アグレダのマリア.2

神の都市

 

アグレダのマリア 神の都市.1

アグレダのマリア 神の都市.3

アグレダのマリア(神の都市)

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P148

第7章

幼児キリストの神殿に於ける奉献

 

 永遠の御父は、御子が神殿において御父に奉献されるよう命令されました。これは律法に神秘的に従うためです。私たちの主キリストは律法の目的です(ロマ10・4)。一家の長男を旧約の義人たちがいつも主に捧げたのは、長男が神の御子、そして、待望の救世主の御母の御子であるかもしれないという希望のためです(出エジプト記13・2)。

 永遠の御父の御旨は、神なる御子の御旨と一致しており、御言葉の御母にもよく知られていました。御奉献の前夜、御母は御父に申しあげました、「私の主なるいと高き神、私の主の御父、天地の祝日において、私は御身の神殿に於て御身に、生けるいけにえ、神聖な宝を捧げます。この献げ物を受け取られ、御身は人類に御身の慈善を撒くことができます。正道から外れた罪人を赦し、苦しむ者を慰め、困っている人を助け、貧乏人を金持ちにし、弱い人に手を差し伸べ、目の見えない人の目を開き、迷っている人たちを導くことがおできになります。御独り子を御身に献げ、このお願いを申しあげます。御身が神なる御子を私に与えて下さったので、神にして人であられる御子を御身に御返し致します。御子の徳は無限です。私の祈願は全く僅かです。御子という宝物を御身の神殿に御返しし、私は無一文で家に帰ります。私の霊魂は御身を永遠に讃美致します。御身の御子が私に寛大で強力な御業をなさったからです。」

 翌朝、明け方、御母は御子を産着にくるみ、小雉鳩と二本のロウソクを聖ヨゼフに渡し、三人でエルサレムの神殿に出かけました。ナザレトから一緒に同行し、ベトレヘムに滞在した一万位の天使たちも人間の姿になり、行列を作り、幼児の神を讃える甘美な歌を歌い続けました。天から無数の天使たちが舞い降り、その中の多くの天使たちは、イエズスの御名を記した盾を持ち、人となられた御言葉の護衛隊を作りました。天から参加した天使たちは、御母にしか見えませんでした。神殿に着いて御母は、奉献の更新された気持ちに満たされ、他の女性たちの仲間入りをしました。お辞儀をし、跪き、両手の中の神の御子と御自身を高き主なる神に捧げました。御母はたちまち聖三位一体を幻視し、永遠の御父が、「我が愛子、我が心に適う者」(マテオ17・5)と言われるのを聞きました。同時に聖ヨゼフは聖霊の新しい甘美さを感じ、聖霊により喜びと光に満たされました。

 このとき、聖霊に導かれ、聖なる祭司シメオンが神殿に入り(ルカ2・27)御母と御子が光り輝いているのを見ました。祭司は御子を御母から受け取り、天に向かい宣言しました、「ああ、主よ、御約束の如く、御身の僕を平和の内に逝かせ給え。われは御身による救いを見たり、御身が万民のため準備されたる救い、異邦人を啓示せる光、御身の民イスラエルの光栄を見たり」(ルカ2・29)。シメオン祭司は幼児イエズスの御母に向かって言いました、「見よ、御子はイスラエルの多くの民の滅びと甦りのために立てられたり。また、反対の印のために立てられたり。御身の霊魂は剣により刺し貫かれん。多くの人々の思い、あらわなるべし」(ルカ2・34−35)。聖シメオンが御両親を祝福した後、女預言者アンナは、人となられた御言葉を認め、イスラエルの救いを待ち望む多くの人々に救世主のことを伝えました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P150

 

 シメオン祭司が、主が反対の印のために立てられたと言ったとき、主の御受難と御死去を預言していましたが、この時、幼児イエズスは頭を下げ、その預言を承知しました。御母はそれが判りました。その時、御母の心は剣により刺し貫かれました。鏡に見るように御母は、預言が見えました。御子が人をつまずかせる石となり、不信心者から迫害され、信じる者を救う礼拝堂が破壊され、異教者たちの間に教会が建てられ、悪魔と死に対する勝利は御子の恐るべき苦痛と十字架上の死のお陰である(預言5・20)と。救われるべき人々の光栄も見えました。主イエズスが個人的に、そして教会内で受ける限りない反対も見えました。これらすべての予見は、御母の御心に深く刻まれました。聖ヨゼフは、救いの秘密と御子の苦労について多くのことを学びました。御母はシメオン祭司の手に接吻し、次に聖アンナの手に接吻しました。その後、九日間エルサレムに滞在し、聖ヨゼフと一緒に信心業を行なうことになり、ニ、三度、シメオン祭司に会いました。この九日間の祈りは、御懐妊前の九日間の準備と御懐妊の九ケ月間の記憶を、幼児イエズスと一緒に辿るためでした。朝暗いうちから夜まで毎日、神殿の目立たない片隅でこのノベナが行なわれました。このノベナの嘆願に対し、神は新しい特権を御母に授けられましたが、その中には次の諸特権が含まれています。1、世の中が続く限り、御母は、御母に寄りすがる全ての人たちのために仲介し、神から全て聞き入れて頂く。ニ、御仲介を望むなら、大悪人も救われる。三、新しい教会(ローマ・カトリック教会)と福音の律法に於て、御母は御子キリストによる共贖者と先生である。御母が被昇天の後、宇宙の元后になられ、地における神の代弁者になられてから、これらの諸特権がもっと発揮されるようになったのです。その他全ての特権について私は限られた紙のスペースに要約することはできません。ノベナ第五日目に神が御母に告げられたことは次の通りです、「我が浄配、我が鳩よ、汝は九日間のノベナを全部やれない。他の愛徳の業を汝はすべきである。汝の御子の命を救い、育てるために、汝は自分の家も母国も棄てなければならない。汝の夫ヨゼフと共にエジプトに急いで行け。そこで我が命令を待て。ヘロデ王が御子の命を狙っているからである。この逃避の旅は長く、最も骨が折れ、最も疲れる旅である。私に対する愛のために全てを忍びなさい。私は汝のそばにいつもいる。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P151

 

 強い神が哀れな地上の人間を恐れて命からがら逃げ出すとは、普通の信者には納得いかないかもしれません。しかし、御母は申し上げました、「私の主よ、御身の召し使いを御旨のまま取り扱って下さい。御身が御子なる主の御苦難を許さず、全ての苦痛を受くるべき私に写し給うよう、お願い致します。御身の限りない善に訴える私の不徳と忘恩を大目に見て下さいますように。」主は御母に、聖ヨゼフに従うように諭しました。

 幼児なる神に降りかかる苦労の数々を幻視し、御母は泣きながら宿舎へ帰って来ました。御母は聖ヨゼフに打ち明けませんでしたが、同夜、天使が聖ヨゼフの夢の中に現れ、言いました、「起きよ、御子と御母を連れ、エジプトへ急いで行け。私が指図をするまでかの地に留まれ。ヘロデ王が御子の命を狙っているからである。」聖ヨゼフは直ちに起床し、御母の部屋に行き、言いました。「私の貴婦人よ、天使が全能者の命令を伝えました。ヘロデ王が御子の命を狙っているから、起き、エジプトに急ぎ逃げるようにということです。この旅の苦労を耐えられるように、御身のために私のできることを何でも言って下さい。私は御子と御身のために生きております。」御母は答えました、「いと高き御方がそのような恩寵を下さるなら、この世の苦労を喜んでお受けしましょう(ヨブ2・10)。私たちには天地の創造主がおられます。どこでも私たちと一緒に、私たちの全ての善、天の最高の宝、私たちの主、私たちの案内人である真の光がおられます。御旨を果たしましょう。」飼い葉桶の中で眠っているイエズスの所に来ると、御母は御子イエズスに対し跪き、御子を抱き上げました。僅かな身の回りの物を箱に詰め、ロバの背に乗せ、真夜中を少し過ぎてから聖家族はエジプトへ急ぎました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P152

元后の御言葉

 

 私の娘よ、ダビデの言葉を繰り返しましょう、「主が私にして下さった全てのことに対し、私は何をお返しできるでしょうか」(詩篇116・12)。私は、自分が塵であることを自覚し、あらゆる人間の中で全く役立たずであると信じます。御父の御独り子を生けるいけにえとして永遠なる御父に捧げることを、現在のあなたはできます。聖体拝領により御独り子を頂き、自分のものにすることにより、御父に捧げることができます。

 御子が受肉した瞬間から、この世に於て苦労し続けました。御子や私を見習い、苦労を忍びなさい。そうすれば、主の流血により救われる人々の数を増やせます。労働、困難、辛さや悲しみを抱きしめ、主を見習いなさい。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P153

エジプトへの御逃亡

 

 暗い静かな夜、聖マリアと聖ヨゼフは信仰と希望に強められ、旅をしました。しかし、御子に対する愛情のため、色々なことが心配になりました。この長旅に何が起るか、いつまでかかるか、エジプトでの生活はどうなるか、見ず知らずの人たちとどうやって付き合うか、御子を育てるのに助けてもらえるか、それにしてもこの旅を御子がどうやって乗り切れるかなど、見当もつかなかったのです。しかし、一万位の天使たちが人間の姿になって現れ、聖家族を元気づけました。

 ガザの町に着いて二日間休みました。御母と御子を乗せたロバも聖ヨゼフも疲労困憊の極みに達したからです。そこで会った聖エリザベトの僕に、聖エリザベトに伝言する以外、誰にも自分たちの居所を口外しないように言い含めました。聖エリザベトが送ってきた布地で、聖マリアは御子と聖ヨゼフのマントを作りました。この都市に逗留した二日間、聖マリアは多くの祝福を与え、瀕死の病人二人を癒し、不具の女を治し、人々に話して神について教え、生活を一新させました。人々は創造主を讃えました。聖マリアも聖ヨゼフも、自分たちの故郷や旅の目的について一言も話しませんでした。もしも、一般の人たちに知られたら、ヘロデ王のスパイたちに注目されるかもしれなかったのです。ガザについて三日目、この聖なる巡礼者たちはエジプトに向け出発しました。まもなく、パレスチナの人の住める地帯を過ぎ、ベルサベの砂漠に入りました。ヘリオポリス、つまり現在のエジプトのカイロまで270キロあります。砂漠を何日間も歩くのは辛いことですが、何も避難できる所がないのはもっと辛いです。色々なことが砂漠の旅の途中で起こりました。聖マリアも聖ヨゼフも不平不満を言いませんでしたが、聖マリアは自分のことよりももっと、御子と聖ヨゼフのことが気がかりになり、聖ヨゼフは御子と聖マリアの苦難に対し何もできないことが悲しくなりました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P154

 

 この270キロの砂漠の行程の間、大空と涯しない空間があるだけで、避難できるような所はありませんでした。この旅は二月、御潔めの日から第六日目に始まりました。砂漠の砂の上に座り、御母は御子を抱きかかえ、聖ヨゼフと一緒にガザから持って来た備蓄食糧をいただき、御子に哺乳しました。夜中、一万位の天使たちが人間の姿となって聖家族を守りました。御子は御自身の苦労を御母と聖ヨゼフの苦労に合わせ、永遠の御父に捧げました。御母にはそのことが判りました。御子の就寝中、御母は目覚めており、天使たちと話しました。聖ヨゼフは箱を枕にして砂の上に寝ました。翌日、旅している間に残っていた少しばかりの果物とパンはじきに食べつくし、聖家族は空腹になり、とても困りました。夜の九時までは何とかなりましたが、食物なしにはくこらえ切れなくなりました。食物を得るあては全くありませんでしたので、御母はお願いしました、「永遠、偉大にして強力なる神、素晴らしく富める御身を祝し、感謝します。何の価値もない私、塵であり役立たずの私に生命を下さり、私を生き永らえさせて下さることを感謝致します。何もお返しできないのに、お願いしたいことがあります。御身の御独り子のことをお考え下さい。御独り子を助けるため、私と夫の命を保つために必要なものをお与え下さい。」このお願いがもっと切実になるように、いと高き御方は自然が今まで以上に、苛酷に聖家族をいじめることをお許しになりました。暴風と豪雨が聖家族を覆いましたが、御子は風雨に打たれ、泣き、寒くて震えました。心配な御母は、やっと被造物の女王としての力を発揮し、創造主なる御子に害を加えず、避難所と食物を与えるように命令し、自分だけにはどんなに辛く当たってもよいと申し渡しました。直ちに暴風雨は弱まりました。幼児イエズスは、天使たちに最愛の御母を守るように命じました。天使たちは、人となった神、御母と御母の夫を包む輝く美しい球を作りました。この事態は旅行中、四、五回起こったのです。聖家族は食物その他にも窮乏していましたので、御母は祈願しました。主は天使たちに命じ、おいしいパン、味つけの良い果物や飲物を持ってこさせました。天使たちは、時を移さず貧者に食物を施す主を賛美しました。この三人の流浪者たちが助かったこの砂漠は、カザベルから逃げたエリアが天使が持って来たパンで助けられ、ホレブ山に辿り着くまで歩いたベルサベ砂漠です。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P155

 

 こうして幼児イエズスは、御母と聖ヨゼフと共にエジプトの人々の住む地域に到着しました。町に入る時、御母に抱かれたイエズスは、御目と両腕を御父の方に挙げ、悪魔の捕虜となっている住民たちの救いを願いました。王としての神の御力は、偶像の中から悪魔たちを追い出し、地獄の底に投げ込みました。雲からでる稲妻のようにピカッと光って、地獄の闇の一番下の穴の中に落ちて行ったのです(ルカ10・18)。同時に多数の偶像は地面に崩れ落ち、祭壇は粉々に砕け、寺院は廃墟に変わりました。この素晴らしい事態の原因を御母は良くご存知でした。というのは、御母自身、御子の共贖者として御子と共にお祈りになったからです。聖ヨゼフも、これが人となられた御言葉のなさったことであると知っており、主を讃美しました。しかし、悪魔たちは神の力を感じたものの、どこから来たのか見当がつきませんでした。エジプト人たちは、説明のしようがないこれらの出来事に驚きました。もっと物知りの人たちは、エレミヤがエジプトに滞在した時から、ユダヤの王がやって来て偶像の祭られてある寺院を壊すであろうということを知っていましたが、どのようにして起こるかは知りませんでした。人々全員が恐怖と混乱に陥ったことは、イザヤが預言した通りです(イザヤ9・1)。何人かの人々は、私たちの偉大なる貴婦人と聖ヨゼフのもとにやって来て、寺院と偶像の壊滅について話しました。これを良い機会に、智恵の御母は人々の誤解を訂正したのです。つまり、真の神は天地の唯一の創造者であり、この神だけしか崇めるべきではないことを教えました。その他の神々全ては偽で嘘の神々で、木、粘土か金属でできており、目も耳も力もないこと、こしらえた芸術家でも誰でも簡単に壊せること、人間の方がもっと高貴でもっと力があること、こしらえられた偶像が答える託宣は、中にいる嘘つきで騙かし屋の悪魔たちが言っていること、偶像その物は何の力もないこと、たった一人の真の神だけがおられることを説明しました。

 天の貴婦人は、とても優しく、大変生き生きしており、とても魅力的であるので、貴婦人の一行の到着はたちまち町々に知れ渡り、大勢の人たちが押し寄せました。人となられた御言葉の力強い祈りは、人々を改心させました。偶像が崩れ落ちたので大騒ぎとなり、人々は真の神を知り、罪を犯したことを悲しみました。イエズス、聖マリアと聖ヨゼフは町々を通りながら、人々を改心させ、偶像や憑依された人々の体から悪魔を追い出し、大勢の重病人を治し、真理と永遠の生命について教えました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P157

 

 昔の記録は聖家族がメンフィス、バビロン、マタリなどエジプトの町々に住んだことを示しています。私は聖家族がヘリオポリス(太陽の都市、現在のカイロ)に住んだことを書きましょう。守護の天使たちが御母と聖ヨゼフに、そこに定住するように指示したのです。ここでも寺院や偶像が壊れました。幸いなことに、名前のように、この都市の住民たちは正義と恩寵の太陽を仰ぎ見ることになりました。聖ヨゼフは都市から少し離れた所に、貧相ですが、何とか住める家を見つけ、御母に喜んでもらいました。三つの部屋の内、一つを幼子イエズスの部屋にして、揺りかごと剥き出しになっている長椅子を置きました。長椅子は御母の寝台になります。次の部屋は聖ヨゼフの寝室兼礼拝室です。三番目の部屋は聖ヨゼフの仕事部屋です。もともと貧窮している上、大工の仕事が見つからなかったので、御母は手仕事をして生計を立てることになりました。御母の針仕事が素晴らしいので、すぐに評判になりました。真の神人である御子の細々とした生計の助けになりました。大事な保存食品や着物、家具を慎ましく揃えるため、その他の支出を賄うため、御母は日中働き通しで、夜は霊的精進に励みました。普通の人たちと同じように働き、神の御子が食べていけるだけ働けるよう、永遠の御父にお願いしました。

 エジプトの酷暑と大勢の病人がいることが理由で、疫病が蔓延しました。ヘリオポリスや他の町々がその当時、荒廃しました。幼子イエズスと御母による奇跡的治療が知れ渡り、国中あらゆる所から大勢の人々がやって来て、霊魂と身体の病気を治してもらい、故郷に帰って行きました。主の恩寵がもっと豊かに流れ、最も親切な御母が慈悲の業を助けてもらうため、神は聖ヨゼフを御母の助手に任命しました。聖ヨゼフは啓示の光りと治療の力を頂きました。エジプトに来てから三年目のことです。聖ヨゼフは男性の癒しに当たり、祝された貴婦人は女性の手当てを受け持ちました。この二人の医療により、人々の霊魂に与えた影響は驚異的です。御母の絶え間ない恩恵と優雅な言葉は人々を惹きつけ、御母の謙遜と聖性は人々の心を献身的愛で満たしました。人々はたくさんの贈り物を持ってきました。御母と聖ヨゼフの稼ぎの足りない部分を補う他、貧者に施すため、贈り物を受け取りました。御母は御自分の手作りの品をお返しに人々にあげました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P158

 

 エジプトに滞在中の七年間、聖家族の行なわれた奇跡の全てを語ることは私にはできません。御母が全能者を最も敬愛するようになったのは、全能者が大勢の幼児の殉教の様子を見せて下さったからです。幼子イエズスを取り逃がすまいとして、ヘロデ王は生後八日の赤ちゃんから二歳までの幼児を虐殺しました。幼児たち全員は、神について高遠な知識、完全な愛、信仰と希望を頂き、神の信仰、崇拝と愛、自分たちの両親の尊敬と同情の英雄的な行為をしました。幼児たちは両親たちのために祈り、霊的生活を進展させるための光と恩寵が両親に下るように願いました。そして、喜んで殉教し、天使たちによりアブラハムの懐に運ばれました。幼児たちは聖なる先祖に会って喜び、古聖所からの解放が近いことを知らせました。幼児たちの幸せは、神のみことばと御母の祈りのお陰です。御母は感極まって叫びました、「子供たちよ、主を讃えなさい。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P159

元后の御言葉

 

 私の娘よ、人間は高貴な被造物です。主の御姿に似せて造られ、神々しい性質を与えられ、神を知り、愛し、仕え、そして、永遠に神と共にいる幸福にあずかるべきです。それなのに、誰にも危険を与えない赤ちゃんたちを切り殺すという残酷で嫌悪すべき情欲により、品位を落とし、汚れてしまいました。汝は大勢の霊魂の滅びを思い、泣くべきです。汝の生活しているこの時代に、ヘロデ王を刺激したのと同じ野心が教会の子供たちの心の中に憎悪を起こさせ、無数の霊魂の滅びを引き起こし、私の至聖なる御子の御血を流させることになりました。御血が流れたことを心から悲しむべきです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P159

第九章

イエズスとマリアの甘い交わり。エジプトからの帰国。

 

 イエズスは一歳になった時、沈黙を破り、養父として忠実に務めを果たしている聖ヨゼフに話すことにしました。御母との会話が御誕生の時に始まったことは、私が前に述べた通りです。御母と聖ヨゼフが御独り子を人々の救いのために世に送り、人となり、人々と話し、堕落した人性の罰を受けるように取り計らった神の無限性、善と有り余る愛について話し合っていた時です。その時イエズスは御母の胸に抱かれながら聖ヨゼフに話しかけました、「私のお父さん、私が天から地に降りて来たのは、この世の光りとなり、世を罪の暗黒から救うためです。良い羊飼いとして私の羊を探し、知るためです。羊たちに永遠の生命を与え、天国への道を教え、羊たちの罪により閉ざされていた天国の門を開くためです。御母もお父さんも光の子供たちになって下さい。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P160

 

 この御言葉は家長である聖ヨゼフの心を新たな愛、尊敬と喜びで満たしました。聖ヨゼフは跪き、お父さんと呼んで下さったことを感謝し、涙を流し、自分が御旨を果たせるよう導き、何物にも優る御子からの恩恵を感謝するよう教えて下さることをお願いしました。聖ヨゼフは肉親の父親ではなく養父ですが、御子に対する愛情は、普通の両親二人分の愛情よりももっと深いのです。

 イエズスが一歳の時、御母は普通の赤ちゃんが着るような着物を着せました。イエズスは他の赤ちゃんたちと違わないように、本当の人性を取るように、人間への愛を示すように、人間の不便さを耐えるように望みました。イエズスの人に対する無限の愛は、御母を主に対する感謝で一杯にし、英雄的諸徳を行うきっかけとなりました。御子が履物を必要としないで一枚の着物だけで十分と言ったのですが、抗議して言いました、「何か履く物が必要です。布地の荒い着物は御身の肌を傷つけるのに、御身は下着の亜麻布(リンネル)も不要だとおっしゃいます。」御子は答えられました、「御母よ、私の足には何かの覆いをしましょう。公生活が始まれば裸足になります。今リンネルは不要です。それは肉欲を助長しますし、人々の諸悪徳を引き起こします。私の模範により、私を愛し、模倣するように大勢の人たちに教えたいのです。」

 御母は直ちに御子の要望に応じました。自然のままで着色されていない羊毛を入手し、細い毛糸を紡ぎ、一枚の縫い目のない布を織りました。小さな織機を使い、横糸を通し、刺繍するように織ったので、綾織りのように少しデコボコした感じにでき上がりました。それは、しわもなく平らで均等であったことと、御母の要望により茶色と銀灰色の混ざった色が着いたことが二つの不思議なことです。御母は麻のような強い糸で靴を織り、幼児の神に履かせました。御母は下着も織りました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P161

 

 御子イエズスは歩けるようになってから、昼間の何時間か御母の祈祷室で過ごしました。御母の無言の問いかけに御子は答えられました、「私の御母、私といつも一緒にいて私の仕事を模倣して下さい。御母が皆の模範となり、人々の霊魂も御母の完徳を積むように。もしも人々が私の意図に反抗しなかったら、人々は私の最も豊かな賜物を得たことでしょう。人類が私を排斥したので、私は御母を全ての完徳と私の宝の器として選びました。私を見習うため、私のあらゆる行動をよく見なさい。」

 こうして天の貴婦人は、新しく御子の弟子になりました。御子が永遠の御父に向かって人間の救いのため祈る時、地面に平伏すか、十字架の形をとって起き上がりました。この全てを御母は真似ました。御子の外的行動だけでなく、心の中の動きも御母にはよく判りました。御母は御子の至聖なる人性と霊魂の動きを見ていつも喜びました。御子の人性が神性を敬い、愛し、讃えるという心の中の行為を感知したのは御母だけの特権です。例えば、御母の目の前で御子イエズスは泣き、血の汗を流しました。ゲッセマニの園でそのように苦しまれる前、何回も苦しみました。御母はその苦しみの原因がよく判りました。つまり、人々が滅びたこと、創造主と救世主の恩恵を感謝せず、主の無限の力と善の御業をその人たちが棄ててしまったことです。また御母は、御子が天の光で輝き、賛美歌を歌う天使たちに囲まれているのを見た時もあります。このような不思議なことは、御母だけが目撃したのです。

 ヘリオポリスの大勢の子供たちが御子イエズスのもとに集まって来ました。無邪気な子供たちは御子が人間以上かどうかを問わず、天の光を自由に受けたので、真理の先生である御子から歓迎されました。御子は子供たちに神や徳について教え、永遠の生命の道を大人たちよりもっとたくさん諭しました。御子の御言葉は生命と力があるので、子供たちの心を掴みました。イエズスと遊ぶという幸運を得た全ての子供たちは大きくなって偉大な聖人になりました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P162

 

