聖言の無限性

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.ヴァッスーラ

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義1936[]

 

人間には極めて単純で、粗雑なものであるように思われる聖言の表現の各々にも無限のものが存在しており、否、天界全体よりも多いものが存在しており、その中に存在しているアルカナは主により天使たちの前に永遠に不断の変化をもって示されることが出来るということは神的な真理である。この真理は合理的なものには極めて信じがたいものであり、それで合理的なものはそれには全くいかような信用も与えようとはしないが、それでもそれは真である。

 

 

天界の秘義3509[3]

 

 これらの事柄からいかようなアルカナが聖言の内意に含まれているかを認めることが出来ようが、それでも極めて僅かなものしか人間に把握されるように記されることが出来ないに反し、その把握を超越していて、記すことの出来ないものは無限である、なぜなら聖言は更に深く、即ち、更に内的に、天界へ浸透するに比例し、そのアルカナは、単に人間のみでなく、低い天界の天使にも益々無数のものとなり、また表現を絶したものとなり、そしてそれが最も内なる天界へ到達すると、そこにいる天使たちは、そのアルカナは無限であってまたそれらが神的なものであるため、全然人間には把握されることが出来ないものであることを認めるのである。こうしたものが聖言である。

 

 

 

 

天界の秘義3839

 

「彼はラバンに言った、あなたが私に為したこのことは何ですか」。これは憤りを意味していることは、これらの言葉における、また以下に続いて言われている言葉における情愛から明白である。歴史的な連続に従ってこれらの言葉の中に落ち込んでいるものは憤りの情愛であることは明白である。聖言の内意を構成しているものに二つのものがあり、即ち、情愛と実際の事柄があり、聖言の表現に隠れている情愛は人間には明らかではなく、その最も内なる奥所に貯えられていて、人間に明らかにされることも出来ない、なぜなら人間はその身体の生命の間では世的な形体的な情愛の中にいて、その情愛は聖言の内意における情愛とは何ものをも共有してはおらず、この後の霊的なまた天的な愛の情愛であり、それを人間は以下の理由からそれだけ認めることは出来ないのである、即ち、その情愛の中にいる者は僅かしかいないのであり、しかもこの僅かな者も大半単純な人たちであって、自分の情愛を反省することは出来ない一方では、他の者はことごとく純粋な情愛の何であるかを知りさえもしていないのである。これらの霊的な天的な情愛は隣人に対する仁慈と神に対する愛の中に含まれている。それらのものの中にいない者らはそれらのものは何か有意義なものであるとは信じはしないものの、それでもそれらのものは全天界を満たしており、しかもそれには表現を絶した多様なものがあるのである。このような情愛はその多様なものと共になって聖言の内意に貯えられているものであり、そこに単に連続した各々の記事の中に存在しているのみでなく、各々の表現の中にも存在しており、否、各々の音節の中にさえも存在していて、聖言が単純な善の中にいると同時に無垢の中にいる者たちにより読まれている時、天使たちの前に輝き出てくるのであり、しかもそれには、前に言ったように、無限の変化が在るのである。

 

 

 

天界の秘義6620

 

この凡てから聖言の凡ゆるものもまた観念の閉じられている者には非常に単純なものとして見えるけれど、その内容はいかに無限なものであるかを知ることが出来よう(なぜなら聖言は主から天界を通して降っているからである。)

 

 

 

天界の秘義9372[]

 

聖言は内意では、またはそれが天界で把握されるような意義では、外なる意義における、またはそれが世で把握されるような、またはバプテスマのヨハネが教えたような意義における聖言よりは度においてまさっていることは、『天国の小さい者でも彼よりは偉大である』により意味されているのである、なぜなら天界で認められているように聖言は人間の把握をことごとく超えている程にも大いなる知恵を秘めているからである。主と主が来られることに関わる予言は、また主とその王国を表象するものとは主が世に来られた時終わったことが『予言者の凡てと律法とはヨハネまで予言した』により意味されているのである。聖言はエリヤにより表象されたように、ヨハネによっても表象されたことは、彼が『来ることになっているエリヤ』であることにより意味されている。 

 

 

真の基督教290

 

