛に至るのである。主は凡ゆる人間を罪から遠ざかろうとする彼らの努力の中に保ち給う。それ故彼らが無知により、或は或る圧倒的な欲念によって罪に導き入れられるならば、彼らは慎重に或は、定まった目的から行動したのではない故に、その罪は彼らに転嫁されない。これは以下の私の経験から証明され得るであろう。私は、自然界に居た時、優美な服装をし、美食をし、金を作り、演劇に興じ、放埓な無駄口を叩き等して、他の者のように生活した多くの者たちと霊界に会ったことがあるが、而も、天使たちは彼らの或る者は罪があるが、他の者は全く罪が無いと明言したのである。私は両者とも外面的には同じように行動したことを認めていたので、その理由を尋ねた。彼らは罪と無垢とは全然目的、目標、意図による、何故なら、善は天界の凡ゆるものの目標或は意図であり、悪魔は地獄の凡ゆるものの目標或は意図であるからであると答えた。

 

 

 

 

霊的生命・神の聖言P38

 

天界が教会の人間に閉じられてしまう起因には二つのものが在る。一つは主の神的なものを否定することであり、他の一つは聖言の聖さを否定することであり、(そのことは)主の神的なものは天界の凡てのものであり、神的な真理は―それが霊的な意義における聖言であるが―天界を作るものであるという理由によっているが、そのことが、その何れか一方のものを否定する者は、天界の凡てのものであるものを、また天界が存在し、存続している源泉であるものを否定し、かくて天界との交流を、引いては、天界との連結を自分自身から剥奪してしまうことを明らかにするのである。聖言を汚すことは、何人にもその罪は赦されはしないところの、『聖霊を冒涜すること』と同じであり、従ってこの戒めの中に神の御名を汚す者は刑罰を受けないままに棄ておかれはしないと言われているのである(黙示録講解960番)。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P106

 

人間が一つの戒めを犯して、それは罪ではないと自分に納得させ、かくて神を恐れないで戒めに背く時は、彼はそのようにして神を恐れる思いを斥けてしまったため、彼は他の戒めを犯すことを、例えそのことを実際に行わないにしても、恐れはしないのである。(中略)なぜなら彼は何か一つの戒めにおいて神を恐れる思いをその心から斥ける時は、彼は何かが罪であることを斥けるのであり、従って彼は、彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わるからである。(黙示録講解1028番)。

 

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1975.1.28

 

真理のうちにとどまりたいなら、わが子の福音のことばをただ一つだけでも否定してはならず、またそれを文字通りにとらなければなりません。

 

 

 

 

6.一つの戒めに背くなら他の戒めに背くことも恐れない

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P106

 

人間が一つの戒めを犯して、それは罪ではないと自分に納得させ、かくて神を恐れないで戒めに背く時は、彼はそのようにして神を恐れる思いを斥けてしまったため、彼は他の戒めを犯すことを、例えそのことを実際に行わないにしても、恐れはしないのである。(中略)なぜなら彼は何か一つの戒めにおいて神を恐れる思いをその心から斥ける時は、彼は何かが罪であることを斥けるのであり、従って彼は、彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わるからである。(黙示録講解1028番)。