内なる人

1.霊魂

2.主の内なる人

3.理知的で賢明な人

4.仁慈の教義より

5.主は内なる人のうちに残りのものを貯えられる

6.内なる人が考え、見る

7.内なる人と同一のものである合理的なもの

8.人間はその歓喜と楽しさとの中にいるときは、かれは時間に何ら気づかないのである、なぜならかれはその時は内なる人の中にいるからである

9.人間は内なる人であり、また外なる人である理由は、人間を通して天界が世界と連結するため

10.内なる人は信仰と仁慈に属した事柄を考えることによって再生する

11.ここに内なる人について語られた事柄は大多数の者に理解されないことであるが、救いには必要ではない

12.内なる人が善いものを欲し、外なる人が善いものを行なう

13.意志の愛が内なる人を所有し、理解の思考は外なる人を所有する

14.内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない

15.パウロの手紙

16.新エルサレムの教義

17.内なる人は用以外には何ごともかえりみはしない

 

 

 

1.霊魂

 

 

天界の秘義3

 

こうした生命がないなら、聖言はその文字の方面では死んだものである。此の点では―基督教世界に知られているように―それは内なるものでありまた外なるものである人間と同じである。外なる人は内なる人から分離する時は、身体であり、それ故死んでいる、なぜなら生きていて、外なる人をもそのように生かしているものは内なる人であり、その内なる人は霊魂であるからである。聖言も同じであり、それは文字のみの方面では、霊魂のない身体のようなものである。

 

 

 

天界の秘義1012

 

 『たれでも人の内の人の血を流す者は自分の血を流さなくてはならない』という言葉の文字の意義は、他人の血を流す者であるが、しかし内意ではそれは他の者の血ではなく、己が自己の内にある仁慈である。こうした理由から『人の中の人の血』と言われているのである。時々二人が文字の意義で語られている時は、その内意では只一人の者が意味されているのである。内なる人が人の中の人である。それで内なる人に属した、または内なる人そのものである仁慈を消滅させる者はたれでもその者の血を流されなくてはならない、すなわち、彼は彼自身を罪に定めるのである。

 

 

 

天界の秘義1563

 

外なる人は第一次的に内なる人から、すなわち、霊または霊魂からその生命を受けている。

 

[]これらのことから霊的な真理に一致することが出来ない知識が外なる人に秘かに入り込み、天的な善に一致することが出来ない快楽と歓喜とが外なる人に秘かに入り込むということが必然的に起きるに違いないことを認めることが出来よう、たとえば形体的な、世的な、地的なものを目的として認めているもののすべての場合がそれであって、そうしたものが目的として認められると、それらは外なる人を外の方へまた下の方へ引いて、それを内なる人から遠ざけるのである。それでそうしたものが先ず消散しない限り内なる人は外なる人に到底一致することはできないのであり、それで内なる人が外なる人に一致することが出来る前にこうしたものは先ず除かれなくてはならないのである。主にあってはこれらのものが除かれまたは引き離されたことがアブラムからロトが分離したことにより表象され、意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義1574[5]

 

以上言ったことから私たちは以下のことを認めることが出来よう、すなわち、外なる人を内なる人から第一次的に分離させるものは自己愛であり、その二つのものを第一次的に結合させるものは相互愛であり、その相互愛は自己愛が後退しないうちは決してあり得ないのである、なぜならその二つのものは互に全く相反しているからである。内なる人は相互愛以外の何ものでもない。人間の霊[精神]または魂[霊魂]そのものは死後生きる内的な人そのものであって、それは有機体である、なぜならそれは人間がこの世に生きている間に身体に接合されているからである。この内的な人は、すなわち、霊魂または霊[精神]は内なる人ではない、しかし相互愛がその中にあるとき、内なる人もその内にあるのである。内なる人に属したものは主のものであり、それで内なる人は主であると言うことができよう。しかし天使または人間に、その者が相互愛の中に生きている間に、主は天界的な自分自身のものを与えられて、その者はその者自身から善いことを行っているとしか思われないため、内なる人は人間のものであるかのように、人間に属性づけられているのである。しかし相互愛の中にいる者は善い真のものはことごとく自分のものではなくて、主のものであることを承認し、また信じており、他の者を自分自身のように愛する能力は―さらにもしその者が天使のようなものであるなら、他の者を自分自身にも勝って愛する能力は―主の賜物であることを承認し、信じており、この賜物とその幸福から彼はそれが主のものであるという承認から遠ざかるに比例して、遠ざかるのである。

 

 

 

天界の秘義3167

 

人間各々には内なるものと外なるものとがあり、その内なるものは内なる人と呼ばれ、その外なるものは外なる人と呼ばれているが、しかし内なる人とは何であるか、外なる人とは何であるかは僅かな者にしか知られていないのである。内なる人は霊的な人と同じものであり、外なる人は自然的な人と同じものであり、霊的な人は天界の光に属している事柄を理解し、その事柄から賢明になるものであるが、しかし自然的な人は世の光に属しているものを理解し、そこから賢明になるものである(この二つの光については前の3138番を参照)。なぜなら天界には霊的なもの以外には何ものも存在していないに反し、世には自然的なもの以外には何物も存在していないからである。人間は、

その人間の中に霊的なものと自然的なものとが、すなわち、彼の霊的な人と自然的な人とが一致し、または一つのものとなるように創造されているが、しかしこの場合霊的な人が自然的な人の中に在る凡ゆるものを処理し、自然的な人は、僕がその主人に服従するように服従しなくてはならないのである。

 

 

 

天界の秘義3167[2]

 

