外なる人

わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く(ヨハネ16・28)

 

 

天界の秘義159

 

 しかし天的な人の状態が理解されない限りこれらの物の実情のいかようなものであるかを認めることは容易ではない。天的な人の中では内なる人は外なる人から区別され、実に明らかに区別されているため、天的な人は内なる人に属した物と外なる人に属した物とを認めており、また外なる人は主により内なる人を通して如何ように支配されているかも認めている。しかしこの天的な人の子孫の状態は、外なる人に属した彼ら自身のものを欲した結果、変化し、彼らは最早内なる人は外なる人から区別されることを認めなくなり、内なる人は外なる人と一つであると想像したのである。なぜならこのような認識が人間がその自分自身のものに傾く時起るからである。

 

天界の秘義160

 

24節。『それで男はその父母を離れ、その妻に密着し、かれらは一つの肉とならなくてはならない。』『父と母とを離れる』ことは内なる人から後退することである。なぜなら外なる人を妊み、これを生む者は内なる人であるからである。『妻に密着する』ことは内なる人が外なる人の中に在ることであり、『一つの肉となる』ことは内なる人と外なる人がそこに共に存在することである―それは前には、内なる人は霊であり、そして内なる人から、外なる人も霊であったが、今はその二つとも肉となったためである。かくて天的な霊的な生命と自分自身のものとは一つのもののようなものになるために、天的な霊的な生命は自分自身のものに接合されたのである。

 

 

天界の秘義161

 

 最古代教会のこの子孫は悪ではなく、依然善であった。かれらは外なる人の中に、またはかれら自身のものの中に生きることを望んだため、そのことが主によりかれらに許されたが、しかし霊的な天的なものが慈悲深くもその中に秘かに注ぎこまれたのである。内なる人と外なる人とはいかようにして一つのものとして働くか、またはその二つのものはいかようにして一つのものとして現れるかは、前のものが後のものに流入していることが知られない限り知られることは出来ない。そのことを少しく理解するために、例えば行動を考えてみられよ。行動の中に仁慈すなわち愛と信仰とが存在しないかぎり、また愛と信仰との中に主がおられないかぎり、その行動は仁慈の業または信仰の実と呼ばれることはできないのである。

 

 

天界の秘義162

 

 真理と義の法則は凡て天的な初めのものから、または天的な人の生命の秩序から流れ出ている。なぜなら主のみが天的な人であられて、天的な人であられるため、かれらはそこから天的なものと呼ばれているからである。真理と義の法則は凡て天的な初めのもの、または天的な人の生命の秩序から下降しているように、結婚の法則も特別な方法で下降している。地上の凡ゆる結婚は天的な(または天界的な)結婚からまたその結婚に従って派生しなくてはならないのであり、この天的な結婚とは一人の主と一つの天界が、または主を頭とした一つの教会が存在しているといった結婚である。そこから派生している結婚の法則は一人の夫と一人の妻とが存在しなければならぬということであり、そのことが行われる時それは天界の結婚を表象し、天的な人の映像となるのである。

 

この法則は最古代教会の人々に啓示されたのみでなく、かれらの内なる人にも印刻され、それ故当時一人の夫は一人の妻を持って、二人は一つの家庭を作ったのである。しかしその子孫が内なる人でなくなり、外なる人になった時、二人以上の妻と結婚したのである。最古代教会の人々はその結婚により天的な結婚をも表象したため、結婚愛はかれらには一種の天界と天界的な幸福であったが、しかし教会が衰えたとき、彼らはもはや結婚愛の中に幸福を何ら認めないで、外なる人の快楽であるところの、多数の者から来る快楽の中に幸福を認めたのである。このことが主により『心のかたくななこと』と呼ばれ、それで彼らは主御自身教えられるように、モーセにより二人以上の妻と結婚することを許されたのである。

 

 おまえたちの心がかたくなであるため、モーセはおまえたちにこの戒めを書いたのである。しかし創造の始めから神はかれらを男と女とに作られたのである。それで男はその父と母を離れ、その妻に密着して、かれらは一つの肉とならなくてはならない。それでもはや二人ではなく、一つの肉である。それで神が共に結合されたものを人は離してはならない(マルコ10・5−9)。

