聖書は主について書かれている

天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない(マタイ5・18)

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

 

1.聖書

マタイ5・17−20

 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

 

ルカ24・27

 

そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

 

ルカ24・44

 

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

 

 

ヨハネ5・39−47

 

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。

 

 

ヨハネ12・14−16

 

イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次にように書いてあるとおりである。

「シオンの娘よ、恐れるな。

見よ、お前の王がおいでになる、

ろばの子に乗って。」

 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。

 

 

ヨハネ12・37−41

 

 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行なわれたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。

「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。

主の御腕は、だれに示されましたか。」

彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。

「主は彼らの目を見えなくし、

その心をかたくなにされた。

こうして、彼らは目で見ることなく、

心で悟らず、立ち帰らない。

わたしは彼らをいやさない。」

 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

 

 

ヨハネ19・36−37

 

これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義7933[2]

 

 主が色々な所で、御自身の中に聖書に含まれている凡ゆる事が成就されなくてはならないし、また成就されもしていると言われていることは聖言の内意に含まれていることを意味しているのである、なぜならそれは主の王国のみを取扱っており、その最高の意義では主御自身を取扱っているからである、例えば以下の記事では―

 

イエスはその弟子たちに言われた、これらはわたしが尚あなたらと共にいたときあなたらに話した言葉である、すなわち、わたしについてモーセの律法に、予言者の書に、詩篇に記されている凡ゆる事柄は必ず成就されなくてはならないのである。かくて彼らは彼らが聖言を理解するようにその心を開かれた(ルカ24・44、45)。

 

見よ、わたしたちはエルサレムへ上る、そこに予言者たちにより人の子について記されていることはことごとく成就されるであろう(ルカ18・31)。

 

わたしは律法と予言者とをこぼつために来たとあなたらは考えてはならない、わたしはこぼつために来たのではなく、成就するために来たのである。まことにわたしはあなたたちに言う、天地の過ぎ去るまでは、律法の一点も、一画も決して過ぎ去りはしないで、凡ゆるものが行われるであろう(マタイ5・17,18)。

 

 

天界の秘義7933[3]

 

 これらの事柄とまた主が律法または聖書を成就することについて他の所で言われている事柄は、すでに言ったように、主について予告された事柄を内意に含んでいる。この意義では、一切の事柄は、一点、一画に至るまでもことごとく主を取り扱っており、それで『一点、一画も決して過ぎ去りはしないで、凡ゆる物は行われるであろう』と言われているのである。またルカ伝には―

 

 律法の一点のすたるよりは天地の過ぎ去る方が容易である(16・17)。

 

その細目[細々したこと]はすべて、凡ゆるものの中最小のものに至るまでも、その内意では主とその王国とを取り扱っており、そこから聖言は極めて聖いものであることを知らない者はこのことの意味しているところを、すなわち、『一点もすたりはしない、一点、一画も過ぎ去りはしない』、『天地の過ぎ去るのが容易である』の意味していることを到底把握することは出来ない。なぜなら外意に現れているものはそれほどあまり重要なことには思われはしないが、内意には一音節でも省くならば全体が害われるほどにも多くのことが含まれているからである。

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P34

 

 初めに、ヨハネ、シモン、ユダに、私の誕生にまつわるもろもろの預言の意味を打ち明けました。それらの預言は、私の暁からたそがれまで世紀の画家でさえこうは描けないと思えるほど綿密に描写しています。預言者たちが最も力を入れたのが、ちょうどこの暁とたそがれです。