 しかし堕落により自然的な人は、霊的な人の上にそれ自らをもたげ初め[高め初め]、そこから神的秩序そのものを転倒させ、ここから自然的な人はそれ自身を霊的な人から分離させてしまって、隙間[間隙]から入ってくるように入ってきて考え話す能力を与えることの出来るような霊的なものを除いては、もはやいかような霊的なものをも持たなくなってしまったのである。しかし霊的なものが再び自然的な人の中へ流れ入るために、この自然的な人は主により再生されねばならなかったのである、即ち、真理が自然的な人から合理的な人における善へ導き入れられて、それと連結しなくてはならないのであり、そしてこのことが行われると、霊的なものはその自然的な人へ来るのである、なぜならそのとき天界の光は流れ入って、自然的な人における凡ゆるものを明るくして、その凡ゆるものに光を受けさせるからである、すなわちその中の幾多の善に光の熱を、即ち愛と仁慈とを受けさせ、(その中の)真理に光線を、即ち、信仰を受けさせるのであり、このようにして自然的な善と自然的な真理とは霊的なものを受けるのである。この場合自然的な善は、霊的なものであるものに仕えることを、かくて隣人に役立つことを、それにもまして公共の福祉に役立つことを、更にそれにもまして主の王国に、とりわけ主に役立つことを目的とすることから発してくる歓喜と快楽のすべてであり、自然的な真理は賢明になることを、即ち、教義と記憶知とのすべてを行うことを目的としているところの教義と記憶知とのすべてである。

 

 

 

天界の秘義5883

 

内なる人については彼はそれが内部にあって、外なる人とは全く区別されてはいないとしか考えていないが、それらは明確に区別されるものであって、内なる人は外なる人から分離されて、以前送った生活を、しかしそれよりは更に純粋な生活を送ることが出来るのであり、それがまた実際その人間が死ぬと起きるのである、なぜならそのとき内なる人は外なる人から分離し、その分離の後で生きる内なる人はそのとき霊と呼ばれるものであるからである。しかしこれは身体の中で生きていたその人間そのものであって、また他生では自分自身にも、他の者にも、この世の人間のように見え、頭からかかとまでも、その形全部を持っているのである。

 

 

 

天界の秘義6054[2]

 

しかしそのことについて抱かれる臆説と仮説との結果、『霊魂』という言葉が、知られないものという考え方を万が一にも生み出さないように、人間の『霊』と言った方がさらに良いであろう、または、もし諸君がそれをさらに好まれるなら、『内なる人』と言った方が良いであろう。なぜなら霊はそこでは人間そのものとして現れており、人間に属している凡ゆる肢体と器官を持っており、さらにその身体においても、人間そのものとして現れており、人間そのものであるからである。

 

 

 

天界の秘義6055

 

 人間の内部を知らない者は流入について、また霊魂の身体との交流について知ることはできない、なぜなら交流と流入とはこれらの内部により行われるからである。人間の内部を知るためには、内なる人と外なる人とが在り、内なる人は霊界にいるが、外なる人は自然界におり、かくて前のものは天界の光の中にいるが、後のものは世の光の中にいることを知ることが必要である。内なる人は外なる人からは明確に区別されており、前のものは、先在的なものであり、また内的なものであって、後のものがなくても存続することが出来るが、後のものは、または外なる人は、後在的なものであって、外的なものであるため、前のものがなくては存続することが出来ないことを知ることもまた必要である。さらに以下のことを知らなくてはならない、即ち、内なる人は元来知的な、または合理的な人間と呼ばれるものであり、それはそれが天界の光の中に在って、その光の中に理性と理解とが在るためであるが、それに反し外なる人は元来記憶知の外なる人と呼ばれねばならないものであり、それはその外なる人の中に記憶知が在るためであって、その記憶知の大半は、世の光が天界の光によって明るくされて、生かされるとき、その世の光に属しているものからその光を得るのである。

 

 

 

仁慈の教義178

 

「仁慈そのものは内なる人の中に在り、そのしるしは外なる人の中に在る。」

内なる人が在ることは知られており、また内なる人は霊と呼ばれ、外なる人は肉と呼ばれていることも知られている。なぜなら霊と肉との間には争闘が在ると言われ、またそのことは或る者たちにより知られもしているからである。肉と戦う霊は、仁慈であるところの内なる人である。

 

 

 

<病気について>

霊界日記4592

 

 人間における病気は凡て今し方記したもの以外の源泉からは発していないで、非常に多くのものは幾多の欲念から、例えば、色々な悪徳の過度の放縦から、その多くのものから、同じく好色の行為の種々の身体の歓喜から、また将来にかかわる心労からのみ発しているのである。こうしたものが凡ゆる病気の真の原因である。死そのものもまた罪の理由以外のいかような源泉からも発してはいない。そうしたものが血液を腐敗させてしまうのであり、即ちわち、血液が腐敗すると、そうしたものはその非常に小さな器官そのものを妨害し、塞いでしまい、そのため病気が勃発するのである。ここから病気は地獄から発しているそのスフィアに相応している。もし人類が善の状態に生きたなら、そのときは人間は衰弱して、老年の極度の弱い状態にも達し、身体がもはや内なる人に仕えることが出来なくなると、その人間は、病気にもかかりはしないで、その地的な身体から他生へ移って行くのである。

 

 

 

 

2.主の内なる人

 

 

天界の秘義1735

 