 

 

天界の秘義268

 

 『土地』が外なる人を意味することは前に『地』『土地』『畠』について述べたことから明白である。人間は再生するともはや地[大地]と呼ばれないで『土地』と呼ばれるのは、天的な種子がかれの中に植えつけられているためであり、かれはまた聖言のいろいろな部分に『土地』にたとえられ、また『土地』と呼ばれている。

 

善と真理の種は外なる人の中に、すなわち、かれの情愛と記憶の中に植えつけられるが、内なる人の中には植えつけられはしないのは、内なる人の中には人間自身のものは何一つなく、それは外なる人の中にのみ在るためである。内なる人の中には諸々の善と諸々の真理が在り、そしてこうしたものが最早そこに現存していないように見える時、その人間は外なるもの、または形体的なものとなるが、しかしそれらは主により内なる人の中に貯えられるのである。

 

しかし人間はそのことを知っていない、なぜならそれらは[その内なる人の中に主により貯えられた諸善と諸真理とは]普通試練、不幸、病気、死ぬ時のように、外なる人がいわば死んだようになるとき以外には現れてこないからである。合理的なものもまた外なる人に属しており(118番)、それ自身では内なる人と外なる人との一種の媒介物である、なぜなら内なる人は合理的なものを通して形体的な外なるものに働きかけるからである。しかし合理的なものが同意すると、それは外なる人を内なる人から分離し、かくて内なる人の存在はもはや知られなくなり、従って内なる人に属した理知と知恵もはや知られなくなるのである。

 

 

天界の秘義270

 

 『大いに悲しんで土地から食べる』ことは悲惨な生命の状態を意味することはその前後から明らかであって、『食べる』ことは内意では生きることであることは言うまでもないであろう。そのことはまたこうした生命の状態は悪霊が戦い始め、(人間に)つきそっている天使たちが労苦し始めるとき、続発してくるという事実からもまた明白である。こうした生命の状態は悪霊が主権を獲得し始めるときさらに悲惨なものとなる、なぜならそのとき彼らは外なる人を支配して、天使たちは単に内なる人を支配するに過ぎないのであり、その内なる人の中には僅かなものしか残されておらず、天使たちはその人を守るのに用いるものを殆どそこから得ることはできず、そこから悲惨と不安とが生まれてくるからである。

 

死んだ人間はこうした悲惨と不安とを殆ど感じないのは、かれらは自分自身を他の者にも勝って更に真に人間であると考えてはいるものの、もはや人間ではないためである。なぜならかれらは霊的な天的なものを、永遠の生命であるものを獣と全く同じように知ってはおらず、獣のように地的なものを見下ろし、または外なる世のものを見、ただ自分自身のもののみを好んで、合理的なものの完全な同意を得て自分の性向と感覚とに惑溺するからである。かれらは死んだものであるため、何ら霊的な争闘を、または試練を受けはしないのであり、それにさらされると、生命はその重圧の下に沈み、かくてかれらは自らを更に呪い、更に深く奈落の堕地獄に突き落とすのである。

 

それでかれらは他生に入るまではこのことを免じられ、他生に入ると、もはや試練または悲惨の結果死ぬ惧れがないため、最も痛ましい苦悩に苛まれるのである、この苦悩も同じくここに土地が呪われることにより、そこから大いに悲しみながら食べることにより意味されて

いる。

 

 

天界の秘義272

 

 18節「それは茨と薊とをおまえのために生み出すであろう、またおまえは畠の草を食べなくてはならない」によりかれは野生の動物のごとく生きなくてはならないことが意味されている。人間はその内なる人がその外なる人から分離し、極めて全般的な方法によってのみしかその上に働きかけない時は、野生の動物のように生きるのである、なぜなら人間はその内なる人を通して主から受けるものから人間となり、外なる人から取得するものからは野生の動物となるからである―外なる人は内なる人から分離すると、それ自身では野生の動物以外の何ものでもなくなり、その動物に類似した性質、欲望、食欲、幻想、知覚を持ち、またそれに類似した有機的な形ももつのである。それにも拘らずかれは推理することができ、しかもかれ自身が考えているところでは、鋭く推理することができるのは、霊的な原質によっているのであって、その霊的原質によりかれは主から生命の流入を受けているが、しかしながらその流入はこうした人間の中には歪められて、死んだ悪の生命となるのである。かくてかれは死んだ者と呼ばれている。