 エジプトに於て御子イエズスが七歳か八歳になろうとした時、ナザレトに帰ることになりました。預言の通りです。御子と御母が一緒に祈っていたある日のこと、御二人は主の御旨を知りました。同じ日の夜、主の御使いが睡眠中の聖ヨゼフに話しかけ(マテオ2・20)、御子と御母をイスラエルの地に連れ戻すこと、ヘロデ王や御子の命を狙った人々は既に死んだことを告げました。いと高き御方は、家長である聖ヨゼフに旅の準備を任せました。聖家族は、より高い地位にある御子と御母に従う天使たちと一緒に、パレスチナに向かって出発しました。偉大な女王はロバに乗り、膝の上に神の御子を抱え、聖ヨゼフはそのすぐ後を歩きました。エジプトの友だちや知人たちは、偉大な恩恵者たちが立ち去ることを悲しみました。激しく泣き、嘆息をつき、恩恵者たちなしには何もできなくなることを大声で抗議しました。闇を追い散らした太陽が沈み(ヨハネ1・9)、惨めな夜が迫って来たからです。聖家族は神の助けにより、別離の辛さを乗り越えました。エジプトの色々な町を通りながら、聖家族は恩寵と祝福を撒きました。一行の近づくのを前もって知って、病気や悲しみに喘ぐ人々は沿道に集まり、身体と霊魂の治療を聖家族から頂きました。病人は治り、悪霊たちは病人から追い出されました。

 ナザレトへ帰って見ると、聖家族の家は、聖ヨゼフの従姉妹がよく留守番をしていました。ここに長く住みましたから、御子はナザレト人と呼ばれます。ここでは御子は年齢、恩寵と徳を重ね成長しました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P163

 

 御母は、御子と聖ヨゼフと一緒に家の中に入ると直ちに御子の前に平伏し、主を崇め、ヘロデの迫害から御子を救い、苦しい長旅の間、三人を助けて下さったことを感謝し、いつもの祈祷生活を始めることにしました。御子の救いの御業に御自身をいつも一致させることです。一方、聖ヨゼフは、神の御子と神の御母を扶養するという大事な役目を果たしました。額に汗して労働することはアダムの他の子孫たちにとっては罰でしたが、聖ヨゼフにとっては幸福でした。御母は聖ヨゼフの食事や身の回りの世話を心からの愛情で行ない、聖ヨゼフの言うことに従い、聖ヨゼフの召し使いの立場をとりました。親切にして下さる人たち、除け者にする人たち、自分を嫌々ながらも我慢してくれる人たち全員に感謝しました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P163

元后の御言葉

 

 私の娘よ、繁栄か窮乏は、この世について回ります。一事を嫌い、他事を喜ぶのではなく、全能者の御旨だけを考えなさい。人間の心は限られており、狭いので、好き嫌いのどちらかの極端に走りがちです。一人の人間により頼み、失望すると、もう一人の人間に自分の活路を見出そうとします。そうすると混乱と情熱の中に自分を失うことは目に見えています。主の御意志だけが、あなたの喜びとなるように。あなたの望みとか恐れが聖務を怠らせることのないように。いつも主を見つめるように、私を見倣いなさい。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P164

第五書

 御母はキリストに倣い、完徳に達する。恩寵の律法、信仰、秘蹟と十戒について御子が教え、御母が従う。聖ヨゼフの死。洗礼者ヨハネの説教。我らの救世主の洗礼と断食、使徒たちの召し出し。聖母マリアの受洗。

 

第一章

マリアの内的試練。イエズスは神殿に留まられる。

 

 聖家族がナザレトに落ち着かれてから御子が十二歳になられるまでと、その後、公生活に至るまでの御様子について、私が見聞きした事柄は莫大な内容があり、私はニ、三の出来事しか書くことができません。

 ナザレト帰還後まもなく主は、御母に少女時代と同じ修練をお望みになりました。御子と御母が、この世の新しい律法が刻み記されるための二枚の板になったのです。聖なる福音史家たちは、イエズスが十二歳の時、エルサレムで迷子になった時のことを記録した他、御母については触れていません。ナザレト滞在二十三年間、御母は、御子イエズス・キリストのたった一人の使徒でした。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P165

 

 この至純なる乙女が、神以外の全てを越えた高みに至るまで聖性を養うために、主から愛徳その他諸徳の力強さを試されました。そのため、主は聖なる乙女から遠ざかりました。主の輝かしい臨在も恩寵もあるのですが、内的に姿を消し、最も素晴らしい愛情の印も示さなくなりました。御子も内的になり、しょっちゅう一人きりでいることが多くなり、口数もとても少なくなりました。この予期せぬ説明もない変化は、私たちの女王の愛の純金を更に純化するための溶鉱炉となりました。女王は、自分が主の幻視を見せて頂く価値のない者であり、慈愛の御父に感謝しなかったと考えました。愛を失ったことよりも、主に十分仕えなかったり、落胆させたことを怖れました。自分の落ち度を嘆く御母の愛情を見て、御子は胸が痛くなりながらも、外面的にはよそよそしい態度をとりました。このような逆境にめげず、御母の心は益々愛に燃えました。深くへりくだり、御子を心から崇め、御父を祝し、御業の素晴らしさに感謝し、御旨に自分を献げ、信、望、愛と燃える愛の祈りを絶え間なく更新しました。御母のあらゆる行為から、甘い松のような芳香が御父に昇って行きました。また、涙ながらに自分の苦難について主に申し上げました。

 御母の願いに応じ、聖ヨゼフは長椅子をこしらえました。御母は毛布を一枚かけました。これがエジプト滞在の時から御子の寝台となりました。御母は毛糸で枕を作りました。しかし、この寝台に御子は滅多に寝ませんでした。御子は、自分のベッドは体を四方に延ばしてあおむけに寝られる十字架だけであると言われました。バビロンの人々が愛した物事によって、誰も永遠の休息を得られないこと、苦しむことはこの世の本当の休息であることを教えられました。御母は御子に倣い、御子のされるような休息の取り方をしました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P166

 

 御母の苦難は三十日間続きました。愛と神なしには一瞬間も生きられないと思う御母にとっては、何年間もの苦難に匹敵しました。また、この期間は、御子イエズスにとっても、御母に対する愛を見せないという苦しみの時でした。ある日、謙遜なる女王は御子の足許に平伏し、泣き、訴えました、「私の最愛なるいと高き善なる神、私は塵と灰にしか過ぎません。私が御身に対する奉仕に熱心でないなら、叱り、そしてお許し下さい。しかしながら、私の救いである御顔の喜びをお見せ下さい。それを拝見できるまで私は平伏し続けます。」この熱烈な嘆願以上に、御子はそれを望んでおられました。大変優しく仰せになりました、「私の母上、お立ち下さい。」御子は永遠なる御父の御言葉です。この御挨拶はたちまち御母を最も高揚された恍惚の中に引き上げました。この神の幻視の中で、主は御母を優しく迎え、御母の涙を喜びに変えました。主は新しい福音の掟の偉大な秘密を御母に授けました。至聖なる三位一体は、御母を人となられた御言葉の最初の使徒に任命し、あらゆる人々の模範にしました。あらゆる聖なる使徒たち、殉教者たち、教会博士たち、聴罪師たち、修道女たち、その他、御子が人類の救いのために建てる新しい教会の義人たちの模範となったのです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P166

 

 聖家族がナザレトに落ち着いてしばらくしてから、ユダヤ人がエルサレムの神殿に行き、主に御挨拶する時が来ました。出エジプト記や民数記に書かれてあるように、この義務は年三回あります。男性だけに義務があり、女性には義務が課されていません(出エジプト23・17)。女性は行っても行かなくてもよいのです。天の貴婦人は聖ヨゼフに相談し、人となられた御言葉にも助言を求めました。年二回は聖ヨゼフだけが一人でエルサレムに行き、三度目は三人が一緒に行くことに三人は取り決めました。イスラエル人が神殿に行くのは、幕屋祭、ペンテコステ(聖霊降臨)の祝日と、種無しパン、つまり準備の過ぎ越しの祝日でした。聖家族が一緒に行くのは、過ぎ越しの祝日になりました。何回も家族は行きましたが、神の御子が十二歳になった時、家族は神殿に出かけ、神の光が輝き渡りました。この過越祭は七日間続き、最初の日と最後の日が一番盛大でした。聖家族は他のユダヤ人たちと同様、七日間、礼拝と信心業を行いました。御母と聖ヨゼフは、人間には考えられないほどの恩寵と祝福を頂きました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P167

 

 祭りが終わり帰郷する時、御子は黙って両親から離れました。団体は男女別々に旅をして、ある地点で合流することになっていました。御子は一緒ではなかったので、御子は聖ヨゼフと一緒であると御母は考え、他方、聖ヨゼフは御子は御母と一緒に違いないと思い、二人ともそう思い込んでいました。御二人が合流し、御子がいないと判った時、驚きの余り、しばらく茫然としていました。やっと気を取り直した時、御子を見失ったことで苛責の年にかられました。愛すべき御母は聖ヨゼフに申しました、「私の夫、私の主人、心配でしようがありません。急いでエルサレムに取って返し、私の至聖なる御子を見つけましょう。」御二人はエルサレムに戻り、親戚や友人を訪ね回りましたが、誰一人として御子の所在を知る人はいませんでした。至聖なる御母は涙と嘆きに明け暮れ、三日間寝食を忘れました。三日目に砂漠に行き、そこで洗礼者聖ヨハネに尋ねてみようと思いましたが、天使たちに止められました。ベトレヘムの生誕の洞穴に行きたいと思いましたが、またもや天使たちに引き留められたので、御母は天使たちが主から口止めさせられていると気付きました。この時の御母は女王にふさわしく誠に偉大でした。御母の悲しみは、あらゆる殉教者たちの苦痛を全部合わせたものよりも、もっと深刻でした。天使たちと話す以外は何らの恩恵も与えられず、御母は御子の謎の失踪に苦しみ続けました。御母は、聖性、堅忍不抜と完徳、平安を保ち、怒りとか混乱、困惑など普通の人々が陥る苦しみには落ち込みませんでした。御母は天の秩序と調和を保ち、主に対する畏敬と讃美を忘れず、熱心に三日間ずっとエルサレムの街を歩き回ったのです。何人かの婦人たちに御子の特徴を質問されると御母は答えました、「我が子は色白で血色がよく、何千人もの中から抜擢されたのです。」一人の婦人は答えました、「その子だったら私の家に施しを乞いにやって来ましたよ。私は少し分けてあげましたの。気品が高く、ハンサムで、私はうっとり見とれました。その子があまりにも貧乏な様子なので、すっかり気の毒になったのですよ。」この最初のニュースで御母は少し元気になりました。他の人たちからも同様の知らせを聞き、清貧の開祖である主は病院に行かれたであろうと察し、病院に行って見ると、案の定、施しをし、慰めてあげたと判りました。御子のことを聞いて、御母は懐かしさが込みあげてきました。御子が貧乏人の所にいないなら、神殿にいるであろうという気がすると、御母はぐずぐずしませんでした。天使たちも御母に神殿に急いでいくように勧めました。その頃、偉大な家長である聖ヨゼフは、御母と離れ、他の地域を捜し回っていました。神の御子を心配するあまり、寝食を忘れ、行き倒れるかもしれないほどでした。御母が天使たちから勧められるとすぐに聖ヨゼフに会ったのです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P168

 

 さて、神の御子が旅の一団から離れ、エルサレムの街の中に戻ったのは、街の門のすぐそばでした。御自身の失踪により起こる全てを予見し、人々の恩恵のため、全てを永遠なる御父に捧げました。御子がその三日間、施しを乞いながら人々の家々を訪問したのは、清貧の家の長男として乞食生活をするためでした。貧者のための病院に行って、もらった施し物を与え、慰め、密かに身体の病気を治したり、大勢の病人の霊魂の健康を回復してあげました。御子が施し物をした何人かの人たちには恩寵と光をたくさん与えました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P169

 

 このようなことをし終えた後で御子は神殿に行きました。その日、学問を積んだ先生たちが集まり、救世主の来臨について討論していました。洗礼者聖ヨハネの誕生や東の王たちの来訪以来、不思議なことが起こったため、救世主の来臨または存在が噂されていたからです。著名な学者たちの前に、神のみことばは諸王の王として、無限の智恵なる神として現れました。威厳と恩寵をふんだんに与える御子に、学者たちは耳を傾けました。御子の説明に学者たち一同は驚嘆し、この子供はいったい何者かと口々に言い合いました。御子が説明を終了する前に、御母と聖ヨゼフが到着し、御子の話しに聞き入りました。御子を見つけて大喜びの御母は、御子に近寄り言いました、「我が子よ、どうしたのですか? 御身の御父と私は御身を探せずとても悲しみました」(ルカ2・48)。主は答えられました、「どうして私を探しましたか? 私が御父の御業に携わっていることをご存知ではなかったのですか?」ルカはご両親が御子の言葉を理解しなかったと言います(2・50)。御両親には御子の行動は隠されていましたし、その時は喜びでいっぱいで十分納得するひまはなかったからです。学者たちは素晴らしい教えを聞いてすっかり驚いて去って行きました。三人きりになると、御母は御子を優しく抱いて言いました、「我が子よ、私の心の悲しみと苦しみを言い表したことを赦して下さい。行方不明にならないで下さい。御身の手元に召し使いとして私を置いて下さい。私の怠慢のため、御身が立ち去られるなら、どうぞ私を赦し、ましな人間にして下さい。」神のみことばは御母を受入れ、三人はナザレトに出発しました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P170

 

 ナザレトでは御子イエズスは御母と聖ヨゼフに対して従順でした。神が両親に対して従順なことは天使たちの驚嘆の的でした。御母は聖ヨゼフの助けを得て、御子を自分の子供として取り扱いました。御母は、御子が戻って来られたことに心から感謝しました。それに値しないことを御母は十分に承知しており、御子への奉仕についてもっと愛情深く、もっと注意深くなりました。御子の世話をする時、御母はいつも素早く、いつも世話をする機会をうかがいました。御子のそばでいつも跪きました。御子は心から感動し、最も強い愛情で御母に結ばれました。御子の恩寵は御母の心の中に洪水のように流れ込みましたが、御母の心から溢れ出ませんでした。御母の心は大海のように大きいからです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P170

元后の御言葉

 

 私の娘よ、主が私から姿を消されたのは、私が悲嘆の涙にくれながら主を追い求め、ついに主を発見し、再び喜び、豊富な実を得るためでした。汝も同様に主をしっかりと抱きしめ、決して見失わないように熱心に主を探求しなさい。無限の智慧なる主は、私たちを主の永遠の幸福に至る道に導きましたが、そこまで行き着くかどうか私たちが疑うこともご存知です。疑っても最終の目的地に達したいという希望と、達せないのではないかという怖れがある限り、最大の邪魔者である罪を一生嫌悪することになります。この怖れ、不安、嫌悪は信望愛や自然な理解力に加えて必要です。主を忘れないように。主のおられない時にはそのことに気付くように。主を忘れると、たくさんのこの世の宝物やごまかしの楽しみを自分の物とし、それを自分の最終目的にします。この危ない愚行に注意しなさい。この世のあらゆる楽しみは気違いであり、この世が笑うことは悲しみであり、官能的快楽は自己欺瞞であり、心を酔わし、本当の智慧を壊す愚であることを弁えなさい。主を完全に抱くと主以外の何物にも喜べないのです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P171

 

 私たちの偉大なる貴婦人は、御子の最初の特別な使徒です。諸聖人の聖性と光栄は、我らの主イエズス・キリストの愛と功徳のお陰ですが、聖母の優秀さと比べると何の意味もなくなります。御独り子の生きているイメージとしての聖母には不完全さがありません。キリストの愛の極地が聖母に与えられました。聖母が主キリストから受けなかった恩寵を戴いている人は誰もいませんし、人々が戴けなかった恩寵も全て聖母は戴いております。聖母は諸聖人が各自の目的達成に向かう原動力となりました。聖母の優秀さを知るためには、主キリストが聖母にどうなさったかを、全教会建設のために払われた御努力と比較する必要があります。主は使徒たちを選び、導くために三年間努力されましたが、御母に御自身の聖性を刻み込むため三十年間を費やされました。神の愛の力は、片時も休むことなく働き続け、恩寵に恩寵を加え、賜物の上に賜物を重ね、祝福の後に祝福を与え、聖性に聖性を加えました。このようにして達成した聖母の偉大さは、太陽のように輝き、我々の目には眩し過ぎます。我らの救世主イエズス・キリストは、エジプトから帰国した後、聖母に、御自身が先生になることを明かしました。エルサレムから帰宅した後、聖母は神を見ました。この幻視はそれまでの直感的幻視ではなく、知的イメージであり、神性について新しいイメージで、神の秘密をたくさん示しています。恩寵の法則と御力について神の御旨を啓示しています。同時に聖母は、永遠の御父が封印された七巻の書(黙示録5・1)を御子に委託したことを見ました。小羊なる主が、御自身の受難と死により、教義と功徳により封印を破ったことも見ました。この本の秘密は福音と教会についての新しい律法にほかならないことを神は示されたのです。至聖なる三位一体は、聖母がこの本を読み、理解する最初の人になることを望まれました。御独り子が本を御母のために開き、その内容を全部御母に見せ、御母がその内容の通りに行動する最初の人になると判りました。この新しい契約は、御子の本当の御母に委託されたのです。永遠の御父と聖母の御子がこの御旨をどれほど喜び、御子の人性が聖母のために大喜びで従われたかを聖母は見通しました。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P172

 

 聖母は、この恍惚となる幻視から目が覚めると御子の許に行き平伏し、申し上げました、「私の主、私の光、私の先生、御身の御旨を成就するため、御身の価値なき母を準備されました。私を改めて御身の弟子として、召し使いとして任命して下さい。御身の智恵と力を発揮する道具として私を用いて下さい。御身の御旨と御身の永遠の御父の御旨を私により遂行して下さい。」御子は最も説得力のある言葉で、人類の救い、教会の設立と新しい福音の掟の制定に関して、永遠の御父が御子に申し渡された事業の深遠な意義について聖母に説明しました。聖母が御子の伴侶であり、共贖者であること、至聖なる貴婦人は御子の十字架上の死まで苦労とともにし、全く不退転でたじろがない気持ちを持ち続けることです。福音の掟の理解と実行についても御子は教えました。聖母は謙遜、従順、敬服、感謝と熱烈な愛で御子の教え全部を受入れました。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P173

元后の御言葉

 

 いと高き神は、光をあらゆる人々に与えます。人々が自由意志を濫用し、この光を罪により遮らない限り、光は神を知り、天国に入るよう私たちを導きます。主の教会に入る者は、神をもっと良く知ります。洗礼の恩寵は必然的諸徳や自分の努力によって達成できない諸徳だけでなく、この世的な諸徳や修練により獲得できる諸徳も与えます。これらの諸徳は、神の聖なる律法を熱心に私たちが守るためです。信仰の光の他に、福音の神秘をより良く理解し、善業に励むための知識と徳も、主は他の人々に与えます。汝は他の多くの世代の人たちよりももっと恵まれていますから、主に対する愛と、塵にまで自分をへりくだらすことに於て、人一倍の努力をしなさい。

 私は、主の御業を破壊しようとする悪魔のずる賢さについて警告しましょう。子供が物心つくようになるやいなや、悪魔たちにつけ狙われます。私たちが神を知り、徳を積むようになると、悪魔たちは怒り狂い、神が蒔いた種を地中から取り除こうと躍起となります。または成長するのを抑え、実を結ばせまいとし、悪徳や無用の事柄、その他、徳やキリスト者としての自覚、神の知識、救いや永遠の生命を忘れさせようとします。悪魔は、親たちに子供たちに対する卑しい怠慢の気持ちや肉感的愛情を吹き込みます。学校の先生たちを不注意になるように扇動します。従って、子供たちは悪に対抗するための指示がもらえず、多くの悪い習慣により腐敗し、諸徳を見失い、堕落していきます。

 しかし、最も親切な主は、この危険にいる人々を忘れません。主の説教師や司牧者を通して、教会の聖なる教えを授けます。主は秘蹟やその他多くの助力を提供します。救いの道を歩く者が少ないのは、子供の時に培われた悪徳や悪い習慣のためです。「子供の時のような日々を老人が暮らすことになる」(申命記33・25)と言われています。そのため、悪魔たちは子供の霊魂を捕まえ、子供に小さな取るに足りないような過誤を起こさせれば起こさすほど、大人になってから、もっと大きな罪をもっと頻繁に犯すようになると企んでいます。罪を一つ犯す毎に、悪魔に支配されるようになります。悪の惨めな軛が人間の首をもっと固く締めつけます。人間の霊魂は、自分自身の悪に踏みつけられ、断崖から落とされ、また次の崖から落とされ、奈落の底の方へどんどん落ちて行きます(詩篇42・8)ルシフェルは大勢の人間を地獄に投げ込みました。毎日、何人も投げ込み続け、全能なる神に対して鼻高々に威張っています。ルシフェルはこの世の暴君となり、人々に死、審判、天国と地獄を忘れさせ、異教や異端の暗黒の底へと諸国民を突き落としています。私の娘よ、神の律法と命令、カトリック教会の真理や福音の教義を忘れてはいけません。毎日、神の教えを黙想し、他の人たちに黙想するように勧めなさい。毎日実行する信仰、信頼を起こす希望と熱烈な愛は、全て痛悔と謙遜の心から始まるのです(詩篇51・19)。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P175

第三章

イエズスとマリアが人類のために祈り続けられる

 

 本書が我らの救い主イエズス・キリストと御母の御業を明らかにしようとすればするほど、言葉は不完全であることがもっとはっきりしてきます。私たちには理解できません。資格もありません。最高位の天使、セラフィムさえも、イエズスと御母の地上における生活中の秘密の核心に触れることはできません。私が今書き記すことは、恩寵の法がこの世の第六期に成し遂げられるかについてです。この第六期とは、今までの1657年間と、世の終わりまでの未知の未来を含む期間です。御母は、御子から教会の存続中の期間、諸国諸地方に起こる出来事の一つ一つについて教わりました。

 これら全ての隠された秘儀は、聖母の見すぼらしい祈祷部屋で教えられました。ここであらゆる神秘中の神秘である御言葉の受肉が聖母の処女なる胎の中で行われました。剥き出しの粗末な壁に囲まれただけの部屋が、新約の大祭司である我らの主イエズス・キリストの至聖所であり、祈りの部屋であり、御母に教える教室にもなりました。救いの御業や恩寵の宝庫について主は説明し、罪や忘恩の人々も救いを得られるように、永遠の御父に祈願しました。主は人類の罪や、感謝しない人々が大勢、地獄に堕ちることも予知していたので、その人たちのために自分が死ぬことを考え、血の汗を何回も流したのです。聖木曜日の晩、御受難の直前の時だけ血の汗を流されたのではありません。

 祈られる時、我らの主は跪いたり、十字架の形をして床に伏したりして祈られました、「ああ、至福の十字架よ! お前の横木の上に私の両腕が置かれ、釘付けにされ、あらゆる罪人たちを歓迎するのはいつであろうか? 汝ら盲人たちよ、光である私の許に来なさい。汝ら貧しい人たちよ、私の恩寵の宝庫の所に来なさい。汝ら小さい者たちよ、本当の御父の胸に飛び込みなさい。汝ら苦労し疲れきった者たちよ、私は汝らを元気にしてあげよう(マテオ11・28)。汝ら義人たちよ、私の遺産を受け継ぐため来なさい。汝らアダムの子供たち全員よ、来なさい。私は全員に呼びかける。私は道、真理、生命である(ヨハネ14・6)。汝らが望むものは何でもあげよう。私の永遠なる御父よ、御身の被造物なる人々を見棄てないで下さい。私が十字架上の犠牲として私自身を捧げますから、人々の正義と自由を回復させて下さい。人々が少しでも協力したければ、私は人々を御身の胸に連れ戻せます。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P176

 