「いとも高い神が祝福されますように[ほめたたえられますように]」(創世記14・20)。これは主の内なる人を意味していることは内なる人についてすぐ前に言われたことから明白である。古代教会では、『高いもの』は内なるものを表象し、それでそのことを意味し、かくて『いとも高い者』は最も内なるものを意味したという理由からエホバは『いとも高い』神と呼ばれたもうたのである。そこから古代教会の礼拝は高いところに、山に、岡に行われたのである。最も内なるものもまた外的なものと最も外なるものに対しては、最高のものが低いものと最低のものとに持っている同じ関係を持っているのである。もっとも高いものは、または最も内なるものは愛の天的なものであり、または愛そのものである。

 

エホバは、または主の内なる人は、愛の天的なものそのものであり、即ち、愛そのものであったのであり、この愛には純粋な愛の属性以外には、かくて全人類に対する純粋な慈悲の属性以外にはいかような属性も適合していないのであり、それは凡ゆる者を救って、彼らを永遠に幸福にし、彼らにその持っている凡ゆるものを与えようと欲するといったものであり、かくて純粋な慈悲から、進んで従って来ようとする者をことごとく天界に、即ち、それ自身に、愛の強い力により引きよせようと欲するといったものである。この愛そのものがエホバである。

 

 

 

天界の秘義1577

 

「ねがわくは、わたしとあなたとの間に争いがありませぬように」。これはその二つのものの間に不一致があってはならないことを意味していることはすでに言ったことから明白である。内なる人と外なる人との一致または結合にかかわるアルカナは到底語り尽くせない。主のみを除いて、いかような人間のもとにも内なる人と外なる人は決して結合されてはいないのであり、また結合されることも出来ないのであり、そうした理由からまた主は世に来られたのである。再生した人間のもとではそれらは結合しているかのように見えるが、しかしこれらは主に属している、なぜなら一致しているものは主のものであるが、しかし一致していないものは人間のものであるからである。

 

 

 

天界の秘義4963[]

 

主の最も内なるものはエホバであられたからである。

 

 

 

 

3.理知的で賢明な人

 

 

天界の秘義158

 

 男は内なる人を、またはそれと同一の理知的で賢明な人を意味することはイザヤ書に明らかである―

 

 わたしは見たが男はいない、彼らの中にさえいない、勧める者もいない(41・28)。

 

これは賢明で理知的な者は一人もいないことを意味している。エレミヤ記にもまた―

 

 あなたらはエルサレムの街路をここかしこと走りめぐって、男を見つけ出すことが出来るか否かを、審判を行い、真理を求める者がいるか、否かを見なさい(5・1)

 

『審判を行う者』は賢明な人を意味し、『真理を求むる者』は理知的な人を意味している。

 

 

 

 

4.仁慈の教義より

 

 

仁慈の教義177

 

こうしたものが礼拝の外なるものであり、礼拝の外なるものは仁慈のしるしであることは以下の順序で認められるであろう―

 

仁慈そのものは内なる人の中に在り、そのしるしは外なる人の中に在る。

仁慈が内なる人の中に在って、それを構成すると、そのときは外なるものの中に遂行される礼拝の行為は凡てそのしるしである。

内なる人における仁慈から発出している外なる人における礼拝は天使たちには旗を手にした旗手として現れている。しかし内なる人における仁慈から発出していない外なる人における礼拝は天使たちには松明を手にした役者[俳優]として現れている。

 

 

 

仁慈の教義178

 

「仁慈そのものは内なる人の中に在り、そのしるしは外なる人の中に在る。」

内なる人が在ることは知られており、また内なる人は霊と呼ばれ、外なる人は肉と呼ばれていることも知られている。なぜなら霊と肉との間には争闘が在ると言われ、またそのことは或る者たちにより知られもしているからである。肉と戦う霊は、仁慈であるところの内なる人である。

 

 

 

仁慈の教義179

 

内なる人の性質は外なる人によらなくてはそれ自らを明らかに示すことは出来ない。それは外なる人との争闘が在るときそれ自らを明らかに示すのであり、特にそれは、人間が自分自身を、自分の幾多の悪を点検し、知識から[それらを知ることにより]、それらを告白し、悔改めについて考え、かくて自分の幾多の悪に抵抗し、新しい生活を送ることにとりかかるとき、それ自らを明らかに示すのである。

 

 

 

仁慈の教義180

 

 もし人間がこれらの事を為さないなら、その内なる人は悪であるが、しかしこれらの事を為すなら、その内なる人は善である。なぜなら内なる人を通して主は外なる人へ働きかけられるのであり、悪はそのとき外なる人の中に在るため、争闘が起るのである。なぜなら肉と呼ばれている外なる人の中へ、地獄から悪魔と呼ばれているところの霊どもが入ることを許され、主は人間の中に在ってその悪魔と戦われるからである。そしてもしその人間が、その者自身から戦うものとしてまた戦うなら、彼は征服するのであり、悪魔は征服されるに比例して、幾多たの善が内なる人から入ってくる場所が存在するのである。かくて彼は徐々に新しい人間となって、再生するのである。

 

 

 

仁慈の教義181

 

 何であれ内なる人が外なる人における視覚と知覚[感覚]に生み出し、提示するものはことごとくしるしと呼ばれている。もし仁慈が内なる人の中に在るなら、それは人間を導いて、その人間の中に在る悪を反省させ、実際にその悪を知覚して知らせなどするのである。もし彼がそのことを行わないなら、その外なるものは仁慈のしるしではない。それでももしその外なるものが礼拝と敬虔との中にいるなら、それは仁慈のしるしではなくて、内なる仁慈を欠いた外なる仁慈であって、それは仁慈ではないのである。

 

 

 

仁慈の教義182

 

 しるしによりそれが存在していることを示すもの、証明するものが意味されている、なぜならそれはそれを表現し、意味し、証明するからである。

 

 

 

仁慈の教義183

 

