霊の性質はその思考の只一つの
観念によっても知られる
1.只一つの考えからでも知る
2.人間の性格は只一つの行為からでも認められる
3.一つの戒めに背くなら他の戒めに背くことも恐れない
4.その語調からその者の愛の凡ての物を認め、その言葉からはその者の理知の凡ての物を認める
1.只一つの考えからでも知る
天界の秘義104
今日認識とは何であるかは知られていない。それは何かが真で善であるか否かに就いて主のみから発している或る内的な感覚であり、最古代教会には非常に良く知られていたのである。この認識は天使達には完全であって、それにより彼らは真で善いものに気づき、それを知り、主から発しているものと自分自身から発しているものとを知り、また自分たちに近づいて来る者の性質を、単にその者が近づいて来ることのみからでも、またその者の考えていることの只一つの考えからでも知るのである。霊的な人には認識はなくて、良心がある。死んだ人は良心さえも持っていない。大多数の者は良心とは何であるかを知っておらず、まして認識とは何であるかは知っていない。
天界の秘義215
人間自身のものは悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、彼ら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、たとえ彼らは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑を差し挟まない程に完全に確信しているにしても、私はそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、私はその者らが疑い、否定さえしていることを認めることができたのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、彼らは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、すなわち誤謬の深淵へ沈むのである、そして彼らはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。
わざわいなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。
天界の秘義228
信仰の真理と愛の善に反したものが何か許容されて良いか、否かを天使たちに発見させる精妙な認識を記すことは不可能である。かれらは入って来るものの性質を認め、そしてそれが入って来ると、それについてはほとんど何事も知っていない人間自身よりは一千倍も完全にその性質を認めるのである。人間の中の考えの最小なものでさえも天使たちにより、その最大なものが人間自身により認められるよりも更に完全に認められている。これは実に信じ難いことであるが、それでも極めて真実である。
天界の秘義301
思考のなんらかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては更に遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。
天界の秘義671
再生していない人間は真理の理解を、または善の意志を持っておらず、たんにそのようなものであるように思われて、普通の言葉でそのようなものであると言われているものを持っているに過ぎないのである。しかし再生していない人間は理性と知識のいくたの真理を受けることはできるが、しかしその真理は生きてはいないのである。かれはまた異邦人の中に、また獣の中にすら存在しているような、一種の意志のいくたの善を持つことができるが、それらもまた生きてはいないのであって、それらは単に類似物に過ぎないのである。人間の中のこのような幾多の善はその者が再生し、かくてその幾多の善が主により生かされない中は生きてはいないのである。他生では生きているものと生きていないものとは極めて明白に認めらていれる。生きていない真理は物質的な、繊維のような、閉じこめられた物として、生きていない善は木のような、骨のような、石のような物として直ぐに認められている。しかし主により生かされている真理と善とは開いており、生命に満ち、霊的な天的なものに満ち、実に主からさえも開かれて明らかになっており、しかもこれは凡ゆる観念の中にも、凡ゆる行為の中にも、実にその何れもの最小のものの中にさえも行われている。
天界の秘義803