 主の祈りの間中、御母はおそばで同じ姿勢で主の御旨に心を合わせました。主が口に出されたこと、胸の内に抱くこと全ては御母の祈りとなりました。御子の血の汗を見て御母は悲しみで一杯となり、人々の罪と忘恩がどれほど御子を苦しませるかを嘆き、叫びました、「ああ、人の子らよ、主があなた方をどれほど大切にされておられ、あなた方のために血を流し給うことを軽んじています。主を愛し、仕えなさい。感謝する人たちや義人たちは幸いです。人々が光と恩寵に満たされ、救い主を受入れますように。私はアダムの子らの奴隷の中でも下っ端の奴隷となりたいと思います。人々が罪を棄て、地獄に堕ちないように少しでもお手伝いしたいと思います! 主よ、私の霊魂の命と光よ。御身の祝福を感じないほどの頑固者はいるでしょうか? 御身の燃える愛を無視するほど忘恩の者はいるでしょうか? ああ、アダムの子らよ、あなた方の人でなしの残酷さを私に向けて下さい。気のすむまで私を軽蔑して下さい。主だけを敬愛して下さい。我が御子なる主よ、御身は光の光です。永遠の御父の御子、御父と全く同じ御子、永遠、不滅、広大無辺であられます。」御母は、御子の御顔から血と汗を拭いました。他の時には、御子は光栄に輝き、タボル山の御変容のようでした。大軍の天使たちが御子の周囲で讃美と感謝の歌を美しく歌いました。御母もコーラスに参加しました。主の御受難にも御光栄にも、御母は全身全霊で参加し、全能の御父の計り知れない審判には、御自身を塵にまで引き下げ、尊敬を表しました。全てに於て全能の御父の御旨に叶いました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P177

元后の御言葉

 

 私の娘よ、あなたの言行が主の言行に一致するかどうか、あなたが主を崇め、隣人のためにする意志を持っているかどうかをよく見極めなさい。それが確かになったら直ちに主と一致して、主を見倣って行動に移りなさい。私自身、主なる先生をいつも見倣い、全くためらわず、完全に主を模倣することだけを望みました。今日から私を先生にしなさい。何事もする前に、母であり先生である私に相談し、許可を願いなさい。私の返事を聞いたらすぐに主に感謝しなさい。私があなたの度重なる質問に答えない時は、主が御旨について教えて下さいます。全てに於てあなたの霊的指導者に導きを請いなさい。このことをしっかり覚えておきなさい。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P178

第四章

聖ヨゼフの幸いなる死

 

 八年間聖ヨゼフは病気にかかり、毎日、苦しみと神に対する愛の溶鉱炉の中で益々清められました。体が衰弱していく日々、聖母の手厚い看護を受けました。聖ヨゼフの命が長くないことを知り、聖母は御子にお願いしました、「いと高き主なる神、永遠の御父の御子、世の救い主、御身の光により、御身の召し使い聖ヨゼフの死が迫っていることが判ります。御身の慈悲により、聖ヨゼフが死に直面するのを助けて下さい。聖ヨゼフが平和と、御身が天の門を開く日に永遠の報酬を受けるという希望を持って旅立ちますように。御身の僕、聖ヨゼフが忠実い熱心に御身と私を扶養したことを考えて下さい。」我らの主は答えられました、「私の御母、あなたの要望も聖ヨゼフの功徳も素晴らしい。今私は聖ヨゼフを助け、私の民の王たちの仲間入りをさせましょう。他の人々にはしないことを、あなたの夫にしてあげましょう。」御母は御子に感謝しました。九日間、毎日毎晩、聖ヨゼフの枕元に御母か御子が付き添いました。主の命令により、天使たちは一日三回、九日間、天の音楽を主の讃美と聖ヨゼフの祝福のため奏でました。聖家族の家は芳香に満たされ、近くを通る人たち全員をとても生き生きとさせました。

 逝去前のまる一日の間、聖ヨゼフは神の愛に燃え、恍惚の中に包まれました。恍惚の中で聖ヨゼフは神の真髄を明瞭に見、その中に信仰箇条の全てを見ました。理解できない神性、受肉と救いの神秘と、全秘蹟を遂行する戦闘の教会を見ました。聖三位一体は聖ヨゼフに、古聖所にいる聖なる王たちや預言者たちに伝言することを命じました。そのメッセ―ジは、アブラハムの胸から置き上がり、永遠の休息と幸福に向かう準備をするようにということです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P179

 

 この恍惚から我に返ると、聖ヨゼフの顔は輝いており、霊魂は全く変わっていました。聖ヨゼフは妻である聖母に祝福を願いましたが、聖母は御子に祝福を頼みました。御子の祝福の後、御母は聖ヨゼフの祝福を請い、受け、祝福してくれた手に接吻しました。御母自身の名前により、リンボにいる諸聖人に挨拶するよう頼みました。それを承知してから聖ヨゼフは、御子と御母の奉仕を十分できなかったことを詫びました。御子に、自分の生涯、特に臨終に於て頂いた祝福全てを感謝しました。御母に向かい、申しました、「御身は女と義人の内にて祝せられ給う。天使も人も御身を讃うべし。全人類は御身の威厳を知り、誉め、敬うべし。御身を通していと高き神の御名は世々に至るまで知られ、崇められ、高揚さるべし。神と天使の宝なる御身を創造せる神は、永遠に讃美されんことを。天国に於ける再会を我、望むなり。」聖ヨゼフは我らの主イエズス・キリストに向かい、跪こうとしましたが、主がそばに来て腕に抱きました。聖ヨゼフは挨拶しました、「我がいと高き主なる神、永遠の御父の御子、世の創造主にして救世主よ、御身への奉仕に於ける我が失策を赦し給え。御身の真の御母の夫として我を選び給いしこと、心より感謝し奉る。御身の栄光を永遠に感謝し奉る。」主は仰せられました、「我が父よ、平和と我が永遠なる御父の恩寵の内に住み給え。迫れる救いの知らせをリンボの義人たちに伝え給え。」主の御言葉を聞き、いと幸いなる聖ヨゼフは息絶えました。主は聖ヨゼフの目を閉じました。天使たちは高らかに歌い、聖ヨゼフをリンボに連れて行きました。聖ヨゼフは救い主の養父として崇められ、救いの近いことを知らせ、皆から大歓迎されました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P180

 

 長期間の病気が聖ヨゼフの死の原因ではなかったことを私は書かなければなりません。聖ヨゼフの神に対する愛により、死はずっと前に可能でしたが、この愛に対して主は時を延ばされました。この延期により、聖ヨゼフの死はより以上に愛の勝利となりました。時期がやっと到来し、聖ヨゼフの神に対する愛は開花し、自然死をすることになりました。死は身体の眠りであり、真の生命の始まりですから、聖ヨゼフの病床生活の最も輝かしい時であり、愛の勝利の時でした。その時聖ヨゼフは六十歳とニ、三日の年齢でした。三十三で至福の乙女と結婚し、二十七年あまりの結婚生活を送りました。聖ヨゼフの死の時、聖母は四十一歳と六ヶ月の年齢でした。その時、三十三歳の身体の若さがありました。御母には老衰の影は全くなく、女性として最も完全な状態を保っていました。聖ヨゼフは完徳と聖性に於て傑出していましたし、御母の保護者、恩恵者ですから、御母は当然聖ヨゼフの死を悼みました。

 聖ヨゼフと他の聖人たちとの違いを私は知りました。聖人たちが恩寵を自分の功徳なしに頂いたのは、自分の聖性を高めるためではなく、他の人たちを助けるいと高き神により良く仕えるためでした。一方、聖ヨゼフは自分の完徳達成のため恩寵を頂き、至聖なるマリアの夫としてふさわしくなりました。この奇跡的聖性は、聖ヨゼフが母の胎内にいる時、神が作り始めました。精巧な霊魂と調和された心の住居としての身体が作られました。母が妊娠七ヶ月の時、聖ヨゼフは聖別され、罪の芽は生涯中取り除かれ、不純な思いは全く起こりませんでした。聖ヨゼフが聖別された時、本人は気付きませんでしたが、母は聖霊の喜びを感じ、実情を判らなかったものの、自分の胎内の子、聖ヨゼフが素晴らしい人になるであろうと信じました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P181

 

 聖ヨゼフが生まれた時、大変美しい赤ちゃんで、両親や親戚一同とても喜びました。洗礼者聖ヨハネの誕生と同様、人々を幸せな気持ちにしましたが、その訳ははっきり判りませんでした。主は聖ヨゼフの知能の発育を早め、三歳の時には完全なものとしました。その時以来、この子供は神を信仰と常識と科学により万物の創造主として認めました。先生の教えをよく聞き、深く理解しました。幼い時に既に最高度の祈祷と黙想、諸徳実践に励みました。七歳の時、既に知能と聖性に於いて完璧でした。聖ヨゼフは可愛らしく、雄弁で誠実、天使的で完徳に進み、何ら罪科のない生活により、至聖なるマリアとの婚姻に向かって前進しました。

 聖母は聖ヨゼフに嫁ぐと主から告知されるとすぐに、御自身の最も貞潔な思いと希望に叶うよう聖ヨゼフを聖別し、鼓舞して下さるように主にお願いしました。主は、聖ヨゼフの霊魂の中に諸徳の最も完全な習慣や賜物を注入しました。貞潔の徳の完成はセラフィム以上に高められました。動物的感覚的不純は、一瞬間たりとも聖ヨゼフの霊・身のどこにも存在しませんでした。他の諸徳、特に愛徳に於ても聖ヨゼフは抜き出ていました。神に対する愛のため、聖ヨゼフは病気になり逝去しました。御子と御母に強く結びつけた愛により焼かれたのです。御二人の愛にふさわしく応じた聖ヨゼフは、人間の中で最も幸せです。主が他の誰にも示したことのない愛を聖ヨゼフに与えたので、万民が世々に至るまで聖ヨゼフを崇めるべきです。

 聖ヨゼフは御子と御母の間柄を知り、主の養父として、御母の真の夫として生きたことが聖ヨゼフの真面目ですが、聖ヨゼフが私たちの祈りを取り次ぐことについて次の七点を私は示したいと思います。第一、純潔の徳を得、肉体の感覚的傾向に打ち勝つため。第二、罪から逃れ、神との友情に必ず戻るため。第三、至聖なるマリアに対する愛と信心を高めるため。第四、幸せな死と、臨終に於て悪魔に対する守護を得るため。第五、聖ヨゼフの名前を唱えるだけで悪魔を怖がらすため。第六、身体の健康とあらゆる種類の困難に於ける助けを得るため。第七、子宝に恵まれるためです。もちろん、その他色々の取次を聖ヨゼフにお願いし、神から叶えてもらうことができます。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P182

元后の御言葉

 

 私の娘よ、聖ヨゼフはあなたの記したように、天国に於て諸聖人の中で一番高貴な方ですが、天国に来るまでは、誰も聖ヨゼフの傑出した聖性を十分に理解できません。人類は私の夫の特権をあまりにも低く評価しています。聖ヨゼフが神に何を頼めるかを判っていません。聖ヨゼフは神から大変愛された方で、神の罰を止めるように力を発揮します。あなたは大勢の人たちに聖ヨゼフへの信心を勧め、あなたの修道女たちが聖ヨゼフへの信心に邁進するのを見届けるべきです。聖ヨゼフに依頼する人たちにその資格がなくても、主は聖ヨゼフの仲介を聞き入れて下さいます。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P182

第五章

聖母が御子を永遠なる御父に犠牲として捧げる。イエズスはナザレトを離れる。

 

 私たちの偉大な女王である聖母の神の御子に対する愛は、聖母の感情や行動を計る標準の尺度です。この標準は、人間も天使も測れません。一応の説明をしますと、聖母はイエズスを永遠なる御父の御子、つまり神として愛しました。自分の息子として愛しました。また、イエズスを聖人中の一番偉大な聖人として愛しました。御子は御母の孝行息子であり、最も壮大な恩恵者でもありました。御子は御母をあらゆる被造物よりももっと高め、神の宝を贈り、被造物を支配する権利もお与えになりました。他のどの被造物にも与えられないこの御恵みについては、御母だけが理解できます。御母の御心は至純、謙遜、信心深く、注意深く、最も熱心、絶えず主の愛を思い、主の愛の学校で主である先生を見習いました。御母は、正義の太陽である主の光を受け、輝く満月のようです。御母は、あらゆる被造物に対する執着心をなくし、太陽の光により全く変容しました。神から受けた愛のお返しとして、御母の全ての愛と希望を神に差し出すことになります。永遠の御父がアブラハムに独り息子イサクをいけにえとして捧げるように命令された(創世記22・2)ように、御子を犠牲として捧げることです。その犠牲の時が近づいてくるのを御母は御承知でした。その時、御子は三十歳になっておられましたので、御子が人類の贖いをする時は迫っていました。御母は幻視の中に包まれ、聖三位一体の御前に呼ばれたように思えました。次のような御言葉がありました、「マリア、我が娘にして浄配よ、我に汝の独り子を犠牲として献げよ。」全能の神の御旨が伝わり、至聖なる御子の御受難と御死去による人類の救いの御命令と、救い主の説教と公生活の間に起こるであろう全ての事柄が見てとれました。この知識が御母の霊魂の中で更新・完結すると、従順、謙遜、神と人に対する愛、御子が苦しまれることの同情と優しい悲しみに満たされました。

 しかし、決してうろたえない高潔な心で御母はいと高き神に返事をしました、「永遠の王、無限の智恵と善の全能の神、全ては御身の慈悲と善のお陰で存在しております。御身は全ての不滅なる主でございます。御子を犠牲として引き渡すよう命令されるのはいかなることでしょうか? 永遠の御父よ、御子は御身のものでございます。永遠に御子を産み、永遠に所有されておられます。私の胎内で私の血により、人間としての御子を形作り、私が御子に哺乳し、母としての役目を果たしたとしても、御子の聖なる人間性も御身のものでございます。私の存在の全てと私が御子に与えたものは御身より頂きました。御身のものでないものを私が御身に捧げられるでしょうか? いと高き主よ、壮大にして慈悲なる御身は被造物に無限の宝を山ほど下さいましたので、御身御自身の御独り子を御身に贈ることを御身はお望みになります。御子は私の徳の中の徳、私の霊魂の命、私の喜びの全てでございます。御子の真価を知るただ一人の御身に御子をお渡しすることは甘美なる特権となりますが、御子を残酷な敵の手に渡し、被造物よりも貴重な御命を失わせることは、母親の私に取り大きな犠牲でございます。しかしながら、私の意志ではなく、御旨が行われますように。人類に神の子の自由が戻されますように。御身の御名が全被造物に知られ、尊まれますように。私の胎内より生まれた御子を献げ、御身の不変の御命令に従います。御子がアダムの子らの過失による罰を正しますように。御身の聖なる預言者が書き、予告したことが、御子の死により成就されますように。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P184

 

 この犠牲は天地創造以来、世の終わりに至るまで唯一最大、最も効果のある犠牲です。御母の犠牲は御子の犠牲に関連しています。御母にとり、御子の命の方が自分の命よりも大事でした。御母の御子に対する愛の深さは、永遠の御父の御子への愛を尺度として測ることができます。我らの主イエズス・キリストがニコデモに、神は人々を愛するが故に御独り子を人々に引き渡し、神を信じる者は誰も滅びないようになさったと言われました(ヨハネ3・16)。私たちの救いは、同様に御母のお陰です。御母が私たちを大変愛して下さったので、私たちの救いのため、御子を私たちに与えて下さったのです。御母の御意志は永遠の御父の御意志と一致したのです。御母の犠牲に報いるため、聖三位一体は悲しみの御母を慰め、永遠の御父の御意志について説明しました。そのため、御母は神の幻視の中に包まれ、神を直感的に幻視しました。人となられた御言葉の御業を理解し、御業が神となることを見て歓喜し、自分の御子を御父に捧げる御約束を更新しました。誰にも負けない堅忍を持って、御子の共贖者と助手となるよう、神から助けて頂きました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P185

 

 この幻視により、御母は御子と別れる準備ができました。御子は洗礼を受け、そして砂漠に行き断食することになりました。御子は御母に申し上げました、「母上、私はあなたから生れ、人間となりました。あなたの胎内で人間という僕になりました。あなたは私に授乳し、私を育て、苦労しました。ですから、私は普通の意味での息子以上に母上の息子です。私が永遠の御父の御旨に従うことに同意して下さい。母上の許を離れ、救世の業を始める時が来ました。休息の時は終わり、アダムの子らを助けるため、苦しむ時が来たのです。母上のお助けを得て、御父の御業を成就したいのです。受難と十字架上の死を準備する時、母上は私の伴侶・助手になることになっております。私が今別れても、私の祝福と保護は母上に残ります。後に帰って来た時、母上の助けと同伴をお願いします。」この時、御二人は大泣きしました。主なる御子は御腕を御母のうなじに回し、御二人とも苦しみを耐え忍ぶ大家としての威厳と気風を備えていました。御母は御子の足許に跪き、答えました、「私の主なる永遠の神、御身は正真正銘の我が子です。御身は愛に充ち満ち、私はそれを授かっております。御身の命を私が助けられるならば、または、私が御身のために何回も何回も死ぬことができるなら、私の命はどうなっても構いません。私の意志ではなく、永遠の御父の御旨が成就されますように。そのために私の意志を犠牲にいたします。私の犠牲をどうぞ受け取って下さい。御身の受難と十字架の死に私が参加できないことほど私にとって辛いことはありません。」御母は御子に、旅の食料を渡したかったのですが、御子は同意しませんでした。聖家族の見すぼらしい家の出口で御母はもう一度跪き、御子の祝福を頂き、御足に接吻しました。御子はヨルダンに向かって歩き始めました。迷った羊を探し、肩に乗せ、永遠の生命に向かって連れて行くためです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P186

 

 その時、我らの救い主は三十歳と一ヶ月になったばかりでした。洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けました。私たちの先生である神は、救世の目標に向かい、歩みを早めて苦しみの時間を短くしようとしませんでした。救い主が受けるべき受難と十字架により、私たちに幸福を獲得して下さったのは、主の計り知れない愛と善により私たちの幸福を重んじて下さったからに他なりません。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P186

元后の御言葉

 

 私の娘よ、御子の御受難と十字架には大変な価値があり、十字架の道行きに参加する人々にもその価値があることを私は理解しました。従って、私自身も御子に付き添い、御子の悲しみと苦しみ全てを共に受ける許可を御子に願い、頂きました。その苦しみの期間、神がいつも下さる喜びを抹消して下さることもお願いし、そうして頂きました。御子は私を心から愛しておられるので、私のこの願いは御子の希望でもあったのです。喜びが消えると御子はよそよそしくなり、私をカナの婚宴や十字架刑の時、私を母と呼ばず、婦人と呼ばれたのです。御子自身の苦しみと私の苦しみを一致同化するための印です。

 私たちの内、ほとんど全員は、自己犠牲と十字架への本当の道を嫌がり、怖がります。そして、この世の真の最高の祝福を失います。受難は、罪からの回復のための唯一の手段であるから、苦しみを避ける限り、回復は不可能となります。苦しみと悲しみにより、罪の湯気は減り、情欲は押し潰され、誇りと高慢は引き下ろされ、感覚はコントロールされ、悪への傾向はなくなります。自由意志は理性による枠の中に入れられ、情欲に我が身を任すことはなくなるでしょう。神の慈愛は、苦しみ悲しむ人々の上に注がれます。この苦しみの意味を知らない人や、苦しみから逃れる人は、愚かか気違いです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P187

第六章

キリストの受洗と断食。聖母も断食する。

 

 ベタニア、またはベタバラと呼ばれる街に近く、ヨルダン川が流れています。街と反対側の岸で、御子の先駆者聖ヨハネが説教したり洗礼を授けていました。そこに向かうイエズス・キリストは、それまでいつも一緒だった御母も、その他誰のお供なく、全くひとりぼっちでした。御子は行く道の途中たくさんの所で、大勢の人たちの身体と霊魂の苦しみを和げました。しかも、こっそりとしてあげたのです。ヨルダン川に近づく前、御子は洗者聖ヨハネの心を新しい光と喜びで満たしました。これを感じ、洗者聖ヨハネは言いました、「これは何の神秘か? 私が母の胎内で我が主を感知した時より、このような喜びを感じたことはなかった。救世主が私のそばに来ておられるのか?」そして、知的な幻視を見て、御言葉が降臨し、人となられたことなどの神秘が明瞭になりました。福音史家聖ヨハネは、御子が砂漠におられたこと、ヨルダン川に来られた時のことを書き記しています。先駆者聖ヨハネは叫びました、「見よ、神の小羊を」(ヨハネ1・36)。主は群集の仲間入りをし、その内の一人として先駆者聖ヨハネによる洗礼を願ったのです。洗者は主の足許に平伏し、言いました、「私こそ御身から洗礼を受けなければなりません。御身が私の洗礼を求められるとは?」救い主は答えられました。「今はそうしなさい。あらゆる正義を成就するためです」(マテオ3・13)。洗者聖ヨハネが我らの主の洗礼を終えた時、天が開き、聖霊が鳩の御姿で主の頭上に降り、御父の声が響きました、「これぞ我が愛子なり、我が心に叶う者」(マテオ3・17)。そばにいた人たちの多くは御声を聞き、聖霊が主の上に降りてくるのを見ました。このような恩恵に値しない人たちの見聞きしたことは、救い主の神性、御父の神性、証言の性質について確固たる証拠になります。また、御子は過ちも罪もないのに、罪の赦しのための洗礼を受け、謙ったのですから、この御子の名誉の証拠になります。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P188

 

 御子が洗礼を受けたことは、御母は察知していましたが、天使たちの報告も受けました。天使たちは、救い主の御受難の盾を抱えています。御子の洗礼と神性の公表の神秘を祝うため、御母はいと高き神と、人となられた御言葉に対する讃美と感謝の新しい歌を歌いました。人々が洗礼の秘蹟により御恵みを受け、洗礼が全世界で行われるように祈りました。被造物の手から洗礼を受けて謙った御子を、自分と一緒に天使たちが崇めるように願いました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P189

 

 洗礼の後、直ちに我らの主イエズス・キリストは砂漠に入りました。天使たちがお供をして、主が人類を救おうとしておられることを讃えました。草木に被われていない突き出た岩壁の間に、格好の洞穴のある所に来たイエズスは、そこを自分の隠れ家となさいました。地面に伏し、永遠の御父を讃美し、御父の御業と、この洞穴を与えて下さったことを感謝しました。御自分にこの隠遁の場所を与えてくれた砂漠にも感謝しました。十字架の形をして主は、人々の救いのため、永遠の御父に祈り続けました。ここで四十日間完全な絶食を耐え忍びました。流行している意地汚い貪食・大食の罪と混乱に対する償いとして、御自身の断食を永遠の御父に捧げました。主は他の全ての悪徳も克服しました。人間の諸悪による破壊に対する償いを永遠の裁判官なるいと高き立法者にしました。我らの救い主は、最初は御父に対する仲介者となり、後に説教者・教育家となったのです。

 神の子供である人間が諸々の大罪を犯したので、最も恐るべき罰を受けなければならなくなったので、人々をそのような将来の過酷さから救うため、神は所有しておられる全てを犠牲にしました。つまり、御子イエズス・キリストがその犠牲となりました。御子は我々の貪欲に対して貧しくなり、我々の卑しい色欲に対して罰として厳しい戒律の生活を送り、我々の復讐心や怒りに対して柔和と愛徳を実行し、我々の怠慢に対して絶えざる労働を続け、我々のごまかしや嫉妬に対して公正な誠実、真実、優しさで応じました。このようにして主は、公正な裁判官である神の聖心を宥め、不従順な私たちの赦しを乞い、更に新しい恩寵を私たちに得て下さいました。お陰で私たちは主の友だちになれ、主の御父の御顔を拝見し、永遠に主と共に神の子供となる資格を頂きました。私たちにこのような恩寵全てを下さるために御子はほんの少しして下さるだけで十分でしたが、御子は有り余る愛情を私たちに注いで下さいました。どのようにして私たちは恩知らずを通し、頑固に心を閉ざすのでしょうか?