 内なるものはことごとくそのしるしとなるものを、それを示すものをもっている。もし仁慈が内なる人の中に、または霊の中に在り、それが外なる人と肉とに反抗して戦わないなら、そのときは仁慈は消滅してしまうのである。それは純粋な水の泉のようなものであり、もし出口がないなら、それはよどんでしまい、かくてそれは流れなくなるか、またはよどんでその水は腐敗してしまうか、その何れかである。他の所にこれらの事柄を聖言から多く確認しよう。

*  *  *  *

(原本の原稿はここで二頁欠如している。)

 

 

 

 

 

 

天界の秘義1594

 

「かれらはわかれた、すなわち、人がその兄弟から(わかれた)」。これはそうしたものが分離を生み出すことを意味していることはこれまでに言ったことから生まれてくる。『人、兄弟』の意味している、ことは前の8節に述べておいた、すなわち、結合が意味されており、それで『人がその兄弟からわかれること』は分離を意味している。外なる人を内なる人から分離するものは人間は知らないが、それは多くの理由によっている。それは一つには内なる人があることを人間が知っていないためであり、またはそのことを話されたとしても、それを信じないためであり、また一つには自己愛とそのいくたの欲念が分離を生みだすものであり、世を求める愛とそのいくたの欲念もまた分離を生みだすものであるが、しかしそれは自己愛程甚だしくはないことを知らないためであり、またはそのことを話されるにしても、それを信じないためである。

 

 

 

[]人間が内なる人が存在していることを知らないし、またそのことを告げられるにしても、それを信じない理由は人間は形体的な感覚的なものの中に生きていて、形体的な感覚的なものは内的なものを到底認めることができないということである。内的なものは外的なものを認めることができるが、しかし外的なものは内的なものを決して認めることはできない。視覚の場合を考えてみられよ、内なる視覚は外なる視覚の如何ようなものであるかを認めることはできるが、しかし外なる視覚は内なる視覚の何であるかを認めることはできないのである。またはさらに、知的な合理的なものは記憶知の能力のいかようなものであるかを認めることはできるが、しかしその逆は行われないのである。さらに他の理由は人間は、死ぬと身体から分離する霊が存在していることを信じないし、霊魂と呼ばれる内なる生命が存在していることをほとんど信じていないということである、なぜなら感覚的な形体的な人間が霊が身体から分離することについて考えると、そうしたことはありえない事柄として強くかれには考えられるからであるが、それはかれは生命を身体の中において、そうした考えを、獣もまた生きてはいるが、それでも死後は生きはしないという事実から確認しているためである、その他多くの事柄がある。このすべては人間が形体的な感覚的なものの中に生きているということの結果であり、こうした種類の生命は、それ自身において観察されるときは、人間はその遭遇するものについて考えたり、論じたりする能力を持っているというただ一つの点を除いては、獣の生命とほとんど相違していないものであるが、しかし獣が持っていないこの能力について人間はそのとき反省はしないのである。

 

 

 

[]しかしながらこの原因は外なる人を内なる人から分離させるものではない、なぜなら人類の大部分はこうした不信仰の中にいて、最も学問のある者は単純な者よりもさらに不信仰の中にいるからである。しかし分離させるものは第一次的には自己愛[自己を愛する愛]であり、また世への愛であるが、しかし世への愛は自己愛ほどには分離させはしないのである。人間がこのことを知っていない理由はかれは仁慈の中に生きていないということであり、人間は仁慈の中に生きていないときは、自己愛とその欲念の生命は天界の愛に甚だしく反していることがかれに明白になるはずはないのである。自己愛とその欲念の中にはまた燃えているものがあり、従って歓ばしいものがあり、それにその生命は動かされて、その人間はその中に永遠の幸福があるとのみしか考えないのであり、それで多くの者は永遠の幸福を身体の生命の後で偉大なものになることの中におき、また他の者から、実に、天使たちからでさえも仕えられることの中に置いているが、自分自身はたれにも仕えようとはしないで、もし他の者に仕えるなら、それも自分のためであって、自分自身がそのことによって他から仕えられようとする目的を心に秘めているのである。かれらが自分たちは主のみに仕えたいと言っていることも偽りである。なぜなら自己愛の中にいる者は主をさえも自分に仕えさせようと欲しており、そのことが為されないかぎり、かれらは離れ去ってしまうからである。かくてかれらは主自らになって、宇宙を支配しようとする願望を心の中に抱いている。多くの者が、否、すべての者がこのようなものになるときは、これはいかような政治になるかは容易に想像できよう。その中ではたれもが自分自身を他の者以上に愛している政治は地獄的なものではないか。これが自己愛の中に隠れているのである。このことから私たちは自己愛の性質を認めることができるのであり、またそのことを以下の事実からも認めることができるのである、すなわち、自己愛の中にはその自己愛にかれら自身を奴隷として服従させはしないすべての者に対する憎悪が隠れており、憎悪があるため、復しゅう、残酷、詐欺、その他多くの邪悪なものが在るのである。

 

 

 

[]それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。

 

かれがそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使がかれが服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、かれが自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞のやまの上を飛んでいるはえが自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛のいくたの欲念から後退して、自分自身を忌みきらうのである。かれがそのことを為すに応じて、かれは主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

 

