胎を開く・生む・出生

わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く(ヨハネ16・28)

 

 

1.教会、すなわち教義的なものと礼拝とが生まれ出ること

2.再生すること

3.信仰においてまた行為において承認すること

4.マリア・ヴァルトルタ・・・・自分を産み

5.多産

6.人間の霊魂は母の卵細胞の中に始まり

 

 

 

1.教会、すなわち教義的なものと礼拝とが生まれ出ること

 

天界の秘義1330

 

「以下がセムの出生[生んだもの]である」。これは第二古代教会から派生したものを意味していることは『出生[生んだもの]』の意義が(前に言われたように、1145番)、教義的なものと礼拝との起原と出生であることから明白である。ここでも、また聖言の他の所でも『出生』は教会、すなわち教義的なものと礼拝とが生まれ出ること以外の何ものでもない。

 

 

天界の秘義3856

 

「かれはその胎を開かれた」。これはそこから諸教会の教義が発したことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『胎を開くこと』により諸教会の教義が意味されている。(聖言における『はらむこと』と『出生』により、人間が新に生まれる時おきるような霊的な懐妊と出生とが意味されていることは、前の1145、1255、1330、2584番に見ることができよう)。これらの事柄の実情はいかようになっているかは、間もなく以下に記されることから明らかとなるであろう。

 

 

2.再生すること

 

天界3860

 

「レアはみごもって、息子を生んだ」。これは外なるものから内なるものへと霊的にみごもって生まれることを意味していることは、『みごもって生むこと』の意義から明白であり、それは内意では再生することである、なぜなら再生しつつある人間は新にみごもって、生まれるからであり、それで再生は新しい誕生[出生]と呼ばれているが、しかしそれは霊的なものである。人間は実際その両親から人間として生まれてはいるが、しかし主から再び生まれるまでは人間とはならないのである。霊的なまた天界的な生命が人間を作るものである、なぜならそれがかれを獣から区別するからである。聖言の中に言われている懐妊[みごもること]と出生とにより、またここに『レアはみごもって息子を生んだ』により聖言の中に意味されているものはこの霊的な懐妊と出生である。(出産と誕生は信仰と愛とのそれであって、そのことをそれらが意味していることについては、前の613,1145、1255、2020、2584、3856番を参照されたい)。

 

 

 

 

3.信仰においてまた行為において承認すること

 

 

天界の秘義3905

 

「ラケルは自分がヤコブに子を生まないのを見た」(創世記30・1)。これは内的な真理が未だ承認されなかったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、ラケルの表象は内的な真理の情愛であり、または内的な真理そのものであり(3758、3782、3793、3819番)、『子を産むこと』の意義は信仰においてまた行為において承認することであり(そのことについては下記を参照)、ヤコブの表象は自然的な真理の善である(そのことについては3669、3677、3829番と前章の全部を参照)。『生むこと』が信仰においてまた行為において承認することである理由は、聖言における『出生』により霊的な出生が意味されているということである(1145、1255、3860、3868番)。霊的な出生は真理と善とを承認し、信じることであり、ここでは信仰において、また行為において承認することである。いかようなものも人間がそれに従って生きないうちは承認されないため、そうした理由から『信仰において、また行為において承認すること』と言われているのである。実行するためではなくて、単に知るためにのみ学ばれる信仰の諸真理はそれ自身を悪と誤謬との情愛[悪と誤謬とに対する情愛]に結合させるのであり、そうした理由からそれらはそれらを学んだ者のもとでは信仰のものとはなっていないで、内的には信仰に反しているのである。

 

 

 

天界の秘義3915

 

『生むこと』の意義は信仰と行為との中に[信仰と行為とをもって承認することであり(3905番を参照)

 

『生むこと』は真理を承認することを意味し

 

 

 

天界の秘義3915[2]

 

 内意ではこれらの言葉により、情愛から発しているところの第二の度の肯定または承認が意味されているのである、なぜならその連結が生まれるためには、その承認または肯定の中に情愛が存在しなくてはならないからである、なぜなら情愛がないなら真理には生命はないため、連結はすべて情愛により行われるからである。

 

 

 

天界の秘義3919

 

「ビルハはみごもり[はらみ]、ヤコブに息子を生んだ」(創世記30・5)。これは受け入れることと承認することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『身ごもること』の意義は受け入れることであり、『生むこと』の意義は承認することである(3860、3868、3905、3911番)、なぜなら霊的な意義ではみごもること[はらむこと]と生むこととは善から真理を受け入れ、その結果承認することであるからである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P30

 

私のうちで動けるように あなたを準備させてほしい。

あなたも、「私は休息を見いだした・・・」と他の者たちに言えるよう 我が玉座をあなたのうちに据えるのを許しなさい。 御父に見(まみ)えたいとは願わないか? 神に出逢いたいと切に焦がれていよう?