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P190

 

 御子が断食されていることは、啓示と幻視により御母によく判っていましたが、天使たちはいつも御母に報告しました。天使たちは御両人のメッセ―ジを相互に伝えました。従って御二人はいつも同じ祈りを同じ時に唱えました。御子が断食を始めるのと同時に御母は祈り部屋に四十日間引きこもり、一切食べませんでしたので、隣人は、御母は御子と共に旅に出たと思い込みました。

 御子が砂漠で祈った時、御母も祈り部屋で跪きました。御子のなさった全てを御母は真似して行いました。御母は御子の助手となり、私たちの仲介者となりました。

 我らの救い主イエズス・キリストは、イエズスも聖なる義人に過ぎないというルシフェルの思い込みを、思い込むままに放って置かれたので、ルシフェルはこの義人に挑戦しようと執念を燃やし、誘惑して負かそうとします。この砂漠の戦いで、イエズスの手強さがすぐに判り、地獄の全軍団を叱咤激励し、イエズスに総攻撃をかけました。イエズスはルシフェルに対し、神の智恵、善、正義、公平を武器にしました。人間として闘う以上、イエズスは永遠の御父にお願いせざるをえませんでした、「我が御父にして永遠なる神、私は敵と開戦し、相手の攻撃力を砕き、高慢な鼻を潰し、私の愛せる民たちに対する悪意を止めさせようと思います。ルシフェルの思い上がりに対戦し、彼の頭を打ち砕きたいと望みます。そうすれば、過失のない人々が彼に攻撃されても、彼は既に負けたのだと見てとれるのです。御父よ、私たちの敵に人々が勝つため、人々を強めて下さい。私の勝利を見て励まされ、勝つ方法を知りますように。」 この闘いは、天使たちや御母が目撃するところとなりました。御断食の三十五日目に始まり、四十日目まで続きました。ルシフェルは人間の姿で赤の他人として現れました。天使のように光に包まれていました。長い断食の後、主が空腹で困っていると考え、言いました、「あなたが神の子なら、石がパンになれと言いなさい」(マテオ4・3)。この質問は、主の関心は何かを知ろうとするためでしたが、主は言葉少なに答えられました、「人の生くるはパンのみにあらず、神の御口より出ずる全ての御言葉のためなり。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P191

 

 この御言葉ではね飛ばされそうになったルシフェルは決して弱みを見せず、戦いをあきらめませんでした。主はルシフェルの挑戦を受け、神殿のてっぺんまで運ばれることも許しました。主が落下し、かすり傷一つ負わないのを下の群集が見れば、主を神の偉人と宣言することになるでしょう。聖書の言葉を引用してルシフェルは言いました、「あなたが神の子なら、身を投げなさい(詩篇91・11)、神は天使たちに命じ、あなたを途中で受け取り、あなたの足は下の岩に当たらないと聖書にある」(マテオ4・6)。この時、無数の悪魔たちが主の周りに集まったので、地獄はからっぽでした。主は御答えになりました、「汝の主なる神を試むべからずの御言葉も記されたり」(申命記6・16)。この柔和、謙遜、威厳に満ちた言葉はルシフェルを打ちのめし、勝敗を決したかのようでした。

 それでも、もう一つの方法でルシフェルは主を攻めました。主を高い山の頂上に連れて行き、方々の国々を見せ、言いました、「もしも平伏して私を拝めば、これらの国々全部をあなたにあげよう」(マテオ4・9)。ルシフェルは何も持っていません。地球、星、王国、主権、富も宝も全て主の物です。ルシフェルの約束はでたらめです。王なる主は威厳をもって答えました、「気違い、去れ、悪魔よ、汝の神なる主のみを崇め、主にのみ仕えるべしと書かれたり。」この御言葉と共に、主はルシフェルと部下の軍団を地獄の最も深い底に投げ込みました。彼らは深い洞穴に叩きつけられ、埋め込まれ、三日間、身動きできませんでした。やっと起き上がれた時、自分たちを圧倒した御方が人となられた神の御子かもしれないと思いましたが、救い主の御死去まではっきり判らないままでいました。ルシフェルは激怒して体中を震わせました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P192

 

 勝利の我らの主は、永遠の御父に讃美と感謝の歌を歌いました。大勢の天使たちも参加し、主を砂漠に連れ戻しました。

 ナザレトでは御母が御子の戦いの様を全部目撃しておりました。天使たちも絶え間なく御子と御母の間を行き来してお互いのメッセ―ジを御二人に伝えたので、御母は御子の祈りを繰り返しました。御子も同時に御母の祈りを唱えました。御母もルシフェルと部下たちを叱りつけました。悪魔たちが御子をあちこちに運んだ時、御母は、はらはらと涙をこぼしました。御子が勝った時、御母は神と御子の至聖なる人性を讃える歌を作詞し、天使たちがそれを作曲しました。御子は喜びを御母に天使たちを通して伝えました。

 私たちの主はヨルダン川に向かいました。そこでは洗者聖ヨハネが洗礼を続け、主を待ち焦がれていました。主が来られるのをもう一度見て彼は叫びました、「見よ、神の小羊を、世の罪を除き給う御方を。私の後に来られる方は私に先んじておられる。私の生れる前からおられるからであると私が言ったその御方である。私はこの御方をよく存じ上げなかったが、イスラエルの中に有名になるであろう。この御方の先払いとして私は水により洗礼を授ける。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P193

 

 この場所に居合わせた者二人が主の最初の弟子となりました。この二人は、聖ぺトロの兄弟である聖アンドレアと聖ヨハネです。聖アンドレアは直ちに兄弟の聖ぺトロ(当時の名前はシモン)を呼び出しました。主は聖ぺトロに言われました、「汝はヨナの子シモンなり。今よりケファ、つまりぺトロ(岩)と呼ばれん。」この時、ユダ地方にいましたが、翌日、主の一行はガリラヤの地に入りました。そこで主はフィリッポを召されました。フィリッポはナタナエルに、ナザレトのイエズスは救い主であると伝えたので、ナタナエルは第五番目の弟子となりました。この五人の心の中に主は神の新しい火を燃やし、たとえようもない賜物と祝福を与えました。粗野で卑しい状態の五人が、神聖な高い地位に到達できたのは、主の忍耐、柔和と愛徳の素晴らしい見本を見たからです。

 御母は、弟子たちの召命や御子の説教の様子を天使たちから知らされ、弟子たちを神に捧げ、讃美と喜びの歌を歌いました。弟子たちは御母に会いたいと切望したので、主はナザレトに向かうことにしました。行く先々で説教し、自分が真理と永遠の生命の主であることを宣言し、人々を魅了しました。貧乏人や困窮者に手を差し伸べ、病人や悲しむ人を慰め、病院や牢獄を訪れ、人々の霊魂と身体に慈悲の奇跡を行いました。主の一行が近づいているのを御母は知り、歓迎の準備をしました。御母が主に対し心からの謙遜と崇拝を示したのを弟子たちは見て、主に対する献身と畏敬の念を新たにしたのです。自分たちの女王の前に弟子たちは跪き、御母の子供・僕として下さるように願いました。第一に口火を切ったのは聖ヨハネで、その時から御母を崇め、尊ぶことに於て一番でした。御母も聖ヨハネを特別に愛しました。聖ヨハネは純潔の徳に於て優れ、柔和と謙遜の性格でした。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P194

 

 御母は弟子たちに食物をごちそうし、御子のそばでは跪いて給仕しました。同時に弟子たちに、先生である救い主の威厳とキリスト教の偉大なる教義について話しました。同じ夜、使徒たちが就寝した後、救い主は御母の祈り部屋に来られました。長年なさったように、御母は主の足許に跪き、自分は地上の塵のような不用物であると告白しました。主は御母を床から引き起こし、生命と永遠の救いについて静かに落ち着いて話されたのです。この時、主は御母に今まで以上の尊敬を示され、御母に相応の功徳を与えようとされました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P194

元后の御言葉

 

 私の娘よ、御子の弟子たちが大喜びで頑張り合う様を見て嬉しく思います。特に聖ヨハネは私の大好きな僕です。聖ヨハネは鳩のように純潔・率直で、私を愛するので、主の御目に叶う者となりました。聖ヨハネを見習い、どんな小さなことにも失敗せず、自己愛を棄て、この世の興味、つまり原罪の結果を消し、鳩のような誠実さと単純さを獲得するように。主はあなたに天使の光と知恵を下さり、助けて下さるでしょう。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P195

第六書

御子の説教の場に御母はおられた。御子の奇跡と御母の謙遜。主の御変容。御受難と御逝去。主はルシフェルと手下たちに勝つ。御復活と御昇天。

 

 第一章

 マリアはイエズスの公生活にお供する

 

 聖ヨハネは、イエズスがなさった他の多くの事柄を書き切れないと言っています(ヨハネ21・25)。四人の福音史家の記述は、教会の成立と生存にとって十分ですから、私が繰り返す必要はありません。聖母の偉大な事跡の数々は公表されておりませんから、その幾つかを私はお伝えしなければなりません。

 聖母はナザレトの家を留守にして、イエズスの伝道旅行のお供をし、十字架の御死去の時まで御一緒でした。聖母が居合わせなかったのは、タボル山で主が御変容になった時、主が井戸のそばでサマリアの婦人と話した時(ヨハネ4・7)、聖母がある人たちに聖い教えを教えておられた時ぐらいで、短い時間でした。旅は主にとり辛いものでしたから、一緒に徒歩でついて行かれた聖母は、もっと疲れたことでしょう。天気は変わりましたし、聖母の御身体は大変繊細であったからです。聖母があまりにもか弱で苦しみましたので、主は奇跡的に聖母を強め、時にはニ、三日、聖母を休ませました。又、他の時には、主は聖母を軽くさせ、翼により持ち上げられて歩けるようにして差し上げました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P196

 

 聖母は全ての福音の掟を胸に刻み込んでいましたが、御子の説教は毎回熱心に聞きました。主の聖心の動きは全て判っていましたので、主のおられる時、いつも心を合わせました。主の説教を聞く人々の心の状態も良く判りました。救いの実を人々が失わないように聖母は祈りました。神の恩寵を拒む人たちのことを思い、言うに言われない悲しみにかられていました。聖母の苦しみは、世界中の全ての殉教者たちの苦痛を合わせたものを越えています。

 主に従う人々を誰でも、聖母は比類ない賢さで待遇しました。特にキリストの使徒たちを大変尊敬しました。聖母は全員の世話をし、食物などを準備しました。時々、食物がなく、天使たちに食物を供給するように頼みました。人々を霊的に助けるに当たって、人間が理解できる以上に働きました。絶えざる熱心な祈り、御自身の貴重な模範や相談により、人々を強い者にしました。使徒たちが疑いや密かな誘惑に襲われるとすぐに説明し、強くしてあげました。

 ガリラヤの婦人たちや、悪魔祓いをしてもらった婦人の何人かも主について参りました。聖母は、これらの婦人たちに特別な気配りをし、聖い教えを教え、御子の説教を聞く準備をさせてあげました。

 救い主が御自分の神の学校に入学させた全ての人々は、御母に親しく接しました。御子は人々に、御母に対する尊敬と献身の気持ちを起こさせました。御母は全員に話しかけ、全員を愛し、慰め、教え、困っている人々を助け、喜ばせました。各人がどれだけの実を結ぶかは、その人の心の持ち方次第なのです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P197

 

 人々は御母の賢慮、智恵、聖性、威厳、謙遜、親切、優しさに感じ入りました。主が御母を口で称賛しようとして、されなかったように、使徒たちも沈黙の内に御母を愛し、御母の造り主を讃美しました。御母は一人一人の使徒の本来の性格、恩寵の状態、現状と将来の役割をよく見抜き、この知識に基づいて使徒たちのために神に祈願し、それぞれ適切な指示を与え、各々の役目を助けるための恩恵を願いました。御母の熱心さは主の喜ばれるところとなり、天使たちの尽きることのない称賛の的となりました。御母の取次により与えられた恩恵に使徒たちが応じることは、全能なる神の御摂理であり、人間には隠され、天使たちには知らされ、大いに讃美されたのです。これらの恩恵を特別に受けたのは聖ぺトロと聖ヨハネです。聖ぺトロはキリストの代理者、戦闘の教会の頭になることになっていましたし、聖ヨハネは主の御受難の後、主の代わりに御母の世話をすることになっていました。使徒たち全員が御母に対して献身することは、私たちの理解力を越えます。福音史家聖ヨハネは、神の都市である御母の神秘にもっと深く立ち入り、御母を通して神の啓示を他の使徒たち以上に受けました。受けたままに聖書に書いたのです。聖ヨハネは純潔の他に、鳩のような単純さ、優しさ、謙遜と柔和の諸徳も備えていました。柔和で謙遜な者は御子を一番良く見習う者ですから、聖ヨハネは御母から一番愛される使徒となりました。聖ヨハネも御母に一層の愛情を持って仕えました。主に召し出されて以来、一貫して聖ヨハネは他の使徒たちよりももっと良く御母に仕え、時々、奉仕の競争を天使たちと共にしました。一方、御母は謙遜に励み、諸聖人・諸天使以上に謙遜でした。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P198

 

 私は悪い使徒ユダについて少し述べましょう。頑固者や、御母をあまり信心しない者にとって警告となります。ユダは私たちの先生であるキリストの強い教えに惹かれ、他の人たちと同じように善意で一杯でした。救い主キリストにお願いし、仲間に入れてもらいました。初め、ユダは功徳を積み、特別な恩恵を頂き、弟子たちの何人かを追い抜き、十ニ使徒の一人となりました。救い主は分け隔てなく、ユダの恩寵の状態と善業をお喜びになりました。恩寵と慈悲の御母もユダを認めました。予知の賜物により御母は、ユダの不忠実と背信に気付いていましたが、取次や母性愛を惜しむどころか、不忠実で不幸なこの人間が御子により救われ、ユダの悪さが人々に影響しないように、益々気を配りました。厳しく接するともっとえこじになるというユダの性格を良く判っている御母は、ユダの面倒をよく見て、他の人たちに対する時よりももっと優しくしてあげました。他の使徒たち以上に御母の愛情を頂き、ユダは感謝したのです。

 弟子たちが徳を積まず恩寵にも欠き、幾つかの失敗のために罪があるのを見て、ユダは自分の徳を鼻にかけ、他人の欠点ばかり探すようになります。自分の目の中の大きなゴミを気にかけず、人の目の中の小さなゴミが気になってしょうがないのです(ルカ6・41)。使徒たちの中で聖ヨハネを目の敵にして、おせっかい者で、主と御母に取り入ろうとしていると言います。この時点まではユダの罪は小罪です。しかし、自分の悪い性癖を益々増長させ、嫉妬したり、他人をひどくなじり、もっと大きな罪に進み、信心は減り、愛徳は冷たくなり、内的焔は消えます。使徒たちや御母のことが嫌いになります。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P199

 

 御母はユダの欠点が増大して行くのを察知し、大変優しく、筋道正しく話してあげます。お陰でユダの心の中の嵐は静まるのですが、一時的に静まるだけで、またもや吹き荒れます。悪魔の侵入を許した以上、最も柔和な鳩である御母に対する激怒も暴れるままにさせておきます。ずるい偽善を装い、自分を正当化する理由を見つけ、自分の罪を否定したり、過小評価します。イエズスや御母を騙せると思い、慈悲の御母を軽蔑し、御母の勧めを嫌がり、御母を批難することさえしでかします。ユダは恩寵を失い、自分自身の悪い考えに取りつかれます。御母の親切をはねつけると、主を嫌悪するようになるのは目に見えます。主の御教えに満足できず、使徒たちとの付き合いも面倒くさくなります。それでも神はユダに内的援助を続けます。御母も優しく、主にお詫びするように勧めます。お詫びするなら、御母が償いをするとまで言って下さいます。地獄に堕ちることよりも、堕ちまいと努めないことと、罪に浸りきることの方がもっと重大な悪であると御母は教えておられます。誇り高いユダは御母の勧めを拒み、自分は主や他の人たちを皆愛していると嘘をつきます。

 ユダの堕落のもう一つの原因について私は書くことにします。イエズスの周囲に大勢の人が集まってきた時、施し物の管理者が必要になるとイエズスは考えました。人々に応じるように言いましたが、皆は尻込みしました。ユダは直ちに管理者になろうとして、聖ヨハネに、御母に口をきいてもらいました。しかし、御母は、ユダの野心や貪欲が判っていたので御子に申し上げませんでした。ユダは聖ぺトロに頼みましたが断られました。しょうがなくて御母に直接ぶつけたのです。御母は非常に優しくユダに答えました、「私の大事な子よ、あなたが何を頼んでいるのかよく考えなさい。あなたの意図が正しいかどうか、あなたの兄弟たちが恐れて拒んだことを求めるのは良いかどうかを思い巡らしなさい。主は、あなたが自分自身を愛する以上にあなたを愛しています。何があなたのためになるかをよく御存知です。主の聖旨に自分自身を任せなさい。人生の目的を再検討し、謙遜と清貧の徳を積みなさい。」ユダの荒々しくて頑固な心は、御母の御言葉がしゃくにさわりました。際限のない野心と貪欲の心にとって、御言葉は侮辱でした。ユダは主に直接かけ合うことにしたのです。偽善になりきって言いました、「主よ、私は御身のご希望に添い、会計係を務めたいと思います。頂く施し物を分配する者として、貧乏人のことをよく考え、他人にしてもらいたいことを他人にするという御身の御教えを実行し、施しがもっと利益を上げ、もっと規則正しく行われるようにします。」この言葉は第一に、自分の本心を隠しています。第二に、他の人たちを批難して自分がうまくやれるという野心を示しています。第三に、神なる主を騙せると思っていますから、信仰心は零になっています。主はユダに警告しました、「ユダよ、汝は自分が何を求め、何を願っているか知っているか? 自分を殺すかもしれない毒や武器を求めるほど、自分を痛めつけない方が良い。」 ユダは答えました、「主よ、御身の忠実な弟子たちに奉仕するため、全力を尽くします。その他のこと以上に上手にできます。会計係の仕事を間違いなくやり通す所存です。」 主はユダの言い分を認めました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P200

元后の御言葉

 

 私の娘よ、最後の晩餐に於て聖ヨハネに示された秘密の一つとして、彼が私に対する愛のため、主の愛弟子になったこと、ユダは私の慈悲と親切を嫌ったため堕落したことを、もう一度思い出して下さい。聖ヨハネは、私が主の御受難に参加することと、私の世話を自分に任されたことを理解しました。聖ヨハネとユダのことは、励ましと戒めになります。私の愛を求め、あなたの功徳なしに与えられる私の愛を謹んで受けなさい。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P201

第二章

我らの主の変容とエルサレムへの凱旋的入城

 

 我らの救い主なるイエズスは、説教と奇跡に既に二年半以上を費やし、御受難と御死去により世を救い、永遠の御父に戻られる時に近づいておられました。御受難により御体がむごたらしく傷つけられるのを見て弟子たちが落胆するのを見通し、あまり落胆しないように、同じ御体が光栄の内に御変容するのを見せようと望まれました。主はガリラヤの中心の高い山、ナザレトの西約七キロにあるタボル山に三人の使徒たち、聖ぺトロ、聖ヤコボと聖ヨハネを連れて出かけました。二人の預言者、モーゼとエリアが現れ、主と御受難について話しました。主が御変容になった時、声が聞こえました、「この者は私の愛子である。私の心に叶う。汝ら、彼に聞きなさい。」

 聖福音史家たちは、聖母がそこにおられたかどうかについて触れていませんが、実は聖母は天使たちに運ばれて御子の御変容を目撃されたのです。御母は信仰を再確認する必要がなかったので、聖福音史家たちは御母についての記述を省いたのでしょう。御母は御子の光栄を見聞きし、心からの感謝と最も深い洞察を示し、天使たちと共に新しい歌を作りました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P202

 

 御変容の後、聖母はナザレトの実家に運ばれました。御子もそこへ帰った後、エルサレムに向かいました。御母、弟子たちや使徒たちも同行し、ガリラヤやサマリアを通ってユダに入り、エルサレムに着くことになります。主はエルサレムに向かうにあたり、人類のために自分を犠牲にしたいという熱烈、寛大な希望を抱いておられました。

 次のように御子は祈られました、「私の永遠の御父、聖旨に添い、死に至るまでの苦しみにより、御身の正義を完うすることを喜び急ぎます。アダムの子らの借金を返し、閉ざされていた天の門を開き、御身と仲直りさせましょう。道から外れ、迷子になった人々を捜し求めます。ヤコブの家の子らで行方不明になった者たちを見つけ、堕落した者たちを高め、貧しい者に富を与え、喉の乾く者に水を飲ませ、高慢な者を引きずり下ろし、謙遜な者を高めましょう。地獄を克服し、ルシフェルと彼の蒔いた悪徳に対する勝利をもっと栄えさせます。十字架の旗を高く掲げましょう。旗に守られて人々は戦います。侮辱や恥辱で満たされる私の心が御身から讃えられますように。敵の手で殺されるまで私が謙ることにより、選ばれた人々が苦難を耐え忍び、私と同じ迫害に遭う時はいつでも貴い報いが与えられますように。ああ、愛すべき十字架! 汝が私を抱えるのはいつであろうか? ああ、甘美なる恥辱! 十字架の恥辱を通して私が死を克服するのはいつであろうか? 痛み、恥辱、鞭打ち、刺、拷問、死よ、汝ら、我に来たれ! 我は汝を抱擁し、歓迎せん。汝の価値を知るが故なり。世が汝を嫌う時、我、汝に憧れん。世は汝を知らず憎むなれど、真理と智恵なる我は汝を愛し、抱き寄せるなり。人間として汝を招き、神として汝を高め、汝と汝を愛する者より罪を消すなり。苦痛よ、我に来たれ。汝が我が人性を痛め尽すを許さん。真の神、創造主なる御父が、恥辱、十字架の拷問と惨めさの限りに苦しめる様をアダムの子らが見るならば、これまでの思い違いに気付き、十字架に掛けられし神に従うを名誉となさん。」

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P203

 

 御母は、御子を恐るべき苦痛から免れさせたいという母の愛と、永遠の御父と御子の聖旨に自分の意志を一致させることの間の葛藤のため、聖シメオンの預言(ルカ2・35)のように悲しみの剣により心臓が刺し貫かれました。最も深い賢慮と智恵と、最も優しい悲しみの言葉で、御母は御子に、御子の苦しみを妨げられず、御子と共に死ぬこともできないことを訴えました。神の御母の悲しみは、既に死んだり、将来死ぬであろう、世の終わりまでの全ての殉教者の苦痛を越えたのです。このような気持ちで御子と御母はナザレトからガリラヤに、そしてエルサレムに向かいました。御子の救世の御業が完成に近づくにつれ、御子の奇跡の回数が増えました。ガリラヤからエルサレムまでの最後の月は特に奇跡が多かったのです。

 ユダ地方に於ける奇跡の一つとして、ベタニアのラザロの復活があります。ラザロの家はエルサレムのそばにありますが、奇跡の噂はエルサレム中にすぐに広がりました。祭司たちやファリサイ人たちは、この奇跡に苛立ち、会議を開き(ヨハネ11・47)、救世主を殺すことを決め、救世主の滞在場所を知っている者全員に報告するよう命令しました。ラザロの復活の後、イエズスはエフライムの町に退き、過ぎ越しの祭りが近づくまでそこに滞在されました。その間、イエズスは十二使徒たちとよく会い、エルサレムへ行くための心の準備をさせました。エルサレムでは、イエズスはファリサイ人や長官たちに引き渡され、囚人として縄をかけられ、鞭打たれ、虐待を受け、十字架上で死ぬことを使徒たちに語ったのです。過ぎ越しの六日前、イエズスは皆と一緒にベタニアに行き、ラザロの二人の姉妹、マリアとマルタのもてなしを受けました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P204

 

 救世主の御受難と御死去の前日、木曜日が巡ってきました。その日の明け方、主は御母をお呼びになりました。御母は急いで駆けつけ、主の足許に平れ伏し、言いました、「私の主、どうぞおっしゃって下さい。御言葉をお待ちしております。」主は御母を起こし、最も優しい声で話されました、「私の母上、人類の救いのため、我が御父の永遠の智恵により定められ、御父の至聖なる聖旨により私に命ぜられた時が来たのです。今まで私たちが何回も聖旨に従ったように、今従うことは当然です。御父に従い、私自身を敵の手に渡すことを、私の本当の母として同意して下さい。御母が私の受肉を御身の自由意志により承諾されたように、私の受難と十字架の刑死に同意して下さい。御父が私をこの世に送ったのは、私の身体の苦難により、御父の家から迷子になった羊、アダムの子らを連れ戻すためです」(マテオ18・12)。

御母は御子の足許に平れ伏し、答えます、「主なるいと高き神、創造主、御身は私より生まれた御子でございますが、私は御身の婢です。御身が御降りになったことで、私は塵から御身の母に高めて頂きました。私は御身の寛大さに感謝し、永遠の御父と御身の御意志に従います。私の御子なる主、御父の永遠にして崇められるべき聖旨が成就しますように。私にとって一番大きな犠牲は、御身と共に死ねないこと、御身の代わりに死ねないことでございます。御身を見倣い、御身のおそばで苦しめることは、せめてもの慰めでございます。御身と共に受ける拷問は易しゅうございます。御身が人類の救いのための拷問を耐えることは、私の苦痛にとり、唯一の助けでございます。ああ、私の神よ、御身と共に死ねないというこの犠牲を受入れ給え。人類の悪辣さを見る私の悲しみも受入れ給え。ああ、天よ、自然よ、その中にいる全被造物よ、天使たちよ、王たちよ、預言者たちよ、あなたたちを造った御子の死を嘆く私を助けて下さい。御子の死の原因である人々、この偉大な救いを失ってしまう人々の悲惨を私と共に嘆いて下さい。破滅すると予知されている人々は何という不幸でしょうか?