[5]以上言ったことからわたしたちは以下のことを認めることができよう、すなわち、外なる人を内なる人から第一次的に分離させるものは自己愛であり、その二つのものを第一次的に結合させるものは相互愛であり、その相互愛は自己愛が後退しないうちは決してありえないのである、なぜならその二つのものは互に全く相反しているからである。内なる人は相互愛以外の何ものでもない。人間の霊[精神]または魂[霊魂]そのものは死後生きる内的な人そのものであって、それは有機体である、なぜならそれは人間がこの世に生きている間に身体に接合されているからである。この内的な人は、すなわち、霊魂または霊[精神]は内なる人ではない、しかし相互愛がその中にあるとき、内なる人もその内にあるのである。内なる人にぞくしたものは主のものであり、それで内なる人は主であると言うことができよう。しかし天使または人間に、その者が相互愛の中に生きている間に、主は天界的な自分自身のものを与えられて、その者はその者自身から善いことを行っているとしか思われないため、内なる人は人間のものであるかのように、人間に属性づけられているのである。しかし相互愛の中にいる者は善い真のものはことごとく自分のものではなくて、主のものであることを承認し、また信じており、他の者を自分自身のように愛する能力は―さらにもしその者が天使のようなものであるなら、他の者を自分自身にも勝って愛する能力は―主の賜物であることを承認し、信じており、この賜物とその幸福からかれはそれが主のものであるという承認から遠ざかるに比例して、遠ざかるのである。

 

 

 

 

5.主は内なる人のうちに残りのものを貯えられる

 

 

天界の秘義1707[3]

 

人間各々における内なる人は主にのみ属している、なぜならそこに主は人間に幼児の頃から与えられる諸善と諸真理とを貯えておかれるからである。そこからこれらのものを通して主は内的なまたは合理的な人の中へ流れ入られ、この内的な、または合理的な人を通して外的な人へ流れ入られ、このようにしてその人間に考えて、人間になることが与えられているのである。しかし内なる人から内的なまたは中間の人へ注がれ、かくして外的な人へ注がれる流入は二重性を持っていて、それは天的なものか、または霊的なものか、その何れかによって行われており、またはそれと同一のことではあるが、善かまたは良心かその何れかを与えられている再生した者にのみ流れ入っており、かくてそれは認識かまたは良心により流れ入っているのであり、そうした理由から天的なものによる流入は主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ存在しているのである。しかし霊的なものまたは真理によっては、主は人間各々のもとに流入されており、この流入がない限り、人間は考えることが出来なくなり、それで語ることも出来なくなるのである。人間が諸善と諸真理とを歪めてしまうといった者になると、また天的な霊的なものを何ら心にかけないときは、そのときは天的なものまたは善の流入はなくなってしまって、それらのものに対する道は閉ざされてしまうが、それでも霊的なものまたは真理の流入は存在しているのである、なぜならそうしたものに対する道は絶えず開かれているからである。ここから内的なまたは中間的なものの性質はすなわち合理的な人の性質はいかようなものであるかを認めることができよう。

 

 

 

 

6.内なる人が考え、見る

 

 

天界の秘義3391

 

かくて『窓越しに外を眺める』(創世記26・8)ことは、全般的には外なる人にぞくしているような知識であるところの現れている事柄を内なる視覚により認識することである。合理的な事柄は、または、それと同一のことではあるが、真理の外観は、すなわち、霊的な真理は知識ではなくて、知識の中に存在しているのである、なぜならそれらは合理的なものに属していて、かくて内なる人に属しており、外なる人のいくたの事柄を注視するものは、かくて知識の内に在る真理を注視するものは内なる人であるからである。なぜなら知識は自然的な人のものであるため、それは合理的な事柄を受け入れる器であるからである(真理の神的なものは合理的なものに流入し、合理的なものを通して自然的なものに流入し、この自然的なものの中に、鏡中に多くの物の映像が示されるように現示されることは、前の3368番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義3679〔2〕

 

 真理の善を通して連結することについては自然的な善が考えたことにより意味されていることは把握できるように充分に説明することはできないが、しかしそれでも簡単に説明しなくてはならない。自然的な善が考えることは内なる人が自然的なまたは外なる人の中で、実にその自然的なまたは外なる人の善から考えることである。なぜなら考えるものは合理的なまたは内なる人であって、自然的なまたは外なる人ではなく、前の者または内なる人は天界の光の中に在って、光の中に主から発している理知と知恵とが存在しているが(3195、3339、3636、3643番)、しかし外なる人は世の光の中に在って、その中には理知はなく、生命すらも存在しておらず、それで内なる人は外なる人の中で万が一考えない限り、考えることは全く不可能となるからである。それでも考えることは、人間は感覚によって入り、また世にぞくしているところのものにより考えているため、人間の外なる人の中に在るように人間には見えるのである。

 

 

 

天界の秘義3679〔3〕

 

 これは目の視覚の場合と同一である。感覚的な人間は目が目自身から見ていると考えはするが、それでも目はたんに、内なる人が身体の外に在る物を、または世に在る物を見る手段となっている身体の器官にすぎないのである。言葉の場合も同一である。感覚的な人間は口と舌とがそれ自身で話すのであると考え、多少なりと深く考える者は喉頭と内的な器官とが肺臓から呼吸によって語っていると考えもするであろうが、それでもこれらの器官により語っているものは思考である、なぜなら言葉は語っている思考[考え]にほかならないからである。感覚にはこのような多くの迷妄[妄想]が在るのである。外なる人における外観的な生命の凡ての場合も同じであり―それは外なる人の中にそれをその物質的な形体的な器官として存在している内なる人の生命である。

 

 

 

7.内なる人と同一のものである合理的なもの

 

 

天界の秘義3737

 

人間的なものそれ自身は内なる人と同一のものである合理的なものと、外なる人と同一のものである自然的なものと、また世に生きるための手段としてまたは最も外なる器官として自然的なものに仕え、自然的なものを通して合理的なものに仕え、さらに合理的なものを通して神的なものに仕えているところの身体とから成っているのである。