 

 

天界の秘義913

 

「それらが地にひろがり。」

これは外なる人に内なる人が働きかけることを意味し、『子を生むこと』は善が増大することを、『ふえること』は真理が増大することを、『地に』は、外なる人の中に、を意味することは事柄の関連から明白であり、また『果をむすぶこと』について言われもし、示されたことから明白であり―それは聖言では善について述べられている―また『ふえること』の意義について言われもし、示されたことからも明白である―『ふえること』は真理について述べられている。『地』は外なる人を意味することも同様に前に示しておいたため、わたしたちはこれらの意義を確認するためにそれらをさらに長く詳述する必要はない。ここでは人間が再生した後で内なる人が外なる人に働きかけることが主題となっていて、外なる人が相応するように、または服従するようになったとき善が始めて果を結び、真理が増大することが示されているのである。このことは(人間が再生する)以前には決してありえないのは形体的なものは善いものに対立し、感覚的なものは真のものに対立し、前のものは善の愛を、後のものは真理の愛を消滅させるためである。善が実を結び、真理が増大することは外なる人の中に起ることであり、すなわち善が実を結ぶのはかれの情愛の中に、真理が増大するのはかれの記憶の中に起るのである。外なる人はここでは『地』と呼ばれており、その上一面にそれらはひろがり、またその上に実を結んで、増大するのである。

 

 

天界の秘義984

 

 『地に再び満ちる』ことは外なる人の中に、を意味していることは『地』の意義が外なる人であることから明白であって、その意義についてはすでにいくども示しておいた。再生した人間の仁慈の諸善と信仰の諸真理とについてはそれらは良心の中に植えつけられるのであり、そしてそれらは信仰により、または聖言を聞くことにより植えつけられるため、それらは外なる人に属した記憶の中に最初存在していると言ってよいであろう。その人間が再生して、内なる人が活動する時、それと同じことが実を結ぶこととふえますことについても起り、すなわち、仁慈の諸善は外なる人の諸情愛の中にそれ自身を現わし、信仰の諸真理はその外なる人の記憶の中にそれ自身を現わし、その何れの場合も増大し、ふえますのである。このふえますことの性質は再生した人物の各々に知られることができよう、なぜなら確認させる事柄が絶えず聖言から、合理的な人から、知識から生まれて、そのことによりかれは益々確認することができるのであって、これは仁慈の結果であり、主のみが仁慈を通してその業を行われるからである。

 

 

天界の秘義1488

 

外なる人にもっぱらぞくしている記憶知のすべて

 

 

天界の秘義1563

 

外なる人は第一次的に内なる人から、すなわち、霊または霊魂からその生命を受けている。

 

 

[]これらのことから霊的な真理に一致することができない知識が外なる人にひそかに入り込み、天的な善に一致することができない快楽と歓喜とが外なる人にひそかに入り込むということが必然的に起きるにちがいないことを認めることができよう、たとえば形体的な、世的な、地的なものを目的として認めているもののすべての場合がそれであって、そうしたものが目的として認められると、それらは外なる人を外の方へまた下の方へ引いて、それを内なる人から遠ざけるのである。それでそうしたものが先ず消散しない限り内なる人は外なる人に到底一致することはできないのであり、それで内なる人が外なる人に一致することができる前にこうしたものは先ず除かれなくてはならないのである。主にあってはこれらのものが除かれまたは引きはなされたことがアブラムからロトが分離したことにより表象され、意味されているのである。

 

 

天界の秘義1568

 