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P205

 

 小羊の血で洗い清められることになっている人々は何と幸せでしょうか? ああ、私の御子、私の霊魂の限りない喜びよ、私が御身の御受難と十字架に参加できますように、そして御身の母としての私の犠牲を御身の犠牲と共に永遠の御父が受け取って下さいますよう、心よりお願い申し上げます。」その他、言葉で言いつくせない表現で御母は御子に申し上げ、御受難に於ける伴侶および共贖者になることを志願されました。

 御母はもう一つのお願いを御子にしておられます。御子なる主が御自身の御体と御血の秘蹟の制定を、御子の光栄のために決心されたこと、聖別されたパンと葡萄酒の形色の中で、聖なる教会の中に御子が留まることを決断されたことを、御母は改めて申しあげました。御母は、その秘蹟を頂く価値のない人間であると謙遜しながら、御子なる主の無限のおすそ分けにあずかり、秘蹟を頂きたい旨を切々と申されました。御子の御体・御血は元来、御母から由来します。御体と御血を拝領することは正しく御子との一致であると共に、御受胎の時と御懐妊の期間中の御二人の一致の再現でもあります。再び結ばれ、御母の心の中に御子を再びお迎えし、将来決して離れ離れにならない喜びを御母は述べておられるのです。

 このようにお互いの挨拶を交わされ、イエズスは最愛の御母を残し、使徒たち全員と共にベタニアからエルサレムへ、最後の晩餐の日、木曜日の正午少し前に、出発するにあたりお祈りしました、「永遠の御父なる我が神よ、人々、つまり私の兄弟たちである御身の被造物を、罪から救うための苦しみと死に向かいます。」

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P206

 

元后の御言葉

 私の娘よ、人々が聖体拝領を度々頂くのを嫌がり、怠り、準備も、熱い信心もなく御聖体に近づくことは、主にとり、私にとり、諸聖人にとり、何という恐ろしい犯罪であるかを考えなさい。聖なる秘蹟にこもられる御子を頂くために、何年間も私は準備しました。私はそれを妨害する罪は全くなく、恩寵に満ちているにも関わらず、愛、謙遜と感謝の徳を熱心に積み、聖体拝領にあずかれる身にしようとしました。御子の人性のまします御聖体を頂くため、ふさわしくなれるように毎日、いつも自分の罪を批難しなさい。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P206

第三章

最後の晩餐

 

 私たちが現在、自宅で使用するコーヒーテーブルよりももっと低いテーブルの周りに座り、体を後ろにもたれて食事をするのがユダヤ人の習慣でした。主は使徒たちの足を洗った後、現在の食卓のような高いテーブルを持ってくるように言いつけました。このことで、主は下級の形式的律法に終止符を打ち、恩寵の律法である新しい晩餐を設立することになりました。このテーブル、つまりカトリック教会の祭壇で聖なる秘蹟が行われることを主は希望されたのです。このテーブルは大変高価な布で覆われ、その上には皿と大きな盃ふうのコップが置かれました。その家の主人は、エメラルドのような宝石でできた皿と盃を提供したのです。全員が着席してから、主は種なしパンと葡萄酒を持って来させました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P207

 

 主は心からの愛の言葉を使徒たちに話しました。御言葉は彼らの心の奥深くに達し、心を燃え上がらせました。御自身の神性と人性、救い、今祝おうとしている神秘の誓いについて申し渡しました。人々が相互に愛すれば、御子を愛する御父により愛されること、新しい律法と新しい教会の建設のため使徒たちを選んだこと、御母の崇高さと特権について、使徒たちの理解を更新させたのです。

 我らの主キリストは、皿の上のパンを両手で取り上げ、永遠なる御父に心の中でお願いしました、「今、私が述べ、今後、教会で繰り返される言葉により、私が実際に真にこのパンの中に存在すること、私がこの約束を守ることを助け、許して下さい。」この願いをしながら御目を天に上げている荘厳な様子は使徒たち、天使たちと御母に新しい深い畏敬の念を起こさせました。主は聖変化の御言葉を宣言し、パンの実質を御自身の真の体に変えられました。直ちに葡萄酒に対する聖変化の言葉を宣言し、御自身の真の血に変えられました。そして、永遠の御父の御声が聞こえました、「これぞわが愛子なり。我が喜び、世の終わりに至るまで我が喜びなり。我が子は人類の追放の間中、絶えず共にいるなり。」同様の御言葉が聖霊により宣言されました。御言葉のペルソナの中のキリストの至聖なる人性は、御自身の体と血の秘蹟にこもる神性を恭しく拝みました。御母は一歩退き、聖なる秘蹟の中の御子を崇めました。御母の守護の天使たちや天の全天使たちと一緒に、エノクとエリアの霊魂も旧約の王たちや預言者たちを代表し、秘蹟の中の主の前に平伏しました。裏切り者を除く使徒たちと弟子たち全員はこの秘蹟を信じ、各人各様に謙遜と威厳を込めて崇めました。最高の司祭である主は、聖変化された御体と御血を両手で高く挙げました。この時、御母、聖ヨハネ、エノクとエリアは特別な理解を神から頂きました。どのように御体がパンの中に、御血が葡萄酒の中に存在するか、御体と御血が御霊魂と結ばれている故に生きている真の御子が現存すること、御子のペルソナが御父と聖霊のペルソナとどのように結合しているか、聖三位一体の一致の故に、御聖体は主の人性と共に聖三位一体であることを理解したのです。主のなさったことを司祭一人一人が再現すること、天地が崩れてもこの秘蹟は決して崩れないことも御母を初めとする四人の深く理解するところとなりました。御母の理解は更に深遠でした。この秘蹟により、パンや葡萄酒の形色は変わらず、御体と御血も元のままであることがよく判りました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P208

 

 御子の聖祭は続きます。御子は御聖体を割り、一つを頂きます。御自身を人間として認め、御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。主の聖体拝領により、タボル山での御変容の時のように主の御体は短時間、輝きました。御母にはよく見え、他の三人には少し見えました。

 主は御聖体と聖血を拝領し、永遠の御父を讃え、人間の救いのための犠牲として秘蹟にこもる御自身を捧げました。残っているパンの切れ端を大天使ガブリエルに渡し、御母の所に持って行かせました。大天使に大勢の天使が随行しました。御母は涙を流し、御聖体を恭しく拝領しました。その後で主はパンを使徒たちに手渡し、分け、配るように命じました。使徒たちも涙ながらに御聖体を拝領しました。使徒たちは司祭の権限を与えられ、聖なる教会の創立者となり、他の誰にもまして優先権を与えられたのです。主イエズス・キリストの御命令により、聖ぺトロは御聖体とエノクとエリアに授けました。二人は大喜びして、将来、天国に入り、主なる神に御目にかかることを世の終わりまで待つよう改めて決意しました。心からいと高き御方に感謝した後、天使たちにより二人の住居である古聖所に連れ戻されました。この奇跡により主は、昔からの自然法と成文法を御受肉、救世と人々との復活の中に組み入れることを示されたのです。これら全ての秘儀は、至聖なる聖餐の中に存在するからです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P209

元后の御言葉

 

 ああ、私の娘よ、カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、聖体拝領の真の意味を掴むように心から希望します。御聖体の中に力と健康があります。悪魔に誘惑され、迫害されても問題ではありません。御聖体を頻繁に拝領することにより、信者は悪魔を克服できます。ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。この目に見えない敵に対して、聖体拝領という武器を持って聖なる教会のためにあなたが戦うべしということは主の御旨であり、私の意志です。罪を犯すカトリック信者たちを救うためには、敬虔に聖体拝領すること、次に私に取次を願うことが大変大事であることを肝に銘じなさい。又、御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。信心深く聖体拝領する人たちは、主の御体や御血を頂かずに殺された殉教者たちよりももっと大きな光栄を頂くのです。私はただの一回も御聖体を頂く価値はありません。私は原罪の汚れなく、セラフィム以上に愛徳を積み、全ての徳行に於て諸聖人以上の英雄的行為を行い、私の全行為の意図は至高であり、私の習性も賜物も比較にならないほど高貴であり、御子に見習って苦労し、恩寵の功徳を受けない時は一時もありませんでしたが、これら全てを越えるのは「聖体拝領」です。聖体拝領するあなたは、いと高き御方を崇め、讃え、いつも主を受ける準備と何回でも殉教する覚悟をしなさい。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P210

第四章

ゲッセマニに於ける祈り。どのようにマリアはそれに与ったか

 

 我らの主イエズス・キリストが御聖体の秘蹟を制定され、最後の晩餐も大体終った頃、晩餐の高間から出てゲッセマニの園にお出かけになられます。同じ時、聖母は控えの間から出て来られ、御子にお会いになります。お二人は見つめ合ったまま、悲しみの剣で心臓を突き通されます。この悲しみの激痛は、人間にも天使にも到底理解できません。御母は御子の足許に身を屈め、神なる主を崇めます。主は神の威厳と溢れるばかりの愛情をもって話されます、「母上、御一緒に苦しみましょう。二人で永遠の御父の聖旨と人間の救いを成就しましょう。」御母は御自身を犠牲として捧げ、主の祝福を願います。祝福を頂いた後、御母は控えの間に戻り、主の御受難の一部始終を神の特別なお計らいにより見ることになります。このようにして御母は、御子のそばにつきっきりで協力することができました。御母のそばには、御母にしか見えない天使たちが千位ほど付き添い、信心深い婦人たちも一緒でした。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P211

 

 主は十二人の使徒たちと共に高間を離れ、エルサレムの東壁のすぐ外のオリベト山に向かわれます。ユダは主を裏切る機会を狙いながら、主がいつものように祈りで徹夜するであろうと考えます。これこそ、主を自分の仲間たち、学者やファリサイ人に手渡す絶好の機会のように見えます。主や随行する使徒たちの後をのろのろ歩きます。皆から見えなくなった時、ユダは来た道を引き返し、自分自身の滅亡に突進します。彼の心に突然、恐れ、不安と良心の苛責が襲います。ユダが主の死を急ぐ様を感知したルシフェルは、主は本当の救世主かもしれないから救世の御業を邪魔しなければならないと必死になります。ユダの裏切りで知り合った極悪人になりすまし、ユダに話しかけます。「主の悪行のため主を売り渡すのはもっともと思えるが、考え直すと違ってくる、主はお前が思うほど悪人でもないし、もしも奇跡的に祭司長たちやファリサイ人から逃げ出せたら、お前がとても困るだろう」と言ってユダの変心を迫ります。

 一方、主は十一人の使徒たちと共に、私たちの救い主を殺そうとしている人々の救いのために祈っておられます。アダムの時に始まった善と悪の激戦は、主の死に於て最終決戦となります。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P212

 

 主の一行がケドロンの早瀬を渡り、オリブ山を登り、ゲッセマニの園に着いた所で、主は使徒たちに申し渡しました、「ここで待ちなさい。少し離れた所で私が祈る間、あなたたちも祈りなさい」(マテオ26・36)、「誘惑に負けないようによく祈りなさい」(ルカ22・40)。この誘惑とは、最後の晩餐で説明があったように、主の御受難のため、使徒たち全員が悪者扱いされ、悪魔に色々と唆されることです。預言にあるように、牧者が虐待され、負傷すると、羊はばらばらに逃げます(ザカリア13・7)。主は八人の使徒たちをそこに残し、聖ぺトロ、聖ヨハネと聖ヤコボを他の場所に連れて行きました。主は永遠の御父の方を見ていつものように御父を讃美し、ザカリアの預言の成就をお願いし、人類の救いのため、御父の正義、即ち、主の犠牲が行われるのを改めて祈りました。この時から、あらゆる慰めも助けも主から取り除かれたので、御受難はもっとも過酷なものとなったのです。「我が魂、死する如く悲しむ」(マテオ26・38)、「御父、もし能わば、この盃、我より取り去り給え」(マテオ26・39)。

 主の御苦しみは、主の愛の大きさと、人々が主の御受難と御死去の効果を気にしないことに比例しています。主の御苦しみは、血の汗となって表されています。主の御苦しみにより獲得された恩恵は、拒まない人たちに与えられ、聖人や義人にはより多く与えられました。拒む人たちに与えられなかった恩恵は、選ばれた人たちにまわされました。このようにして我らの主イエズス・キリストを頭とする聖なる教会が建てられました。

 さて、高間では、御母のそばに聖なる婦人たちが一緒でした。御母は神の啓示により、御子がゲッセマニの園で祈っておられる様が大変よく見えました。誘惑に負けないためによく祈るよう婦人たちに勧めてから、マグダラの聖マリアともう二人の聖マリアを連れ、他の部屋に行きました。聖母は永遠なる御父に、あらゆる感覚的・霊的慰めを断ち切るようにお願いし、願いが叶えられましたので、御子の受ける苦痛をそっくりそのまま受けることができました。あまりの拷問のため、何回でも死ぬはずでしたが、それだけは永遠の御父が御許しになりませんでした。御子と共に死ねないことは聖母の一番の苦しみでした。三人の婦人たちに申した通りです、「私の霊魂は悲しいです。私の愛しい御子が苦しみ、今死のうとしているからです。」そして、少し離れた所に移り、御子に心を合わせて祈りました。悪魔が聖母たちに対し、怒り狂っていること、ある人々の堕落、永遠の救いか滅亡の神秘を熟知し、血の汗を流しながら祈り続けました。主が大天使ミカエルの訪問を受けたように、大天使ガブリエルに会いました。両天使が伝えた永遠の御父の聖旨も、お祈りも悲しみも全く同じです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P213

 

 主が三度目に三人の使徒たちの所に戻って見ると、三人は眠りこけていました。「あなたたちは今や眠り、休みなさい。もう十分である。ついに時が来た。起き上がり出かけよう。人の子は裏切られ、罪人たちに引き渡される」(マルコ14・41)。これを聞いて使徒たちは起き上がり、主について八人の使徒たちの所に行きました。八人も悲しみにうちひしがれ、眠っていましたが、起き上がり、全員団結して自分たちの敵に向かうべきことを主から教わりました。敵、つまり悪魔は、一本一本の縄を簡単に引きちぎれます。二本か三本によった縄には勝てません。主はこれから起こることを使徒たちに前もって警告しました、兵士たちや加勢の者たちがこちらに向かって進んでくる物々しい音がもう聞こえてきます。主は彼らに会うため前進し、心からの愛を示しておられます。心の中で優しく信心深く祈っておられます、「ああ、心の底より待望せる苦痛、傷、侮辱、労働、困難と恥ずべき死よ、来たれ、早く来たれ。人の救いの故に燃ゆる愛の火は、汝らが全被造物の内、最も潔白なる我に会うことを望む。汝らの真価を知るが故に、汝らを最高の威厳にまで高めたし。死よ来たれ、死に値せず死を甘んじるは、我が死に打ち勝たんがためにして、罪の故に死刑となりし人々に生命を回復せんがためなり。我が友らの我を棄てるを許さん。我一人この戦いに臨み、友らのために勝利を得るを望むなり」(イザヤ53・3)。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P214

 

 祈っておられる生命の創造主に向かい、ユダは歩み寄ります。貪欲と主に対する憎しみの他に怖れがあります。もし、主が殺されず自分に会う時のことを思うと怖くて仕方がありませんが、今、裏切りを早くすませてしまうだけです。主に走りより、主の御顔に空々しい平和の接吻をして言います、「主よ、神が主を救い給わんことを。」この挨拶は、主を騙せるというユダの悪意と大胆さをよく表します。この大逆罪は到底考えつくせない恐るべき罪の数々全部になります。裏切り、殺人、涜聖、忘恩、非人間的、不従順、偽証、不信心、比ぶべくもない偽善などであり、人となった神の人性に対して犯されたのです。

 御母は幻視により、主の捕縛の様子をそこに居合わせた人々よりももっと明らかに見ました。祭司長の館で兵士たちや召使いたちが、自分たちの創造主なる救い主を侮辱する様もよく見えました。御母は天使たちや婦人たちに、主を御自分と一緒に崇め、侮辱を少しでも償うように頼みました。御母は、主が囚人となり、最も残酷な仕打ちを受けることになると婦人たちに伝えます。婦人たちは御母を見倣い、跪いたり平伏したりして、創造主の無限の神性と至聖なる人性を心の底から讃美します。聖母は主を讃美・崇拝し、悪意の人々の不敬や暴力の償いをします。不忠実で頑固なユダが聖体拝領のすぐ後に主を裏切ったことに対し、聖母は主に恩寵を願いました。御子なる主は、強力な恩寵をユダに与えましたが、不幸にもユダはそれを無視したのです。

 主が縄や鎖で縛られ、殴られている時、聖母も同じ痛い目に遭いました。聖母が同じ苦痛を喜んで耐え忍んだことで、主の苦痛がある程度軽くなりました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P215

元后の御言葉

 

 私の娘よ、これらの神秘を授かり、書いても、主の御受難と御死去について日夜黙想することによって、汝の臆病、忘恩と卑しさを克服するようにしないなら、大罰を受けることになるでしょう。「我は道なり、真理なり、生命なり。我に従ってのみ我が御父に達す」(ヨハネ14・6)とおっしゃった主に従い、侮辱され、鞭打たれ、苦しみ、十字架上で死ななければなりません。この世の楽しみを追い、苦労を嫌がるならば永遠の生命は得られませんし、御父の子供でもないし、主なる御子の弟子でもありません。我らの主イエズス・キリストに従う者よりも、ユダに従う者の方がずっと数が多いのです。これらの多くは不忠実な者たちであり、悪いカトリック信者であり、ユダのような偽善者なのです。私と共にこれらの悪を嘆き悲しんで下さい。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P216

  第五章

イエズスは、アンナとカヤファの許に引き出される

 

 イエズスは厳重に縛られ、ゲッセマニの園から祭司長アンナの官邸に引き回されます。ユダは、自分の先生は魔法使いで、簡単に縄からくぐり抜けられると兵隊や召使いたちに入れ知恵をします。ルシフェルと仲間たちは、密かに主に対して無礼の限りを尽くすよう人々にけしかけます。人々はルシフェルの悪意に喜んで加担します。全能者のお許しになるぎりぎりまで、自分たちの創造主の人性に怒りをぶつけます。人々は主の首に重い鉄の鎖をかけ、腰にまわします。鎖の両端を大きな鉄輪に繋ぎ、この輪を手錠にして創造主の御手にかけます。従って、御手はしっかりと後ろにくくられます。この鎖は、祭司長アンナの官邸の土牢の穴の蓋を開ける時に使われていた物です。御手を縛り上げたのにまだ飽きたらない人々は、一本の丈夫な綱を主の御首にかけ、胸の所で交差し、後ろで大きな結び目を作り、二つの端を前方に持って来て、人々が主をあっちこっちに好き勝手にぐいっと引っ張れるようにします。もう一本のがっしりした綱を主の御腕に巻き、御腰を縛りつけ、両端を後ろに持って来て、後方へ主を強く引けるようにします。

 救い主は、敵を全滅できる御力を隠し、救いがもっと稔るように、ルシフェルや地獄の軍勢が助長した不信心な激怒がぶつけられるままになりました。人々は主をアンナの前に引き出した時、死刑囚として引き渡したのです。死刑囚はこのように縛るのが当時の習慣でしたから、主の死刑は既に決定したかのようです。涜聖祭司アンナは、大広間の執政官の椅子にふんぞり返り、威張っていました。アンナのそばにはルシフェルと大勢の悪魔たちが来ています。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P217

 

 傲慢な態度でこの祭司長は主に、主の弟子たちや教えについて聞きました。主の御答えを曲解し、主をごまかし屋として決めつけるためでした。主は謙遜に朗らかに御答えになります、「私は世の人々に公然と話し、会堂や神殿で教え、何も秘密にしてはいない。私の話しを聞いた人々に尋ねなさい。人々は私の話しを知っています。」主の教えは永遠の御父に由来し、主は話され、教えの名誉を守りました。祭司長の僕の一人が手を挙げながら走りより、主の崇むべき御顔をひっぱたき、叫びます、「祭司長に何という口のきき方をするか」、主はその僕のために祈り、他の頬もひっぱたかれる心構えができていました。それ以上の悪口を言わせないため、主は申されました、「私が悪い教えを述べたなら、その証拠を出しなさい。良い教えを述べたなら、どうして私をひっぱたくのですか。」主の御声は天を震えさせました。その時、聖ぺトロと聖ヨハネはアンナの官邸に到着し、顔見知りの聖ヨハネだけ中に入れてもらいました。しばらくして聖ぺトロも入れました。邸の裁判の間につながる柱廊で二人は立ちました。寒かったので、聖ぺトロは、たき火のそばに来ると、女召し使いは聖ぺトロの悲しげな様子に目を留め、そばによって来て、聖ぺトロが主の弟子であると判りました、「あんたはこの囚人の弟子じゃないか」、聖ぺトロは弱気でまごつき、恥ずかしくなり、怖くなって言いました、「私は弟子じゃない」、こそこそ逃げ出しました。主がカヤファの官邸に連行された時、聖ぺトロもついて行きましたが、そこでは二度も主を否認することになります。

 聖ぺトロの否認は、主にとり、殴られることよりもっと辛かったのです。主は聖ぺトロのために永遠の御父に祈り、三度目の否認の後でも聖ぺトロを赦して下さるよう御母の御仲介もお願いします。一部始終を目撃しておられる御母は、愛、感謝、崇敬と礼拝に没頭しておられ、聖ぺトロの不始末には泣き悲しみ、主が聖ぺトロを過失から起き上がらせて下さることを確かめるまで祈り続けます。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P218

 

 アンナ官邸からカヤファ邸へ主を引きずり回しながら、地獄の霊たちと無慈悲な人間たちは、主にあらゆる残酷な仕打ちをします。祭司長たちや僕たちが喚声の中に主の入場されるのを見るや、どっと笑い転げます。主は彼らの手の中にあり、逃げ隠れできません。祭司長カヤファは、生命の創造主を嫉妬と憎悪により、殺してやりたい気持ちで一杯です。高い壇の上の玉座にふんぞり返る祭司長の周りには、アンナ邸からついて来たルシフェルと部下の悪魔たちが全員そろっています。律法学者たちやファリサイ人たちが血に飢えた狼のように、優しい神の小羊を取り囲み、興奮しています。彼らは買収した証人を呼び出し、主に対する偽証を言わせます(マテオ26・59)。偽証人たちは告訴や証言を申し立てますが、お互いに食い違ったり、主とは関係がありません。我らの救い主イエズス・キリストは、これらのざん言やそしりに対し、何らの反駁もされません。主の沈黙に我慢できなくなったカヤファは立ち、言います、「お前のことを訴える大勢の人たちに対し、なぜ答えないのか?」主はカヤファにもお答えになりません。カヤファも他の連中も主を信じないどころか、主の御答えを悪用し、主を罠にかけ、ガリラヤ人である主の裁判をもっともらしく見せかけ、主の死刑を正当化しようと企んでいます。主の謙遜な沈黙はカヤファをかんかんに怒らせます。祭司長たちを扇動するルシフェルは、主の様子を一心に見つめます。龍とか蛇と呼ばれるルシフェルは、主を苛立たせ、しゃべらせ、主が本当の神であるかどうかを確かめたいのです。そのため、ルシフェルはカヤファを激怒の極みに追い込み、威張りくさって質問させます、「生ける神によりお前に命じる。お前がキリスト、聖別された者、神の子であるかどうか言え。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P219

 