 

 

 

 

8.人間はその歓喜と楽しさとの中にいるときは、かれは時間に何ら気づかないのである、なぜならかれはその時は内なる人の中にいるからである

 

 

天界の秘義3827

 

「それはかれが彼女に抱いた愛のために、かれの目には僅かな日にしかすぎなかった」。これは愛の状態を、すなわち、それは全く退屈なものではなかったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『かれの目に見えること』の意義はそのように思われることであり、『日』の意義は状態である(893、2788、3462、3785番を参照)。そこから『かれが彼女に抱いた愛のために僅かな日にしかすぎなかった』は愛の状態を意味するのである。人間が愛の状態の中に、または天的な情愛の状態の中にいるときはもしその情愛の中に焦慮[性急]が存在しさえしないなら、その者は天使的な状態の中におり、すなわち、恰も時間の中にはいないかのようにいるのである、なぜなら焦慮[性急]は形体的な情愛であり、人間はその中にいるに正比例して、時間の中にいるが、しかし人間がその中にいないに比例して、時間の中にはいないからである。そのことは情愛または愛にぞくしている凡ゆる歓喜と楽しさから一種の映像となって現れており、すなわち、人間はその歓喜と楽しさとの中にいるときは、かれは時間に何ら気づかないのである、なぜならかれはその時は内なる人の中にいるからである。純粋な愛の情愛により人間は身体的な世的な物から引き出されるのである、なぜならかれの心は天界へ挙げられ、かくて時間のいくたの物から引き出されるからである。時間が何か意味のあるもののように見える理由は、わたしたちが情愛または愛に属していない事柄を、かくて退屈な事柄を思案するということであう。このことからわたしたちは七年がかれの目にはかれが彼女に抱いた愛のために僅かなら日にしかすぎなかったことにより意味されていることを認めることができるのである。

 

 

 

 

9.人間は内なる人であり、また外なる人である理由は、人間を通して天界が世界と連結するため

 

 

天界の秘義4963

 

人間として生まれている者はことごとくと外なるものであり、また内なるものであり、その外なるものは目でながめられるものであり、またそれによってかれは人間たちと交わり、またそれによって自然界に特有な物が行なわれるのであるが、内なるものは目では見られないものであり、またそれによって人間は霊たちと天使たちと交わっており、またそれによって霊界に特有な事柄が行なわれるのである。人間各々に内なるものと外なるものとがあり、または人間は内なる人であり、また外なる人である理由は、人間を通して天界が世界と連結するためである、なぜなら天界は内なる人を通して外なる人へ流れ入り、そのことによって世に在るものを認識し、世の中にいる外なる人はそこから天界に在るものを認識し、世の中にいる外なる人はそこから天界に在るものを認識するからである。人間がこのように創造されているのはこの目的のためである。

 

 

 

 

10.内なる人は信仰と仁慈に属した事柄を考えることによって再生する

 

 

新エルサレムの教義181

 

内なる人が先ず再生し、後に外なる人が再生し、それで後のものは前のものによって再生する。なぜなら内なる人は信仰と仁慈に属した事柄を考えることによって再生するが、外なる人はそうした事柄に従った生活によって再生するからである。このことが主のお言葉によって意味されている―

 

人はもし水と霊とで生まれないなら、神の国に入ることはできない(ヨハネ3・5)

 

 

 

 

11.ここに内なる人について語られた事柄は大多数の者に理解されないことであるが、救いには必要ではない。

 

 

天界の秘義978

 

再生した者は善いものと真のものの性質を、また霊的な戦闘の性質を反省することにより、こうした生命の在ることを知ることが出来よう、なぜならそれは主が―内なる人を通し―その外なる人の中に仁慈の善と信仰の真理を作る出されるからには、人間の内に在る主の生命であるからである。(中略)

ここに内なる人について語られた事柄は大多数の者に理解されないことであるが、救いには必要ではない。ただ内なる人と外なる人とが在り、善と真理とはことごとく主から発していることを承認し、信じるのみで充分である。

 

 

 

天界の秘義1083[3]

 

古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することは出来ない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しない限り、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、彼は聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、彼らは外なる礼拝の中に彼ら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主は彼らの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、彼らの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈を持っていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。彼らは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかし彼らは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝を持っているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。

 

 

 

 

12.内なる人が善いものを欲し、外なる人が善いものを行なう

 

 

〔U〕「信仰の要点は良く生活し、正しく信ずる者は、主によって救われることである。」

真の基督教340

 

 各基督教徒は人間は永遠の生命を受け継ぐために造られ、若し彼が聖言に定められている救いの手段を用うるならば、之を受け継ぐことを信じているが、同様の信念が宗教を持つ知的な異教徒の各々により抱かれているのである。救いの手段は多く、また多様であるが、それらはことごとく、良く生活することと、正しく信ずることに関わり、従って仁慈と信仰とに関わっている。何故なら、良く生活することは仁慈であり、正しく信ずることは信仰であるからである。この二つの全般的な救いの方法は、聖言に述べられているのみでなく、また命ぜられている。それ故、人間は神により価なくして、与えられている力によって永遠の生命を獲得することが出来、この力を用いると同時に、神を見上げる限り、神はこの力を増大し、自然的な仁慈を霊的な仁慈に、自然的な信仰を霊的な信仰に変え給うのである。かくして、神は死んだ仁慈と信仰に、また人間その者に生命を与え給う。