「その地はかれらがともに住むようにかれらをになう[のせる]ことができなかった」。これは内なる天的なものはその他のものとともに、すなわち、『ロト』によりここに意味されているものとともにいることができなかったことを意味している。アブラムは、前に言ったように、主を表象し、ここでは主の内なる人を表象しているが、しかしロトは主の外なる人を表象しており、ここではその外なる人から分離されねばならなかったものを表象しており、そのものとは内なるものはともに住むことはできなかったのである。外なる人の中には、善を求める情愛とそこから発してくる歓喜と快楽のような、内なる人がそれとともに住むことができる多くのものが存在している、なぜならこれらは内なる人のいくたの善の結果であり、また内なる人の喜びと幸福との結果であって、それらがその結果であるときはそれらは全く相応しており、そのときはそれらは内なる人のものであって、外なる人のものではないからである。なぜなら結果は、周知のように、結果のものではなくて、結果を生み出す原因から発しているからである、たとえば、顔から輝きでている仁慈は顔のものではなくて、内に存在している仁慈から発しており、それが顔をそのように形作って、その結果を示しているのである、または小さな子供たちの眼つきや身ぶりや互に遊んでいることの中に現れているかれらの無垢は顔付きやまたは身振りのものではなくて、かれらの霊魂を通して流れ入っている主の無垢から発しており、かくて現れている無垢は結果であり他のすべての場合も同一である。

 

 

[3]何が外なる人を内なる人に相応させ、また一致させるか、また何がそれらを一致させないかを明らかにするには、支配している目的を、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛を反省するのみで充分である、なぜなら愛は目的であるからである、なぜなら愛されるものはことごとく目的として認められるからである。かくてその生命は如何ような性質を持っているかが、またそれは死後如何ようなものになるかが明白となるであろう、なぜなら目的から、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛から、生命は形作られていて、人間各々の生命はそれ以外の何ものでもないからである。永遠の生命に―すなわち永遠の生命である霊的な天的な生命に― 一致していないものは、もしそれが身体の生命の中で除かれないならば、他生において除かれなくてはならないのであり、もし除かれることができないならば、その人間は永遠に不幸なものにならないわけにはいかないのである。

 

 

天界の秘義1577[]

 

外なる人の中ではすべてのものは自然的なものである、なぜなら外なる人それ自身は自然的な人と同一のものであるからである。

 

 

天界の秘義1589

 

[2]外なる人を構成している能力には三つのものが存在している、すなわち合理的なものと記憶知の能力と外なる感覚的なものが存在している。合理的なものは内的なものであり、記憶知の能力は外的なものであり、そしてこの感覚的なものは最も外なるものである。内なる人が外なる人に連結する手段となるものは合理的なものであり、合理的なもののいかんに連結が応じている。外なる感覚的なものは、ここでは視覚と聴覚である。しかし合理的なものは情愛がその中に流れ入り、それを活動させ、生かさない限り、それ自身では無意味である。このことから合理的なものは情愛のいかんに応じていることが生まれている。善の情愛が流れ入ると、それは合理的なものの中に真理の情愛となる。悪の情愛が流れ入ると、その反対のものが生まれる。記憶知の能力は合理的なものにそれ自身を適応させ、合理的なものに対する手段[道具、媒介物]であるため、情愛はその中にも流れ入ってそれを(意のままに)処理することが生まれている、なぜなら情愛以外のものは何一つ外なる人の中に決して生きてはいないからである。このことの理由は善の情愛[善を求める情愛]は天的なものから、すなわち、天的な愛から降っていて、天的なものはそれが流れ入っているあらゆるものを生かしており、悪の愛を、または欲念を生かしさえもしているということである。

 

 

天界の秘義1598

 

内なる人に結合しているときの外なる人の美しさは大きな者であるほどに、分離しているときのその醜さも大きなものである。なぜなら外なる人はそれ自身において考察されるなら内なる人に対しては僕[召使い]以外の何ものでもないと言ってもよく、一種の媒介物[手段]であって、それによって目的は用となり、用は結果の中に示され、かくてあらゆるものが完成するからである。外なる人がそれ自身を内なる人から分離し、それ自身にのみ仕えようと欲するときは、その反対のものが起こり、ましてやそれが内なる人を支配しようと欲するときは尚さらのことであって、そうしたことはすでに示したように、主として自己愛とそのいくたの欲念から起るのである。