 

そうであるなら、そのときは あなたを産まなければならない、そう、御父を見るには 私から新たに生まれる必要がある。 生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P350

 

 キリストの神性を知ることができる以前に、われわれは新しい生き物に変えられる必要がある。罪に染まり堕落した古い性質では、キリストを知ることはできない。みえざる神の形であられ、その形に似せてわれわれが造られたキリストを知ることができる以前に、新しい生命と新しい性質とが、われわれのものとなっていなくてはならないのである。そのときこそ、われわれはキリストを「まことの神」として知るようになる。

 

 

4.マリア・ヴァルトルタ・・・・自分を産み

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P199

 

 感嘆すべきの神秘! 利己的愛ではなく、能動的で、極めて強力で、むしろ無限の愛で自分を愛する計り知れない御者は、このたった一つの完全無欠の行動によって、位格の区別においての他はとすべてが同等であるその御言葉を産む。なぜならもしが一にして三、すなわち感嘆すべき唯一の存在であるならば、学識の浅い人びとには三つの面からこのようにわかりやすく説明できよう。三つの各々の面は、はっきり区別される信仰の真理であり、すなわち神学的に唯一であり、神性永遠性計り知れなさ全能により、すべてにおいて同等である三位格だ。三位格の間には混同は無く、また一位格他の位格ではなく、だからといって三神ではなく、唯一自分ひとりでを産み、したがって自分を産み、聖霊の発出の原因となることによって、神的位格の各々に存在を与えるのだ。

 

 

5.多産

 

天界の秘義6647

 

「イスラエルの息子たちは多くの子を生み、多産であった」。これは教会の諸真理が善の方面で増大したことを意味していることは以下から明白である、即ち、イスラエルの息子たちの表象は霊的な諸真理であり(5414、5879番を参照)、教会であり(6637番)、『子を多く生むこと』の意義は善の方面で増大することであり(43、55、913、983、2846、2847、3146番)、『多産であること』の意義は更に派生することである、なぜなら教会が人間のもとに新たに設立されると、その時は善は内なるものの中にも、また、外なるものに向って、また外なるものの中にも絶えず増大して、派生するからである。霊的な教会の人たちのもとには善は諸真理により増大することはすでに再三示したところである、なぜなら霊的な教会の人間は、天的な教会の人間とは異なって、認識を持ってはおらず、そのため彼らは真理によらなくては、教会の善、または霊的な善の何であるかを知らないからである。それで霊的な教会の人間が再生しつつある時は、諸真理は彼のもとにいる天使たちを通して主によりかき立てられ、そのことによって彼は善へ導かれるのである。しかしその人間が再生すると、その時は真理と善とが共にかき立てられ、そのようにして彼は導かれて行くのである。しかし霊的な教会の人間のもとでは、真理のいかんに、善が応じており、そこから良心も応じており、良心が彼には認識として存在し、その認識に従って彼は生きるのである。

 

 

6.人間の霊魂は母の卵細胞の中に始まり

 

天界の秘義3570[4]

 

 人間の霊魂は母の卵細胞の中に始まり、その後彼女の子宮の中で完成され、そこで柔かい身体で身を包まれ、しかもそれはその身体を通してその霊魂がその生まれて入って行く世に適したように活動することが出来るといった性質を持っているのである。このことは人間が再び生まれる時も、即ち、彼が再生しつつある場合も同じである。彼がその時受ける霊魂は善の目的であって、それは合理的なものの中に初まり、最初はそこに卵細胞におけるように初まり、後にはそこで子宮内におけるように、完成され、この霊魂が身を包むそのか弱い身体は自然的なものとその自然的なものにおける善であり、それは、霊魂の目的に順応して従順に活動するようなものとなるのであり、その中に在る諸真理は身体の中の繊維のようなものである、なぜなら真理は善から形作られるからである(3470番)。ここから人間の改良の映像は子宮の中で人間が形作られる経過の中に示されていることが明らかであり、そしてもしあなたたちが信じられるなら、人間を形作り、それから主から発している天的な善と霊的な真理との各々を継続的に受け入れる力を与え、しかもそれが性質と量においては正確に人間が獣として世の目的を注視しないで、人間として天界の目的を注視するに順応していることもまたその主から発している天的な善と霊的な真理なのである。