人間はこの凡てが信念の中に在ることを知らないで、誤ったものの原理は、または信念は単に一つの事柄にすぎない、または一つの全般的なものにすぎないと信じているが、しかしかれは非常に誤っている、なぜなら事実は非常に異なっているからである。人間の只一つの情愛もことごとくその者の理解の事柄から、また同時にその意志の事柄からもその存在と性質を得ており、かくてその人間全体が、理解の凡ゆる物のみでなく、意志の凡ゆる物が、その情愛の各々の中に存在しており、その情愛の最も単一的なものの中にさえ、またはその最も小さいものの中にさえ存在しているのである。
天界の秘義803[2]
このことは多くの経験からわたしに明らかにされたのである。例えば(只一つの例をあげてみると)霊の性質は他生ではその思考の只一つの観念[考え]によっても知られることができるのである。実に天使たちはたれかを眺めるのみで、その性格のいかようなものであるかを直ぐに知る力を主から得ており、いかような誤りも亦ないのである。それ故人間の只一つの観念でさえも、只一つの情愛でさえもことごとく、その情愛の最小のものでさえもことごとく彼を映している像であり、また彼に似た形である、すなわち、その中には彼の凡ての理解と彼の凡ての意志から発した何かが近くまた遠く現存していることが明白である。それでそのように洪水以前の人々の恐るべき信念が記されているのである、すなわち、彼らの中には誤ったものを求めるいくたの情愛と悪いものを求める情愛が在り、または欲念が在り、また快楽が在り、最後に形体的な地的なものが在ったのである。こうした凡てのものがこのような信念の中に存在しており、単に全般的にその信念の中に在るのみでなく、その信念の中でも最も単一的なものの中にも、またはその最小のものの中にさえも在って、そのものを形体的な地的な物が支配しているのである。もし人が誤ったものの一つの原理と一つの信念の中にさえいかに多くのものが存在しているかを仮にも知ったとするなら、彼は戦慄するであろう。それは一種の地獄の映像である。しかしそれが無垢または無知から発しているなら、その中に在る諸々の誤謬も容易に払いのけられるのである。
天界の秘義821
しかし彼らは点検されている間にその性質は彼らの気付かぬ中に、その只一つの言葉からも、その思考の只一つの観念[考え]からも徹底的に充分に認められるのである。
天界の秘義917
それで人間各々においては、その人間が全般的にあるがままに、その人間の観念[考え]の最も微細なものにおいてもあるのである。これらのもの[その人間の情愛と観念との最も微細なもの]からかれは構成されており、またはこれらのものからかれは全般的にあるがままのものとなっており、それで再生した者たちはその最小のものの中においてさえも全般的にあるがままのものとなるのである。
天界の秘義1008[3]
更に、黒いものが僅かでも水の中へ落ちると、その水全体が黒くなってしまう時のように、一つの物の観念が他の物の観念の中へ流れ入って、それを変色するのである。このようにその霊はその者の観念[考え]から知られていおり、驚嘆すべきことには、その観念の各々の中にその者自身の像が、またはその者自身に似た形のものが存在しており、それが目に示されると見るも恐ろしい醜悪なものとなっているのである。
天界の秘義1040[2]
なぜなら全般的なものはことごとくそのもの自身の個別的なものから発生しているように、それを構成している凡ゆる細目から発生していて、それ以外の方法によっては全般的なものは一つとして存在するようになることはできないからである。なぜならそれは個別的なものから発生しているため全般的なものと呼ばれているからである。それゆえ人間の生命が全般的にあるがままに、それはその人間の努力と意図の―すなわちその人間の意志の―極微の原子においても、またその思考の極微の原子においてもそのようになっており、それゆえ一つの観念の極微のものでさえその中では生命は同一である。例えば傲慢な人間のもとでは、その者の意志のただ一つの努力の中にすらそのことごとくに、その者の思考のただ一つの観念にすらそのことごとくに傲慢が宿っており、貪欲な者も同様であり、それは丁度愚鈍な人間のもとではその者の意志の凡ゆる物に、その思考の凡ゆる物の中に愚鈍があり、狂った者には狂気が在るのと同じである。人間の性質はこうしたものであるからには、他生では人間の性質はその者の思考の只一つの観念[考え]からさえも知られている。
天界の秘義1079
「その父の裸かを見た」(創世記9・22)
