天地が消えうせるまで、律法の文字から

一点一画も消え去ることはない

マタイ5・18

聖言の普遍性

聖書は主について書かれている

部分否定は全否定

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

1.聖書

 

マタイ5・17−20

 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

 

ルカ16・17

 

しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

白馬6

 

聖言はその個々の一切の部分において神的なものである(639、680、10321、10637)。聖言は一点一画もことごとく神的な聖いものである、経験から(1349)。聖言は一画といえどもすべて霊感を受けたものであることは、現今如何ように説明されているか(1886)。

 

 

白馬11

 

原語では、聖言の文字の一点にも凡て聖いものが在る、(そのことは)天界から示された。「天界と地獄」を扱った著作を参照されよ(260)、そこには主の以下の語が説明されている。

 

 律法の一点一画もすたることはない(マタイ5・18)

 

 

天界の秘義7933[2]

 

 主が色々な所で、御自身の中に聖書に含まれている凡ゆる事が成就されなくてはならないし、また成就されもしていると言われていることは聖言の内意に含まれていることを意味しているのである、なぜならそれは主の王国のみを取扱っており、その最高の意義では主御自身を取扱っているからである、例えば以下の記事では―

 

イエスはその弟子たちに言われた、これらはわたしが尚あなたらと共にいた時あなたらに話した言葉である、即ち、わたしについてモーセの律法に、予言者の書に、詩篇に記されている凡ゆる事柄は必ず成就されなくてはならないのである。かくて彼らは彼らが聖言を理解するようにその心を開かれた(ルカ24・44、45)。

 

見よ、わたしたちはエルサレムへ上る、そこに予言者たちにより人の子について記されていることはことごとく成就されるであろう(ルカ18・31)。

 

わたしは律法と予言者とをこぼつために来たとあなたらは考えてはならない、わたしはこぼつために来たのではなく、成就するために来たのである。まことにわたしはあなたたちに言う、天地の過ぎ去るまでは、律法の一点も、一画も決して過ぎ去りはしないで、凡ゆるものが行われるであろう(マタイ5・17,18)。

 

 

天界の秘義7933[3]

 

 これらの事柄とまた主が律法または聖書を成就することについて他の所で言われている事柄は、すでに言ったように、主について予告された事柄を内意に含んでいる。この意義では、一切の事柄は、一点、一画に至るまでもことごとく主を取り扱っており、それで『一点、一画も決して過ぎ去りはしないで、凡ゆる物は行われるであろう』と言われているのである。またルカ伝には―

 

 律法の一点のすたるよりは天地の過ぎ去る方が容易である(16・17)。

 

その細目[細々したこと]はすべて、凡ゆるものの中最小のものに至るまでも、その内意では主とその王国とを取り扱っており、そこから聖言は極めて聖いものであることを知らない者はこのことの意味しているところを、即ち、『一点もすたりはしない、一点、一画も過ぎ去りはしない』、『天地の過ぎ去るのが容易である』の意味していることを到底把握することは出来ない。なぜなら外意に現れているものはそれほどあまり重要なことには思われはしないが、内意には一音節でも省くならば全体が害われるほどにも多くのことが含まれているからである。

 

 

真の基督教341

 

 良く生活し、正しく信ずる人間が救われず、神はその自由意志によってその欲する者を救い、罪に定めることが出来ると想像することは、神を無慈悲、残忍、残酷な者として非難することであり、否、それはまた神の存在を否定するに等しいのである。かかる信仰は、神はその聖言の中に無意味な言葉を語り給い何等重要でない命令を発し、自らシナイ山に立てて、二枚の石板に書き録し給うた契約を犯し給うことを暗示する。神はその誡命に従って生き、彼に対する信仰を持つ者を救わざるを得ないことは、ヨハネ伝の主の言(14・21−24)によって明白である。宗教を持つ理知的な人間は凡て是と同一の結論に到達するであろう。何故なら、神は絶えず人間と共に在し、これに理解し、愛する生命と力を与え給うからである。それ故神は良く生活し正しく信ずる人間に御自らを愛に於いて結合させ給わざるを得ないのである。この事は神によって凡ての人間と凡ての動物に刻み付けられていないだろうか。父と母はその子を、鳥はその雛を、獣はその仔を斥ける事が出来ようか。虎、豹、蛇ですらその子を愛している。神がそれ以外のことを為すことはその存在の秩序に反し、また神が由って以って人類を創造し給うた秩序に反している。それ故良く生活し、正しく信ずる人間を罪に定めることは神に不可能であるが、誤った物を信ずる人間を救うこともまた不可能である。何故ならこれは再び秩序に反し、また公正の道に添わない限り発することが出来ない神の全能にも反するからである。公正の律法は変更することの出来ない真理である。何故なら、主は「律法の一画の落つるよりも天地の過ぎ行くは易し」(ルカ16・17)と語り給うからである。

 

 

 

天界と地獄260

 

 かつてまた天界から一枚の小さな紙が私のもとへ送られ、その上にはヘブル語の文字で二、三語しか書かれていなかったが、各々の文字には知恵のアルカナ[秘義]が含まれ、そのアルカナはその文字の屈折と湾曲とに含まれ、かくてまたその音の中に含まれていると言われた。そのことから主の以下の語の意味が私に明らかになった。「まことにわたしはあなたたちに言う、天地の過ぎ去らない中は、律法の一点一画も過ぎ去らないであろう」(マタイ5・18)。聖言はその一画までもことごとく神的なものであることもまた教会で知られているが、しかし神的なものは各々の画の何処に隠れているかは、未だ知られていないため、説明しよう。最内部の諸天界の文書は色々な屈折した、また湾曲した形のものから成り、その屈折と湾曲とは天界の形に応じており、それによって天使たちは彼らの知恵のアルカナを表現し、また語で表すことの出来ない多くの物を表現しており、驚嘆すべきことは、天使たちはその文書を教えられなくとも、または教師がいなくても、それを知っており、それは彼らの中に彼らの言葉そのもののように植え付けられ(その言葉については236を参照)、かくてこの文書は天界の文書であるということである。それが植え付けられているのは、天使たちの思考と情愛とは凡て天界の形に従って拡がり、そこからその理知と知恵も凡て伝達され(201)、従って彼らの文書はその形へ流れ入っているためである。この地上の最古代人もまた、文字が発明されなかった中は、こうした文書を持っていて、それがヘブル語の文字の中へ移入されたのであると私は告げられた―ヘブル語のその文字は古代では凡て屈折し、その一つも、現今のように、直線により、区切られてはいなかったのである。かくて聖言には、その一点、一画にすら神的なものと天界のアルカナが存在している。