わたしは父のもとから出て、世に来たが、
今、世を去って、父のもとに行く
ヨハネ16・28
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ヴァルトルタ・・・・自分を産み
1.聖書
ヨハネ16・28
わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義3736
「わたしは安らかに[平安の仲に]父の家に帰る」(創世記28・21)。これは完全な結合にさえも、を意味していることは以下の事実から明白である。即ち、『わたしの父の家』は、それが主について述べられている時は、主がその身篭られ給うたその時そのものからその中におられたところの神的なものそれ自身であり、『その家へ帰る』ことは『父』と呼ばれている神的善そのものへ帰ることである。この善が父であることは前に見ることが出来(3704番)、『その家へ帰る』ことは結合することであることは明白である。そのことは主がわたしは父から出て来て、世に来たのであり、再びわたしは父に行かなくてはならないと言われた時主により意味されたところである。即ち、『父から出て来ること』により神的なものそれ自身が人間的なものを取り給うたことが意味され、『世に来ること』により主は人間として存在されたことが意味され、主が『再び父に行くこと』により主はその人間的な本質[人間の本質]を神的な本質[神の本質]に結合されるであろうということが意味されているのである。同じことがまたヨハネ伝の主の以下の御言葉により意味されたのである―
もしあなたたちが人の子がその前にいたところに昇るのを仮にも見るなら(6・62)
更に―
イエスは父が凡ての物をかれの手に与えられたことを、またかれが神から出て来て、神に行くことを知られ、彼らに言われた、子供たちよ、尚しばらくの間わたしはあなたたちと共にいます、わたしが行く所にはあなたたちは来ることは出来ません(133,33)。
更に―
今わたしはわたしを遣わされた方のもとへ行きます、あなたたちの中で一人としてわたしに、あなたは何処へ行かれますかと尋ねはしません。わたしが去るのはあなたたちの益であります。なぜならもしわたしが去らないなら、慰め主はあなたたちのもとへは来ないからです。しかしわたしが行くなら、わたしはかれをあなたたちのもとへ遣わしましょう。しばらくすると、あなたたちはわたしを見ないでしょう、またしばらくするとあなたたちはわたしを見るでしょう、わたしが父のもとへ行くからです(16・5,7,16,17)。
更に―
わたしは父から出て来て、世に来ました、再びわたしは世を去って、父へ行きます(16・28)。
これらの記事の中で『父に行く』ことは人間的本質を神的本質に結合させることである。
天界の秘義5337
「ヨセフはパロの前から出て行った」。これは、自然的なものが全般的に霊的なものの天的なものに属した時、を意味していることは、以下から明白である、即ち、『出て行くこと』の意義はそれに属することであり(そのことについては下記を参照)、ヨセフの表象は霊的なものの天的なものであり、パロの表象は自然的なものである(そのことについては前を参照)。『出ること』はそれに属することであり、またはそのもの自身のものとなることであることは前後の記事から、またこの表現の霊的な意義からも明らかである、なぜなら『出る』または『進む』は、その霊的な意義では自己を他の者の前にその者に適応した形で示すことであり、かくて自己を同じものとして、しかし異なった形をもって示すことであるからである。この意味で『出ること[出て行くこと]』が主についてヨハネ伝に言われているのである―
イエスは御自身について言われた、わたしは神から出ており、神から来ている(ヨハネ8・42)。
あなたらはわたしを愛し、わたしが神から出て来たことを信じているため、父はあなたらを愛される。わたしは神から出て来て、世に来たのである、再び、わたしは世を去って、父のもとに行く。かれの弟子たちは言った、私たちはあなたが神から出て来られたことを信じます(ヨハネ16・27−30)。
彼らはわたしが神から出て来たことを真に知りました(ヨハネ17・8)。
天界の秘義5337[2]
『出ること[出てくる]』ことまたは発出することにより意味されていることを説明するため、以下の例を考えてみよう。真理が善の形である時、または真理が理解が把握することの出来る形を取った善である時、真理は善から『出て来る』、または発出すると言われるのである。理解もまた、それが形を取った意志である時、またはそれが内なる視覚により認められることが出来る形をとった意志である時、意志から『出て来る』または発出すると言われるのである。同様に理解の思考についても、それが言葉となる時、それは『出て来る』または発出すると言われ、意志についても、それが行為となる時、それは『出て来る』と言われるのである。思考は、それが言葉となる時は、それ自身に他の一つの形を着せるのであるが、依然そのように出て来るものは、または発出するものは思考である、なぜならそれに着せられる言葉と語調とはその思考を適切に認識させる附加物に過ぎないからである。同様に意志も、それが行為となる時は、他の形を取ったものとなるが、しかし依然そうした形をもって示されているものは意志であり、着けられている動作と運動とは意志を明らかにさせて、見る者を適切に感動させる附加物に過ぎないのである。同じく外なる人についてもまた、それは内なる人から『出て来る』または発出すると言うことが出来るのであり、否、それは実質的にそこから『出て来る』のであり、発出すると言うことが出来よう、なぜなら外なる人は、内なる人がそれがその中に存在している世界で適当に活動することが出来るようにと形作られているもの以外の何ものでもないからである。この凡てから『出て行く』または発出することはその霊的な意義においていかようなものであるかが明白である、即ち、それは、主について述べられている時は、人間として形作られ、そのことにより、信じる者たちから認識されるに適応したものとなった神的なものであり、にも拘らず、その両方のものは一つのものであることが明白である。
3.マリア・ヴァルトルタ・・・・自分を産み
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P199
感嘆すべき神の神秘! 利己的愛ではなく、能動的で、極めて強力で、むしろ無限の愛で自分を愛する計り知れない御者は、このたった一つの完全無欠の行動によって、位格の区別においての他は彼、父とすべてが同等であるその御言葉を産む。なぜならもし神が一にして三、すなわち感嘆すべき唯一の存在であるならば、学識の浅い人びとには三つの面からこのようにわかりやすく説明できよう。三つの各々の面は、はっきり区別される信仰の真理であり、すなわち神学的に唯一の神であり、神性、永遠性、計り知れなさ、全能により、すべてにおいて同等である三位格だ。三位格の間には混同は無く、また一位格は他の位格ではなく、だからといって三神ではなく、唯一の神は自分ひとりで子を産み、したがって自分を産み、聖霊の発出の原因となることによって、神的位格の各々に存在を与えるのだ。