これはかれがその過誤と歪曲とを観察したことを意味することは『裸か』の意義から明白であり(それについては直ぐ前の記事とまた前の213、214番を参照されたい)、それは悪い、歪められたものである。ここには、仁慈から分離した信仰の中にいる者らが『ハム』により、すなわち、かれがその父の裸かを見たことの中に、すなわち、かれの過誤と歪曲とを見たことの中に記されているのである。なぜならこうした性格の者は人間の中に他の何物をも見ないのであるが、それに反して―それと非常に相違して―仁慈の信仰の中にいる者たちは良いものを観察し、もし何か悪い誤ったものを見ても、それをゆるし、もしできることなら、ここにセムとヤペテについて言われているように、かれの中にそれを矯正しようと試みるのである。仁慈がないところには、そこに自己への愛が在り、それで自己にくみしない凡ての者に対する憎悪が存在している。従ってこうした人物は隣人の中に悪いもののみを見、何か良い物を見ても、それを無価値なものとして認めるか、またはそれを悪く解釈するのである。仁慈の中にいる者は全くその反対である。こうした相違により、この二種類の人間は、とくに他生に入ってくる時、互に他から区別されている。なぜならそのときなんら仁慈の中にいない者にあっては、憎悪の感情がその一つ一つのものから輝き出ており、かれらは凡ゆる者を点検し、かれらをさばこうとさえ欲し、また悪いことを見つけ出すことにまさって何ごとをも欲してもおらず、罪に定め、罰し、拷問にかけようとする気質をたえず抱いているのである。しかし仁慈の中にいる者たちは殆ど他の者の悪を見ないで、その凡ゆる善と真理とを観察し、悪い誤ったものを良いように解釈するのである。かくの如きが凡ゆる天使であって、それをかれらは主から得ているのである。なぜなら主は凡ゆる悪を善へたわめられるからである。
天界の秘義1080
「そして外にいる二人の兄弟に告げた」(創世記9・22)。
これはかれが嘲ったことを意味していることは今言ったことから当然の帰結として生まれてくる。なぜなら仁慈の中にいない者らのもとには、他の者に対する不断の軽蔑があり、または不断の嘲笑が在って、機会のある毎にかれらの過誤を公にするからである。かれらが公然と行動しないのはひとえに外なる拘束物に抑制されているためであり、すなわち、法律を恐れる恐怖、生命を、名誉を、利得を失いはしないかとの恐怖、またそうしたもののために世間の評判を悪くはしないかとの恐れに抑制されているためであって、このことがかれらはうわべでは友情をつくろってみせてはいるものの、内ではそうしたものを抱いている理由となっている。ここからかれらは二つのスフィアを得ているが、それらは他生では明白に認められている。すなわち一つは内的なもので、憎悪に満ちているが、他の一つは外的なもので、善いものを模倣している。これらのスフィアは元来全く調和しないものであるため、互に衝突しないわけにはいかないのであり、それで外的なスフィアがかれらからとり去られて、かれらがいつわることができなくなると、かれらは凡ゆる邪悪に突入するのであり、それが取り去られないときは、憎悪がかれらの語る一つ一つの言葉の中にひそんでいて、それが認められるのである。ここからかれらの刑罰と拷問とが起っている。
天界の秘義1316
こうした状態が人間を支配すると、それに似たものがかれの考える個々の思考のすべての中に存在し、その思考の最小の事項の中にさえも存在するのである、なぜならたれであれその人間を支配するものは何であれ、そのようなものになるからである。
[2]このことは身体の生命の中では他生における程には明白に現れない、なぜならそこではたれであれその人間を支配しているものはことごとく何かのスフィア[霊気]によってそれ自身を明らかに示しており、このスフィアはその者の周囲の凡ての者によって認められ、それがそうした性格を持っているのは、それがその人間の中にある個々の凡てのものから発散しているためである。凡ゆる事柄の中で自分自身を顧慮する者のスフィアはそのスフィアそのものに有利ならものをことごとくそれ自身に専有し、また、そこに言われているように、それをことごとく吸収してしまうためこうした人物は社会から追放されなくてはならないのである。
天界の秘義1388
前に言ったように、第二の種類の認識は凡ての者に共通しているものであり、天使には最も完全に、霊たちにはその特質に応じて共通しているものである。それは他の者が先ず近づいてくると、たとえその者が話さないにしても、その者の性質を知ることにあるのである。その者はその者自身を或る驚嘆すべき流入によって直ちに明らかにするのである。善良な霊については、その霊は如何ような善良さを持っているかが知られるのみでなく、また如何ような信仰を持っているかも知られ、その霊が語る時は、そのことはその霊の言葉の各々から知られるのである。悪い霊についてもその者は如何ような悪を持っているか、また如何ような不信仰を持っているかが知られ、その者が語ると、それは言葉の各々から知られ、しかも誤りが全然ありえない程にも明白に知られるのである。これに似たことが人間のもとにも現れている、なぜなら人間も同様に他人の身振り、目つき、または言葉から、その者の考えていることを、たとえそれが彼の言っていることとは相反していても、時には知ることが出来るからであり、こうした認識は人間には生来具わっていて、その起原と性格とを霊たちの性質から得ており、引いてはその人間自身の霊からまたその霊が霊たちの世界と交流していることから得ているのである。こうした交流から伝達される認識は主は凡ゆる善が伝達されることができて、凡ての者が相互愛により動かされ、かくして幸福になるようにと望まれているという事実にその起原を得ているのである。そこからこのような認識はまた遍く霊たちを支配しているのである。
