彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け
マタイ28・19
マタイ28・18−20
イエスは近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
霊界日記4340
主はその弟子たちに父、子、聖霊の名において洗礼をほどこすように命じられたが(マタイ28・19)、このタイトル[敬称、称号]は、その内意では、善いもの、真のもの、そこから生まれてくる善と真理との凡てのもの以外には何ごとも意味していないのである。父は善いもの、子は真のもの、聖霊はそこから発出している善いものと真のものである。この凡てのものは主のみの中にあるのである。
天界の秘義9818[28]
イエスは弟子達に言われた。行って、父と子と聖霊との名においてバプテスマを授けなさい(マタイ28・19)。
ここの「父」は神的なものそれ自体を意味し、「子」は人間の形をとった神的なものそれ自体を意味し「聖霊」は発出している神的なものを意味している。一つの神的なものが在るが、しかも一つの三一性が在るのである。主が人間の形をとった神的なものそれ自体であられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている―
これから後あなたらは父を知り、また父を見ています。わたしを見る者は父を見ます。わたしは父の中に、父はわたしの中におられます(14・7,9,10)。
天界の秘義6993
「あなたが言わねばならないことをあなたに教えること」(出エジプト4・12)の意義は発出することである。なぜなら「教えること」により、また「話すこと」により流れ入ることが意味され、それが主の神的なものについて言われているときは、それは発出することを意味するからである。なぜなら主の神的な人間的なものそれ自身からは、「聖霊」と呼ばれている神的真理が発出するからであり、主は世におられたときは御自身が神的な真理[神の真理]であられたため、御自ら愛と信仰にぞくした事柄を教えられたが、そのときは御自らヨハネ伝で教えられているように、聖霊により教えられはしなかったのである。
「イエスは未だ栄光を受けられなかったため[栄化されたまわなかったため]、聖霊は未だ存在しなかった」(ヨハネ7・39)。
しかし、主はその人間的なものの方面においてすらエホバに、すなわち、神的善となされたもうた後は―それは復活後に起こったのであるが―そのときは主はもはや神的真理[神の真理]ではなく、その神的真理は主の神的善[神の善]から発したのである。
「聖霊」は主の神的な人間的なものから発出している神的真理であって、永遠から存在する霊または霊たちではないことは、前に引用した記事における主の御言葉から、すなわち「聖霊は未だ存在しなかった」ことから極めて明白であり、また霊はその霊自身が発出することはできず、その霊の聖いものが、すなわち、主からは発出している聖いものが発出することができるのであって、それを霊が発言するという事実からも明白である(前の6788番をまた参照)。
天界の秘義6993
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それで、この凡てから、全三一性は、すなわち、父、子、聖霊は主の中に完全なものとなっており、かくてただ一人の神が存在されていて、人格の点では区別はあるものの、一つの神的なものを構成していると言われている三人の神が存在するのではないことが生まれているのである。聖言の中に「父、子、聖霊」と言われているのは、人間が主を承認して、主の中に神的なものを承認するためであったのである。なぜなら、(当時)人間は、現今の人間もまたそうではあるが、もしそのように言われなかったなら、主の人間的なものの中に神的なものを全く承認しなかったほどにも暗闇に置かれていたからである。なぜなら、そうしたことは、人間には全く把握出来なかったため、全然信じられはしなかったからである。そしてさらに三一のものが在るが、しかしそれは一人の中に、すなわち、主の中に在るということが真理であり、その三一のものは主の中に完全に宿っていることもまた基督教会に承認されているのである。さらに主は御自身が父と一つのものであって(ヨハネ14・9−12)、聖霊の話す聖いものは、その聖霊のものではなくて、主のものであることをヨハネ伝に明らかに教えられたのである―
「慰める者、(すなわち)真理の霊はその者自身から話さないで、何であれその霊が聞くことをことごとく話すであろう。かれはわたしを栄化するであろう、なぜならかれはわたしのものを受けて、あなたらに告げるからである。」(ヨハネ16・13,14)
「慰める者」は聖霊であることはヨハネ伝14・26に言われている。
アグレダのマリア/神の都市/P256
同じ日、主は十一人の使徒たちと共に食卓の周りにおられ、他の弟子たちや信心深い婦人たちも高間に集まり、総勢百二十名となりました。神なる主は、これらの人々が御昇天に居合わせるようにと望まれたのです。最後の晩餐が行われた同じ高間で、主は愛すべき父として皆にお話しになります、「私の最も可愛い子供たちよ、私は御父に許へ帰ろうとしています。私の代わりとして御母を残します。御母は、あなた方の守護者、慰める人、弁護人であり、あなた方の御母です。御母の言うことを聞きなさい。私を見る者は御父を見、私を知る者は御父を知ると私が言ったように、私の御母を知る者は私を知り、御母に耳を傾ける者は私の言うことを聞き、御母を讃える者は私を讃えると、私はあなた方にはっきり言っておきます。あなた方皆にとり、御母は上司であり、頭であります。あなた方の子孫にとっても同じです。御母はあなた方の疑いに答え、困難な問題を解決して下さいます。私を探す者は御母の中に私を見出します。私は世の終わりまで御母の中に居続けます。今でも御母の中にいます。どのようにしてそうできるのか、あなた方には判りません。」 「私は世の終わりまであなた方と一緒にいる」(マテオ28・20)という御言葉を確認されたのです。主は続けられます、「聖ぺトロは教会の最高指導者、教皇になります。あなた方は主司祭長の聖ぺトロに従いなさい。聖ヨハネが私の御母の息子となることは、私が十字架の上で任命した通りです。」 主は、御母が神の御母の威厳にふさわしい崇敬を受けることを望み、それを教会法の中に残したかったのですが、最も謙遜な御母は、これまで受けた以上の名誉を望まれず、教会が主だけを崇拝し、主の御名のため福音を宣教するようにお望みになりました。主は御母に譲歩しました。