この質問は最も深い愚行であり、恐るべき涜聖です。主に対する疑いは、正しい理屈と正義に基づき、全く異なるやり方で解決されるべきです。神という言葉が涜聖者の口から発せられたにも関わらず、主は心の中で神を崇拝し、神の御名に対する尊敬の故に御答えになります、「汝の言えるが如し。我はキリストなり。人の子が全能の神の右に座し、天の雲に乗って来るを汝は見ゆべし」(マテオ26・64)。この答えが自分の疑問の解決であると祭司長は考えず、怒り狂い、もう一度立ち上がり、神の名誉を守る熱心さを示す仕草として自分の法衣を破り、大声で叫びます、「こいつは涜聖した。この他の証人が必要であろうか。見よ、今あなた方は冒涜の言葉を聞いたばかりである。どう思うか」(マテオ26・65)。「こいつを死刑にしろ(マテオ26・66)、殺せ、殺せ。」悪魔の怒りに動かされ、人々は自分たちの最も柔和な主に襲いかかります。御顔をひっぱたき、蹴りつけ、御髪をむしり取り、御首に平手打ちをくわせます。全ての仕打ちは、犯罪者の中でも最も卑しく最も悪質の者に対してされるべきものです。これら全ての侮辱、批難と軽蔑は聖母が目撃し、体験するところとなりました。同じ時に、御体の同じところに同じ苦痛と傷が起きたのは、全能なる神の特別なお計らいによるのです。人間の生理学の原則によれば、聖母のひどい悲しみと心配は致命的ですが、神の御力により助けられ、御子と共に苦しみ続けることができました。救い主なる御子の聖心を十分に理解できたのも聖母だけです。神なる主が御自分の人性に於て受難されたので、宗教に従う人々に深く同情されています。以前に山上の垂訓で約束された通りです、「幸いなるかな、困難・苦労に堪える者、我を見倣いて喜び、人々の心と善意の国を所有せん。幸いなるかな、悲しみで涙を流す者、理解と生命のパンを頂き、永遠の喜びと幸福の実を収穫せん。」「幸いなるかな、義と真に飢え乾く者、恩寵と光栄の国に於て汝の求めをはるかに越える満足を我は与えん。幸いなるかな、赦しと愛の我を見倣い、攻め、迫害する人々に慈悲深き者よ、汝のため、御父の御慈悲を我、心より乞い願わん。幸いなるかな、心の清き者、肉欲を十字架に架けるが故、汝に平和と我が神性を示し、我に似る者となり、我が生命にあずからんことを我、約束するなり。幸いなるかな、平和なる者、自分の権利を他人に譲り、悪意ある人々に逆らわず、誠実と静寂の心を有するが故、汝を我が養子となす。義のため迫害を受くる者は、我が天国を相続する幸せ者なり。我と共に永遠に生くるなり。喜べ、貧しき者、慰められるなり。小さき者たち、世の中の嫌われ者よ、光栄を受くるなり。偽にしてごまかさえるバビロンの高慢と壮観を嫌い、虚栄を捨てよ。苦難の火と水の中をくぐり抜けて我に来たれ。我は光と真理にして、永遠の休息と回復へ汝を導くなり。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P220

 

 主がひどい仕打ちを受けたことで、この祭司長たちと聖職者全員の怒りはだいぶ静まりました。真夜中を過ぎていたので、この悪人たちは、救世主が夜中に逃げ出さないようにしっかり見張ることになりました。縄で縛られたままの主を、最もずぶとい泥棒や犯罪人のための地下牢に閉じ込め、鍵をかけました。そこは光も入らず、不潔と悪臭に満ちていて何年間も汚いままに放置されています。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P221

元后の御言葉

 

 私の娘よ、よく聞きなさい。永遠の御父は、世の中を破壊しようと思われるほど怒っておられます。聖旨を知りながら従わない教会の子供たちを厳しく罰する御考えです。御父を宥め、罰を遅らすのは、私の取次と、私が御父に捧げる御子の功徳、この二つしかありません。ダビデの言うように(詩篇69・21)、御悲しみになる主を慰める者は少数です。頑固な心の者たちは、審判の日に自分たちが主に対し、私に対し、自分自身に対し、非人間的であり、残酷であったことを悲しむでしょう。人類を永遠の御父に和解させ、御父の恩寵を再び頂かせるため、主がどれほど苦労されたかを良く考えなさい。神の御血により買い戻された者、そして私が母の胎内に宿り始めた時から今まで、人々の救霊のために求めた全てを忘れてしまうか、またはぶち壊し、台無しにしてしまう大勢の人たちのために泣き、苦しみなさい。主の聖なる教会の中に、信心深そうに見せかけ、主を批難する偽善と涜聖の司祭たちに従う数多くの信者たちがいることを悲しみなさい。高慢と贅沢が尊敬され、貪欲と虚栄が盛んになっています。聖なる信仰は阻止され、大勢のカトリック信者にとって、信仰は不活発となり、死んでいます。

 これらの罪を考え、御受難の時と、全生涯に於て私がしたことをあなたにもしてもらいたいと私は願います。人々の涜聖を贖うため、私は主を祝いました。人々のそしりに対し、私は主を讃えました。不信仰に対し私は信徳を実行しました。もし、あなたが自分の弱さのために倒れるなら、自分の過失を嘆き、直ちに私の取次を願いなさい。普通の過失の代償として苦難を堪え忍び、どんな苦しみも喜んで受け入れなさい。苦しみは、病気、他人からのいじめ、肉欲とか、見えるか見えない敵からの攻撃かもしれません。これらの苦しみ全てを信仰、希望と高潔な感情により我慢しなさい。我慢すれば光明を見出し、真実を理解し、見える物事から心を解脱させ、主に向けます。主は苦しむ人たちの所に来られ、一緒に御苦しみになります。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P222

  第六章

 イエズスはピラトの前に引き出され、鞭打たれ、茨を冠される。

 

 福音史家たちが書き記すように(マテオ27・1。マルコ15・1。ルカ22・66。ヨハネ18・28)、金曜日の明け方、長老たち、祭司長たちや律法学者らが集まり、キリストの処刑を衆議一決しようとしました。人々に対して正義の見せかけをするため、カヤファの官邸に於て会議を行うことになりました。主は地下牢から会議場に引き出されました。彼らは再び、主がキリスト、つまり聖別された者であるかどうか質問しました。主に対する告訴をでっちあげるため以外の何物でもありません。「お前たちの言うところの者だと私が言っても、お前たちは信じないであろうし、私がお前たちに取り入り、頼んでも、お前たちは答えようともせず、私を釈放しようともしないであろう。私は言う、今より後、人の子は神の御力の右に座すであろう」(ルカ22・69)。祭司たちは言います、「では、汝は神の御子だな。」主は御答えになります、「お前たちがそうだと言う。」この御答えにより、主は次のように言われているようです、「お前たちは全く正しい考えに到達した、私が神の御子であると。私の事業、私の教義、お前たち自身の聖書、並びにお前たちが今私に対してしていることは、私がキリスト、律法により約束された御者であることを証明する。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P223

 

 しかしながら、悪人たちの会議は、自分たちの結論を真理に対する同意と信仰ではなく、死に値する涜聖であると解釈したのです。主の御言葉を聞いて彼らは叫びます、「これ以上の証言が必要であろうか。自分で涜聖の言葉を吐いているではないか。」すぐに全員一致して主を死刑囚として、ローマ皇帝から任命されたユダヤ地方の総督ポンシオ・ピラトの役所に連行することにしました。その時、既に陽は上り、遠くから事の次第をご覧になっていた聖母は、ピラトの役所に行くことを決心しました。ちょうど、そこへ聖ヨハネが戻って来ます。ゲッセマニの園で群集を恐れ、逃げ出し、アンナ邸でも聖ぺトロの裏切りの後で、自分も人目を避けていたことを聖母に報告し、御許しを願います。その後で主の悲惨な様子を知らせます。「ああ、聖母よ、我らの主なる神は何という苦しみにおられることでしょう。二目と見られません。御顔は平手打ちを食らい、殴られ、唾を吐きかけられ、いびつに曲がり、汚らしくなっていますから、誰だか見分けがつかないほどです。」聖母は御顔には出しませんが、心臓が引き裂かれるようです。そばにいる聖なる婦人たちも悲しみと怖れでいっぱいです。聖母はおっしゃいます、「永遠の御父の御子の許に急ぎ行きましょう。人類に対する愛が、私の主なる神をどこまで駆り立てたか、人類を罪と死から救い、天国に入れるため、神は何をなさったか、あなたたちはしっかりと見るでしょう。」聖母に最後まで付き添ったのは聖ヨハネ、三人の聖マリアたちと他の信心深い婦人たちです。守護の天使たちは、群集のごった返す中を聖母の一行のために道を開けます。聖母は人々の話しを聞くと、ナザレトのイエズスが可哀想だという人々は少数です。主の敵たちが主を十字架刑にするつもりだという人たちや、主が今どの道を通っていると報告する人たちもいます。主がどんな悪事を働いたかと尋ねたり、いや、偽りの奇跡をしたからこんなことになったと叫んだりしています。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P224

 

 押し寄せる群衆の中を天使たちは聖母の一行を通し、ある街角で曲がると、聖母は御子にお会いになります。御子を見つめ、お互いに無言で優しく悲しい心を通じ合わされます。聖母は御子の御跡に従います。

 主がピラトの官邸に到着します。ぞろぞろついてきた会議所議員たちや群集はユダヤ人なので、過越祭の前に異邦人の家に入ると身を汚すことになります。異教者であるピラト総督は、ユダヤ人たちの宗教習慣に敬意を表し、出て来て質問します、「この男に対し何を告訴するのか?」ユダヤ人たちは答えます、「この男が犯罪人でなければ連れて来ません。」ピラトは質問します、「どのような犯罪をしたのか?」彼らは答えます、「この男は王国を騒がし、自分を国王と名乗り、ローマ皇帝へ納税するのを禁じます(ルカ23・2)。神の御子であると自称し、新しい教えをガリラヤからユダヤ全地、エルサレムまでばらまきます。」ピラトは言います、「お前たちの問題だ。勝手に裁くが良い。」彼らは答えます、「死刑を宣告することも、処刑することも、私たちは許可されていません。」

 天使たちのお陰で、聖母、聖ヨハネと婦人たちはこの尋問の良く見える所に陣取ることができました。心臓を悲しみにより突き刺された聖母は永遠の御父に、主を最後まで見届け、主と同じ苦しみを味わせて頂くようお願いし、聞き入れられました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P225

 

 ガリラヤで主が騒ぎを起こしたと聞いたピラトは、主がガリラヤ人であることを確かめた後、ガリラヤの分国の王へロデに主の裁判を頼むことにしました。主が祭司たちや律法学者たちの嫉妬と悪意により、犯罪人に仕立てられたことがはっきりしているので、ヘロデが自分の代わりに主を許してくれるであろうと期待したのです。

 このヘロデは、主の御降誕後、大勢の赤ちゃんを殺したヘロデの息子です。殺人者へロデはユダヤ人の女性と結婚し、ユダヤ教に転宗しました。息子の現国王ヘロデもモーゼの律法を守り、過ぎ越しのためエルサレムに来ていたのです。父が殺した洗者聖ヨハネの親友である主が説教したことを前から聞いていたので、主に対する好奇心がありました。主が入ってこられると、ヘロデは大声で笑いこけました。魔法使いや祈祷師として取扱い、何か奇跡を見せてもらおうとしました。ユダヤの高官たちや祭司らが前と同じ告訴をしゃべり続ける間、主は沈黙を続けました。ヘロデはすっかり面白くなくなり、主を嘲笑させた後、兵隊全員と共にピラトの所へ送り帰されました。ピラトは再び無実の主と体面し、何とかしてユダヤ人たちを宥めすかそうとします。まず、祭司長らの役人たちと面談し、悪人バラバの代わりに主を放免するよう説得に努めます。ヘロデの所に送る前にも同じ説得を試みたので、これで二度目になります。

 三度目は、前庭にいるピラトと群衆の対決です。群集は異口同音に叫びます、「キリストではなく、バラバを釈放しろ!」 この時、ピラトの妻プロクラは事態を聞き知り、伝言をピラトに送ります、「あなたはこの男とどんな関わりがありましょうか? この男について幻視を見たばかりなのです!」 プロクラの警告は、主の救世の御業を妨害しようとするルシフェルと部下たちから来たものです。主があらゆる負傷を耐え抜き通している有様を見て、悪魔たちは混乱と激怒の極みに達したのです。プロクラの夢の中に現れ、この男が無実であり、夫のピラトが死刑宣告すれば、ピラトは総督の地位から下ろされ、婦人共々大変困った目に遭うであろうと言い、ピラトがイエズスを赦し、バラバを処刑した方が身のためであると勧めたのです。妻のメッセ―ジを聞くまでもなく、ピラトは悪魔たちから同じ警告を感じ取っていたので、ますます怖くなっていました。それでもピラトは、現世の政策に従わなければなりません。この三度目の説得に大反対のユダヤ人群集は、キリストを十字架に架けろと連呼します。仕方なく群集の前で手を洗い、宣言します、「この正しい男は自分に関係がない。私は自分の手を洗い、この無実の男の血に染まらない。」この手洗いの儀式により、責任はユダヤ人たちに転嫁されたとピラトは考えます。怒りにより盲目になっているユダヤ人たちは、責任は全て自分たちと子孫にあると請け合うのです、「この男の血は我らと子孫が浴びよう」と(マテオ27・25)。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P226

 

 天使たちの世話により、聖母はユダヤ人たちの悪意ある言葉は、両刃の剣のように悲しむ御心を貫きます。聖母の声とならない悲しみは、子供たちをなくした美しいラケルの嘆き声よりももっと大事な犠牲です。

 悪魔の手下たちは、主をピラトの官邸の中庭に連れて行きます。この中庭の周囲には柱が並び、幾つかの柱の上には屋根がかかっています。主の白衣を取り去り、この大理石でできている柱に主をしっかりと縛りつけ、逃げられないようにします。主が魔術師で、逃げるかもしれないと怖れているからです。大勢の見守る中、六人の刑吏が立っています。二人づつ同時に、非人間的残酷さで鞭打ちます。ルシフェルが乗り移っているみたいです。最初の二人は硬い太い結び目がたくさんある縄を使います。最初の二人は、主の御体に大きなミミズばれや青黒い腫れを起こします。皮下出血のため御体全体が変形します。最初の二人の刑吏たちが打ち終わると、次の二人が鞭打ちを競い合います。硬くなった革の鞭が変色して腫れ上がった皮膚を引き裂き、御血が飛び散ります。御血は刑吏の着物を赤く染め、敷石の上に滴り落ちます。最後の二人が取って代わり、柳の枝のように硬い生皮で主を打ちます。御体全体が傷ついたので、傷つかない所はありません。絶え間ない鞭打ちは御体から御肉を引きちぎり、敷石の上にはね飛ばします。肩の骨の大部分が露出し、流血のために赤くなります。他の所も手のひらぐらいの大きさに骨が見えています。御顔、御手と御足も刑吏たちは打ちます。御顔は晴れ上がり、御目は血が覆います。この刑吏たちの鞭打ちは五一五五回に及びました。主は人間の弱さを体験し、悲しみの人となり、人間の中でも落ちぶれた人となりました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P227

 

 群集はピラト邸の中庭や外の通りを埋めつくし、事の成り行きを待ち、お互いに討論し合っています。この騒々しさの中で、聖母は聖ヨハネとマリアたちと一緒に中庭の一隅におられました。聖母は御子の極刑の様子を神から見せて頂きました。聖母の苦しみと悲しみは、人間の理解の及ぶ所ではなく、死後の世界で明らかにされるでしょう。私が前に述べたように、聖母は御子の御苦しみと御悲しみを全く同じようにお感じになりました。聖母の御体全体が同じ痛みを感じました。御母の深い悲しみは、母としての愛や御子を神として愛することからだけではなく、主の無実を誰よりも熟知しておられたからです。主が不信のユダヤ人たちやアダムの子孫たちを永遠の死から救おうとしておられるのに、主に侮辱の限りを尽しているからです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P228

 

 人々は主を偽の王として、引き裂かれた汚らしい紫色のマントをかけ、御頭に茨の冠を被せます。この冠は刺のある枝を輪にしたもので、硬い鋭い刺は頭蓋骨、耳や目にも突き刺さっています。杖の代わりに葦の茎の束を御手に持たせ、主を偽の王としてからかいます。祭司長たちやファリサイ人らの面前で兵士たちは涜聖の侮辱の言葉を浴びせます。何人かの兵士たちは主の前に跪き言います、「神がユダヤ人の王なるお前を救うように。」ある者は主の御顔を平手で打ち、他の者は葦の茎の束を御手からもぎ取り、御顔をぶちます。唾をひっかける者もいます。兵士たちは怒り狂っている悪魔たちに唆されているのです。ピラトは、哀れな様になり果てた主を群集に見せ、人々の同情を買おうと考えたようです。バルコニーに主を立たせ、鞭打たれ、茨の冠を被らされ、偽の王のマントを着せられた主を皆に見せて言います、「見よ、この人を」(ヨハネ19・5)。十分に罰してやったから、この人を怖がる必要はないという意味です。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P228

元后の御言葉

 

 私の親愛なる娘よ、あなたの救い主なる配偶者が拷問を受け、茨の冠をかむらされ、侮辱されるのを見たいならば、肉欲に耽ることはふさわしくありません。あなたも迫害され、十字架を担ぎ、侮辱され、苦しまなければなりません。主の御受難と御死去に私があずかったように、あなたもあずかりなさい。見えるものが偉大であり、この世の富が幸福であると誤解してはいけません。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P229

第七章

十字架の道行き

 

 ピラトは大声で我らの救世主の死刑宣告を群集に申し渡しました。刑吏たちは重い十字架を主の傷ついた肩にかけました。主が十字架を支えられるように、両手の縄を弛めました。御体を締めつけている綱はそのままにしておき、綱の両端を刑吏たちは握り、主を引きずることができます。御首に綱の輪を二つもつけ、御首をニ方向に引っ張れるようにしました。十字架は十五フィート(四メートル五十センチ)の長さで、太く重い材木です。先触れの者たちが主の処刑を宣言し、処刑人たちや兵士たちが渦を巻くように右往左往しながら、やかましく喚声を上げながらピラト邸を出て、カルワリオ山へ向かってエルサレムの市中を通って行きます。

 我らの救世主イエス・キリストは、運ばれて来る十字架をご覧になり、大変お喜びになり、自分の花嫁を迎えるように次のように挨拶します、「ああ、私の愛するもの、我が渇望を満たすもの、我に来たれ、汝を両手で抱きしめよう。祭壇の上に置かれるように、私の両手が汝の上につけられる時、人類との永遠なる和睦の犠牲として永遠の御父に受入れて頂く。汝の上で死ぬため、私は天より降り、死ぬ運命にある肉体を私のものとした。汝は我が敵全員を負かす牧杖であり、選ばれた人々を天国に入れるため、門を開ける鍵であり、アダムの罪ある息子たちが慈悲を見出す聖所であり、貧乏な彼らに与える財産をしまって置く宝庫である。私の友だちが人々の与える不名誉とけん責を喜んで求め、受け取り、先に行く私の跡をついて来て欲しい。御父なる永遠の神を天地の主として崇め、聖旨に私自身を任せ、この十字架の材木を私の無実・有限の人性の犠牲のため、肩に掛け、人々の救いのために喜んで受け取ります。今日より、人々はもはや召し使いではなく、私と共に御身の王国の息子や娘となり、相続人となりますように」(ロマ8・17)。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P230

 

 啓示と知力により、聖母は主をありありと見ることができ、主の心の中の御祈りを全部聞き取りました。十字架が我らの救い主に掛けられたとたん、無限の価値を与えられたことも判りました。御子に倣って聖母も十字架を喜んで受け取り、救い主の共贖者としての祈りを捧げました。主の死刑宣告をふれ回る者たちの声が街頭に聞こえてくると、聖母は抗議し、聖なる御子を讃美する歌を歌いました。我らの神なるイエズス・キリストに倣い、苦労を甘受し、身体の休息、栄養、睡眠を全部放棄し、霊魂の安らぎさえ求めませんでした。神が休息をもたらして下さった時だけ感謝してお受けし、悲しみと苦しみをもっと受けるため、回復することになりました。ユダヤ人の悪意に満ちた行動、人類の窮乏と将来の滅亡の脅威や人々の忘恩について、他の人たちよりももっと深く感じていたからです。

 神が聖母を通してルシフェルと手下たちに対してなさった奇跡をお知らせしましょう。龍(悪魔)と部下たちは、主の御謙遜を理解できず、主の御受難を注意深く見守っていましたが、主が十字架を受け取られると、不思議にがくがく震え始め、驚きと混乱のショックに見舞われます。地獄の統治は主の御受難と御死去により徹底的に崩れると、暗黒の王である悪魔は感知し、地獄の穴に向かって飛び、逃げようとします。そこへ事態を見守っておられた聖母が神の指図に従い、神の御力をもって地獄の軍勢の行く手を遮ります。主の御受難の最後まで、カルワリオ山まで見届けるように命令します。悪魔たちは神の御力を感じ、聖母の命令に従い、永遠の智恵なる神の勝利を見せつけられるため、極刑を受ける囚人のように落胆と怖れで、とぼとぼと行列の中に入ります。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P231

 

 刑吏たちは、人間らしい同情の一かけらもなく、荒々しく救い主を引きずります。ある者は前方、他の者は後方へ主を引っ張るのです。引っ張られ、重い十字架にうちひしがれた主はよろよろし、何度も倒れます。石の敷かれた道に御膝が打ち当たるたびに傷が大きく広がります。重い十字架も御肩に深く食い込みます。倒れる時、十字架が御頭にぶつかり、茨の冠の刺が深く突き刺さります。悪の施行者たちは嘲り、呪い、唾を吐きかけ、歩道の土砂を主の御頭に投げつけ、御目を覆います。主を早く殺そうと、人々は主に息つく暇を与えません。既にニ、三時間拷問を受けた主の至聖なる御体は弱り、傷だらけで、苦しみと悲しみのあまり、いつ御死去になっても不思議ではありません。

 聖母は、聖ヨハネと信心深い婦人たちと共に群集の渦中を進んでおられましたが、怒涛のような群集の中では主の近くにはとうてい行けません。聖母は永遠の御父に、十字架の下で御子の御死去を見守ることができるようにお願いし、聞き届けて頂きます。天使たちは脇道に聖母の一行をお連れし、主に面会できるようにします。お互いに顔を見合わせ、お互いの心の悲しみを分かち合います。話しません。刑吏たちが先を急がせます。聖母は心の中で主にお願いします、「御自身が十字架を持ち上げられませんし、天使たちに助けを願うわけにもいきませんから、主が誰かの助けを得るよう、残酷な刑吏たちに考えさせるように。」この願いは聞き入れられ、シレネ人のシモンが主と共に十字架を担がされます(マテオ27・32)。ファリサイ人と処刑人たちの中には主に同情する者たちもいたでしょうし、十字架に張りつける前に主が死んでは困ると心配した人たちもいたのでしょう。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P232

 

 聖母の悲しみは人智を越えます。主の本当の価値を知っておられたからです。神に支えられなければ聖母は生き永らえられなかったでしょう。心の中で主にお話しになります。「私の御子なる永遠の神、私の目の光、私の霊魂の命や、アダムの娘である私が、十字架をもちあげたり、担いだりすることができないという苦しみを私の犠牲として受け取って下さい。御身が人類を熱愛するがゆえに、十字架上で御逝去されるように、私は御身を愛するが故に死ぬべきでございます。ああ、罪と義の仲介者よ! さんざん痛めつけられ、恐るべき無礼を受けても、慈悲を願う方よ! ああ、愛徳は限りなきかな! それほどの拷問と侮辱を赦し、より多くの効果を挙ぐべきかな! 人々を滅亡より救わんためいけにえとなり給いし御身につきて、人々の心に訴えん者は誰ぞ!」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P232

 

元后の御言葉

 御受難と御死去の秘密とは、唯一、真の人の道は十字架であることも、招かれた者全員が選ばれていないことを、あなたは納得したことと思います。主に従いたい者は多いが、主を真似る者は少ない。十字架の苦しみを感じるやいなや、十字架を棄てます。永遠の真理を忘れ、肉欲を求め、肉の喜びに耽る者は多いのです。人々は名誉を熱心に求め、不名誉から遠ざかります。富を求め、貧困を批難します。このような人たちは主の十字架の敵です(フィリッピ3・18)。

 もう一つのごまかしが世に広まっています。それは大勢の人たちが主に従っていると想像していますが、苦しまないし、労働もしていないことです。罪を犯さないことで満足します。自己犠牲や苦行を避けるという賢慮または自己愛を完徳と考えます。もしも、御子が救い主だけではなく、先生でもあることを考えるなら、この人たちは間違いに気づくでしょう。主は愛を誰よりも良く理解しておられ、誰よりも完璧に愛を実行されました。肉体にとって易しい生活ではなく、労働と苦痛の生活を選ばれました。主は、悪魔、肉欲と我欲をどのように克服するかを教えて下さいました。つまり、十字架、労働、償い、苦行と侮辱の甘受により勝利を得るのです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P233

第八章

十字架につけられる

 