天界の秘義6617
一つの観念の中にも無数の物が在ることはまた以下の事実から私に明白にされたのである、即ち、天使たちは霊と人間の生命を、単にその霊または人間が語るのを聞くのみで、またはその思考を覗き込むのみで一瞬にして認め、低い天界の天使でさえそれを認めることが出来、まして高い天界の天使は更にそれを認めることが出来るのである。
天界の秘義6623
思考の幾多の観念の中には無数のものが存在しているため、天使たちはその霊、またはその人間の性質のいかようなものであるかを思考から発する唯一つの言葉のみからでも知ることが出来るのである。
天界と地獄269
内的な天使たちはまた話している者の生命全体を、[その話す者の]音声[語調]と若干の語のみから知ることができる、なぜなら彼らはその音声からーそれは色々な観念のため語の点では変化してはいるがーその者を支配している愛を認め、その愛にはその者の生命の一切の物がいわば刻み込まれているからである。これらの事から天使たちの知恵のいかようなものであるかが明らかである。
真の基督教593
何故なら全般的なもののみでなく、各個別的なものの中に、内的なものは霊魂のように外的なものの中に、存在し、従ってその内的なものは、人間には感ぜられないが、外なる人の語る一語一語の中に在るからである。これが天使たちは人間の意志の性質を単なる一つの行動によって認め、またその人間の思考の性質を単なる一つの言葉によって認めることの出来る理由である。かくして、彼らは語調によってその思考の諸情を認め、一つの動作によってその意志の愛を認め、人間全体を直ちに知るのである。彼らは決して似非基督教或は似非道徳性に欺かれはしない。
真の基督教595
生物でも或は無生物でも凡て創造された物の中には、内的なものと外的なものがある。結果は原因なくしては存在し得ぬ様に、外的なものは内的なものなくしては決して存在する事は出来ない。凡て創造されたものはその内的の善のために尊重され、その内的の卑賤の故にたとえそれが外的な善によって隠されているにもせよ軽蔑される。地上の凡ゆる天使凡ゆる賢人と天界はこの規則に応じて判断する。再生しない者と再生した者との性質は比較により説明し得よう。道徳的な公民であり、善良な基督教徒であるように見せかけている再生しない人間は、香入りの覆いをかけられているにも拘らず忌まわしい有害な臭いを発散させる死体に或は鍍金を被せられたまたは銀の棺の中に置かれた木乃伊の醜悪な真黒な屍に、あるいは紫の衣と細布を着てはいるが、その内なる心は地獄的であった富める人間に(ルカ16)あるいは毒入りの糖菓に、あるいは花を開いた毒人参に、あるいは皮膚と膏薬に蔽われた忌まわしい潰瘍に譬え得よう。この世では外面的に体裁の良いものが内面的な善として誤られ勝ちであるが、それは自分自身が悪い内的なものを持っていて、外観で物を判断する者たちによってのみ誤られるのである。しかし天界にはその変化しやすい、有徳を装うことも出来る外的なものが取り除けられた後、内的なものはその人間の霊として視覚に露呈され、かくてそれは遠方では脱皮した蛇のように、あるいは外面的には健全な樹皮を剥がれた腐れ材木のように見えるのである。
真の基督教778
人間各自は自らの愛と自らの理知であり、彼から発するものは凡てその性格をその会話から極めて速やかに知るのである。すなわち彼の声の調子は彼の愛を示し、彼の言葉は彼の理知を示している。人間の生命には二つの普遍的なもの、すなわち意志と理解がある。意志は彼の愛の受容器官、住居であり、理解は彼の理知の受容器官、住居である。それ故人間から発する行動と言葉はその人間自身を構成する。
天界の秘義1850[5]
なぜなら人間は全般的にあるがままに、その者の思考と情愛の単一のものみおいてもあるからである[人間の全般的な状態にその者の思考と情愛との単一なものの状態も相応しているからである]、これらが最後の審判により意味されている事柄である。
天界の秘義2209[2]