 人間が正しく生活し、正しく信じていると言われ得る以前に二つのものが結合されねばならない。この二つは教会によって内なる人と外なる人と呼ばれている。内なる人が善いものを欲し、外なる人が善いものを行なう時、外なる人は内なる人によって、内なる人は外なる人によって行動し、または人間が神によって行動し、神が人間を通して行動し給い、内なる人と外なる人とは結合するのである。然し、外なる人が善いことを行なっても、内なる人が悪いことを欲するならば、両者は共に地獄によって行動するのである。それはこの人間の意志は地獄から発し、その行為は偽善であり、凡ゆる偽善には蛇が草の中に、或は蟲が蕾の中に隠れているように地獄的な意図が隠れている故である。

 内なる人と外なる人があり、両者は事実上一つのものとして行動することが出来、また外観的に一つのものとして行動することが出来、外なる人は葬られるが、内なる人は死後も生きることを知る者は凡て、天界とこの世との知識を豊かに持つ者である。而してこの二つを善の中に結合する者は永遠に幸福になるが、この二つを切り離し、或は、もっと悪いことは、二つを悪の中に結合する者は、永遠に悲惨となる。

 

 

 

 

13.意志の愛が内なる人を所有し、理解の思考は外なる人を所有する

 

 

真の基督教507

 

各人の理解はその人の持つ知識に応じて高められることが出来ますが、然し意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められることが出来ます。これが無神論者がその自己愛によって名声の栄誉と理知の誇りを掻き立てられ、他の多くの者よりも鋭い合理性を持っている理由ですが、然しこれは彼らが理解によって導かれて、意志によって導かれない時のみであります。何故なら意志の愛が内なる人を所有しますが、理解の思考は外なる人を所有するからです。

 

 

 

 

14.内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない

 

 

天界の秘義9709

 

内なる人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、また彼らは天界と永遠の生命が在ることを信じもしない。そして驚くべきことには、それにも拘らず彼らは自分らは他の者よりも賢明に考えていると考えているのである、なぜなら彼らは彼ら自身を、また彼らに属するものを愛して、それらを拝しているからである。内なる人が天界に向って主へ開かれている者たちの場合は異なっている、なぜならこれらの者は天界の光の中におり、かくて主から明るくされているに反し、前の者は天界の光の中にはいないで、世の光の中におり、かくて自己から明るくされているからである。自己から明るくされてはいるが、主から明るくされていない者らは、誤謬を真理として、悪を善として認めている。

 

 

 

 

15.パウロの手紙

 

 

ローマ7・18−25

 

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 

 

 

コリント2・4・16

 

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

 

 

 

エフェソ3・16−17

 

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

 

 

 

ペトロ1・3・3−4

 

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。

 

 

 

 

16.新エルサレムの教義

 

 

新エルサレムの教義36

 

 人間は霊界と自然界に同時にいるように創造されている。霊界は天使のいるところにあり、自然界は人間のいるところにある。人間はこのように創造られているため、内なるものと外なるものとが彼に与えられており、内なるものによって彼は霊界におり、外なるものによって自然界にいる。彼の内なるものとは内なる人と呼ばれるものであり、彼の外なるものとは外なる人と呼ばれるものである。

 

 

新エルサレムの教義37

 

 人間は各々内なるものと外なるものとを持っているが、しかしそれらは善い者と悪い者とでは異なっている。善い者のもとでは、内なるものは天界とその光の中にあり、外なるものは世とその光の中にあり、この[後の]光は彼らのもとでは、天界の光に照明されており、かくて内なるものと外なるものとは有効原因とその結果のように、または先在的なものと後在的なもののように、一つのものとして活動している。しかし悪い者のもとでは、内なるものは世とその光の中にあり、外なるものもまた同じく世とその光の中にあり、こうした理由から彼らは天界の光からは何物も見ておらず、ただ世の光からのみ認めて、それを自然の光と呼んでいる。ここから彼らには天界の物は深い暗闇の中に在るが、世の物は光の中に在るということが生まれている。ここから善良な者は内なる人と外なる人とを持っているが、悪い者は内なる人を持っていないで、ただ外なる人のみしか持っていないことが明らかである。

 

 

 

新エルサレムの教義38

 

 内なる人は、それが天界の光の中に在って、その光は霊的なものであるため、霊的な人と呼ばれている。そしてその内なるものが天界の光の中に在り、その外なるものが世の光の中にのみおり、またその中にその外なるものも浸されている人間は、その二つともが自然的な人である。霊的な人は聖言で『生きたもの』と呼ばれているが、しかし自然的な人は『死んだもの』と呼ばれている。

 

 

 

新エルサレムの教義39

 

 その内なるものが天界の光の中に在って、その外なるものが世の光の中に在る人間は、霊的に、また自然的に考えるが、そのとき彼の霊的な考えは彼の自然的な考えへ流れ入って、そこに認められている。しかしその内なるものとその外なるものとが世の光の中に在る人間は、霊的に考えないで、自然的に考えている、なぜなら彼はその凡てが物質的なものである世の自然の中に在る物のみから考えるからである。霊的に考えることは事物自身をそれがそれ自身においてあるがままに考え、真理を真理の光の中に見、善を善の愛から認め、また物質から抽象して[離れて]、事物の性質を見もし、事物に対する情愛を認めることである。しかし物質的に考えることは、事物を物質と共に、また物質の中に、引いては比較的粗雑に、曖昧に考え、見、また認めることである。

 

 

 

新エルサレムの教義40

 

 内なる霊的な人は、それがそれ自身において認められるならば、天界の天使であり、また身体の中に生きている間も、たとえその時は意識していなくとも、天使たちと交わっており、身体を離れた後は、天使たちの間に来る、しかし単に自然的な内なる人は、それがそれ自身において認められるならば、霊であって、天使ではなく、また身体の中に生きている間も、霊らと交わっているが、しかし地獄にいる者らと交わっており、その身体を離れた後も彼らの間に来る。