 

 

天界の秘義1603

 

外なる人は一種の器具以外の、または何か有機的なもの以外の何ものでもなくて、それ自身の中には何ら生命をもっておらず、それは内なる人から生命を受けるのであって、そのときはその外なる人がそれ自身から生命をもっているかのように見えるのである。

 

[]しかし主にあっては主が遺伝悪を斥けられて、かくしてその人間的な本質の有機的なものを清められてしまった後では、そのものもまた生命を受けたのであり、かくて主は、その内なる人の方面ではすでに生命であられたが、その外なる人の方面でもまた生命になられたのである。これがヨハネ伝の『栄化[栄光を受けること]』により意味されているものである―

 

 

  イエスは言われる、今や人の子は栄化されます[栄光を受けます]。神もかれの中に栄化されたまいます[栄化を受けたまいます]。もし神がからの中で栄化されたもうなら[栄光を受けられるなら]神もまた神御自身の中にかれを栄化されるでしょう[かれに栄光を与えられるでしょう]。すぐにかれを栄化されるでしょう[すぐにかれに栄光を与えられるでしょう](13・31,32)。

 

 さらに―

 

  父よ、時が来ました、あなたの子を栄化してください[あなたの子に栄光を与えてください]、あなたの子もあなたを栄化するためです[あなたに栄化を与えるためです]。それで今、ああ父よ、わたしが世が存在しない中にあなたとともにもっていた栄光をもって、あなた御自身をもってわたしを栄化してください(17・1、5)。

 

 

さらに―

 

  イエスは言われた、父よ、あなたの御名を栄化してください。それで天から一つの声がきこえた、わたしはそれを栄化した、さらに栄化しよう[さらに栄光を与えよう](12・28)。

 

 

 

天界の秘義1718

 

 「またその兄弟であるロトとその財産とをとりかえした」。これは外なる人とそれにぞくした凡てのものとを意味していることは『ロト』の意義から明白であり、それは前にいくども述べられたように、外なる人である。外なる人とは何であるかは今日ほとんど知られていない、なぜなら身体にそくしているもののみが外なる人を構成している、例えば感覚の能力が、すなわち、触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚、また食欲と快楽がそれを構成していると考えられているからである。しかしこれらは単に形体的なものに過ぎないところの、愛にぞくしたいくたの情愛が本来外なる人を構成しているのである、また霊[精神]に元来ぞくしている感覚のいくたの能力がその霊[精神]が享受している快楽とともになって、これを構成しているのである。これらのものが外なるまたは外的な人を元来構成していることは他生における人間たちから、すなわち霊たちから明白である。これらの者も同様に外なる人を所有しており、同様に内的な人を所有しており、したがって内なる人を所有しているのである。身体は単に覆いまたは外皮にすぎないのであって、それはその人間が真に生きるために、またその人間にぞくした凡てのものがさらに卓越したものとなるために、解体してしまうのである。

 

 

天界の秘義5127[2]

 

 低いまたは外的な物が高いまたは内的な物に仕えなくてはならないことが秩序の法則であるということは、感覚的な人間には全く知られていないのである、なぜなら単に感覚的な者は内的なものとは何であるかを知らないし、かくて相対的に外的なものの何であるかも知らないからである。かれは自分が考え、語り、意志し、行動することを知っており、そこから考え、意志することが内的なものであって、語り、行動することが外的なものであると考えるが、しかし感覚のみから考え、欲望から行動することは外なる人のものであることを知らず、かくてかれの考えることと意志することはもっぱら外的な自然的なものであることを知らないのであり、それはからが誤謬を考え、悪を意志するときはさらに甚だしくなっていることを知らないのであり、それはかれが誤謬を考え、悪を意志するときはさらに甚だしくなっていることを知らないのである。そしてこのような人物の中には内的な物との交流は閉じられているため、かれは内的な思考と意志のいかようなものであるかを知らないのである。もしかれが内的な思考とは真理から考えることであり、内的な意志は善から行動することであると告げられても、それを些かも把握しないし、まして、内的な人は外的な人とは明確に区別されており、それは、内的な人は外的な人の中に行われていることを高い位置から見ることができ、また内的な人は外的な人をこらしめて、外的な人が幻想から見、欲念から欲するものを意志しないで、考えもしない能力と才能とをもっているほどにも区別されていることは把握はしないのである。