 人間は聖言の性質を理解しない限り、彼はその凡ての細目に無限があることを、すなわち細目の凡ての中に天使自らも究め得ない無数のものが含まれていることを理解することは出来ない。その中の各々のものは一粒の種子に―その種子は大きな木となり、夥しい他の種子を生み出し、それらの種子から更に同じ木の群が生み出され、かくして無限に至るのであるが、―譬えることが出来よう。主の聖言はその凡ての部分に於いて、特に十戒に於いては、このようなものである。何故なら、これは神を愛し、隣人を愛することを教え、それ故全聖言の縮図であるからである。このことを主は以下によって教え給う。「神の国は一粒の芥子種の如し、人これを取り、その畑に播くときは、万の種子よりも小さけれど、育ちては、他の野菜よりも大きく、樹となりて、空の鳥来りてその枝に宿るほどなり」(マタイ13・31、32、マルコ4・31、32、ルカ13・18、19)。またエゼキエル書17・2−8を比較されよ。霊的な種子の無限性、すなわち聖言の諸真理の無限性は、凡て聖言から発して永遠に増大する天使たちの知恵によって明白である。而して、彼らは賢明になるに応じて、知恵は無限であることを認め、彼ら自身は単にその外庭に居るに過ぎず、極めて微細な事項に於いてすら、彼らが底無き深淵と呼ぶところの主の神的な知恵に決して到達することが出来ないことを明白に認めているのである。さて聖言は主から発している故、このような性質を持っている以上、その内容の凡てに或る無限性のあることは明白である。

 

 

 

黙示録講解513ハ(16)

 

 主が復活された後弟子たちにより引き上げられたおびただしい魚の量も同じような意義を持っており、それはヨハネ伝に以下のように記されている―

 

 イエスは魚を取っていた弟子たちに御自身を示された時、彼らに舟の右側に網を投げ込むように言いつけられた。彼らは非常に多くのものを得たため、おびただしい魚のために、その網を引き寄せることが出来なかった。彼らが地に降りた時、火が起こされ、その上に少しの魚が置かれているのを見た、またパンを見た。イエスは彼らにそのパンを与えられ、また同じくその小さな魚も与えられた(ヨハネ21・2−13)。

 

 主が彼らが魚を取っていた際御自身を明らかに示されたのは、『魚を取ること』は真理と善とに関わる知識を教えることを、かくて改良することを意味したためであった。主が彼らに『網を舟の右側に投げるように』命じられたことは、凡ゆる事は愛と仁慈との善から発しなくてはならないことを意味したのであり、『右側』はかの善を―そこから凡ゆるものが発しなくてはならないかの善を―意味している、なぜなら知識が善から由来しているに応じ、生きており、増し加わりもするからである。彼らは自分たちは夜中労苦したが、何一つ取りはしなかったと言ったが、そのことは自己からまたは自己自身のものからは何一つ発しないで、凡ゆるものは主から発出していることを意味したのであり、それに似たことがその小さな魚が置かれていた『火』により、また『パン』により意味されるのである、なぜなら『パン』は主を、また主から発している愛の善を意味し、『火の上の魚』は善から発した真理の知識を、『魚』は真理の知識を、『火』は善を意味したからである。当時霊的な人間がいなかったのは教会は全く剥奪されていて、凡ての者は自然的なものであり、彼らの改良はこの魚を取ることにより、また火の上の魚により表象されたためであった。弟子たちに食べるように与えられた火の上の魚とパンとは更に高いものであるものを意味してはいなかったと信じる者は非常に誤っているのである、なぜなら主により行われ、また言われもしている最小の事柄でも神的な天的な事柄を意味したのであり、その事柄は霊的な意味を通してのみ明白になるからである。この『炭の火』と『火』とは愛の善を意味し、『パン』はその善の方面の主を意味していることは前に示されたのであり、『魚』は真理の知識を意味し、自然的な人の知る能力を意味していることは、この項目の中に言われもし、示されもしたことから明白である。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/P101/353.5

 

 おお! 聖霊が『平安のうちにあれ、罪を犯すなかれ』という言葉をあなたがたに説明する場合、この言葉は、罪を犯していない人には称讃となり、まだ弱さはあるが罪を犯したくない人には励ましとなり、罪を犯しはしたが痛悔している人には赦しとなり、悔い改め僅かな兆しが見られる人には、憐れみ深い穏やかな叱責となるでしょう。これは、たったの一文です。きわめて単純な文の一つです。だが、私の福音の中には、どれだけ多くの文があることでしょう! どれだけ多くの文が、最初は枝について一つの蕾でも、雨と春の陽光を受けて開花し、一つだったものがやがて枝全体を覆うように、称讃する人を楽しませることでしょう。

もう休みなさい。愛の平安があなた共に」。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P138

‘88・2・10

 

しかし 私のヴァッスーラ 聖書に偽りはない、聖書には書かれてある、「私の主の母」と。聖霊に促され エリザベトはこの言葉を口にした、書くように:「すべての女の中であなたは最も祝福された方、そしてご胎内の子も祝されています。私の主の御母に訪ねていただく名誉をいただくとは?」 十字架上で述べた言葉はあなた方の多くが理解するよりはるかに深い(*)。あなた方の聖なる母でもあるこの方を 尊びなさい。もう私の心の中で休むように、私の現存を覚え 喜ばせてほしい、私を尊びなさい 我がヴァッスーラ、

 

 *イエスは「我が神、どうして私を見捨てられたか。」といった、他の言葉のことも意味しておられます。