合理的なものは、以下のことを、もしその合理的なものに諮るなら、信じることができようか、すなわち聖言には内意があり、この内意はすでに示したように文字の意義からは極めて遠ざかっており、それで聖言は天界を地に連結するものであり、すなわち、諸天界の主の王国を地上の主の王国に連結するものである(ということを信じることができようか)。霊魂は死後言葉を話さなくても極めて明確に互に他と話しており、しかもそれが人間が一時間も語って表現するものよりもさらに多くのものを一分以内で表現するほどにも豊かなものであり、また天使たちも同じように話し合ってはいるが、しかしそれにはさらに完全な言葉が、霊たちによっては認められない言葉が用いられていることを合理的なものは信じることができようか、また霊魂はことごとく他生に入ってくると、そのように話すことを何ら教えられはしないものの、そのように話す方法を知っているということを信じることができようか。人間の一つの情愛の中にさえも、いなその一つの溜息の中にさえも、決して表現することもできないような、それでも天使たちによっては認識されている無数のものが存在しており、人間の情愛はことごとく、いな、その思考の観念はことごとくその人間の映像となっていて、それはその中にその人間の生涯のあらゆるものが驚嘆すべき方法で含まれているものとなっていることを合理的なものは信じることができようか。巨億の数にのぼるこうしたものは言わずもがなとしよう。
天界と地獄236
このことから、天使たちは他の者の性質を、それがいかようなものであるかを、単にその言葉から知るのである、即ち、その者の情愛のいかようなものであるかは、その語調から知り、その者の心のいかようなものであるかは、発音された音、または語から知るのである。賢明な天使たちは、その者を支配している情愛のいかようなものであるかを、ただ一連の言葉からでも知っている、なぜなら彼らは主としてそれに注意を払っているから。各人は種々の情愛を持っていることは知られている、即ち喜んでいる時とか、悲しんでいる時とか、寛大と慈悲を抱いている時とか、誠実と真実である時とか、愛と仁慈にいる時とか、熱意または怒りを持つ時とか、偽り、欺く時とか、名誉を求める時とか、そういった時の情愛は、それぞれ異なってはいるものの、しかしその者を支配している情愛または愛はそうした情愛凡ての中に存在しており、それで賢明な天使たちは、そのことを認めているため、その言葉から人間の状態の凡てを知るのである。それがそうであることは、私は多くの経験から知ることが出来たのである。私は天使たちが他の者の生命をただその者の言葉を聞くのみで明らかにするのを聞いた。彼らはまた言った、私たちは他の者の思考の僅かな観念からでも、その者の生命の凡ゆる物を知るのである、なぜならその観念から私たちは、その者を支配し、凡ゆる物を秩序正しく含んでいる愛を知るからであり、人間の生命の書とはそれ以外のものではない、と。
霊界日記2046〜2048
2.人間の性格は只一つの行為からでも認められる
神の愛と知恵279
人間の性格は只一つの行為からでも認められるが、しかしその人間の愛が幾多の情愛に決定づけられ、そこから幾多の思考にに決定づけられるに従って変化しているところの、その愛に似たものの中に、認められると、天使たてゃ明言している。
3.一つの戒めに背くなら他の戒めに背くことも恐れない
霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P106
人間が一つの戒めを犯して、それは罪ではないと自分に納得させ、かくて神を恐れないで戒めに背く時は、彼はそのようにして神を恐れる思いを斥けてしまったため、彼は他の戒めを犯すことを、例えそのことを実際に行わないにしても、恐れはしないのである。(中略)なぜなら彼は何か一つの戒めにおいて神を恐れる思いをその心から斥ける時は、彼は何かが罪であることを斥けるのであり、従って彼は、彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わるからである。(黙示録講解1028番)。
4.その語調からその者の愛の凡ての物を認め、その言葉からはその者の理知の凡ての物を認める
神の愛と知恵280
天使は人間の愛をその話す語調から、その知恵を語音から、その知識をその語の意味から認めている。
神の愛と知恵427[22]
これらの者は第三の天界にいて、凡ての者の中最も賢明な者である。世でその聞いた神的真理を、悪を地獄のものとしてそこから離れ、主のみを拝することによって、生活に直接に応用した者はこうした者になっている。これらの者は無邪気であるから、他の者には幼児として現れる、彼らは知恵の諸真理については決して語らず、その言葉には些かも誇りはない故、また単純にも見える。にも拘らず彼らは誰かが話しているのを聞くと、その語調からその者の愛の凡ての物を認め、その言葉からはその者の理知の凡ての物を認める。これらの者は主から愛と知恵との結婚におり、前に述べた天界の心臓の領域を表象する者たちである。