 

 

天界の秘義5127[3]

 

 これらの事をかれは、その外なる人が主権を持って、支配しているかぎり、みとめはしないが、しかしかれがそうした状態から離れているときは、例えば、かれが不幸または病気のため多少気持ちが抑えつけられているときは、これらの事をみとめ、また把握することもできるのである、なぜならそのときは外なる人の主権は停止しているからである。なぜなら理解の能力または才能は常に主により人間に保存されているが、誤謬と悪の中にいる者のもとではそれは非常に漠然としたものとなっており、誤謬と悪とが静止して眠るに応じて常に澄明になるからである。主の神的なものは人間のもとへ絶えず流れ入って、かれを明るくしているが、誤謬と悪の在るところでは(すなわち、真理と善とに反したものが在るところでは)、神的な光ははね返されるか、窒息させられるか、歪められるか、しており、感覚的な物から考えて、語り、また自然的なまたは身体的な記憶に印刷された言葉の形から霊的なものを考えて語る能力をかれに与えるもののみが、いわば、すき間ごしに受け入れられているにすぎないのである。

 

 

天界の秘義5337[2]

 

『出ること[出てくる]』ことまたは発出することにより意味されていることを説明するため、以下の例を考えてみよう。真理が善の形であるとき、または真理が理解が把握することの出来る形をとった善であるとき、真理は善から『出て来る』、または発出すると言われるのである。理解もまた、それが形をとった意志であるとき、またはそれが内なる視覚により認められることが出来る形をとった意志であるとき、意志から『出てくる』または発出すると言われるのである。同様に理解の思考についても、それが言葉となるとき、それは『出てくる』または発出すると言われ、意志についても、それが行為となるとき、それは『出てくる』と言われるのである。思考は、それが言葉となるときは、それ自身に他の一つの形を着せるのであるが、依然そのように出て来るものは、または発出するものは思考である、なぜならそれに着せられる言葉と語調とはその思考を適切に認識させる附加物にすぎないからである。同様に意志も、それが行為となるときは、他の形をとったものとなるが、しかし依然そうした形をもって示されているものは意志であり、着けられている動作と運動とは意志を明らかにさせて、見る者を適切に感動させる附加物に過ぎないのである。同じく外なる人についてもまた、それは内なる人から『出てくる』または発出すると言うことが出来るのであり、いな、それは実質的にそこから『出てくる』のであり、発出すると言うことが出来よう、なぜなら外なる人は、内なる人がそれがその中に存在している世界で適当に活動することが出来るようにと形作られているもの以外の何ものでもないからである。この凡てから『出て行く』または発出することはその霊的な意義においていかようなものであるかが明白である、すなわち、それは、主について述べられているときは、人間として形作られ、そのことにより、信じる者たちから認識されるに適応したものとなった神的なものであり、にも拘らず、その両方のものは一つのものであることが明白である。

わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く(ヨハネ16・28)

 

 

 

真の基督教612

 

 人間は生来凡ゆる種類の悪と欲念とに傾いており、可能なときは、これに惑溺する。何故なら、生来彼は他の者を支配し、その財産を所有することを貪り求めるからである。この二つの欲念は隣人への愛を破壊し、そのため彼は己れに反抗する者を見て憎悪し、これに復讐することを、たとえそれが殺人を意味するにしても切望する。同じ理由から、彼は姦淫、詐欺、或は秘かな窃盗、涜神、或は偽証を軽んずる。何人でもこれを軽んずる者はその心においては無神論者である。かくの如きが生来の人間であり、それ故、人間は生来小規模の地獄である。さて人間は動物とは異なり、その内なる心の方面では、霊的に生まれ、天界に対して生まれている。しかし彼の自然的な即ち外なる人は、今述べたように、小規模の地獄であり、天界がその場所を占める以前に、地獄が除去されねばならないことが推論される。