 

 

 

新エルサレムの教義41

 

 霊的な人間である者たちのもとでは、その内部はまた実際天界に向って、高揚される、なぜなら天界こそ彼らが第一次的に注視するものであるから。しかし単に自然的なものである者のもとでは、その心の内部は事実世に向けられている、なぜなら世が彼らの第一次的に注視するものであるから。各人のもとでは、その内なる心に属した内部は、その者が何物にもまさって愛しているものに向けられ、その外なる心に属した外部も、それと同じ方向に向けられている。

 

 

 

新エルサレムの教義42

 

 内なる人と外なる人を単に全般的にしか考えていない者らは、考え、欲するものが内なる人であって、話し、行うものが外なる人である、なぜなら考え、欲することが内なるものであり、話し、行うことが外なるものであるからと信じている。しかし人間は理知的に考え、賢明に意志する[欲する]ときは、霊的な内なるものから考え、意志している[欲している]が、理知的に考えず、賢明にも意志しない時は、自然的な内なるものから考え、意志していることを知らなくてはならない。従って人間は主、主に属した物について良く考え、また隣人、隣人に属した物について良く考え、その者たちに善いことを意志するときは、真理の信仰から、善の愛から考え、かくて天界から考えているため、霊的な内なるものから考え、意志しているのである。しかし人間はそれらのものについて邪悪なことを考え、また意志するときは、誤謬の信仰と悪の愛から、引いては地獄から考え、また意志しているため、自然的な内なるものから考え、また意志しているのである。約言すれば人間は主に対する愛と隣人に対する愛の中にいる限り、霊的な内なるものの中におり、そこから考え、意志し[欲し]、またそこから語り、行動しているが、しかし自己への愛と世への愛の中にいる限り、自然的な内なるものの中にいて、そこから考え、意志し、またそこから語り、行動しているのである。

 

 

 

新エルサレムの教義43

 

 人間は天界から考え、意志するに応じて、内なる人霊的な人が開かれ、形作られるように主により配慮され、また秩序づけられている。それは天界の中へ主に対してすら開かれ、天界に属した物に応じて形作られている。しかし、これに反して、人間は天界から考えず、また意志しないで、世から考え、また意志するに応じて、内なる霊的な人は閉じられて、外なる人のみが開かれる。開かれるのは世に対して開かれるのであり、形作られるのは世に属した物に従って形作られるのである。

 

 

 

新エルサレムの教義44

 

 内なる霊的な人が天界の中へ主に向って開かれている者たちは天界の光の中におり、主から明るくされて、そこから理知と知恵の中におり、これらの者は真理をそれが真理であるために見、善をそれが善であるために認めている。しかし内なる霊的な人が閉じられている者らは内なる人が在ることを知らないし、まして内なる人の何であるかは知らない。彼らはまた神的なもの[神]がおられることを信じないし、死後に生命の在ることも信じないし、従って天界と教会とに属した物も信じない。そして彼らは単に世の光の中にのみおり、そこからのみ明るくされているため、自然を神的なもの[神]として信じ、誤謬を真理として見、悪を善として認めている。

 

 

 

新エルサレムの教義45

 

 その内なるものが、目で見、手で触れることの出来る物を除いては何物をも信じないほどに外なるものになっている者は、感覚的な人間と呼ばれている。これは最も低級な自然的な人間であって、教会の信仰に属した凡ての物について誤っている。

 

 

 

新エルサレムの教義46

 

 ここに取扱った内なるものと外なるものとは人間に霊の内なるものと外なるものであり、その身体は単に上に附加された外なるものにすぎず、その中に二つのものが存在している、なぜなら身体はそれ自身では何ごとも為さないし、ただその中に在る霊のみから為しているにすぎないから、人間の霊は、身体を離れた後も、以前のように同じく考え、意志し、話し、行動しており、考え、意志することはその内なるものであり、話し、行動することはその外なるものであることを知らなくてはならない、これについては、「天界と地獄」を扱った著作を参照されよ(234−245、265−275、432−444、453−484番)。

 

 

 

 

17.内なる人は用以外には何ごともかえりみはしない

 

 

天界の秘義1472

「幾多の知識の記憶知はそれ自身では、それによって人間が合理的なものになり、合理的なものから霊的なものになり、ついには天的なものになる手段以外の何物でもなく、その知識によりかれの外なる人はかれの内なる人に接合されることができるのであって、そのことが行われると、その人間は用そのものの中にいることを認めることができよう。内なる人は用以外には何ごともかえりみはしない。こうした目的のためにまた主は子供と青年とが記憶知の中に認める歓喜を徐々に注ぎ入れられているのである。しかし人間がその歓喜を記憶知の中にのみ存在させはじめるとき、その人間を拉致し去るものは身体の欲念であり、かれがこのようにして拉致されるに比例して(すなわち、かれがその歓喜を単なる記憶知の中に存在させるに比例して)、かれは自分自身を天的なものから遠ざけてしまい、またそれに比例してその記憶知はそれ自身を主に向って閉じてしまい、物質的なものになるのである。しかし記憶知が用の目的をもって―例えば人間社会のために、地上の主の教会のために、諸天界の主の王国のために、ましてや主御自身のために学ばれるに比例して、益々その記憶知は主に向って開かれるのである。こうした理由からまた天使たちは凡ゆる知識の記憶知の中にいて、実にその一万分の一つもほとんど人間には充分に把握されるように示されることもできない程にも記憶知の中にいるものの、それでもこうした知識を用に比較するなら無意義なものと見なしているのである。」