 首長アブラハムが一人息子イサクを連れて行ったのと同じ山の頂に、永遠の御父の御子は到着しました。イサクの場合は犠牲になることを免れましたが、最も罪のない御子は犠牲になりました。この山、カルワリオ山は汚され、蔑められています。犯罪人たちがここで処刑され、屍は放置され、悪臭を放っています。我らの最愛なるイエズスが山頂に着かれた時は、疲労困憊し、傷だらけ、引き裂かれ、腫れ上がり、見る影もない有様でした。今や救いの神秘が完うされることを感知した聖母は、永遠の御父に祈られます、「私の主なる永遠の神よ、御身は御独り子の御父であられます。御子は永遠に生まれ、真の神、神御自身でおられます。私の胎内より人間となられ、その人性の故、今、御苦しみになられます。私は御子に乳を含ませ、育て、母として愛しますが、今、母としての権利を御身に御返しし、御子を人間の救いのための犠牲として捧げます。これは、私が犠牲になることよりももっと尊いことでございます。私が御子の身代わりになることが許され、御子の聖なる生命を救えますならば、私の本望でございます。」私たちの祖先アブラハムは、独り息子イサクを犠牲にせずに済みましたが、聖母は御子を失わなければなりませんでした。アブラハムの妻サラは、イサクが犠牲になることすら知りませんでしたが、聖母は、御子を犠牲にすることで神に一致しなければなりませんでした。           

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P234

 

 時は六時、今の時間で正午。処刑人たちは御子から縫い目のない上着と着物を剥ぎ取るのですが、上着は御頭の上の方に引っ張り、茨の冠も一緒に引き上げます。乱暴に引っ張るので冠は壊れ、幾つかの刺は引き抜かれ、他の刺は突き刺さったままになっています。着物を御体から引き剥がす時、着物にこびりついていた御体中の傷が開き、すごい痛みを起こします。着物をはいだり着せたりするのは四回も行われます。第一回目は柱の所で鞭打ちする時、二度目は紫色の着物を着せる時、三度目はそれを上着と着替える時、四度目は主を裸にする時です。カルワリオの山頂では冷たい風が吹きつけるので、開いた傷を通して寒さが凍みてきます。

 主は祈られます、「永遠の御父にして我が主なる神よ、御身の無限の善と正義に対して、私の全人性と聖旨に従い、人々の救いのため成し遂げた全てを捧げます。私と共に私の最愛の御母も捧げます。御母の愛、完徳、悲しみ、苦しみ、私に対する奉仕、私を見倣い、私の死まで付き添う御母を捧げます。私の使徒たち、聖なる教会と信者全体を御身に捧げます。アダムの子孫全員も捧げます。私の希望することは、私が全人類のため苦しみ、死ぬことです。皆が私に従い、私の救いを得るという条件が満たされることを希望します。人々が悪魔の奴隷ではなくなり、御身の子供たち、私の兄弟姉妹となり、私の功徳により獲得する恩寵を相続できますように。貧乏人、困窮者、世の中の嫌われ者や正義の人たちが御身の永遠の光栄に属することだけではなく、御身により罰せられるかもしれない人々も、御身の審判から免除されることを願います。御身は私の御父であり、皆の御父になられました。私を迫害する人々も私の死についての真理を御身から教わりますように。何にもまして御身の御名が崇められますよう、心から御祈り申し上げます。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P235

 

 聖母も御子に調子を合わせ、同じ言葉で祈りました。御子が幼児の時の御言葉、「母上、私のようになってください」を決して忘れません。

 処刑者たちは、主に十字架の横木の上に両腕を延ばすように乱暴に命令します。御手のひらにあたる所に印をつけますが、実際はそれより少し外側に印をつけ、釘の穴を開けることにします。穴を開ける前に、主は上半身を起こさせられます。そこへ聖母が来られ、片手を取り、恭しくその手に接吻されます。処刑者たちは悲しむ母親に会わせて、主をもっと悲しませようと思ったのですが、反対に主は、御自身の似姿であり、御受難と御死去の結実である御母を御覧になり、幸せに思われたのです。

 主が再び十字架上に仰向けになられると、一人の処刑者は御手のひらに釘を打ち通します。静脈血管や腱は裂かれ、中手骨は釘の両側に押し離されます。もう一人の処刑者はもう一方の御手を釘穴にあてようとしますが、もともと、わざと御手の当たる所よりも外側に穴を開けましたから、御手首に鎖を掛け、外側にぐいと引っ張ると、御子の上腕骨の骨頭が肩関節から外されます。その上で御手に釘が打ち込まれます。次に処刑者たちは、御両足を重ね、同じ鎖を御足首にかけ、引っ張りながら、御両足に大きな長い釘を打ち込みます。主は御体が縦横に引き延ばされたまま身動きなさいません。処刑者たちは、十字架の下端を土に掘った穴に引きずります。ニ、三の者たちが十字架の上部の下に入り、体で十字架を持ちあげます。他の者たちは槍で十字架の上部を押し上げます。こうして十字架を主と共に建てます。主を十字架と共に持ちあげる時、ある者たちは槍をわきの下当たりに刺し、十字架の真ん中に御体を動かします。見ている群集は喚声を挙げます。ユダヤ人たちは涜聖の言葉を吐き、親切な者たちは嘆き、異邦人たちは驚き、質問したり、恐ろしさと哀れさで頭を振り、他の人たちは我が身の危険を感じたり、又、他の者たちは主を義人であると宣言したりしています。人々の感情は聖母の心に矢のように刺さります。御子の御体の釘の傷は、御体の重みのため大きく開き、血が溢れ出てきます。(イザヤ12・3)イザヤが述べたように、御血は私たちの喉の渇きを止め、私たちの罪の汚れを洗い、清めます。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P236

 

 処刑者たちは二人の盗賊を十字架につけ、救い主の両側に立てます。ファリサイ人たちや祭司たちは頭を振りふり嘲笑し、石や土を救い主に投げつけて言います、「おい、神殿を壊し、三日以内に立て直す者よ、自分を救え、他人を治したのに自分を救えない。神の子だったら、十字架から降りてこい。そうしたら信じよう」(マテオ27・42)。二人の盗賊たちも調子を合わせ、言います、「お前が神の子なら、お前自身と俺たちを救ってくれ。」このニ悪人が臨終に際し、正当な罰を受け、その効果を受けることに気付いていないので、主はお悲しみになります。

 十字架の木は御子の玉座です。この玉座の上で主は御自分の教えを確認されて仰せになります、「御父よ、この人たちを赦して下さい、訳がわからずやっているのですから!」(ルカ23・34)。敵を赦し、愛されるばかりでなく、知らないで自分たちの神を迫害し、涜聖し、十字架に掛ける人たちのためにも弁解しておられます。ああ、理解を越える愛! ああ、考えの及びもつかない忍耐、天使たちは讃え、悪魔たちは恐れる! 二人の盗賊の内の一人、ヂスマスという名の盗賊は、主の神秘に気付き始めます。聖母のお取次も加わり、主の十字架上での最初の御言葉の意味を神より教えて頂き、自分の罪を悲しみ、悔やみ、自分の仲間に向かい、言います、「罰せられてもお前は神を恐れない。」イエズスに顔を向け、お願いします、「主よ、御身が天国に入られる時、私のことを思い出して下さい」(ルカ23・42)。盗賊どもの中で最も幸せなヂスマスや百夫長、その他、十字架上のイエズス・キリストに信仰告白した者たちの間に救いの結果が現れ始めます。一番の幸せ者はヂスマスです。主の御返事があるからです。「真に汝に告ぐ、本日、汝は我と共に天国に入らん。」次に、十字架のそばに直立しておられる聖母と聖ヨハネに主は語ります、「婦人よ、汝の息子を見よ」(ヨハネ19・26)。「婦人」という言葉は、あらゆる女の中で祝されたる女、アダムの娘たちの中で最も思慮深い娘、主に対する奉仕に欠けることなく、主に対する愛に於て最も忠実な女を指します。「私が御父の所に戻る時、汝は私の愛弟子の世話になる、愛弟子は汝の息子となる」と主は意味され、聖母にはそれがはっきりしています。聖ヨハネも理解し、主の次に最も大切な御方の面倒を見ることになり、聖母は謙遜に新しい息子を養子にします。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P237

 

 時は第九時近くとなり、天地は暗くなり、荒れ狂う様子を見せます。主は大声で叫ばれます、「我が神よ、何ぞ我を見棄て給うや?」(マテオ27・46)。この御言葉はヘブライ語でおっしゃるので、理解できない人たちもいます。「エリ、エリ」で始まるので、預言者エリアを呼び出しているのかと思います。主の御悲しみは、全人類を救いたいのに、咎められる者たちの幸福を与えられないということにあります。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P238

 

主の聖心のお苦しみは御体の御苦しみとなります。「我、渇く!」アダムの子孫たちが、主の功徳によりもたらされた赦しと自由を受け取るよう渇望しておられますが、大勢の者たちがこの恩寵をないがしろにしています。聖母は御子に御心を合わせ、貧乏人、困窮者、下賎の者、忌み嫌われた人たち全員が救世主のところに集まり、主の渇きを少しでも癒して欲しいと呼びかけます。しかし、不信なユダヤ人たちや処刑役人たちは頑固です。肝を酢に漬けたものに海綿を浸し、葦の枝の先にその海綿をさし、嘲りながら主の口許に持っていきます。「私の渇きのため、酢を飲ませようとした」(預言者9・29。詩篇69・22)がダビデの預言の成就を物語ります。

 主は第六番目の言葉、「仕遂げた」(ヨハネ19・30)は、主の御降誕、御受難と御死去という救世の御業の完成を表します。旧約の預言の実現と主の人性のこの世に於ける結末です。教義、秘蹟と罪の癒しも設けられました。主の聖なる教会は人々の罪を赦せます。勝利の教会の基礎が戦闘の教会の中に据えられています。

 主の最後の御言葉、「御父よ、我が霊魂を御手に委ねます」(ルカ23・46)をおっしゃった後、死を通して永遠の御父の不死の生命の中に入られます。この御言葉が大きく響いた時、ルシフェルと手下たちは地獄の一番深い穴に投げ込まれ、身動きできませんでした。全てを主と共にされた聖母は主の死の御苦しみも体験しました。聖母が御死去されなかったのは、神の特別な御計らいによるものです。聖母の体験された死の苦しみは、全殉教者や処刑された者たち全員の苦しみを寄せ集めたものよりももっと酷いものです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P239

元后の御言葉

 

 私の娘よ、私の教えた神秘を片時も忘れず、主と共に十字架に張りつけになって生活し、この世に対して死んだ者となりなさい。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P239

第九章

マリアはキリストの功徳の相続人

 

 十字架の上から主が仰せになった七つの御言葉の前に、主は永遠の神に対して祈っておられます。この祈りは実質的には遺言であり、契約です。霊的宝を人類に残されたのです。永遠の神、最高の主、至正の裁判官は主と共に、諸聖人の救いと悪人たちの罰についての神秘を決定されました。このことを理解したのは聖母だけです。聖母は主の御業について教えを受けただけでなく、全人類の中で相続人に選ばれています。聖母は救いの共贖者であり、相続人です。永遠の御父が御子なる主に全被造物を任せられたように、御子は御母の御手に全てをお渡しになりました。神なる御子の功徳を分配されるのです。聖母は最も甘美なる優しさと寛大さを表し、より頼んで来る罪人たちに宝をお分けになります。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P240

 

 七つの御言葉の前に、主が永遠の御父に、十字架の上から祈られた御言葉は次の通りです、「私の永遠の御父なる神よ、この十字架の上から御身を崇め、私の受難と死を御身に捧げます。私の降臨により、私の人性を至高の威厳つまり、神人であるキリストの威厳にまで高めて下さいました。永遠より御身は、恩寵と自然の全宇宙の統治を私に委託されていました。天、自然、地、海その中の生物、無生物の王に私を任命して下さいました。季節も昼も夜も私の支配下にあり、全天使たちと全人類を治め、人々の善悪を審判し、最高天から最も低い地獄の底まで私の力が行き渡ります。御身は私を審判者、救い主、授賞者、人類の主、生死を司る者、聖なる教会の頭、恩寵の保有者として下さいましたので私は御名を崇め奉ります。」

「私の主なる永遠の御父よ、今や十字架上の死により、救いの業を完成し、御許に参ります。この十字架が私たちの審判と慈悲の標準になることを私は望みます。私が自分の命を与える人たちの審判になりたいのです。人々の善業、悪業に応じ、私の功徳を人々に分配したいのです。私は全人類を罪から救い、私の友情と恩寵にあずかるように招いています。私の受胎以来、休むことなく働き続け、不便、疲労、軽蔑、侮辱、叱責、鞭打ち、茨の冠、そして十字架上の死に甘んじます。祈りながら人々を見守り、断食し、諸地方を説教して回ってきました。あらゆる人々の永遠の幸福を願い、あらゆる人々のためにその功徳を得、一人も見逃してはいません。全人類が救われるための教会も確立しています。」

「私の神なる御父よ、しかしながら、悪意があって反抗的な頑固者たちは永遠の救いを望まず、私たちの慈悲と救いの道にそっぽを向くことを私たちは気付いています。多くの人々は罪から堕落へと向かうことを選んでいます。御身は私を生者と死者、善人と悪人を裁き、賞罰を与える裁判官に任命されましたので、私は人間として最後の遺言を致します。第一に、私に人性を与えて下さった至聖なる御母です。御母を私の所有物全て、自然、恩寵と光栄の賜物全てのただ一人の相続人と定めます。御母が天使たちと人類の王であり、統治者であることを宣言します。悪魔たちも御母に従います。理性のない被造物全部、天、星、惑星、自然、生物、鳥、魚と動物は御母を女王と崇め、御母と私を共に讃えるのです。御母は天地の宝の管理者、分配者となります。御母が人類のため、今、後ほど、また、いつもお願いになることは何でも私たちはいつも認めます。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P241

 

 「御父の聖旨に従う聖なる天使たちに、私たちは天の住居と、神である私たちを見る喜びとを与える。私たちの友情を永遠に所有することにする。天使たちが私の御母を元后と認め、仕え、随行し、何処へでもいつでもお連れし、御母の命令全てに従うべきことを命令する。私の、完全な聖なる意志に反抗する悪魔たちを私は追放し、罰し、私の御母、諸聖人、義人を見させない。悪魔たちの住居を下の穴、即ち、光の通らない暗黒の恐怖に満ちた地球の中心と定める。高慢と頑固により選んだ結果であり、暗黒の中で永遠に消えることのない火により焼かれることになる。」

 「大勢の人々の中より、私は私の恩寵を、私を見倣い、私に従い、私の意志通りに行動した全ての正義にして選ばれた者たちに分ける。私たちの至純なる御母の隣りに選民たちを置き、私の全ての神秘、祝福、秘蹟の宝、聖書の神秘の相続者とする。私の謙遜、柔和、信望愛の徳、賢慮、堅忍、剛毅、私の恩寵、私の十字架、労働、侮辱、貧困と恥ずべき裸の相続人とする。選民たちは私の試練と同様の試練に遭い、私の守護、鼓舞、恩恵、助力、祝福、正義を受けることになる。選民たちは私の愛子であり、私の全功徳の相続人となる。選民たちが教会の秘蹟にあずかり、もしも私との友情を失っても、私の血により恩寵を回復することを私は望む。私の御母と諸聖人は選民たちの仲介者となる。御母は人々の母として保護する。天使たちは、人々がつまずかないように支え、倒れるなら抱え起こす」(詩篇91・11)。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P242

 

 「正しい選ばれた者たちは、罰せられるべき者たちや悪魔たちの上に立ち、私の敵たちを怖がらせ、従わせる。理性的、非理性的被造物の主人となる。天、惑星や星、また地、地上の自然や動物は選民たちを大切に扱い、生命を与える。私の所有物であり、私に仕える被造物全部は彼らのものであり、彼らを私の子供たちとして大切にする(一コリント3・22.智恵16・24)。彼らの祝福は天の露となり、地の果物となる(創世27・28)。彼らは私の喜びである。私は彼らに私の秘密を教え、話し合う。戦闘の教会に於ては、パンと葡萄酒の形色の中で彼らと共に生きる。永遠の幸福の相続者として認め、天国に於て私と共に喜ぶようにする。」

 「罰を予知された者たちは、体と目の色欲を相続することになろう」(一ヨハネ2・16)。地球の塵、つまり富で満足する。肉の臭気と腐敗や、世の中の虚栄と厚顔とを喜ぶ。このような物を得るため働き、心身をすり減らす。私たちの与えた賜物や祝福を濫用する。自分たちの自由意志により、ごまかしを選び、私の教えた律法の真理を嫌う(ロマ2・8)。私が彼らの心の中に与えた良心を排斥し、私の教えも祝福も嫌になり、私と彼らの共通の敵の言うことを聞き、敵のごまかしや虚栄を愛する。不正を働き、自分の野心に従い、復讐を楽しみ、貧乏人を困らせ、義人を軽蔑し、無実の者を嘲り、自分たちは威張り、不法行為に於てレバノンの杉よりも高くなろうとする(詩篇37・35)。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P243

 

 「これらの者たちは私に敵対し、悪意に凝り固まり、私の与える養子権を破棄したので、私は彼らに私の光栄を相続させない。彼らを私の御母、天使たちや諸聖人から分け離し、彼らが自由意志で仕えたルシフェルや手下たちのいる永遠の地獄の火の中に落とす。彼らが地獄から這い上がれるチャンスを決して与えない。ああ、御父よ、人間と天使の頭、裁判官としてこの宣言を誓い、私の臨終に於ける契約とします。各人は、各人の行為に従い、御身の審判に従い、報いを受けます。」この祈りは聖母の御心の中にしっかり伝わりました。聖母の御取次や御自分から率先されるお世話を通して、この契約が施行されることは、その時、そして過去、未来全てに及んでいます。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P243

第十章

キリストの地獄への勝利

 

 主イエズス・キリストが十字架上で死を遂げ給うその時まで、ルシフェルと手下たちは、主が神であるかどうかはっきり判りませんでした。従って聖母の威厳についても確かではありませんでした。神が人間となり、救いの御業を行うことをルシフェルは知っていました。主の奇跡にも感服しましたが、主が貧しく、蔑みを受け、疲労困憊するのを見ると、主が神であるとはどうしても思えません。ルシフェルの高慢のため、見すぼらしく見える主を神と認める気持ちはさらさらなかったのです。しかし、状況を判断すると、主は神に違いないと考えられ、混乱します。主が十字架を背負い、救いの御業の完成に向かわれるやいなや、ルシフェルと部下たちはすっかり驚愕し、地獄に飛んで帰ろうとします。神の御力により、物事が明確になったからです。自分たちが殺そうとしていた無実の男は単なる人間ではなく、その人の死は自分たちを滅ぼすことが明白になった以上、いても立ってもいられません。地獄に逃げ帰ろうとするところを聖母に捕えられ、鎖に繋がれた恐ろしい龍たちのように、カルワリオまで主のお供をすることになります。この神秘的な鎖の端は聖母がしっかりと握り、御子なる主の御力により、悪魔たちを従わせます。悪魔たちは何度も鎖から逃げ出そうとし、怒りに荒れ狂いますが、聖母に勝てません。聖母は、悪魔たちをカルワリオ山頂まで連れて来ると、十字架の周囲に立たせ、身動きしないで神秘を見守り、人類の救いと悪魔たちの滅びを目撃させます。ルシフェルと地獄の霊たちは、主と御母のそばにいるという苦痛に打ちのめされ、自分たちに襲いかかる滅亡を恐れ、地獄に飛び降りたくてしようがありません。許可してもらえません。悪魔たちは倒れ、お互いの上に重なり合い、もがき合い、暗い避難所を目茶苦茶に探し回ります。悪魔たちの怒り狂う様は動物同士の殺し合いとか、龍同士の死闘よりももっと残酷です。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P244

 

 十字架の上から主が七つの御言葉を発せられると、悪魔たちも傾聴し、意味がよく判ります。主は悪魔たちに勝ち、罪と死を克服し、悪魔たちの手から人間を取り戻しました。「御父よ、人々を赦し給え。なせる業を知らざるが故なり」という第一の御言葉を聞いて、ルシフェルは、主が真の神の御子であることを確信しました。主なる神が人性に於て御死去になり、全人類を救い、アダムの子孫全員の罪を赦し、御自身の処刑者たちのことも除外しないことが判ったのです。激怒と絶望で荒れ狂う悪魔たちは、聖母の御手から何とか逃れようと全力で暴れます。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P245

 

 主の第二の御言葉、「アーメン。汝に告ぐ、今日、我と共に楽園に入らん」は、罪人の赦しは義者の光栄に結果するという意味であると悪魔たちは悟ります。主の功徳により、原罪の結果、閉ざされていた天国の門が開かれ、人々が入り、予知された天国の席を各人が占めることになると判ります。主の謙遜、忍耐、柔和とその他の諸徳により、主が罪人たちを招き、清め、美しく天国に入れるのであると知ります。ルシフェルは混乱し、苦しみ、聖母に逃して下さるよう願いますが許されません。

 「婦人よ、汝の息子を見よ!」という第三の御言葉で、自分たちを捕まえて放さない婦人が主なる神の御母であり、天空に現れ、自分たちの頭を踏み砕くと預言されている女と同じ御方であると発見します。今までそれが判らなかったことほど、何でも知っていると思う高慢をぶち壊すことはありません。血に飢えたライオンのようになり、聖母に対する憎しみを千倍に増やします。聖ヨハネが聖母の守護者に任命され、しかも司祭の権能を与えられていることに気付き、聖ヨハネの司祭としての力と司祭全員の力が、我らの救い主に由来するということ、司祭たちは主により守られ、自分たちより強いということで、悪魔たちは手出しできなくなります。

 第四の御言葉、「神よ、我が神よ、何ゆえ我を見棄て給いしか?」を聞いた悪魔たちは、主の人類に対する愛が永遠無限であると判ります。神は人類の救いのため、主が極度に苦しまれることを許されます。主は人類の一部が救われないことを予知し、残念に思います。もしも、その反抗的な人々さえも救われるならば、主はもっともっと苦しみたいのです。主の人間に対する愛の故に、ルシフェルたちは嫉妬で気が狂い、神の愛に対して無力であると感じます。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P246

 

 第五の御言葉、「我、渇く」は悪魔たちに対する主の勝利を確認します。主は人間に対する御自分の愛情に満足できません。この渇き、この不満は、人間の救いのために永遠に続きます。苦痛の激流は決して絶えません(雅歌8・7)。悪魔たちの暴虐や支配から人々を救い、悪魔の悪意と高慢に対して戦うのを助けられるなら、主はもっともっと苦しみたいのです。

 第六の御言葉、「事、成れり」により、御受胎と御救世は今や完成したことを悪魔たちは嫌というほど思い知らされます。我らの救世主は、永遠なる御父にどれほど忠実であったか、昔の太祖らにより教えられてきた契約と預言を主が成就したこと、主の謙遜と従順が悪魔たちの高慢と反逆に打ち勝ったことを悪魔たちは教えられます。主が天使たちと人類の裁判官であることは、永遠の御父の聖旨の通りです。

 主がルシフェルと手下たちを地獄の最奥部にある永遠の火の中に投げ込むという審判は、第七の御言葉「御父よ、我が魂を御手に委ね奉る」を発せられた時に施行されたのです。同時に聖母も同じ審判を下されたのです。悪魔たちの落下は雲を貫く雷光よりももっと速く、あっという間の出来事でした。以前に天より追放された時以上の大惨事を悪魔たちは経験したのです。聖ヨブが言うように(ヨブ10・21)、地獄は暗く、死の陰に覆われ、陰気な無秩序、悲惨、拷問と混乱に満ちていますが、今度は混乱と無秩序はいつもの千倍にもなっています。怒り狂う獰猛な悪魔たちが突然やって来たので、地獄に堕ちた人間たちは新しい恐れともっと多くの罰を与えられるからです。地獄の罪人たちは、各人の罪の大きさに従い、神により罰が決定されるので、悪魔たちが勝手に罰の大小による場所の違いを決めることはできません。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P247

 

 ルシフェルは驚愕からやっと気を取り戻すと、地獄の運営を取りしきるに当たり、悪魔たちに自分の高慢な新計画を発表するため、全員を呼び集め、自分は高座に座り言います、「俺の復讐の命令に長い間従ってきている者どもは、この神人に俺がしてやられたことを知っている。三十三年間、俺を騙かし、自分の神性を隠し、計画を見せず、今や俺たちが神人を殺したことにより、俺たちは負かされたのだ。神人が人間となる前、俺は憎み、俺より偉い者として認めなかった。この反逆により、俺はお前たちと共に天から追放され、俺の偉大さと美にふさわしくないこの恐るべき状態に落とされ、神人と御母に屈服されている自分を見てもっと苦しんでいる。人祖が創造された日から、俺はこの二人を探し、滅ぼそうと休むことがなかった。もし、この二人を探せなかったら、せめても、全人類を滅亡させ、神を崇めさせず、神の恩恵をもらえなくさせようと望んだのである。この意図のため、俺は全力投球した。しかし、この神人は謙遜と貧困により俺を屈服させ、忍耐により俺を潰し、最後に御受難と御死去により、この世の統治権を俺から奪い取った。俺が神人を御父の右の座から突き落とせても、全人類をこの地獄に落としても、この無念は決して晴らせない。」

