月イチ企画:三国志人物鑑定モ・ド・キ
第4回:楊儀編
楊儀(ようぎ)
字は威公(いこう)
生没年:??〜235年
襄陽(じょうよう)郡の人。

関羽の使者として、劉備に送られた時に気に入られ抜擢。

諸葛亮(しょかつりょう)のの第一次北伐に長史(ちょうし)として従軍。
以後、北伐に最後まで従軍し、兵糧の管理や補給などの任にあたっていた。

諸葛亮の死後、成都への帰還を指揮した。
このとき魏延(ぎえん)が反発したが、楊儀はこれを反乱軍として鎮圧。

成都帰還後、この功で中軍師に任ぜられるが、蒋エン(しょうえん)が諸葛亮の後継者となった事に不満を持ち、不穏な言動が目立つようになる。
それがもとで平民に落とされ、それを恥じて楊儀は自殺した。
 

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第4回目は、ナゼか“伝”のある人物の一人、楊儀殿の登場です。
“ナゼか”とは何かと言いますと、他の国の史書だったら、楊儀のような人物に独立した“伝”が与えられるような事はないからです。
他にも蜀書にはこういうような“伝”がありますが、それはまた別の機会に。
まあ、それだけ蜀に人材不足は深刻だった、という事でしょう。

この人の性格は、どの本にも共通して「偏狭」「器量が狭い」「性急」などと、良い点については書かれていません。
ただ、事務能力という点では、蜀ではトップクラスの力があった、という風な書かれ方をしています。
諸葛亮は、始めから楊儀の仕事しか買っていなかった、という見方が妥当でしょう。

楊儀を語る上では、魏延との不仲という要素を忘れるわけにはいきません。

楊儀は、名家の出身だったそうです。
だから性格が悪い、と一概には言えませんが、名門である事を鼻にかける人物が少なくないのも確か。
楊儀はそんな人物だった様です。
そして楊儀と犬猿の仲だったのが魏延。
彼は叩き上げの軍人で生まれは悪く、楊儀とは真逆の人間であったといえます。
そんなわけで、家柄を誇りに大きな顔をする楊儀と、実力で伸し上がって来た力を誇りとする魏延の仲は険悪でした。

「演義」では、魏延に反骨の相があり、いずれ謀叛を起こすだろう、と諸葛亮が言い実際そうなった、という事になっていますが、「正史」の魏延は、全く謀叛を起こす気などなかった、とされています。
魏延は劉備に拾ってもらった事、重用してもらっている事に大きな恩義を感じており、それは劉備の死後も変わらなかった。
北伐に際して諸葛亮と意見が対立した時も、彼の意見は現場で戦いつづけてきた武人としてのものでした。
羅貫中はここでも諸葛亮の先見性を強調すべく、反骨の相の話を作り上げたということですね。

楊儀の功績で一番大きな物は『死せる孔明(こうめい)、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす』の故事を作った事ですかね。
諸葛亮の遺言に従い、姜維(きょうい)ら部将をまとめて、司馬懿(しばい)の追撃をかわして撤退した事です。

そして、楊儀は自分と対立していた魏延を謀叛のかどで殺すのですが、これは楊儀の陰謀ではないか、という話があります。
諸葛亮が死んで、蜀で最も功績と発言力のあるのが魏延となるのは、誰の目にも明らかなワケですから。
諸葛亮の後釜を目指す楊儀としては、仲の悪い魏延が自分の上にいるというのは都合が悪いし、我慢ならんわけです。

まあとにかく、楊儀はこの撤退と謀叛の鎮圧という功によって、諸葛亮の後継になるものだと自分で思いこんでいたわけです。
しかし現実は違った。
そして楊儀は致命的な言葉を発してしまいます。
「あの時全軍を率いて魏に降っていれば、こんな扱いではなかっただろう……」
これをチクられた楊儀は、皇帝・劉禅(りゅうぜん)に死刑にされそうになります。
しかし、蒋エンのと取り成しで死刑を免れ、官職を剥奪され平民に落とされる事となります。

命が助かったというのに、楊儀は暴走しつづけます。
正史では、流刑された所から誹謗中傷をする上奏文をいくつも送り、その罪で逮捕されそうになってから自殺したという事です。
身から出たサビだ、と思いっきり厳しい評価をされています。

演義では、流刑を恥じた楊儀が“潔く”自決した、という事になっていますが、これは羅貫中が、“諸葛亮が用いた人物だから”という事で美化したという見方でいいんじゃないかな。

見方をちょっと変えると、ここでも諸葛亮の人材を見る目のなさが浮き彫りになります。
その背景が蜀の人材難に有るとはいえ、楊儀のような欲の強い人物が自分の死後に何を求めるかという事はわかるんじゃないかと思います。
この時期の蜀は、諸葛亮を除くと、軍事面では魏延が、文官サイドでは楊儀がトップというような構造になっていました。
そしてこの二人の不仲は、自身の寿命を縮める一因になるほどの悩みの種でした。
総指揮官である諸葛亮本人が、もうすぐ自分は死ぬだろう、などと言ってしまえば全軍の士気に関わる事は明らかで、だからこそ体調の悪さを隠し、遺言という形で後事を託すという方法を取ったのでしょうが、直接告げられるのと文面で伝えられるのとでは大きな違いです。
あと5年、諸葛亮が生きていればまた違った結果になっていたでしょうが、それは言っても意味のない事。
鬼才・諸葛亮の限界がここにあった、という事でしょうか。

正直な話、自分は諸葛亮があまり好きではありません。
しかし、だからこんな話をしているというわけじゃなく、「三国志演義」で神にも匹敵する完璧さを誇る諸葛亮が、その風評に合わないような不完全さを見せている、という事を知ってもらいたいと思うからです。
そうは言っても、諸葛亮は三国志を代表する才の持ち主だという事は認めていますよ。
限られた力で本当によく頑張ったと思います。
諸葛亮がいなければ、三国鼎立は為し得なかったでしょうし。

さて、次回は未定です。
また蜀でいこうかなぁ……。


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