 「俺よりもはるかに低級な人性が、あらゆる被造物の上に高められることは可能か? 人性が愛され、恩恵を受け、永遠の御言葉のペルソナである創造主に一致するとは! この御業の前に、神は俺と戦い、後に俺を混乱させる! 神は俺の天敵で、嫌いで嫌いでしょうがない。ああ、神から恩恵を受け、賜物を頂く人間たちよ! お前たちの幸運をどのように邪魔しようか? 俺の不運をどうやってくれてやろうか? ああ、俺の部下たちよ、何から始めようか? どうやって人間たちを支配できるか? もう一度俺たちが屈服させるにはどうしたら良いか? 人間たちが馬鹿になり、恩知らずにならなければ、そして救い主を軽んじないなら、救い主に従うだろうし、俺たちの嘘に耳を貸さないだろう。俺たちがこっそりと提供する名誉を嫌い、軽蔑を愛し、肉の苦行を求め、肉の楽しみや安逸の危険を見つけ、富や財宝を嫌い、やつらの先生がとても誉める貧困を愛し、やつらの貪欲をそそりそうなもの全てを、救い主が忌み嫌うのを真似するだろう。そうすると俺たちの王国は駄目になる。ここには誰も来なくなる。俺たちがなくした幸せを手に入れる。自分たちを塵芥と同じように卑下し、忍耐強く苦しむに違いない。俺の怒りも自惚れも役立たずだ。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P248

 

 「何という禍! 神人を砂漠で試みた時、神人はどのようにして俺を克服するのかの良い模範を示した。ユダに神人を裏切らせ、ユダヤ人に神人を十字架上で殺させたことが、俺の滅亡と人間の救いになった。俺が消してしまおうとした教義がもっとしっかり根づいてしまった。神たる者が自分をそこまで謙らせられるのか? 悪人どもからそれほどの仕打ちを堪えられるのか? 俺が神人を助けるはめになったのはどういうことなのか? この女、神の御母はどのようにして強いのか? 人体を神の御言葉に与えた御母は、神から力をもらったのだ。この女により、神は俺をしょっちゅう責めて来る。子分たち、どうしたら良いのか意見を言ってくれ。」

 悪魔たちは、主キリストを傷つけられないこと、主の功徳を減らせないこと、秘蹟の効果をなくせないこと、教義を変えられないことを全員認めた上で、もっと大きなごまかしと誘惑を試みることにしました。抜け目のない悪魔たちは、以上の他に、この女の強力な取次や弁護も認めた上で、人間の肉の性も情も以前と同じであると主張します。新しい娯楽を教え、欲情をそそらせ、その他のことを忘れさせるよう熱心に人間たちを口説こうというのです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P249

 

 悪魔たちは、幾つかの部隊を編成し、各部隊は異なる悪徳一つ一つを専門とすることにしました。偶像崇拝を世界中に広めるか、分派や異端を作ることにします。例えば、アリウス、ペラジウス、ネストリウスの派とか、他の諸宗教です。神に対する信仰を破壊することでルシフェルは満足し、この不信仰運動を熱心にやりたいという悪魔たちを高い位につけました。他の悪魔たちは子供たちを妊娠の時、または誕生の時に邪悪にすることにしました。親たちに子供たちの養育・教育を疎かにさせたり、子供たちに親を憎ませたりさせる仕事を言いつかりました。夫婦仲を悪くさせたり、不倫させたり、貞節を軽んじさせたりする役の悪魔もいます。全員一致したことは、不和、憎悪、復讐、高慢、肉欲、富の所有欲、名誉欲の種を撒くこと、キリストの教えた諸徳に反するもっともらしい理由をほのめかすことです。とりわけ、人々に御受難、御死去、救いの手段や地獄の永遠の苦痛を忘れさせることを計りました。このような手段で、人間の知力や能力を、この世のことや感覚的喜びで疲れさせ、霊的思考や自己の救いのための時間を少しにしようとするのです。

 以上の提案は全てルシフェルが賛成します。そして、救い主に従わない者たちを誘惑するのは容易であるが、救い主の掟に従う者たちを徹底的に迫害しなければならないと言います。教会の中に野心、貪欲、官能、憎悪の種を撒き、これらの悪徳を盛んにし、それに伴う悪意と忘恩により、神を怒らせ、救い主の功徳による恩寵を失わせようと言います、「やつらが救いの手段を失うと、俺たちは勝てる。信心を弱めてやると、やつらは秘蹟の力を実感せず、大罪の状態になるか、不熱心に秘蹟にあずかる。そして、霊の健康が弱まり、俺たちの誘惑に抵抗し切れなくなる。俺たちのごまかしを見通せなくなる。救い主や御母を忘れ、恩寵に値しなくなる。救い主を怒らせ、助けてもらえなくなるだろう。俺は、皆に俺の命令を全力でやってもらいたいのだ。」

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P250

 

 悪魔たちの会合は、主の御死去後まる一年も続いたのです。聖ヨハネは言います、「地は禍なるかな、悪魔は激怒し、地に来れり。」悲しいことに、この真理ほど人々に嫌われ、人々から忘れられたものはありません。我々がぼんやり、いい加減で不注意である一方、悪魔たちは抜け目なく、残酷で、我々の隙をうかがっています。大勢の人々がルシフェルに聞き入り、ごまかしを真に受け、少数の人しか反対しないのです。人々が永遠の死を全く忘れてしまうのです。世の中全体の悪と個人の悪による危険を知らせなければなりません。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P250

元后の御言葉

 

悪魔たちは、教会全体の破壊を企んでいます。大勢の人々を教会から離れさせ、教会内に留まる人々に教会を軽蔑させ、救い主の御血と御死去の実を結ばせまいとしています。最大の不幸は、多数のカトリック教徒がこの大きな破損に気づかないか、主イエズスがエルサレムの婦人たちにエルサレムの滅亡を警戒された時が今来たことが判っていても、解決について真剣でないことです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P251

第十一章

復活

 

 我らの主イエズス・キリストの埋葬の後、聖母は最後の晩餐をした高間に戻りました。聖ヨハネ、他のマリアたちとガリラヤの婦人たちも一緒です。この人たちに聖母は心から感謝し、涙を流しながら、主の御受難の間中、耐え忍んだことと、御生前も主に献身したことの報いを約束します。同時に聖母は、皆の召し使いとして、友として仕えたいと申し出ます。皆はこの大きな恩恵を感謝し、聖母の御手に接吻し、聖母の祝福を願います。皆が、聖母に何か召し上がり、少し、休まれるように願うと聖母は言われます、「私の休みと慰めは、私の御子なる主が死者の内から復活するのを見る時です。あなた方は早く食物を摂るなり、休むなりして下さい。私は御子と二人きりになります。」自分の個室で聖母は、御子の霊魂が何をされているかを思い巡らします。聖母が最初から知っていたことは、御子の霊魂が神性と一致結合し、古聖所に行き、その地下牢から聖なる祖先全員を解放することでした。主が訪れると、この暗い洞穴は天国に変り、素晴らしい輝きで満たされ、そこに保留されている聖人たちは神を見ます。長い間の希望が実現します。神に感謝し、神を誉め、歌います、「犠牲となった小羊に権力、神性、智恵、名誉、光栄と祝福がありますように、主よ、御身の御血により、あらゆる部族、あらゆる言語を話す人たちや諸国民の中から私たちを救って下さいました。私たちを国王や司祭に任命し、地を統治させます。ああ、主よ、権力、統治と光栄は、ことごとく御身のものです。」次に主は天使たちに命じ、煉獄にいる霊魂全員を連れて来させます。人類の救いの保証のように、彼らの罪は赦され、残っている刑罰も免除され、彼らは義人たちと共に神を見て輝きます。王なる主が来られたこの日、古聖所も煉獄も空になったのです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P252

 

 我らの救い主イエズス・キリストは、金曜日午後三時半から日曜日の朝まで古聖所におられます。その間、主は御自身の墓へ天使たちと諸聖人の王として戻って来られます。御墓の中では大勢の天使たちが警護にあたっています。聖母は何名かの天使たちに命じ、御子の流された御血、飛び散った御肉の破片、引き抜かれた頭髪など全てを集めさせます。天使たちは大喜びで聖遺物を胸に抱きしめます。主が御亡くなりになった時の、そのままのむごたらしい御体を聖なる祖先たちは拝見し、主を崇め、我々の弱さや悲しみを引き受けられた人間としての「御言葉」を改めて宣言します。主の救いにより、自分たちが光栄に浴することをひしひしと感じ、聖人たちは全能なる神、そして聖人中の聖人をもう一度讃美します。

 全聖人の前で、あらゆる聖遺物が天使たちにより主の御体に結びつけられ、主の以前の御体が再現します。その瞬間、主の霊魂が主の御体に結合し、不死の生命と光栄を与えます。御体は光栄の賜物、即ち、明瞭、物体通過、敏捷と微妙の着物を着ています。これらの賜物は、主の霊魂の無限の光栄から溢れ流れ、御体の隅々にまで行き渡ります。これらの賜物は、御受肉の瞬間から、自然な相続と結合から御体に与えられるべきでした。御霊魂と御体の一致と神性との一致の故、御子の人性は光栄を受けたのですが、我々に我々自身の光栄を与える功徳を積むまでの間、これらの賜物は保留されたのです。御復活により、主の霊魂の光栄と神性との一致の結果、賜物の効果が現れることになりました。我らの救い主の霊魂の光栄を書き表すことが人間にとって無理であるように、賜物の記述も不完全不十分になります。その美しさ(明瞭、純粋)は、たくさんの太陽のようです。それに比べると被造物の美しさは一個の星の光くらいです。この美しさは、御変容の光栄を遥かに越えます。御変容の光栄は、一時的で特別の目的のためでしたが、この賜物の光栄は永遠です。物体通過という賜物により、どんな力も主を動かせません。微妙という賜物により、主の自然な御体は純化され、何物の中も、純粋な霊魂のように通り抜けられます。墓の岩も突き抜けられたのは、御誕生の時、御母の御胎を通り抜けたのと同じことです。敏捷という賜物により、物質ではない天使たちよりももっと早く、主の御体は動けますので、使徒たちの所にも素早く出現されたのです。御体を変形した聖痕は、御両手足と御脇腹から輝き、うっとりとさせる美しさと魅惑があります。この光栄と天の飾り全てを身につけて、救い主は墓から起き上がり、諸聖人の霊魂に、自分たち自身の体と結合し、不死の生命を得るように命令します。人々の体は、かくして起き上がります。この人たちの中には、聖アンナ、聖ヨゼフ、聖ヨアキムや、信仰に傑出した昔の祖先や首長たちがいます。彼らの復活と光栄は今や成就されたのです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P253

 

 これら全ての神秘に、高間の家に引きこもっておられる御母は参加しておられました。主の霊魂が御体に入り、生命を与えたその瞬間に、喜びが聖母の御体の中に流れ込みました。聖母の御悲しみは御喜びに変りました。ちょうどその時、聖母をお慰めしようとして、聖ヨハネが聖母の個室に一歩入ると、光輝く聖母が目の前におられたのです。自分の聖なる御母が喜びと共に変容されたので、主が御復活になったと知りました。主がもうじき訪問されるので、聖母は歓迎の準備に取りかかります。讃嘆の歌と祈りの内に新しい歓喜が涌き上がり、最初の喜びよりももっと高く聖母の御心を揚げます。更に第三の違う嬉しさが込み上げてきます。そこへ我らの救い主イエズス・キリストが御出でになります。諸聖人、首長たちもお供しています。謙遜な聖母は主の御足許に平伏します。主は御母を起こし、御自分の方へ引き寄せられます。御子の光栄ある御体が至純なる御母の御体ととても親密に結合したので、主の御体が御母の中に入り、御母が主の中に入りました。水晶球が太陽の光で満たされるというふうに表現できるかもしれません。御母は、主の至聖なる霊魂と御体の光栄について良く知っておられましたが、より高次の賜物を頂き、最も秘められた秘蹟をより良く知ることになります。この秘蹟に於て、聖母は御声を聞きます、「私の愛する者、より高く昇れ!」。 この御言葉の力により聖母は全く変容し、神を明らかに直感し、あらゆる悲しみに対する報いを頂きます。神の幻視から降りて来て、神の右腕に抱かれているのに気がつきます。主の御受難と御光栄について最も甘美なる会話をされます。至純にして原罪の汚れなき被造物である聖母が、主と同じように御苦しみになり、今や主と共に喜びに満ちておられます。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P254

 

元后の御言葉

 藁を取り除くとか、一杯のコップの水をあげるとか、最も功績の低いことをする時、神に対する愛により賜物は増えます。最も無意味の仕事の一つ一つが、これらの賜物を増やすのです。太陽の光の何倍以上もある明瞭の賜物が増え、恩寵の状態に加えられます。人間的、現世的腐敗を通させないための普通の人間以上の力である物体通過の賜物が増えます。普通の抵抗力を越え、穿通の新しい力を獲得するための微妙の賜物が増えます。鳥、風、火など活発なものよりももっと能動的な敏捷の賜物も増えます。体の賜物の増加が判れば、霊魂の賜物の増加も理解できるでしょう。第一の至福幻視は、神の属性や完全さを教会博士よりももっと大きな洞察と明瞭さを与えます。第二の理解の賜物は、思考無限善なる神を所有することで、心の静けさをもたらします。第三の賜物である結実は、最小の行為に伴う愛の故に、愛の度を増します。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P255

第十二章

キリストの昇天

 

 御昇天のニ、三日前、永遠の御父と聖霊が高間に御出でになり、玉座に腰かけられました。諸階級の天使たちや諸聖人が周囲におります。人となられた御言葉は玉座に上がり、神のペルソナ御二方の隣に座ります。神の御母は部屋の片隅に平伏し、聖三位一体を恭しく崇めます。永遠の御父は、御母を呼び寄せるよう、最高位の天使二位に命じます。御母は慎しく起き上がり、天使たちに付き添われ、玉座の足許に近づきます。永遠の御父はおっしゃいます、「我が愛する者、高く昇れ!」 御母は起こされ、三位の神と共に玉座に腰かけます。単なる被造物に過ぎない者が、そのような威厳に高められたのを見て、諸聖人は感嘆に堪えません。いと高き御方の御業の聖性と公正を理解し、聖人たちは神の無限、正義、聖を誉め称えます。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P256

 

 御父は御母に話されます、「我が娘よ、我は御独り子の教会、恩寵の新法と救済されし人々を汝に任す。全てを汝に任命する。」聖霊は申されます、「全被造物より選ばれし我が浄配、我は、我が智恵と恩寵を汝に与える。人となられた御言葉の神秘、御業と教義は汝の心の中に保存されるべし。」 御子はおっしゃいます、「我が最愛の御母よ、我は御父の御許に帰り、御身を地に残すにあたり、我が教会を御身に委託する。御父が教会の子ら、我が兄弟姉妹を我に託されし如く、我は御身に託す。」 聖三位一体は諸天使、諸聖人に向かって宣言されます、「この御方こそ天地万物の女王なり。教会の保護者、被造物の女主人、信心の御母、信者の仲介者、罪人の弁護人、美しき愛と聖なる希望の御母にして、我らの慈悲と寛容を人々に施すなり。我らが恩寵の宝を御母の中に納め、御母の最も信仰深き心を、我らが聖法を書き記す板とせん。人類の救いのための我らの全能の神秘は、御母の中に包まれる。御母は我らの完全なる作品なり。我らの希望は、御母を通して円滑に達成すべし。心より御母に依頼する者は滅びず、御母の取次を願う者は永遠の生命を得る者なり。御母が我らに願うことの全ては与えられる。」

 その日より御母は、この福音の教会の世話をすることになり、全教会の愛すべき御母となられました。これまでの嘆願を更新し、全生涯を熱烈に絶え間なく嘆願を神になさいました。

 同じ日、主は十一人の使徒たちと共に食卓の周りにおられ、他の弟子たちや信心深い婦人たちも高間に集まり、総勢百二十名となりました。神なる主は、これらの人々が御昇天に居合わせるようにと望まれたのです。最後の晩餐が行われた同じ高間で、主は愛すべき父として皆にお話しになります、「私の最も可愛い子供たちよ、私は御父に許へ帰ろうとしています。私の代わりとして御母を残します。御母は、あなた方の守護者、慰める人、弁護人であり、あなた方の御母です。御母の言うことを聞きなさい。私を見る者は御父を見、私を知る者は御父を知ると私が言ったように、私の御母を知る者は私を知り、御母に耳を傾ける者は私の言うことを聞き、御母を讃える者は私を讃えると、私はあなた方にはっきり言っておきます。あなた方皆にとり、御母は上司であり、頭であります。あなた方の子孫にとっても同じです。御母はあなた方の疑いに答え、困難な問題を解決して下さいます。私を探す者は御母の中に私を見出します。私は世の終わりまで御母の中に居続けます。今でも御母の中にいます。どのようにしてそうできるのか、あなた方には判りません。」 「私は世の終わりまであなた方と一緒にいる」(マテオ28・20)という御言葉を確認されたのです。主は続けられます、「聖ぺトロは教会の最高指導者、教皇になります。あなた方は主司祭長の聖ぺトロに従いなさい。聖ヨハネが私の御母の息子となることは、私が十字架の上で任命した通りです。」 主は、御母が神の御母の威厳にふさわしい崇敬を受けることを望み、それを教会法の中に残したかったのですが、最も謙遜な御母は、これまで受けた以上の名誉を望まれず、教会が主だけを崇拝し、主の御名のため福音を宣教するようにお望みになりました。主は御母に譲歩しました。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P257

 

 主と御母のお話しを聞いた会衆一同は感動しました。神に対する愛に燃える反面、主とお別れになることを悲しむのです。誰が私たちの父になり、保護者になるのか? 私たちは孤立無援になり、孤児になると思います。一人が叫びます、「ああ、最も愛すべき主なる父! ああ、我らが霊魂の喜びと生命よ! 御身を救い主と認めた今、御身は我らから立ち去られる! 我らを連れて行って下さい。ああ、主よ、我らを追放しないで下さい。御身なしに我らに何ができましょう? 御身以外の誰の所に行きましょう? どこへ行けばよいのでしょう?」 主は皆がエルサレムに留まり、祈り続け、慰め主である聖霊を待つように答えられます。御父が約束され、御子が最後の晩餐で予告された通りです。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P258

 

 高間に集まった百二十名が、我らの主イエズス・キリストの御昇天の目撃者になります。御母と共に主はこの小さな群れを引率してエルサレムの街の通りを歩かれます。人々はベタニアを目指します。ベタニアからオリベト山まで二.四キロ弱あります。天使の群れと古聖所から来た聖人たちも参加し、新しい賛美歌を歌いますが、御母にしか見えません。主の御復活は、エルサレムやパレスチナ一帯に既に知られています。不信、悪意の首長たちや祭司長らは、主の御体が弟子たちにより墓から盗み出されたという嘘をばらまきますが、多くの人々から信用されていません。エルサレムの住人や不信の者たちが主の一行を黙認し、妨害しなかったのは、神の御配慮によるのです。主は、人々には見えなかったのです。

 オリベト山頂に着くと、人々は三つの輪を作ります。内側が天使たち、真ん中が聖人たち、外側は使徒たちと信者らです。御母は御子の御足許に平伏し、恭しく礼拝し、真の神である救世主として崇拝し、最後の祝福をお願いします。人々も同様にします。泣き、嘆きながら、祝福がイスラエルの王国を再建されるのかどうか質問します。主は、永遠の御父のみ知っておられると答えられます。人々が聖霊を戴き、エルサレム、サマリアや全世界に救世の神秘を説教することは必要で、時機にかなっているとおっしゃいます。主の御顔から平和と威厳の光が輝き出て、人々から別れます。両手を組み、地面から上昇して行きます。地面には主の御足跡が残っています。空にゆっくりと昇って行かれる主を人々は見つめ、嘆息とつき、泣きます。主の後に天使の群れが上がって行き、聖なる首長たちと光栄に満ちた聖人らが続きます。いと高き神の御業は、御母も主と共に被昇天させておられます。この御業は人々に気付かれません。その訳は、御母は二か所に同時に存在するという奇跡にあずかっているからです。教会の子らと共に留まり、信者たちを慰めると同時に、主と共に被昇天し、玉座に三日間滞在されます。天に於ては、御母は御力を最大限に駆使されますが、高間に於ては御母の御能力は少し制限されています。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P259

 

 喜びの中に主の一行は最高天に到達します。諸天使と諸聖人の間を主と御母が通ります。全員こぞって、御二人別々に、そして一緒に最高の名誉の言葉を申し上げ、恩寵と生命の造り主なる神に対する賛美歌を歌います。永遠の御父は右側の玉座に人となられた御言葉を招きます。御言葉なる御子に於て、神性と至聖なる人性が結合し、一致している様子は美と栄光に満ち、人間の目がこれまで見たこともなく、耳がきいたこともなく、全く想像したこともありません(一コリント2・9)。

 この時、御母の謙遜と智恵は最高潮に達します。御母は玉座の足台に平伏し、御父を崇め、御子に下さった光栄と御子の人性に偉大と輝きを与えて下さったことを感謝する歌を歌います。天使たちと諸聖人は、御母を崇敬する気持ちで一杯になります。そして、御父はおっしゃいます、「我が娘よ、高きに昇れ!」 御子は御母に申されます、「我が御母、起き上がり、この席に着いて下さい。御母が私に従い、見習いましたので、この席を差し上げます。」聖霊も招きます、「我が愛すべき浄配、御出で下さい、永遠に抱きしめましょう!」 聖三位一体の宣言がなされます、即ち、御母が御子の受肉に際し、御自身の生命と血を捧げ、御子を保育し、御子に仕え、模倣し、従い、人間として可能な限りを尽されたので、御子の右側に永遠の座を与えられるという宣言です。他の人間は決してこのような高さに到達できません。この座は御母のため予約され、御母の地上での御生涯の後、御母の所有となります。諸聖人のとうて及びもつかないことです。御母が聖三位一体の玉座に、御子の右に高められるにあたって、御母がそのまま留まり、地上に戻らないことにするか、または、一旦戻るか、御母御自身が決定することになりました。そのため、御母は地上の戦闘の教会の様子を御覧になります。信者たちが孤児になっていることを見て、主が地上で人々のために尽したことを思い浮かべ、玉座から降り、聖三位の御足許に平伏して申し上げます、「永遠全能なる神にして我が主よ、御親切に私に下さる報いを今受け取りますことは、私の安息の保証になりますが、地上に戻り、アダムの子らや教会の信者たちに働きますことは御身の聖旨に叶い、地上に追放され、旅している私の子供たちのためになると思います。私は労働し、人類に対する御身の愛のために苦しみたいと思います。私の主よ、この犠牲を受入れ、私を助けて下さい。御身への信仰が広められ、御名が崇められ、御身の教会が大きくなりますように。御独り子と私の血により教会は建てられました。御身の光栄と霊魂の獲得のため、もう一度働きたいと思います。」主は御喜びになり、御母に浄化と啓示を下さいました。至福の幻視と天の賜物は、人間には想像できません。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P260

 

 オリベト山頂では、信者たちが主の昇られて行った天の方向を見つめ、途方に暮れています。主と共に被昇天されつつある御母は山頂の信者たちを御覧になり、御子に信者たちを慰めるようにお願いします。そこで救世主は、二位の天使を派遣します。天使両人は白い輝く着物を着て、弟子たちや信者たちに現れて言います、「ガリラヤの人々よ、驚いて天を見上げないで下さい。あなた方から別れ、天に昇られた主イエズス・キリストは、今あなた方が見たような光栄と威厳を備えて帰って来られます」(使1・11)。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P261

元后の御言葉

 

 私の娘よ、主は人々を苦しめないで喜ばせ、悲しませる代わりに慰め、叱らずに誉めます。ところが人々は、主の御本心が判らず、この世の危ない慰め、喜びや報いを望みます。人間は考えが遅く、粗野で無学ですから、教育を受け、柔和となり、実を結ぶように、困難の金槌に叩かれ、苦難の溶鉱炉で精錬されなければなりません。私の苦労は主が下さる報酬に比べたら、全く取るに値しません。ですから、天を去り、地に戻り、再び苦労し、教会を助けたいと思いました。あなたが一生懸命働き、祈り、苦しみ、心の底から全能者に泣き叫ぶことを望みます。もし万一、あなたの生命を捧げることになったら、御子と私の意志に叶うことです。